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デンオン DH-710S

井上卓也

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 業務用テープデッキでは定評の高いデンオンの38cm2トラックは永らく発表が待たれた製品である。DH710Sはメカニズム部分とアンプ部分を分割したトランクに入れたポータブルタイプにできているのが魅力である。重量が30kg程度と重いので簡単に持運ぶことはできないが、内部を見れば重量がある理由はうなずけるはずである。実際に常用してみると安定感があり、信頼がおけるのはデンオンならではである。

ルボックス HS77MKIII

井上卓也

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 2トラック38cmが使えるデッキのなかでは、デザインがシンプルで、信頼性が高く、小型軽量であることでは、このHS77を除いて他にはない。ACサーボ型のキャプスタンモーターを含む3モーター、バックテンションの連動機構などポイントを抑えた設計は見事である。アクセサリー過剰気味の国産デッキに比較すれば比較的にシンプルである。ポータブルタイプのメリットをいかしてバーサタイルに使いたい。

ウーヘル 4200 Report

井上卓也

ステレオサウンド 31号(1974年6月発行)
特集・「オーディオ機器の魅力をさぐる」より

 ポータブルタイプのテープデッキはカセットタイプというのが常識化しているが、便利さは必ず不便が伴うようである。単なる記録であって編集が必要なければ同じウーヘルのカセットデッキ、ステレオ124が魅力的な存在である。しかし、信頼性と編集ができるメリットをとって、あえてオープンリール型の420リポートをとりたい。外観上は、さほど魅力はないが、内部に巧みに配置されたメカニズムの魅力は捨てがたい。

マイクロ SOLID-5

岩崎千明

スイングジャーナル 6月号(1974年5月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

「ソリッド・ファイブ」こう聞いただけでは、その名前からは到底レコード・プレイヤーの製品名とは思えまい。マイクロ精機のニュー・モデルがこの斬新な名前を冠してデビューしたのである。
 常日頃、堅実で手堅くオーソドックスな姿勢を崩すことないこのメーカーは製品のすべてが控え目なデザインと、着実な高品質ぶりに、ロング・セラーを重ね、プレイヤー部門ではトップの座を永く守り続けてきた。ありきたりながら、オーソドックスな機構は、見落されそうな内部メカニズムの細かい所にまで、良く行き届いて品質の安定した精密度の高いメカニズムが、この10年にも近い永い首位の座を支えてきたのは当然過ぎるといえよう。
 ところでこの数年のDDモーターの出現とそれに続く著しい進出普及ぶりは、プレイヤー界に新たな波となって革命といえるほどにすべてが変った。首位の座を崩されなかったマイクロ精機はプレイヤー専門メーカーとしての誇りからDDプレイヤーの製品化に当然積極的であったし、最も古くからプロフェ、シショナル・デザインの711を市場に送って時代の波に対応した。国内では充分に理解されることの少なかったこの1年間、ヨーロッパの各国で異常な程の人気を呼んで他のDDのはしりと目されている。
 さて「DDモーターは高性能」ということが常識化されると、DDモーターはあらゆる購売層にむけてあらゆる価格レベルのものが出回り、いつも繰り返されるように、今や氾濫気味でさえある。単にDDモーター付きというだけの品質を究めたとは言えない製品までもが大手を振って罷り通る。早くからDDプレイヤーを手がけてきたマイクロ精機の良心はこうした安物DDプレイヤーを商品とすることが出来なかったのだろう。そうした情況下でのマイクロ精機の回答が、この「ソリッド・ファイブ」に他ならない。名の示す通り、これは今までのこのメーカーの志向を大きく前進させて、強い意欲と決断とから培れた企画であり、それだけにオーソドックスなベルト・ドライブながら多くの点でまったく斬新なプレイヤーと言えよう。「ソリッド・ファイブ」という現代的な響きの名前。この名のいわれは、従来の観念からいうプレイヤーとそのケースとはまったく違った構造形態にあるのに違いあるまい。本来プレイヤーというものは、モーターにより駆動されるターン・テーブル、アーム、ケースの3点によって構成される。ところがこの「ソリッド・ファイブ」では、ターン・テーブルとケースはまったく一体化されていて、分離しては成りえない。もっと分り易く言うと、普通はターン・テーブルとそれを駆動するためのモーターが取り付けられている「モーター・ボード」といわれる部分は「ソリッド・ファイブ」には全く無くて、一見スマートで軽やかに見えるが中味の完全に詰まった厚さ40ミリの積層合板のケースそれ自体がモーター・ボードとなっている構造だ。この新たな構造はプレイヤー・メーカーだからこそ作り得られるメカで、完全に原点に立ち帰ってプレイヤーというものを考え直し、本来そうあるべき形態として生まれたものだ。基本的には直接サーボ・モーターによるベルト・ドライブというメカニズムで、これはマイクロのいつもながらの堅実で高い信頼性重視が採用させたものだ。同じメカながら今日のDDモーター時代に世に出る製品に相応しく、性能の上でDDモーターのそれに劣らぬデーターを示し、SN比、ワウフラッタ特性、安物DDモーターのウィーク・ポイントとされている実用時の高性能化、更に信頼性を大きく加えている。アームは優雅なほど素晴しく高級仕上げされ、高感度ながら、がっちりとして使い易いのも、いつものマイクロと同じだ。静止時のアーム・レストの高さ調整まで出来るといった細かいプラスαはここでは触れるまでもなかろう。
 名前通り現代的なフィーリングが構造にもデザインに.も、使用時にもはっきりと出ているのがこのプレイヤーの完成度の高さを示している。いつも「高品質だが商品としては80点、もう一歩完成度が欲しい」と言われ続けてきたマイクロが、初めて完成度100%のラインを一気に飛び越えた製品。それがこの現代的な高級プレイヤー、「ソリッド・ファイブ」といえるのではないだろうか。『DDを突き抜けたときの本物プレイヤー』ソリッド・ファイブ。

ハイパワー・アンプの魅力

岩崎千明

スイングジャーナル 5月号(1974年4月発行)
「AUDIO IN ACTION」より

●アンプはパワーが大きいほど立上り特性がよくなるのだ! だからジャズには……
 アンプの出力は大きいほど良いか? はたまた、必要性のないただただぜいたくなのか?
 そうした論争や、論説はいいたいやつにいわせておけ。オレは今日も午前中いっぱい200ワット出力のアンプをレベル計がピクンピクンといっぱいに振り切れるほどの、ドラムの響きに身をまかせ切っていた。
 一度でもいい。キミも、大出力論争をやっているひまに、ほんのひとときを100ワット級のアンプで鳴らす空間にその身をさらされてみろ。一度でもハイ・パワー・アンプの洗礼を受けたが最後、ジャズを愛し、断ち切れないほどのファンなら、だれだって必ずやその虜になるぞ。必要ない、なんてうそぶいていたのは、実は、望んでも達せられないための、やっかみ半分のやつ当りだっていのうを、ひそかに思い当るに違いない。
 ハイ・パワー・アンプから繰り出されるこの上なく衝撃的なパルスは、現代に息吹く若者にとってあるいは麻薬の世界にも例えられるのかも知れない。一度覚えたそのアタックの切れ込みのすざまじさは、絶対に忘れられっこない経験として耳を通してキミの大脳にガキッと刻み込まれてしまうのだ。もうそれを消そうと思ったって薄れることすらできやしない。それどころか、口でけなし、あんなのはだめな音と、どんなに思い込ませようと努力したところで、逆にますます強く求めたくなってくるあこがれにも近い感情を内側でたぎらせてしまうだけだろう。
 恋の対象を初めて見かけたとき、それは少しも変りやしない。だから、ジャズ喫茶でスピーカーの前には、すべての環境から遮断されたマニアックなファンが少なからず、首をうなだれてサウンドにひたり切っているのだ。
 スピーカーは、例え小さくても良い、そのすぐ前で座ろう。プレイヤーは今までのでもいい、カートリッジの質さえある水準以上なら。
 ステレオの心臓はアンプだ。電気信号に変えてエネルギー増幅する、それがアンプの真髄。だから、アンプはきのうのより大きくしてみよう。2倍じゃなまぬるい。4倍も6倍も、いや10倍の出力のアンプなら一層結構、大きければ大きいほどいいのだ。それがたとえ借り物であっても、仮の姿でも、いつかはキミの所有になるはずだ。
 大出力のよさを身をもって知ったならば、もう逃れられっこないのだから。良さが判ればキミのステレオの次の標的として、大出力アンプは、大きくキミの前にほかの目標を圧して立ちふさがるだろう。キミはそれに向かって猛進するだけだ。100ワット/100ワットのジャンボ・アンプに向かって。

ソニー TEA-8250
 後から鳴らしたFETアンプのおかげでソニーのハイパワー・アンプはスッカリ形が薄れてしまった。けれど、1120のデビューのときの音そのものの感激がこのハイパワー・アンプ8250でもう一度思い出された。「あくまで透明」なサウンド。それは非情といわれるほどで、アタックの鋭さは正宗の一光にも似る。以前より低域の豊かさが一段と加わっているのは、単なもハイパワーのなせる所だけではないかも。

ソニー TA-8650
 20種にあまもハイパワー・アンプを並べたこの夜のSJ試聴室。編集F氏Sくんを含め、むろんこのオレも一番期待したのがソニーのこのFETアンプだ。球の良さをそのまま石で実現したといういい方は、気に喰わないというより本当にして良いのかという半信半疑からだ。
 その不安も、まったくふっとんでしまつたのだ。なるほど確かにハイパワー管球アンプの音だ。このFETアンプ8650に最も近いのは、なんと米国オーディオリサーチ社管球アンプだったから。
 低域の迫力の力強い響き、プリアンプのような超低域までフラットだが力強さがもうちょっと、なんていうのがFETアンプではうそみたいに直ってしまう。中声域から高域の力に満ちた立ち上りの良さプラス華麗さも、石のアンプのソッ気なさとは全然違う。
 こうしてまたしてもソニーは、アンプにおいて1120以来の伝統よろしくオーディオ界のトップに出た、といい切ってよかろう。製品が出たら、まっさきにオレ買おう。

オンキョー Integra A-711
 711はなんと20万を越す名実ともに一番高価なインテグレイテッド・アンプだ。しかし、音を聴けばそれが当然だと納得もいこう。ローレベルでの繊細さと、ハイパワー・アンプ独特の限りない迫力とを見事に融合させて合わせ持っている数少ないアンプだ。音の特長は、……ないといってよい。ない、つまり無色、これこそアンプメーカーの最終目標だろう。オンキョーのアンプがずっと追いつづけた目標は、このアンプではっきりと捉えられていよう。

オーディオリサーチ SP-3 + Dual75
 かつてマランツ社で真空管アンプを設計してたっていう技術スタッフが集まって興したのがこのメーカー。だからトランジスタ・アンプ万能の今日、その栄光と誇りはますます燃えさかり、このどでかいアンプを作らなければならなくなったのだろうか。なにしろ75/75ワットという実効出力にも拘らず、200ワットクラスの石のアンプとくらべても一歩もひけをとらず、それどころかサウンドの密度の濃さは、どうやら石のアンプでは比すべくもない、と溜息をつかせる。

SAE Mark 1M + IV C
 ロス周辺の新興エレクトロニクス・メーカーと初め軽く受けとっていたが、どうしてどうしてこの4年の中に、オーディオ界ではもっとも成功を収めたアンプ・メーカーだ。それだけに製品の完成度の高さと漉さは、抜群だ。プリIMと接続した状態で端正で品のよいサウンド。数あるトランジスタ製品中ベストの音色をはっきりと知らせたあたり、実力のほどをもう一度思い知らされろ。個性的でスッキリしたデザインはサウンドにも感じられる。

Lo-D HMA-2000
 やっぱり日本産業界切っての大物「日立」、やることが違う。というのがこのアンプのすべてだ。果しなくパワーを上げていくと、遂に突如、ひどくなまってくるのに慣らされた耳に、このアンプは不思議なくらい底知れずのパワー感がある。つまり音が冴えなくなる、という限界がないのだ。それはテクニクスに似てもっと耳あたりのよいサウンドの質そのもののせいといえる。日立のオーディオ界における新らたる実力だ。

フェイズリニア 700B
 そっけないくらいの実用的ハイパワー・アンプ。350/350ワットで700ドル台、日本でも40万円台と類のないハイCPのスーパー・アンプだ。今度バネルレイアウトを一新して、マランツ500そっくりのレベルメーターを配し、左右の把手のゴージャスな巨大さは、700ワットという巨人ぶりを外観にのぞかせたグッドデザイン。音はそっけないはどさっぱり、すっきりしているが、底ぬけのハイパワーぶりは低音の迫力にいやおうなしに感じられる。

マランツ Model 500
 今日マランツ社には創始者のMr.ソウル・マランツはいない。しかし、マランツのソウルは今もなおマランツの全製品に息吹いている。それをはっきりしたサウンドだけで聴くものに説得してくれるのが、モデル500だ。250/250ワットのアンプながら、それはもっと底知れぬ力を感じさせるし、モデル15直系の、音楽的な中声域の充実された華麗なサウンドはちょっと例がない。しかも現代のアンプにふさわしい豪華さを具え、この上なく超広帯域だ。

ダイナコ Stereo400
 なにしろ安い。アチラで600ドル、日本でも30万円で200/200ワットのジャンボぶり。すでに普及価格の高級アンプで定評あるダイナコの製品だけに前評判も高く、それらの期待に充分応じてくれる性能とサウンド。高音域のおとなしい感じもいわゆるウォーム・トーン(暖かい音質)というダイナコ伝統のマニア好み。うるさいヒトほど惚れ込んでしまう、うまい音だ。ボリュームを上げて行くと、分厚い低音の確かさにも一度惚れ直す。

ダイヤトーン DA-P100 + DA-A100
 ダイヤトーンのプリアンプの端正なたたずまいは、なにかマランツをうんと品よくしたといいたくなるような優雅さをただよわす。管球アンプを思わすパワー・アンプのゴツイ形態は、いかにもパワー・アンプだ。それはひとつの目的、エネルギー増幅の実体をそのまま形に表わした、とでもいえようか。このコンビネーションのサウンドはまた実に品のよいサウンドで、いかなるスピーカーをもこの上なく朗々と鳴らす。まさに、アンプはスピーカーを鳴らすためにある、ということをもう一度教えてくれるアンプといえそうだ。
 100/100ワットと今や、やや小ぶりながらひとまわり上のパワーのアンプとくらべても聴き劣りしないのは充実した中声域にあるのか、あるいはその構成の無理なく単純化された回路にあるのか。あまりワイド・レンジを意識させないのに、深々と豊かな低域、すき透るように冴えた高域、なぜか手放せなくなるサウンドだ。

パイオニア Exclusive C3 + Exclusive M3
 ズラリ並んだ国産アンプ中、スッキリとした仕上げ、にじみ出てくる豪華な高級感、加えて優雅な品の良さ。やはりパイオニアの看板製品にふさわしく、もっとも優れたデザインといえる。
 このデザインは、サウンドにもはっきりと出て、品の良さと底知れぬ迫力とを同時に味わせてくれろ。やや繊細な音のひとつぷひとつぶながら全体にはゆったりとしたサウンドはこうした超高級アンプならではで、さらに加えて「パイオニア」らしいともいえようか。このM3にさらにAクラス動作50W+50WのアンプM4が加えられるという。A級アンプというところに期待と限りない魅力を感じさせる。待ち遠しい。

アムクロン DC-300A
 ギラギラした独特のヘアライン仕上げのパネルは、いかにも米国製高級趣味といえようか。でもこのアンプの実力は、その製品名の示す通り、ラボラトリ・ユースにあり、直流から数100万ヘルツという超広帯域ぶり。ガッチリと引き締って、この上なく冷徹なサウンドが、なまじっかの妥協を許さない性能を示していも。米国でのハイパワー化のトリガーともなったこのDC300、今日でもずばぬけた実力で、マニアならマニアほど欲しくなりそう。

マッキントッシュ MC2300
 ここでとやかくいうまい。SJ試聴室のスタンダード・アンプというより今やあらゆるアンプがハイパワー・アンプとしての最終目標とするのがこの2300なのだから。サウンドの管球的なのもつきつめれば、出力トランスにあり、このアンプのあらゆる特長となっているサウンドに対する賛否もここに集約されるが、誰もが説得させられてしまう性能とサウンドに正面切ってケチをつけるやつはいまい。

サンスイ AU-9500
 黒くてデッカクて、やけに重いアンプ。山水の9500は75・75ワットっていうけれど、どうしてどうして、100/100ワットのアンプと互角以上にその力強い馬力をいや応なしに確かめさせてくれる。,
 ECMのすざましいばかりのドラムは、このアンプの13万なんぼというのが信じられないはどに力いっぱい響いてくれる。SJオーディオ編集者のすべてが認めるこのジャズ向き実力はハイパワ一時代、まだまだ当分ゆるぎそうもない。

テクニクス SU-10000 + SE-10000
 以前、SJ試聴室での試聴では保護回路の敏感すぎから、実力を知るに到らなかった10000番シリーズ、今宵はガッチリとたんのうさせてもらった。さすが……である。
 なんとも高品質な迫力と、分解能の良さに改めて10000番の良さを確めた。一式95万と高価なのだからあたりまえといえなくもないが、金にあかして揃えられるマニアなら、やはり手元にぜひおきたくなるだろう。物足りないくらいの自然さは最終的なレベルといえるだろう。

スタックス
 A級150/150ワットというそのメリットよりもスタックスの製品というところにこのアンプの意義も意味も、また魅力も、すべてがある。世界でもっとも早くからスタテック・イクイプメントコンデンサー・カートリッジ、コンデンサー・・スピーカーをファンに提供し続けてきたスタックス。数々の幻の名器を生んできたメーカーの志向がアンプの特長の根底にずっしりとある。サウンドは、それこそまさにコンデンサースピーカーのそれだ。加えてローエンドの底なしの力強さに惹き込まれて時間の経つのも忘れさせるワンダフルな機器だ。(発売時期末定)

ラックス CL350 + M-150
 309のパワーアンプを独立させたのがM150。75/75ワットというパワーもそれを物語る。アンプの高級ファンをガッチリと把握している企画と音作りのうまさはM150でもっとも端的にはっきりと現われている。しぶいが落ちついた品のよいその外観と音。加えてソフトながらいかにも広帯域をと力強さにも感じさせるサウンド。物足りないといわれるかも知れないが、しかし飽きのこない親しさもまた大きな魅力なのだ。

ESS/BOSE
 日本にはこれから入ってくるだろうと予想される話題のスーパー・アンプ2種。ハイル・ドライバーで一躍注目されてるESSのモデル500。みるからどでかくゴツい力強さを外にまでみなぎらせて、早く聴きたいアンプだ。
 もうひとつはペンダゴン型ボックスのスピーカーで有名なボーズのアンプだ。これは品のよいスマートな個性で粧おいをされた豪華大型。インテグラル・システム100/100ワットで200ドルと安いのが早くも出てきおったぞ。

アキュフェーズ C-200 + P-300
 国内製品では実力ナンバーワンを目されているのが、ケンソニックのP300だ。このところ目白押しの国内ハイパワー・アンプ。なんてったって世界市場を意識して企画され、価格を設定されたというところにこのケンソニックのすべての製品の特長と意義がある。つまりケンソニックのアンプは実力を世界に問うた姿勢で作られているわけで、逆にいえば世界のマニアに誇れる高性能を内に秘めてもってことになる。
 事実、このアンプをマッキンと較べ、マランツと比べても、一長一短、ブラインドで聴かせれば、どちらに軍配が上がるか率は半々。透明度の高さ、中域の緻密さにおいて特にすぐれ、高域の明るさと、低域の豊かさにおいて聴く者を魅了してしまう。
 プリアンプC200のこの上なくナチュラルな音に、P300の良さはますます高められて国産ハイパワー・アンプの大いなる誇りを持つものにじっくりと味わしてくれる。
 かくいうこのオレも、P300、C200のスイッチを入れない日はなく、メイン・システム、ハークネスはP300のスピーカー端子にガッチリと固定され、ひんばんに変っていたアンプが変わる気配もない。

オルトフォン SL15E MKII

岩崎千明

スイングジャーナル 5月号(1974年4月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 CD4用のカートリッジとして、海外製品がこのところ続々と名乗りを上げている。いち早く製品を市場に送ったピッカリングを始め、ADCや西独のエラックなどもその製品の出るのは時間の問題だが、その中でも日本のオーディオ・ファンの間で、もっとも注目されたのはオルトフォンのCD4用のカートリッジSL15Qである。デンマークのオルトフォンというよりも、世界市場でもっとも高品質を誇るカートリッジ・メーカーとしてのオルトフォンであり、かつては業務用のディスク・カッターから再生機器の専門メーカーとして日本においてすら伝鋭的に語られている名門中の名門、それがオルトフォンであり、この方面では今日も全ヨーロッパに業務用機器を提供しつづける確固たる業績を誇る専門メーカーである。オルトフォンのCD4用カートリッジが、かくも注目され話題となったのは、それが他に例のないMC(ムービング・マグネット)型の故である。4チャンネルの前後分離のための前後差信号成分は、CD4方式において他の信号とまったく独立した形で、35、000ヘルツという超音波信号にFM変調の形で乗せられているのだ。デイスクの中からこの35、000ヘルツという気の遠くなるような超振動をとり出すために、カートリッジの針先は極端にミニチュアライズされなければならず、ダイヤ・チップをつけたカンチレバーは、従来よりひとまわりも、ふたまわりも小さくされなければならない。それをカンチレバー基部にコイルが着装されているMC型において実現することは、とうてい考えもよらぬことであったのに、さすがオルトフォン。SPU以来のコイル型カートリッジのクラフツマン・シップを発揮してSL15Qという形で製品化してしまったわけだ。CD4の開発者である日本ビクターの4チャンネル担当技術者さえ賞賛した傑作を、4チャンネル時代の擡頭期たる今日、いち早く完成してしまったわけである。他のあらゆるCD4用カートリッジがすべてMM型であるのに、オルトフォンはMC型として。
 以上は前置き。お話の本題はこれからだ。オールド・ファンにとって、スピーカーが変り、アンプが同じ真空管ながらよりハイパワ一に替えられたとしても、絶対に変わりないのがオルトフォンSPUカートリッジだ。ステレオ初期において決定的といえる勝利を収めたオルトフォンが、米国市場においてシュアに質的な意味でなく、たとえ量的な意味にしろ優位を奪われたのは、軽針圧動作という時代の要求によるものだったのだろう。歴史に残る傑作SPUを軽針圧したのがS15であり、さらにSL15に改良されて完璧といい得る軽針圧MC型は完成された。SPUのそれよりも半分の軽い針圧のもとではるかに広い再生帯域がSL15によって成し遂げられたのであった。しかし、SL15Q、4チャンネル・カートリッジの技術がSL15の姿をこのままですませて置くことにメーカーとしての責任をオルトフォンは意識したのに違いあるまい。
 SL15MKIIがSL15Qの発表された昨11月から半年目にデビューしたのである。SL15Qの出現を予想した時よりもごく当然のように、それはSL15Qのクオリティーをそのままステレオ用に移植したとでもいいたくなる成果をはっきりと示しながらのデビューだ。シュアv l15typeIIIになって中声域にMC型に匹敵する格段の充実をみせながらも、実は本質的にあのコアーとコイルの構造では量産上CD4への足がかりすら掴めないとも受けとれるのに対し、オルトフォンはCD4用を完成したあとで、その技術によりMKIIをものにしたのはさすが世界に冠たる名門ぶりといえてもよかろう。音色上SL15MKIIはSL15よりもさらに超ワイドレンジを感じさせる。果しなく高域のハイエンドが延び切ったという感じだ。しかも中域のピアニシモの繊細感は、多くの国産MM型カートリッジのそれに似て、より緻密で粒立ちの良いサウンドエレメントがビッシリと詰め込まれたといえようか。低域での豊かなひろがりに加えて、引き締った冴えたタッチは、従来のSPUの重厚な響きは薄れたとしても、それに優るローエンドの拡大を如実に示している。

オンキョー Integra A-711

菅野沖彦

スイングジャーナル 5月号(1974年4月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 アンプはスピーカーを鳴らすものか。あるいは、カートリッジやテープ・ヘッドで変換された電気エネルギーを忠実に伝送増幅してスピーカーに送りこむものなのか。つまり、アンプは、入口から眺めるべきか出口から眺めるべきか。本来は入口から眺めるべきものだとは思うが、それだけでは片手落ちというのが現実である。スピーカーという動特性をもつもの、それも、いろいろな動作特性のちがうスピーカーをつながれるという立場上、出口であるスピーカーからアンプを検討するという考え方も必要なのである。両側から見て、充分検討され尽されなければ、……アンプは生れない。このインテグラA711というアンプは、実に慎重に検討されたアンプだと思う。最新科学の粋ともいえるエレクトロニクスも、こと、音を出すアンプとなると複雑怪奇、微妙な問題が山積していて、トランジスタやコンデンサーやレジスターなど素子のちがいで音が変るというのが実情である。定数や回路そのものが変れば当然の事、部品のバラツキやバラツキに入らない物性の違いでも音が変るという恐ろしい世界なのである。同じ容量なのにペーパー・コンデンサーとマイカー・コンデンサーでは音が変るという人もいるのである。アンプの設計は、単なるエレクトロニクス技術で計算通りいくものではないとなると、私のよくいう、スピーカーは本当のオーディオ・エンジニアの手からでないと生まれか、という考えが、この世界にもあてはまるようである。電気技師や機械技師が、さらにオーディオ・エンジニアになるための素養と経験が必要となってくるのである。最近の国産アンプが、性能はもとより、音の点でも、各段の進歩を遂げてきたのは、そうしたオーディオ・エンジニアと名実共に呼び得る人が増えてきた事を物語っていると思うのは早計であろうか。
 とにかく、このA711というアンプは音がいい。オンキョーのアンプ・エンジニアが現段階で全力を尽した製品だということは充分理解がいくのである。パワーは75W×2で、決して大きいとはいえないけれど、むしろ、このアンプの特徴は、その透明な品位の高い質にある。そして、この75W×2というパワーは、その質を、実用上スピーカーから発揮させるためにはまずまず不足のないものと見るほうが正しい。つまり、このアンプをボス・チャンネルで150Wのハイ・パワー・アンプだという見方は、その本質を把えた見方ではないということである。刺激的な荒れや、薄っぺらな頼りなさや、濁りから解放された美しい音の世界、音の純度を求めるファンならば、その価値を高く評価出来るだろう。私事になるが、私はこのアンプのパワー部を、現在、自分のマルチ・アンプ・システムの中域に使ってJBLの375ドライバーを鳴らしている。それまでの音とは明確に次元のちがう、柔かさと豊かさが加って、抜けるような透明な音になって喜んでいる最中なのだ。
 このアンプのよくない点は従来のオンキョー・アンプより、より高級なイメージをあらわすことには成功しているがオリジナリティがないこと、さらに奥行が深く、普通の棚やラックには、まず収まり切れないだろうことである。どうしても、この大きさになるのなら、これはプリ、メインを分けてセパレート・アンプとして出すべきだった。セパレートのためのセパレートではなく、必然性をもったセパレート・アンプとして生きただろうと思うのである。無理に、スタイル上からだけのコマーシャリズムでセパレート・アンプを作ったり、実用上、非常識な大きさになるのもいとわず、一体にまとめたり、どうもメーカーのやる事は時々不可解な事か多い。ツマミの配置にしても、めったにいじらないスピーカー切り換えスイッチがアンプ・パネルの一番重要な左はしにデンと構えていたりする不合理はこのアンプに限ったことではないが、あまり好ましいことではない。重箱の隅をほじくるような悪口が出てしまったが、つまらない苦言の一つも呈したくなるほど、このアンプの実力に魅せられた。この音のクオリティーが、チャンネルあたり150Wぐらいまで保てれば、世界の第一級のアンプといえる存在になるだろうが、その時には、製品としてのデザインのオリジナリティと風格に関してよりシビア一に見つめられることになるだろう。

アキュフェーズ C-200 + P-300

岩崎千明

スイングジャーナル 4月号(1974年3月発行)
「ベスト・バイ・コンポーネントとステレオ・システム紹介」より

 ケンソニックP-300が我家で鳴り出してから、すでに数週間になるが、音といい、外観といい、その風格たるやそこに居並ぶ数多いアンプと隔然たる違いをみせて、いままでにないサウンド・スペースを創り出している。
 まず、従来の国産品のイメージを打破って、国際級のオーディオ製品を作り出したケンソニックに、なにはともあれ拍手を送ろう。この数年、国産オーディオ製品の質的向上が著しく進んで、誰しもが世界市場における日本製品の品質の高さは認めるこの頃である。しかし(ここに又しても「しかし」が入る)日本製品の高品質は、その価格にくらべてという前置きが必らず入るのである。「この価格ランクの製品においては」最高なのである。このクラスという前置なしの、最高級では決してなかった。高いレベルのオーディオ・マニアを十分満足するようなそういう真の意味での高級オーディオ製品は高品質の高級品の多い日本製にも残念ながらない。いや、いままではなかった。
 口惜しくも、また残念であったこの日本製オーディオ製品の現状を過去形にしてしまったのが、とりもなおさず今回のケンソニックの新製品なのである。
 ケンソニックの新製品、パワー・アンプP-300およびプリ・アンプC-200は、それ自体きわめて優れた製品であることは間違いないがその示す優秀さというよりも、この製品が市場に送り出されたことの真の意味、その価値は、日本製品の立場を世界のトップ・ランクに引き上げというただこのひとつの点にあるといえる。価格23万円なりのパワー・アンプP-300、C-200は16万5千円と、ともに従来の国産品の水準から見るとかなり高い。かなり高いこの価格以上のものが、かつてないわけではなく、テクニクスのプリ・アンプ、パワー・アンプの超高級製品10000番シリーズの45万円、50万円合せて95万円という製品がケンソニックに先立つこと1年余りで存在しているが、あまり私も含めマニアでも身近に接する機会が少くないような気もする。しかし、ケンソニックの場合は、企画段階から海外市場をも強く意識したプラニングがされ、諸仕様が作られた上、海外への前宣伝までもすでに手を打たれたと聞く。いまこうして実際に製品を手にしても、前宣伝のごとく商品として、価値の高さを、確かさをケンソニック新製品にみるのである。
 ケンソニックの優秀性は、まずなによりも単なる日本市場ということではなしに、こうした世界市場を意識した上での、つまり世界の超高級製品を相手とした上での高級アンプとして企画した製品という点にあるといえよう。これはとりもなおさず、世界の一流品と肩を並べることを意識した製品であり、こういう姿勢から作られたオーディオ製品は少なくとも日本ではケンソニック以前にはない。
 その自負とプライドとがまず製品のデザインにはっきりとうかがえる。なんのてらいもハッタリもないきわめてオーソドックなパネルながら、そのパネル表面とツマミの仕上の中に豪華さというにいわれる格調高さとが浸みでている。ハッタリがないだけに、それはとり立てる特長もないが、かたわらにおいて接すると、その良さ、持つことの満足感がしみじみと感じられる、という類いの風格だ。
 ハイ・パワーの高級アンプに求めるもの、それに対して期待するものはいかなるものにも増してこうした「満足感」であろう。今までの国産品では一流の海外高級品と肩を並べるだけのこの種の満足感、それをそばに置くだけで、それを自分のものにするだけでかもし出されるこうした満足感を備えている製品はかつてなかったのである。もう1つオーディオにおいて最も技術進歩が著しい分野がアンプであろう。トランジスタの開発、それに伴う回路技術が追いかけっこで日進月歩。新しい素子の開発によってきのうの新製品が数ヶ月を経ずして魅力が薄らぎ始める。それがアンプの持つ1つの宿命である。高級品においては、それだけ挑戦に耐える絶対的なものが備わっていなければならない。
「満足感」という言葉はケンソニックの大きな特長としてはじめから標榜している言葉だが、それはサウンドにおいてもっとも感じられるであろう。ゆったりと落ちついて力をみせずに、しかし、ここぞというとき底知れぬパワーを発揮する、という感じの響き方だ。なんの不安もなく、まったく信頼しきってスイッチを入れボリュームを上げられるアンプ、これがケンソニックのP-300でありC-200である。
 P-300の音は、ひと口でいうと静かなときは静かだが、いったん音が出はじめると、これはもう底知れずに力強いという感じだ。底知れぬといういい方のアンプはサンスイのAU-9500で味わって以来のものだが、ケンソニックの場合は、もっと素直なおとなしさを感じさせ、力のこもった芯の強さを知らされる。ちょっと聴くと明るい輝きと受けとれるが、実は、これは立上りのすばらしく良いことに起因するハイ・パワー独特のサウンドで、音色はどちらかというとマッキントッシュのトランジスタ・アンプと共通の、ずっしりと落ちついたサウンドだ。
 このパワー・アンプに配するプリ・アンプC-200は、これまたソフトなくらいに暖かみを感じさせるサウンドが最近のトランジスタ・アンプになれた耳には真空管プリ・アンプと共通の良さと知らされる。つまりそれはケンソニックのセパレート・アンプと同傾向の迫力と輝きとを兼ねそなえているので、これを生かすことが上手な使い方といえよう。となると、真にハイクオリティーの高級オーディオ製品ならなんでもよいといえよう。
 そこでまず第1に考えられるのは、過去の管球アンプ用として作られた最高のスピーカー・システムとカートリッジであろう。現実に我家でP-300を接いだことによってこの数年来のメイン・システムJBLハークネスは輝きと迫力とを格段と増したことを報告しよう。つまりP-300が我家の目下主力アンプとなって存在するわけだ。しかしまた優れたアンプが常にそうであるように、バスレフ構造のベロナに組入れたD130+075もいままでにない信じられないほどに朗々と鳴響いたし、なんと12年前に作られたAR2もいままでにないくらいに素直な張りをもった鳴り方でいまさらながらびっくりした。こうしたことを身をもって試したあとでスピーカーとして数多いなかから、ただ1つを選び出そうというのは所詮無理とは思いつつ厳しく選んだのが次のシステムだ。
 JBLはプロ・シリーズのバックロード・ホーンの4530、ユニットはいわずと知れたD130(又は130Aウーファーでもよいが)ネットワークはプロ用3115といわず一般用のルX5を用いてホーンは375ユニット・プラス509/500のホーン・プラス・デュフユーザー。つまり2ウェイのシステムだ。もしバックロード・ホーンがなければ自作でもよい。いや、平面バッフルだって、それなりのバックロード・ホーンにない低域から中域にかけて立上りの良さが抜群だ。
 もし、高域ののびにせっかくの市費-200+P-300の特長がうすれるというのなら1μFのコンデンサーを通してのみで075をつないだ3ウェイもよかろう。カートリッジにはオルトフォンSPU-GT。もしMM型がよいのならM15Eスーパーこそ絶対だ。

ガラード Zero100

岩崎千明

ステレオサウンド 30号(1974年3月発行)
「現在のマジックボックス オートチェンジャー」より

 トラッキング・エラー補正メカニズムという、理想に大きく近づいた形を、ほぼ完全な状態で取り入れたアームを着装している点で、ガラード・ZERO100は、単に画期的な、というありきたりの冠詞では言いつくせない、品質評価され得ない、真の高品質といい得る高級オートチェンジャーである。
 それは、かつてLP出現期からステレオ初期に至る10数年間、全世界を席巻した唯一無二のオートマチック・チェンジャーであったガラードの「誇りとのれん」に示したとっておきともいえるオートチェンジャー・メカニズムの具現化商品であり、それだけにこのZERO100に賭けた老舗・ガラードの意気ごみは熱くたくましい。
 しかし、である、残念なことに、これだけの理想形ともいえるほどのアームをそなえているにもかかわらず商品としてZERO100は成功をおさめたとはいい難いのではなかろうか。
 れそはなぜか。ZERO100を手許に引き寄せ、そのスタート・スイッチを入れてみれば、誰しも大よその判断を得よう。ガラード・ZERO100のオートマチックメカニズムは、まったく従来のガラードのオートチェンジャーのメカニズムを踏襲したものであることを知るだろう。
 今や、西ドイツからデュアルという強敵をむかえる現事態を、真向からむかい合うのではなく、その存在を外しかわして、自らの技術の伝統を少しも改めようとしない頑強な英国特有のブルドック魂ともいえる精神がそこにみられる。
 オートチェンジャーは、その内側をのぞけば判るように、こまかいパーツが精密に入り組んで、容易なことで変更、改良がきかいないのは、周知の事実であり、その為に商品サイクルがマニュアルプレーヤーよりも長くなる原因ともなっている訳だ。ガラードの場合、その自信あるメカニズムに自らの信頼をおき過ぎたのではないだろうか。10数年間、大きなメカニズムの変更なしに着実にチェンジャーを世に送り出した中で、ZERO100は作られた。外観はモダンにメカニズムの枠として生れ変っているが、内側は、かつてのベストセラーだった75、85さらに95とほとんど同じチェンジャーメカニズムをもっている。
 アームの上下、および、水平運動、レコードの落下などの動作がすばやく、不安を感じさせないだろうか。
 オートチェンジャーというパートに、マニアが求めるのは、やはりオートチェンジャーとしての不安を除いてくれるような完璧な動作なのではないだろうか。
 ZERO100に採用されたトーンアームは、冒頭に述べたようにトラッキングエラー、アンチスケーティングなどに対する補正が、理想的につきつめられている。スタティックバランス型の角型パイプアームに平行したリンクアームにより、ヘッドシェルのオフセット角を変化させ、トラッキングエラーを常時ゼロに保つその設計意図は充分うなずけるし、マグネットを使ったアンチスケーティング機構も効果は大きい。
 しかし、それはいくつかの理由によって過小評価をまぬがれない。
 例えばアーム基部のアクリル枠だ。アクリルという安っぽさは、あるいはデザインによって克服され得るかもしれないが、ZERO100のせっかくのトラッキングエラー・レスというその大きな特長をアクリルという材料によって一見した印象で安っぽくしてしまう。少なくとも日本のマニアは、そうみるに違いない。
 最後にZERO100の最大の難点はレコードのサポートメカニズムとレコード落下時のレコードの踊りである。
 わずかな、とタカをくくってはならぬ。ガラードのチェンジャーが西ドイツ製チェンジャーに押され、BSRにさえ追い越されようとする最大の原因は、このたったひとつの点にかかっているのだから。

良い音とは、良いスピーカーとは?(最終回)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 30号(1974年3月発行)

スピーカーの新しい傾向
     1
 アメリカを例にとれば、一方をKLHに、他方をJBLに代表させると説明がしやすい。KLHのくすんだ色彩を感じさせる渋い鳴り方。細部(ディテール)をこまかく浮き彫りするよりもむしろ全体の調和を大切にして、美しく溶け合う重厚なハーモニィを響かせるあの鳴り方。おっとりした、暖かい、気持のいい、くつろぐことのできる、しかしやや反応の鈍い……などといった表現の似合う音に対してJBLの、第一にシャープさ、明快さ、細かな一音もゆるがせにしないきびしさ、余分な肉づきをおさえた清潔さ、鈍さの少しも無いクリアーな、反応の敏感な、明るい陽ざしを思わせるカラッと乾いた軽い響き。あらゆる点が正反対ともいえる鳴り方は、とても同じアメリカのスピーカーという分類の中には、とても収まりそうにない。それは、KLHを生んだボストンと、JBLの生まれたロサンジェルスという土地柄と切り離して考えることのできない性質のものだ。
 ボストン。アメリカよりむしろヨーロッパの街並を思わせる古い煉瓦作りの建物。夏などはじっとりと汗ばむほど湿度が高く、そして冬は身を刺すような寒風の吹きまくる、日本でいえば京都や神戸のように、ふるさと新しさが混然と一体になり、むしろ街が古いからこそ新しいものに憧れ、しかも新しさをとり入れることで古いものの良さを壊すようなことをしないで良識のある街。ヨーロッパの古い様式で作られた有名なシンフォニー・ホールで聴くボストン・シンフォニーの音に、わたくしはKLHの体質をそのまま感じる。ARの古いタイプにもそういう響きはあった。AR7あたりから後の新しいARの各モデルの音そして同じ流れを汲むアドヴェントの音は、KLHのような暖かさが薄れてきているとわたくしには聴こえる。それにしてもしかし、なぜ、AR、KLH、アドヴェントというスピーカーたちが、ボストンに生まれ育ったのか、これは興味のあることだ。そう、それにもうひとつBOSEを加えなくてはいけないが。
 ロサンジェルス・シンフォニーを、あの有名なパビリオンのホールで聴くと、同じようなシンフォニー・オーケストラがこれほどまでに軽やかな明るさ、おそろしく明晰でクールな肌ざわりで響くことにおどろかされる。そして聴いているうちに次第に、JBLのスピーカーの音が結局はこれと同質のものだということに気づきはじめる。ボストン・シンフォニーがKLHの音を思い起させるのと同じプロセスで、しかもその音はあらゆる点で正反対に。
 ロサンジェルスに住む友人の紹介で、その土地のオーディオ・マニアと友達になった。その彼がわたくしに、BOSEやARの音をどう思うか? と質問してくる。彼は言う。あの重苦しい音、もたもたした低音、切れ味の悪さ、あんなのがお前、音だと言えるか……。そうだそうだ、オレもそう思うよ、とわたくしは彼と握手してバーボンの水割りで乾杯するのだ。
 ところが東海岸側(イーストコースト)では事情は逆転する。「ハイ・フィデリティ」誌の編集者たちが、ニューヨーク郊外の古い館を改造したレストランで昼食をご馳走してくれたあと、外に出ると夕立が上って、向うの山腹で雷鳴がまるで大砲を撃つようにとどろいたとき、中の一人が、ほうら、JBLだ、ドカァン、ドオーンだ! と、さもおかしそうに揶揄するのである。つい今しがた、互いに使っている再生装置を紹介しあって、わたくしがJBLの3ウェイの名を上げたら彼らの顔に一様に不思議そうな表情の浮かんだ意味がそれで氷解した。彼らはJBLをちっとも良いと思っていない。
 ハイ・フィデリティ誌ばかりでなく、〝ステレオ・レビュウ〟誌でも〝オーディオ〟誌でも、あなたがたが最も良いと思うスピーカーは何か、と質問したのだが、答の中に一番に出てくるのが、決まってARのLSTだった。ステレオ・レビュウ誌の編集者の一人はなかなかの通らしく、LSTのレベル・コントロールのポジション1か2が良い、とまで言い切った。もちろんAR以外のスピーカーの名前も出たのだが、JBLの名はほとんど出てこない。そして重要なことは、これらの出版社の所在地が、全くニューヨーク地区──つまり東海岸のそれもほんの一ヶ所──に集中している、という点である。ニューヨークとボストンは東京と名古屋ぐらいの近い距離だが、そのボストン/ニューヨークの目の出は、ロサンジェルスより三時間も早い。北のボストンと、もう少し下ればメキシコという南の街ロサンジェルスとは、もう全く別の国といってもいいくらい、気候も人の感受性も違っている。ボストン・シンフォニーの音もLPOの音も、そういう音をつくろうとしてできたのではなく、彼らの血が、つまり彼らの耳が自然にそういう個性を作り育てた。その同じ血がスピーカーを作っている。日本人のような単一民族にはこのことは容易に理解できない不可解な、しかし歴然とした事実なのである。話をヨーロッパにひろげても日本に戻してもその点は全く同じことだろう。ただ、少なくともアメリカ国外でそれくらい評価の違うボストンの音(AR、KLH、アドヴェント)とロサンジェルスの音(JBL、アルテック)が、ヨーロッパでも日本でも確かに良い音だと評価され受け入れられているのに対して、日本のスピーカーの音が、海外では殆ど評価の対象になっていないというのも確かな事実である。さきにもあげたアメリカの代表的オーディオ誌三誌、それに、業界誌の〝ハイファイ・トレンド・ニュウズ〟誌を訪れてそのどこでもきまって出てくる質問が二つあった。ひとつは、日本の4チャンネルの現状がどうなっているのか、であり、もうひとつは、日本のエレクトロニクスがあれほど進んでいるのにスピーカーだけはどうしてあれほど悪いのか、お前たちはあの音を良いと思っているのか、であった。ステレオ・レビュウ誌の編集部では、読者調査のカードをみせてくれ、それにはパーツ別に分類したブランド名ごと普及率が整理してあり、アンプやテープデッキでは日本のメーカーが上位を占めているのに、スピーカーばかりはべすと10の銘柄(ブランド)のうち、日本のメーカーはわずかに一社。しかも、これだって音が良くて売れているんじゃない。アンプその他で強力な販売ルートを作り上げて、スピーカーは抱き合わせで無理に販売店に押しつけているんだ、品ものがいいからじゃないんだ、とくりかえして説明してくれる。いままで、日本のスピーカーが海外で認められない、と書くと、、日本のメーカーから、海外でもこんなに出ているという数字をみせられたことがあるが、必ずしも「良い」から売れているとは限らない、という例を、はからずもアメリカの雑誌の編集者たちが証明してくれたわけだ。くやしいかぎりだが仕方がない。風土がスピーカーの音作るとなれば、日本という国に、良いスピーカーを作るだけの土壌があるかどうか、という問題にまでさかぼらなくてはならなくなってくる。前途多難である。

     2
 スピーカーの音の違いというものを、しかし風土や土地柄からだけでは説明しきれない。たとえばARをみてもJBLやアルテックをみても、またイギリスやドイツのスピーカーをみても、この数年のあいだに音のバランスのとり方が明らかに変ってきている。それにはいろいろの原因が考えられるが、わたくしはいま三つの理由をあげる。
 第一はスピーカーの設計、製作の技術や材料の進歩。これによって、従来そうしたくてもできなかったことが可能になる。
 第二に、スピーカー以外のオーディオ機械類の進歩。たとえばテープを含む録音機会の進歩、それを再生するピックアップやテープデッキやFMチューナー、アンプリファイアーの進歩によって、同じスピーカーでさえ音が変り、ひいては新しいスピーカーの出現をうながす。
 第三。音楽の変遷、そして同じ音楽でも演奏様式の変遷。たとえばロックの台頭と普及によって、従来とは違う楽器、演奏法が誕生し、聴衆の音楽の聴き方が変わる。クラシック畑でもその影響を受ける。とうぜんそれが録音様式の変化をうながし、録音・再生機械の進歩をも促進させる。
 再生音の周波数レインジに関していえば、40から一万二、三千ヘルツまでがほぼ平坦に、歪少なく美しく再生できれば、音楽音色をほとんど損なうことなく実感を持って聴くことができる、という説は古く一九三〇年代にベル・ラボラトリーやE・スノウらによって唱えられ、それはごく近年まで訂正の必要が認められなかった。蛇足と知りつつあえてつけ加えるが、40から一万三千ヘルツをほとんど平坦に、というテーマは現在でも容易に達成できる目標とはいえない。カタログ・データはいざ知らず、現実に市販されているスピーカーの周波数特性だけを眺めても(たとえば本誌28、29号スピーカー特集の測定データを参照されたい)、右の条件がなま易しいものでないことはご理解頂けると思う。わたくし自身も、かつてハイカット・フィルターによって実験した際、少なくともクラシック及び通常のジャズ、ポピュラーのレコードに関するかぎり、13キロヘルツ以上の周波数を急峻にカットしても楽器自体の音色にはもはやほとんど変化の聴きとれないことを確認している。
 しかし──、ロックに代表される新しい音楽、それにともなう新しい奏法の出現によって、オーディオからみた音楽の音色は大きく転換した。低音限界の40ヘルツは一応よいとしても、シムバルそのほかの打楽器、雑音楽器(特定の音程を持たないリズム楽器や打楽器類を指していう)などの頻用とより激しいアタックを強調する奏法によって、音源自体の周波数レインジはより高い方に延びはじめた。打楽器はその奏法によって高域のハーモニクス成分の分布が大幅に異なり、アタックの鋭い音になるにつれて高域にいっそう強いスペクトラムが分布しはじめる。シムバルの強打では、20キロヘルツ以上にまで強い成分が分布することもすでに報告され、実際にも13キロヘルツぐらいでフィルターを入れると──もちろん録音・再生系の全体がそれより高い周波数まで正確に再生する能力をもっている場合にかぎっての話だが、明らかに音色が鈍くなることがわかる。昔とくらべて、はるかに刺激的な音を多用する新しい音楽の出現によって、録音も再生も、より広い高域のレインジが要求されはじめたのである。
 その明らかな現われのひとつに、たとえばJBLの新しいプロフェッショナル・シリーズのスピーカー・ユニットの中の、♯2405型スーパー・トゥイーターをあげることができる。本誌27号の本欄で書いたように( 80ページ)、劇場(シアター)用、ホール或いはスタジオ用のスピーカーには、いわゆる超高音域は不必要であった。古いプログラムソースには、10キロヘルツ以上の音はめったに録音されていなかったし、したがってそれ以上の高音域を平坦に延ばしてもかえって雑音(ノイズ)ばかりを強調するという弊害しか無かったのである。したがってシアター用スピーカー、或いは良質の拡声装置スピーカーに、スーパー・トゥイーターに類する高音ユニットを加えた例は従来ほとんど無く、大半が2ウェイどまりであることはご承知のとおり。わずかに家庭用の高級システムの場合に、エレクトロヴォイスのT350、JBLの075等の、3ウェイ用のトゥイーターが用意されていた。それでも、JBL/075の周波数特性は、10キロヘルツから上ですでに相当の勢いで下降をはしめる。E-Vだって日本のいわゆるスーパー・トゥイーターからみれば決してワイド・レインジとはいえない。むしろこの点では、日本やヨーロッパ、ことにイギリスの方が高域のレインジというかデリカシーを重んじていた。それは、アメリカのスピーカーのいわば中域にたっぷり密度を持たせて全体を構築するゆきかたに対して、より繊細な、音色のニュアンスの方を重視したからだろうと思う。
 しかし新しいJBL/2405の特性を初めて見たとき,わたくしは内心あっと驚いた。6キロヘルツあたりから20キロヘルツ以上に亘って、ホーン・トゥイーターとしてはめったにないほど、見事にフラットな特性が出ている。内外を通じてこれほど見事な高域特性のスーパー・トゥイーターはほんとうに少ない(ただし製品ムラが割合に多いといわれている。やはりこれだけの特性を出すのは、よほど難しいことにちがいない)。
 世界的にみても高域レインジを延ばすことには最も無関心にみえたアメリカで、こういうトゥイーターが作られなくてはならなかった必然的な理由を考えてゆくと、先に述べた音楽やその奏法の変遷に思い至る。なにもポピュラーの分野ばかりではない。クラシックでも、たとえばメータの率いるLPOの音色、あるいはパリ管弦楽団、いまではカラヤンが指揮するときのベルリン・フィルでさえもが、昔のオーケストラからみればはるかにアタックを強く、レガートよりもむしろスタッカートに近い奏法を多用し、いわゆるメリハリの利いた鋭い音色を瀕繁に出す。新しい録音は、そういう奏法から生まれる高域のハーモニクスをより鮮明にとらえる。あきらかに、オーケストラのスペクトラムは高域により多く分布しはじめている。この面からおそらくは、現在の音響学の入門書に出てくるオーケストラや楽器のスペクトラムの説明は書き改められなくてはならないだろうと思う。すでに現代の聴衆は、耳あたりの柔らかさよりは明晰な、歯切れのよい鮮やかな音を好みはじめている。カラヤンはそういう聴衆の好みを見事にとらえ、ことに演奏会では実に巧妙に聴衆を酔わせる。現在でいえば室内オーケストラほどの編成で演奏されたハイドンの94番のシンフォニーに聴衆が〝驚愕〟して飛び上ったのは、もはや遠い昔の物語になってしまった。
 むろん音楽全体がそうだとは決して言わない。わたくし自身の好みを別にしても、音楽が、またその奏法がそういう方向に変ってゆくことの意味、そのことの良し悪しはここでは論じない。少なくとも、音楽を演奏し録音し再生するプロセスで、大勢が右のような方向に動きつつあり、スピーカーの作り方の中で高域のレインジの拡張というたったひとつの事実をとりあげてみてもそのことを証明できるということを、ここでは言っておきたいだけだ。そして、高域のレインジをより拡げることが、単に楽器の音色のより忠実な再現という範囲にとどまらず、すでに28号の144ページその他にも書いたようなレコード音楽独特の世界が開けるという点の方を、ほんとうは強調したいのだが。(この点については、いまはもう残りの紙数も少なく今回はくわしくふれることができない。もし機会が与えられれば、レコード再生のプレゼンスについて、とでもいったテーマで書いてみたいと思う。)
 一方の低音に関していえば、モノーラル時代はいまよりはるかに低音の本格的な再生を重視していたことはだいぶ前に書いた。ステレオの出現によって、あまり低い音まで再生しなくても低音感が豊かに聴こえるという心理的な問題から、低音の再生がおろそかになりはじめ、ARのスピーカーの出現のあとブックシェルフ・スピーカーの安物が増加するにつれて低音の出ないスピーカーが大勢を占めはじめ、一方、フォノモーターの唸りを拾わないためにも、またそういうモーターの性能に寄りかかったレコード製作者側の甘さも加えて、いつのまにか、世の中から本ものの低音が消えてしまっていた。いまのオーディオ・ファンで、本当の40ヘルツの純音を聴いた人はごく僅かだろう。ブックシェルフ・スピーカーにテスト・レコードやオシレーターで40ヘルツを放り込んで、ブーッと鳴る低音はたいていの場合40ヘルツそのものでなく、第三次高調波歪みにほかならない。ほんものの40ヘルツは身体全体が空気で圧迫されるような感じであり風圧のようでもあって、もはや音というより一種の振動に近い。そんな低音を再生できるスピーカーがいかに少ないか、その点でも28~29号の測定データはおもしろい見ものである。
 しかしむしろいま急にそういう低域を確かに再生できるスピーカーが多数使われるようになったりすれば、殆どのレコード・プレーヤーは使いものにならなくなるだろうし、大半のレコード自体に超低域の振動が録音されていることがわかって、針が乗っているあいだじゅう妙な振動音に悩まされてしまう。すでにレコードもレコード・プレーヤーも、現在普及しているプアな特性のスピーカーでモニターされ作られている。むしろ大半のスピーカーが60ヘルツぐらいから下が切れていることが幸いしているとさえいえる。低音に関しては、基本波(ファンダメンタル)を正確に再現しなくても、倍音(ハーモニクス)を一応正しく再生できれば楽器のそれらしい音色は聴きとることができるという人間の耳のありがたい性質のおかげで、全体としては低音をそれほど再生できなくとも、あまり不都合を感じないで済んでいるというだけの話なのである。しかし、ほんとうにそれでよいのかどうか──。
 JBLのプロフェッショナル・モニター4320、4325などでは、従来のスタジオモニターSM50にくらべて低域の拡張が計られている。高域は必要に応じて2405を加えることができる。前号でふれたアルテックのモニター・スピーカーも、新型の9846-8Aでは従来の604E/612Aにくらべてより低域特性を重視し低域補正回路まで組み込まれた。
 そこで再びBBCモニター。KEFの新しい資料によれば、すでにふれたLS5/1Aに次いで model 5/1AC という新型が発表された。最も大きな改良点は、デュアル・チャンネルアンプリファイアー、いわゆる高・低2チャンネルのマルチアンプになったこと。これにともなって最大音圧レベル112dB/SPLとより強大な音圧が確保され、低域補償回路が組み込まれて低音再生をいっそう強力化している。これはLS5/1AとちがってBBCモニターの名で呼ばれていないので、放送モニターよりもむしろレコーディング・スタジオ用として改良されたものと考えることができる。また、前回のBBCモニターの新型としてLS5/5型をご紹介したが、その後の調査もこのモデルがBBCで現用されているという確証が現在のところ掴みきれない。ロジャースで製作されているとの情報によって同社の資料をとり寄せてみたところ、たしかにBBCモニターというのが載っていたが、モデル名をLS3/6といい、”medium size studio monitor” と書いてあって、ちょうど三菱の2S305に対する2S208のような位置にある中型モニターのように思える(外形寸法は25×12×12インチ。スタンド込みの全高は37インチ。20センチ型のウーファーをベースにした3ウェイ型)。
 JBLの新型モニターといい、アルテックのニュー・モデルといい、またKEFの5/1AC、ロジャースのLS3/6といい、また28~29号を通じて最も特性の優れていたKEFのモデル104といい、新しいこれら一群のスピーカーが、従来までのそれとくらべると段ちがいに優れた物理特性──、より広い再生レインジとより少ない歪み、あるいは広い指向性、あるいは再生音圧の拡大──をそれぞれに実現させはじめた。明らかに、スピーカーの設計に新しいゼネレーションの台頭が見えはじめている。この項を書きはじめた頃、わたくし自身にまだ右のようなスピーカーの出現は予測できなかった。けれど、わたくしは一貫して、まず本当の意味での高忠実度再生スピーカー、広く平坦な周波数特性と、それに見合う諸特性の向上を、スピーカーの目ざすべき第一の目標だと主張し続けてきたつもりである。現在問題にされているオーディオ再生のさまざまな論議は、過去の極めて不完全なスピーカーを前提になされてきた。それらを原点に戻すには、まず、スピーカー固有の色づけ(カラーレイション)を可能なかぎり少なくしてみること、いわばカメラのレンズ固有のくせ──ベリートやタンバールの独特の描写に寄りかかった制作態度を一旦捨ててみるところから、新たな問題提起が始まるべきだということを言いたかった。ほんとうのワイドレインジの音など聴いたこともない人が、ナロウレインジでも音楽は十分に伝わる、などとしたり顔で説明することが許せなかった。嬉しいことに、わたくしたちの廻りに右のような新しいワイドレインジ(決してまだ十分とはいえないまでも)のスピーカーが揃いはじめた。わたくし自身、ナロウレインジの、あるいは旧型の固有の性格の強いスピーカーから再生される音の独特の魅力にも惹かれるし、そのことを否定するものでは決してない。また、すべてのオーディオ機器がワイドレインジであるべきなどと乱暴な結論を出すつもりも少しもない。むしろ現在のオーディオ再生では、すでにふれたように再生音域の拡張はいま急にはむしろ弊害を生じる場合が多く、すでにKEF♯104を入手されたユーザーから、いままで聴こえなかったレコードや針の傷み、アンプの歪みなどがかえって気になりはじめ、アンプを交換してはじめて104の良さがわかった、という話も聞いている。わたくしのこの小論から、にわかにワイドレインジを目指すようなあやまちは避けて頂きたいとくれぐれもお願いするが、また一方、注意深く調整された広帯域の再生装置が、いかに多くの喜びをもたらしてくれるものか。ほんとうは、そこのところを声を大にしてくりかえしたいのである。
 アンプに限らずスピーカーもまた、物理データの本当の意味での向上が、聴感上でもやはりより良い音を聴かせてくれるということを、新しい優れたスピーカーたちが教えてくれている。BBCモニターLS5/1Aは、完成までには何度もスタジオでの原音との直接比較と精密な測定がくり返され、改良が加えられたという。こうして注意深く色づけ(カラーレイション)を取り除いたスピーカーが、一般市販のレコード再生しても本当にくつろぐことのできる楽しい音を聴かせてくれるという一事から、わたくしは多くのことを教えられた。

デュアル 1229

岩崎千明

ステレオサウンド 30号(1974年3月発行)
「現在のマジックボックス オートチェンジャー」より

 デュアルのチェンジャーという呼び方をしなくても、独乙製というだけでそれが代名詞となるほどに、世界の高級ファンの間で親しまれてきた。12年前から急激にその地位を強めて、それまでの王座を誇っていたガラードの座にとって変って、全世界の市場で少なくとも独立したプレーヤーとして最強のシェアを培ってきたのは、その特有のメカニズムにある。それはガラードと違ってセンタースピンドルのみでレコードを受け、一枚ずつ落として演奏する、というメカニズムにある。今でこそ、それは当り前であるが、それまでのチェンジャーにはつきものであった、レコードを重ねのせた上におさえレバーをのせるという方式から脱却した、ただ一つの操作を最初になし遂げ、デュアルの地位を今日のものに築き上げる直接的なきっかけになっている。
 この6年来、デュアルは軽針圧カートリッジのためのチェンジャーメカニズムに力をそそぎ今や他社のごく少数のチェンジャーを除いて、デュアルのいかなる製品にも匹敵するものはない。
 昨年は同じ西ドイツの同業メーカーPE(パプチューム・エブナー)社を傘下に包含して、ますます量産体制を確立し全世界を市場にこの分野で限り知れぬ強みを発揮し、日本に続いてDDモーターを自社生産するなど、その実力はまさに世界にさきがけるチェンジャーメーカーといえよう。
 1229はデュアルの最高級機種であるが、ストロボがついた最新型1229の前身は1219であり、さらに30cm・ターンテーブルになる前の27cmの1019にさかのぼると、デュアルというより西独製プレーヤーとしての典型的パターンがここにある。
 視覚的デザイン的に、ターンテーブルギリギリのモーターボードに、やや太いストレートアームというその形は、ステレオディスクプレーヤーの原典たるノイマンのカッター付属を思わせるモニター用のディスクプレーヤーを思わせる。
 この一見武骨ながら比類ない確実さをもって、そっ気ないくらいに着実な的確さで操作をしてくれる点が、デュアルの人気は華々しくはないが、根強く着々と全世界に普及させた理由だ。
 こうしたデュアルのもうひとつの偉大な特長は、ハウリングに強いという点だ。
 かつてある雑誌の読者から、「スピーカーの上にプレーヤーを載せるとは何事ぞ」と掲載された写真を指摘されたことがあるが、私のDKには数年来、バックロードホーンのシステムの上にデュアルの古い1019が載せてあり、それは日本のファンの常識を超えて、フルボリュウムでもハウリングの気配すらない。
 アームが細く長くスマートになった1229では、1019ほどではないが、3点のスプリングによってサポートされた全体は、重量とスプリングの遮断共振点を選んであるためか、ハウリングには驚くほど強く、その点でデュアルのかくたる技術力をしらされる。
 ターンテーブルの重量はなんと3・1kgと、マニュアルプレーヤーとして世界一というトーレンスのそれに匹敵する。手もとのスウェーデンで発行されたカタログによれば(王立研究所の測定結果として)デュアルの701DDターンテーブルつきとほぼ同じSN、ワウフラッターの優秀な数字が掲げられ、それはトーレンス125に優るとはいえ、劣ることはない。
 演奏スタートから音溝に針が入るまでは、33回転のとき12秒と遅いほうではなく、それも無駄のない動きがなせるわざだろう。
 よくいわれるように、センタースピンドルからレコードが一枚ずつ落ちる場合に、レコード穴がひろがるとか、落ちるショックでお富み俗が傷むとかの説は、デュアルを使ったことがないためにでてくる言葉で、外径7mmストレートのスピンドルにそって落ちる速さはほどよく抑えられながら、きわめてスムーズでストッときまる感じだ。

BSR 810X

岩崎千明

ステレオサウンド 30号(1974年3月発行)
「現在のマジックボックス オートチェンジャー」より

 BSRはオートチェンジャーの専門メーカーとして、ガラードと並び、世界でもっとも長いキャリアを誇りしかも現在では象徴的存在たるガラードを抜き去って、世界一の生産台数を謳い、5万の人員を擁して大規模な形態を整え、英国バーミンガムきっての企業である。
 その業績内容の優れた発展ぶりは、全英企業中にあってここ数年三位とは下ることなく、昨年は米国の音響メーカーとして意欲的なADCをも傘下に収めるという躍進は、凋落著しい英国企業中にあってひときわ目立ち輝く存在といえよう。
 かつての強力なライバルたるガラードを抜き去った底力はといえば、それはやはりオートチェンジャーのメカニズムに対する意欲的な技術と開発力そのものにあったのである。
 その優れた技術と、ハイファイ製品特有の企画性のうまさを端的に示しているのが、製品中の最高機種たる810Xである。
 全体はメカニックな端正な直線と、黒の艶消しの品の良い豪華さを強調した仕上げでまとめられ、まったくいや味なく高級感を品良くかもし出して、しかも堂々たる風格すらにじむ完成度の高いデザインだ。
 全体にかなり大きい感じを受けるものは、その長くスラリと横たわるアームのせいだろう。ヘアラインの磨き仕上げのストレートな角パイプアームは、実効長21・5cmと見た目だけでなく、全長も29・9cmとチェンジャーとしては長いものだ。
 さらにこのアームを視覚的に長く仕立てているのは、カウンター・バランス・ウェイトのスライド範囲が前後に長いためで、これは国産のサテン、オルトフォンSPUなどの自重の重いカートリッジから最近の軽いものまでを、自由に組み合わせることを意味する。
 グレースのアームでおなじみのメカで、ジャイロ機構とも呼ばれる上下左右ボールベアリングのジンバル支持マウントは、針圧調整をも内蔵して、マイクロギアーによって0gから4gまでを直読式で加圧でき、目盛は大きくみやすく実用上の狂いが少ない。このメカニズムがチェンジャー中でも、特に優れたBSRのアームのもっとも大きな特長ともいえるだろう。
 アンチ・スケーティング機構も内蔵され、より大きな力を要する楕円針の場合と丸針の場合との二重目盛になっていて、アーム基部にツマミを配置している。
 この810Xで特筆できるのは、なんといってもオートプレイの動作自体が高級プレーヤーたるにふさわしく、正確かつ優雅といえるほどにゆったりとスマートな物腰にある。
 長いアームの動作は、ひとつから次に移るくぎりの停止がピタリと決まっていて、少しも機械とかロボット的な感じを残していないことだろう。これは日本舞踏とかバレーの動作を思わすほどだ。
 それは全体の動作がゆっくりしている点にあるが、特にアームの上下の動きは独特のオイルによるもので、息をつめて操作しているという感じだ。
 だから、演奏のスタートから音溝に針先のすべり込むまでの時間はやや長いほうで、実測で18秒かかる。この悠々と、しかし正確きまわりない動作こそ、かつてのガラードに変り、BSRの高級機種たる810Xがコンシューマーレポートの最上位のひとつにランクされる理由となったのであろう。
 申し遅れたが、810Xは710と共に英国製では数少ないセンタースピンドルのみでレコード6枚を受け止める構造で、落下システムは直線的な細い外径6・6mmというスピンドル内に収められている。
 ただ演奏が終ってレコードを外そうとする時、スピンドルを外して行なうというのは、スピンドルを再び通すよりは素早くできるかもしれないが、そうではないのがわかっていながら、何かこわれないかというイメージをもたれるのではないか気になる。

現代のマジックボックス オートチェンジャー

岩崎千明

ステレオサウンド 30号(1974年3月発行)
「現在のマジックボックス オートチェンジャー」より

 本来なら、ここでは現在市販されている「オートチェンジャー」がいかに優れているかということをページの許す限り述べ尽くし、それらの最新型に関しては、なまじっかのマニュアル(手動式)つまり普通のプレーヤーよりも正確で細かな動作をしてくれる、ということについて高級マニアにも納得させるべきなのであろうが、あえてそういうことは避ける。
 なぜか。それは、フルオートプレーヤーと呼称を変えたりしているチェンジャーをいかに述べても、動作の細部をことこまかに納納得できるまで説明したところで、いくらでもそれらを非難し、受け入れることを頑強に拒否するきっかけや言いがかりを見つけ出すにきまっている。だからといって、現在のオーソドックスなディスクプレーヤーがどのくらいまで完全であるか、ガラードの最新型チェンジャー、「ゼロ100」のそれにすら理屈の上では大方の市販品が劣るのである。
 レコードが傷むのではないか、という器具がオートチェンジャーを拒む最大の理由の最たるものだが、それではオートチェンジャーでなければレコードは決して傷つくことなく完全を保証されるか、というとこれまた必ずしもそうとは限らない。その点のみについていえば、レコード扱う者自体のテクニックとそれ以上に、「レコードそのものをいかに意識しているか」という点にこそかかってくる。レコード即ミュージシャンの心、と断じて、決しておろそかに扱えないという音楽ファンのあり方は、大いに賞賛されるべきだし、また、その域にまで達すればチェンジャーの価値をオーディオファンとしての立場を含めて、必ずや的確に判断してくれるに相違あるまい。つまりチェンジャーの説明は少しもいらない。
 けれど、世の中さまざま、あらゆるものがすべてヴァラエティに富む現代、再生音楽そのものも広範囲に拡大しつつあるし、またその聴き方もきわめて多様化している。しかし、だからといって聴き方それ自体がいい加減になるというわけでは決してない。それどころか、自らの生活環境が、ますます広げられるにしたがい、寸時も惜しんで音楽にどっぷりとつかっていたいと乞い願うのが、音楽をいささかたりとも傷つけ、軽んじ、強いては内的に遠ざけるということに果してなるであろうか。日常の寸暇も惜しんであらゆる生活タイムに音楽をはべらすという生活。これが果して、夜のしじまのありるのを見定め、あらゆる日常の煩雑を遮断して心身を改め清めて音楽に接するというのに劣り、音楽を冒瀆しその接し方そのものが軽率であるというであろうか、断じて否である。
 かくて、音楽を片時たりとも手離すのは忍びないという願う熱烈な、いや浸りきりたいという、おそらくもっとも正常なる音楽ファンにとって、レコードをまったくを手をわずらわすことなく的確に正確に演奏してくれるというプレーヤーは、再生音楽ファンに必要な、再生テクニックの点から理想的といってもよく、オーディオメカニズムに対する初心者もしくは未熟者にとって、あるいは日常を仕事雑事で忙殺される社会の多くの人びとにとって、それはまさに「福音」以外の何ものでもないと言いきってはばからない。
 つまり、再生音楽を純粋に「音楽」そのものの形で、日常生活の中に融けこませるべき現代のマジックボックス、それがオートチェンジャーなのである。
 マジックは、それを目の当りに接し、その不思議な魔的な力を体験したものでなければ納得もしないし、認めることもできまい。しかし、それが虚妄のものでなくて確かな存在として、ひとたびその先例を受けるや、魔力はその者の観念を根底からくつがえしてしまうに違いない。
 魔法の例えは話を無形のものに変えて、本筋を不確かなものとしてしまうと思われよう。
 だが、現実にオートチェンジャーの新型製品は、間違いなく同価格のオーソドックスなプレーヤーより、多くの若いファンにとって、より確実に正確にレコードの演奏をしてくれるマジックボックスとして存在するのだ。
 若いファン、という言葉がもし気になるならば、「新しい技術や商品を認めるのに否定的でない」と言い直してもよい。
 なぜなら、オートチェンジャーはレコードプレーヤーの革命だからであるし、それを革命として認めるか否か、この点こそがオートチェンジャーのすべてを認めることといえるからだ。

 私自身の話をするのは説得力の点で大いにマイナスなのだが、オートチェンジャーを以前から長く愛用している一ファンという形で話そう。
 米国市場において、デュアルが大成功を収めるきっかけを築いたのが1019だが、その製品を米国将校の家庭でスコットのアンプやAR2aと共にみかけて、手を尽くして入手したのは9年ほど前だ。「朝起きぬけに、寝ぼけまなこでLPを楽しめる」というその年老いた空軍准将は、まさにチェンジャーの扱いやすさをズバリ表現していた。次の一枚との合い間の12秒間は、違った演奏者の音楽を続けて聴くときに貴重だ、ともいった。眼鏡なしではレーベルを読むのに苦労するという初老の彼にとって、LPを傷めることなしに1・2gの針圧でADCポイント4を音溝に乗せるのにはデュアル1019以外ないのであった。
 当時すでにハイCPのARXというベストセラーがあり、もっと高級なプレーヤーがエンパイア、トーレンスなどであるのだが、オーディオキャリアも長い彼にとっては、今やデュアルに優るものはないのだろう。
 オートチェンジャーはこわれやすいのではないだろうか、という点を気にする方がいるが、こわれやすいというよりも扱い方、操作の上での誤りが理由で、その動作がずれ、たとえばスタート点が正しい点より、わずかに内側になってしまったとか、終り溝まで達しないうちにアームが離れるとかいう原因となることがある。
 そうした狂いのもとはといえば、捜査のミス、というより最初のスタートの数秒が待ちきれずに、つい、アームに指をかけて無理な力を加えてしまうことにある。カートリッジ針先が音溝に入るまでのチェンジャーは、オーソドックス・プレーヤーと違ってスイッチを入れるやいなや表面は動かないでいても、そのターンテーブルの下では、アームの動作のためのメカが説密動作を開始している。音溝に針先の降りる十数秒間、この間はじっと待つことが必要であるし、それがチェンジャーを正しく使うために必要な知識であり、かつテクニックのすべてだ。
 この演奏開始までの十数秒間、これは、またチェンジャーのみに与えられたレコードファンの黄金の寸暇という説は、冒頭にも述べたが、本誌別冊の475頁に、黒田氏も触れて、それをこの上なく讃えておられるではないか。
 9年目の私の1019は実は三日前にアイドラーの軸中心に初めてオイルをたらした。アームの帰り動作中、しばしばキリキリと音を出し始めたからだが、注油後それすらなくなって、ターンテーブルがいくらかスタートが遅くなったような気がするだけだ。実際に使っては変らないのだが。
 さて、オートチェンジャーがいかに便利か、それによって初めて日常生活の中でハイファイ再生が、ごく容易になって、つまり特定の部屋で、特定の時間のみレコード音楽に接することから脱却する術を知って、私はさらに8年前からトーレンス224といういささか大げさな、しかしプロ仕様にも準ずるチェンジャーを、メインのシステムに加えた。さらにこれは、5年前から3年半、私のささやかなジャズファンの溜り場で、オーディオテクニックに通じるべき一人の省力化に役立って働いた。
 扱い者の不始末からロタート点での入力ONのクリックがひどくなって、オーバーホールするまでの3年間、生半可な人手よりはるかに正確に働き、その正確さはマニュアル動作の期間のほうが、レコードを傷めること、数十倍だったことからもわかる。トーレンス224う使ってそのあまりの良さに、手を尽しもう一台を予備用として入手したのだが、それが今はJBLシステムで、ひとりレコードを楽しむときの良きパッセンジャーとなっているのは、いうまでもない。ただ残念なことに224は、今トーレンスでも作っていない。
 オーディオ歴の長く、そしてしたたかなキャリアを持つベテランほど、加えて音楽を自らの時間すべてから片時も離さない音楽ファンであれば、彼のシステムのいずれかに必ずやオートチェンジャーが存在する。レコードの価値を、「量産されたるミュージシャンの魂」と理解するファンであれば、チェンジャーの存在は限りない可能性を日常生活の中に拓いてくれることを知ろう。
 最後にひとことだけ加えるならば、いかなるチェンジャーなりとも、現存するすべては「アームが音溝にすべり込んで、最後の音溝に乗るまではアームにわずかの操作力も加わることがない。その時のアームの動作状態は、マニュアルプレーヤーのアームの状態と、なんら変るものではない」ということを、チェンジャーヒステリー達ははっきり知るべきであろう。

フィデリティ・リサーチ FR-6E

岩崎千明

スイングジャーナル 2月号(1974年1月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 今年の国内オーディオ市場の大きな特長として、海外パーツの著しい進出と、定着とが挙げられるが、とりわけブックシェルフ型システムシステムを中心としたスピーカーの積極的な売り込みとその成功が大きく目立つ。
 そうした目につきやすいスピーカーのかげにかくれて、しかし、スピーカー以上に確かな地位をきずき固めつつあるのは海外カートリッジだ。
 従来も、高級品に関しては、国産品に対して十分な満足を満たされぬことが理由で、海外製品の中から選ばれせるというのがマニアの常識ですらあった。いわく、シュアーV15、いわくオルトフォンM15スーパー、いわくエンパイア、いわくADC等々であり、それをそなえているかどうか、そのいずれをそなえるか、さらにいくつそなえるかが、オーディオ・マニアのレベルの高さ、あるいはその志向する目標の高さ、さらにはそのマニア自体の質から誇りの崇高さないしは権威の水準までを示すものとして本人にも、まわりからもひとつの必需品とまでなっている。
 もし、当事者のうちにそんなばかなことが、といって拒否する筋金があったとしても、まわりはそうはさせず、海外製カートリッジの、それも高級品のいくつかが揃っていることで、そのマニアの質やレベルを判断してしまうのは、いつわりない状況だろう。かくいう私自身にしても、出入りする周囲のそうしたまなざしを迷惑ながらも、かなり気にせざるを得なくなって心ならず気に入らぬ海外製カートリッジの5〜6個を常用オルトフォンM15スーパーの他に揃えてはいる。苦々しく、いまわしいことだがそれが実情だ。
 所で、73年の海外カートリッジの進出は、こうした高級品群から、やや下まわった製品、価格水準にして、国内メーカーの作る高級品のランクの製品が数多く出まわっている点に注目しなければならぬ点がある。シュアー91シリーズに続き、ADCのQシリーズと名づけられた新シリーズ、さらにオルトフォンのMFシリーズのあとFFシリーズ、ピカリングとその同系のスタントン。ごく最近ではかつてのベスト・クォリティーの栄光の巻き返しをはかるグラドの普及価格品。
 そうした多くの海外製品は、たしかにトレースの安定差とサウンドの確かさ、豊かさとでもいえるうるおいにおいて、特性上はるかに優れているはずの国産品を脚もとにも寄せつけず、国産高級カートリッジの細身の音を、感覚的に上まわると誰にも思わせてしまう。
 この傾向は今年後半に入って登場した海外製品が市場に出るごとに確かめられた形となった。72年までは、国産カートリッジの優秀性が海外高級品のそれに肉迫し、あるいは追いつき追い越さんとしたところ、まったをかけられこの海外製新型の登場が73年に爆発的ともいえる形で始まったのである。
 シュアーV15タイプIIIにおけるMM型の電気特性の格段の飛躍は、そのほんの一例にすぎず、海外カートリッジ攻勢の氷山の一角にすぎない。その製品群の層は厚く、強固で堅い。国内メーカーはこの大きく立ちはだかる壁を乗り越えるべく努力を始めた。それは、乗り越えなければならないオーディオ業界の国際化の、大きな波なのだから。
 そうした時期に国内メーカーの中堅、FRが新型を発表したのである。
 FRはグレースとともに国内の高品質カートリッジの専門メーカーとして高い誇りと、キャリアと実績を持つ地味ながら確かな企業だ。小さいとはいえその技術力と開発力は、カートリッジ業界にあって特に注目すべき能力を内在し、メーカー発足以来いつの時代にあっても最高級カートリッジの製品を市場に送り、多くの高級マニアの支持を受けてきた。
 今回発表したFR6は、このメーカー独特の技術であるトロイダルコアーによるMM型の高品質カートリッジである。従来同種製品に新型を加えることのなかったこのメーカーには珍らしく、FR5から発展したMM型の高級製品で飛躍的なワイド・レンジと、高域セパレーションを獲得した高性能ぶりが注目できる。
 サウンドの面においても、国産カートリッジに共通な中域の繊細さに力強い芯を豊かさで包んだともいえる再生ぶりは、従来の国産品らしからぬ良さが国産品にもそなわってきたという点に注目すると共に拍手を惜しまぬものがある。
 高級カートリッジは決して海外製品の独壇場ではないことを知った貴重なワンステップであり、その基礎たる製品がFR6であろう。

良い音とは、良いスピーカーとは?(6)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)

高忠実度スピーカーの流れ
    4
 BBCモニタースピーカーLS5/1Aの音は、はじめて耳にしたときから、それまでモニターの代表として知られていたアルテック604E/612Aや三菱ダイヤトーン2S305らの音とは全く違っていた。よく耳にするこれらのモニタースピーカーの音は──中でもアルテック604E/612Aはわたくし自身約二年あまり自宅で聴いていたことがあるが──、第一に冷徹でプログラムソースのアラをえぐり出すような鳴り方で、永く聴きこむにはあまりにも鋭く、こちらの気持が充実し精神が張りつめたようなときでないとその鮮烈さに耐え難いような強さがある。そういう音には一方で、パワーを上げると滝に打たれるような爽快感さえあって精神の健康なときには一種のスポーツ的な楽しさで対峙できる反面、疲れた心を癒してくれるというような優しい鳴り方は絶対に求めることができない。それはアルテックばかりでなく2S305にもそういう傾向が感じられ、たった一度だけ、あるレコードファンが、団地の四畳半で管球アンプで鳴らしている音質に意外に柔らかな表情を聴きとった経験があるが、一般にモニタースピーカーの音質とは緊張を強いる、分析的な、余剰を断ち切った無機的な鳴り方をするものだと、わたくし自身まあ信じていたと言ってよい。わたくしだけではあるまい。現にそのような解説が、オーディオ専門誌でもひとつの定説のように繰りかえされている。
 BBCモニターの音は違っていた。第一にいかにも自然で柔らかい。耳を刺激するような粗い音は少しも出さず、それでいてプログラムソースに激しい音が含まれていればそのまま激しく鳴らせるし、擦る音は擦るように、叩く音は叩くように、あたりまえの話だが、つまり全く当り前にそのままに鳴る。すべての音がそれぞれ所を得たように見事にバランスして安定に収まり、抑制を利かせすぎているようにさえ思えるほどおとなしい音なのに全く自然に弾み、よく唱う。この音に身をまかせておけばもう安心だという気持にさせてしまう。寛ぐことのできる、あるいは疲れた心を癒してくれる音なのである。陽の照った表側よりも、その裏の翳りを鳴らすことで音楽を形造ってゆくタイプの音である。この点が、アメリカのスピーカーには殆ど望めないイギリス独特の鳴り方ともいえる。
 初めてこれを聴いたのはもう六年も前の話になる。古い読者なら本誌8号の「話題の海外製品」欄(384ページ)に、山中敬三氏の紹介があることを記憶しておられるかもしれない。その頃初めて入荷して、山中氏のお宅に紹介記事のためにしばらく置いてあった。お前の好きそうな音だから聴きにこないかと声がかかって、しかしそのときの印象は、ずいぶんすっきりと線の細いきれいな音だという程度のもので、今思い返せば残念ながらわたくしの耳も曇っていた。しかし右の紹介記事をいま読み返してみると、山中氏も「定位もすばらしく良く、音にあたたか味がやや不足する気もするが、この色付けの少ないひびきは、モニタースピーカーのひとつの典型……」と書いておられる。するとあの部屋で鳴った音は、この種の音にはどちらかといえば冷淡な彼の鳴らし方そのものだったのに違いないと、今になってそんなふうに思えてくる。
 LS5/1Aのもうひとつの大きな特徴は、山中氏も指摘している音像定位の良さである。いま、わたくしの家ではこのスピーカーを左右の壁面いっぱいに、約4メートルの間隔を開いて置いているが、二つのスピーカーの中央から外れた位置に坐っても、左右4メートルの幅に並ぶ音像の定位にあまり変化が内。そして完全な中央で聴けば、わたくしの最も望んでいるシャープな音像の定位──ソロイストが中央にぴたりと収まり、オーケストラはあくまで広く、そして楽器と楽器の距離感や音場の広がりや奥行きまでが感じられる──あのステレオのプレゼンスが、一見ソフトフォーカスのように柔らかでありながら正確なピントを結んで眼前に現出する。
 柔らかな音は解像力が甘く、ピントの良い音は耳当りが硬い……。それがふつうのスピーカーだが、LS5/1Aは、ドライブするアンプの音色の差、カートリッジの差、レコーディングのテクニックの差を、そのままさらけ出す。モニタースピーカーなのだからこれは全く当り前の話だが、そういう冷酷なほどの解像力を持ち、スピーカー自体カラーレイションの少ない素直でありながら、レコードの傷みや埃に起因するざらついたノイズや、ビリつきとかシリつきなどといわれる種類の汚れた音をほとんど出さず、むしろ音を磨いて美しく鳴らす。前回(27号)に載せた周波数特性図からもわかるように約14kHzから上が割合急にロールオフしてゆく傾向があることがその大きな理由かもしれないが、しかしこのスピーカーに関連して発表されているKEFのリポートなどを読んでみても、全音域に亘って過渡特性をできるだけ改善しようと努めていることがわかり、その点もまた、音を美しく聴かせる重要なファクターであるにちがいない。
 監視用(モニター)でも検聴用(ディテクター)でもありながら、一人のアマチュアの気ままな聴き方をも許してくれるこういう鳴り方のスピーカーは、モニター用でない一般市販品まで話を広げてもほかに思い浮かべることができない。こんな音を聴くに及んでは、わたくし自身のモニタースピーカーに対するイメージがすっかり変わって、しまったことは容易にお分り頂けるだろう。残念なことに、三ヵ月ほど前に引越をして新しい部屋に置いたところが、右のような音の良さが(今のところはまだ)十分に生かせなくなってしまった。以前の、ほとんどこわれかけた本木造(本などと断わらなくてはならないほど、昔ふうの良い木造建築をしてくれる職人も材料もなくなる一方だが)、畳敷きの8畳のあのおそろしくデッドな部屋でこそ、このスピーカーの音は全く素直に耳のところまで伝わってきて、右に書いた素晴らしく自然なプレゼンスを聴かせてくれたのに、今度の部屋はスピーカーと聴取位置のあいだに、まるでエア・カーテンでも介在しているみたいに、以前にくらべて音の透過が極端に悪くなってしまった。しかしここのところがLS5/1Aのひとつのウィークポイントかもしれないことは、以前の8畳のそのまた前に住んでいた部屋でも(ややこしくて申し訳ありません)今回と似たような現象があったごとから想像できる。だいたいこのスピーカーをBBC放送局で使っている写真をみると、ミクシングコンソールの両そでに置いて、おそらくミクサーの耳から1メートルと離れないような近距離で聴くことさえあるように、むろん印刷写真からの憶測だから違うかもしれないがそのように思える。ともかく、離れて聴くにつれて音像のぼけてゆく傾向が、ほかのいろいろなスピーカーよりも顕著のように思える。それだから、わたくしのような昔から広いリスニングルームに住んだことのない人間には向いているのかもしれない。
 LS5/1Aにはもともとラドフォード製の6CA7-PPの35Wのパワーアンプが附属している。これで鳴らす音は美しいが、その美しさはいわばゼリーを薄くかけたケーキのようにやや人工的に滑らかな質感で、わたくしの耳にはこれでは少しもの足りない。むしろJBLの400Sや460Sなどの傾向の、あくまでも解像力の優れた良質のTRアンプで鳴らす方が、このスピーカーの恐ろしいほどの解像力やプレゼンスを生かしてくれる。逆にいえば、放っておくと音像がぼけてゆく方向の音を、できるかぎり解像力を上げる傾向に修整して鳴らそうという意識が働いているのかもしれないが……。
 LS5/1Aの音には、たとえばJBLのモニターのような鮮烈な明晰さ、神経の張りつめたモダンな明るさがない。いくぶん暗く、渋く、柔らかく、そして必要な音をできるだけ自然な光沢で控え目に鳴らしてくれる所が良さで、だから反面の不満が生じないと言ったら嘘になる。BBCを鳴らしてJBLの良さに気がつき、JBLを聴いたあとでBBCの柔らかなハーモニーに心からくつろいでゆく自分に満足する。わたくしの中にこの両極を求める気持が入りまじっている。
 先日、JBLのプロフェッショナル・シリーズのモニタースピーカー♯4320を、わが家に運び込んで鳴らす機会を得た。わたくしのJBLは以前から愛用している3ウェイだが、マルチアンプ・ドライブでいろいろいじるうちにいつのまにかBBCに影響されすぎて、いわば角を矯めすぎていたようだと気がついた。それはそれとして、JBLのプロ・シリーズが従来とは違う新しい音を作りはじめ、その新しさの中から、再びわたくしを捉える麻薬を嗅いでしまった。JBLとKEF/BBCモニターの音が、いまのところわたくしの中に住む両極の代表なのかもしれない。
     5
 ありていに言えば、BBCモニターについてはいくら枚数を与えられても当分書き足らないのだが、これを書いた理由をいえば、前回(27号)のくりかえしになるが高忠実度スピーカーの流れを説明するために、シアター・スピーカーから発展した家庭用大型スピーカー、ARから発展した小型ブックシェルフ、その折衷型の中型フロアータイプなど従来知られていた流れのほかに、新しくヨーロッパに抬頭しつつある家庭用ハイファイ・スピーカーのひとつの源流として、ことにイギリスの新しい家庭用の小型スピーカーの作り方の中に、右のBBCのモニタースピーカーの影響を無視できないように思えるところから、やや詳細に紙数を費やした次第で、ここから再び話が本流に戻る。
 BBC放送局は衆知のようにイギリスの国営放送で、その性格上放送技術の向上のために研究したデータが民間のメーカーなどに広く公表されるらしい。また、右のモニタースピーカーの開発に際しては、民間のスピーカーメーカーにその業務を委託するではないかとも想像される。あるいはさらに、同じテーマによって競作させることさえあるのではないかとも想像できるような事実もあるが、想像での話をあまり広げるのは止そう。
 ひとつの例がスペンドールのBCIというブックシェルフスピーカーで(これにはモニタースピーカーと書いてあるが、この場合はあくまで一般的に言われるモニターのことだと思うが)、このスピーカーの背面には、型番や規格を記した銘板(ネームプレート)の下にもう一枚、BBCの発表したモニタースピーカーの資料に依って製作した旨の断り書きが入っている。
 ただしBBCのメイン・モニターは、現在では前記のLS5/1Aから発展した新型のLS5/5型に変わっているらしい。KEFのレイモンド・クック Raymond E. Cooke・(1969年発行のリポートによる)によれば──この新しいスピーカーは1969年中には供給に入るだろうし、1970年代を通じてリファレンス・スタンダードとなることが期待されている……とあり、最近の「放送技術」(VOL26No.10)にもこの新型の紹介が載っている(P89山本武夫氏)ところからもおそらく現用のモニターとして活躍していることと思うが、LS5/5はクロスオーバーが400Hz、3500Hzの3ウェイでLS5/1Aよりも小型に作られている。
 この400Hzと3500Hzというクロスオーバー周波数から、まっ先にフェログラフS1が思い浮かぶので、前記のクックのリポートから知ることのできるBBC・LS5/5とフェログラフS1とは、ネットワークの構成その他にもいくつか共通点を数えあげることができ、フェログラフのカタログにはBBCモニターとの関連など全く触れられていないにもかかわらず、おそらくこのS1も、BBCのモニタースピーカーの資料を何らかの形で参考にして作られているであろうことが伺い知れる。
 一方、LS5シリーズを開発したKEFは、新型のモデル104(本号テストリポート参照)で、これまでのKEFの一連の市販スピーカーとは別の、新しい音質を聴かせはじめた。わたくしたちの目に触れる範囲でさえ、これらの事実を照合してゆくにつれて最近のイギリスの家庭用スピーカーの開発の方法論の中に、BBC放送局がモニタースピーカーを作りあげてゆく過程で積み上げた厖大な研究の成果が、少しずつ実りはじめているのうみることができる。おそらくこの土台は、われわれが想像するよりもはるかに根が深く、そしてこれから先もイギリス以外の製品にまで、直接間接に影響を及ぼしてゆくだろうと、わたくしは予言してもいい。なぜか──。
     6
 モニタースピーカーの音は、きつい、とか疲れる、とかドライすぎる、などという説があって、それが必ずしもすべてではないことを証明したひとつの例がさきのBBCのモニターだが、外国製スピーカーの特性と音質の関連についての俗説も、そろそろ是正されなくてはならないと思う。
 たとえばこんな巷説がある。──外国製のスピーカーの音色は個性が強く、聴いて楽しくとも測定上の特性はそんなに良くない。一方、国産スピーカーは特性は外国製より良いが、聴いてひきつけられるような個性が少ないし、楽しめる音が出にくい……。
 たとえばアルテック604E/612Aの周波数特性を眺めてみる(図参照)。この個性的な特性をみれば、あの独特の鮮明な音色もなるほどと納得がゆく。こういう特性をみて音を聴いたあとで、国産のフラット型の特性を見せられ音を聴かされれば、たしかに右の巷説には説得力がある。しかしいまは違う。ことに新しく抬頭したヨーロッパの家庭用ブックシェルフスピーカーの中でも、聴いて音の良い製品の特性を測ってみると、驚くほど素直な、平坦な周波数特性を持っているという例が、ここ数年来目立って増えてきた。
 本誌の28、29号を通じて測定データを詳細に検討するなら、いくつかの例外はあるにしても、もはや海外スピーカーが、聴いて良くても特性は悪い、などと単純には片づかないどころか、ものよっては国産の平均水準よりも優れた特性を示し、しかも音の魅力も十分に具えた製品が数少ないとはいえ出現しつつあることが明白である。
 ヨーロッパの製品ばかりではない。アメリカのスピーカーにも右のような傾向が少しずつ現われはじめている。
 それなら、たとえば周波数特性が平らになってゆくと、音の個性──といって悪ければそのスピーカーだけがもっている何ともいえない音の魅力、鳴ってくる音楽の音色の美しさ──が薄れてゆくだろうか。そうはならない。少なくとも、周波数特性をいじることで表面的に変化する音のバランス、それによって感じられる表面的な音色は、周波数特性をコントロールすることでできるかもしれないが、そのスピーカーの本質的な音色、内からにじみ出てくる味わいは、周波数特性をいじってみても、大きな変化は示さない。というよりは、周波数特性とは直接関係ないような性質の音色の方が、わたくしにとって大切な問題になる。よく言われる国の違いや風土の違いから生じる根本的な音色のちがい、鳴り方響き方の違いというのがそこに厳として存在する。ここが解明されないかぎりは、見かけ上の周波数特性どんな具合にいじってみたところで、本質的な問題はたいして前進はしない。イギリスのスピーカーに共通のあの渋い光沢のある鳴り方、アメリカのウェストコーストでしか作れないあの明るい響きを、それとは別の風土では作れない。そうしたいわば血の違い、風土の違いに根ざした本質的な音色をふまえた上で、同じ国の音色が、時の流れに応じて次第に変わってゆく。それは音楽が、またその演奏のスタイルが時とともに少しずつ姿を変えてゆくことと無縁ではない。

試聴テストを終えて

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 28号と続けて合計120機種以上のブックシェルフスピーカーを聴いたことになる。もしも聴くことが強制的なノルマのようなものだったら、常人ならとうに発狂してしまうかもしれない。幸か不幸か当方はすでにマニアと呼ばれ自分でも音に関してはキチガイのつもりだから、つまりとうの昔に発狂済みだからこそ、この重労働に耐えられた。
 というのは、まあ半分は冗談だが、ほんとうに120もの音を聴き分けそれをまた記憶してノートして書き分けるというのは、こんな仕事には馴れたつもりの私にもいささか手に余った。本当に疲れた。そして正直に書けば、全部を聴き終えてしばらくのあいだは、オーディオが全く嫌になった。オーディオ雑誌、が目につくところに置いてあるのを見るのさえ、嫌になった。一種のノイローゼにちがいない。で、それから1ヵ月も経たないのに、もう、ニコニコしながらオーディオ仲間と話をしているのだから、やっぱり馬鹿か気狂いに違いないと再び確信している次第だが、そんな思いをしてまでスピーカーを聴くのは、ほんとうは、仕事という意識でなく私が一人のオーディオ・ファンとして、そして殊にスピーカーというパーツに最も興味を持っているマニアの一人として、どこかに、まだ私の知らない優秀なスピーカーがあるのではないか、どこかに、いま自宅で聴いている音よりももっと良い音があるのではないかという大きな期待を持って、新製品に接しているのである。そういうものを一度にならべて聴く機会があるのなら、頼み込んでも参加してみたいという、要するに物好きなアマチュアの一人として、ともかく聴いてみたい、という単純な発想から、試聴テストに加わっているにすぎない。
 だから本当を言えば、アンプでもスピーカーでも数多くをテストし試聴した後で、自分でもこれなら買って聴いてみたいと思える程度の製品が例え一つでも出てきて欲しい。そういう製品を発見することは、たいへん楽しいことで、その期待があるからこそ、テストに喜んで参加する。今回もまた、三つや四つのそういうスピーカーは見付かったが、ほとんど130あまり聴いた中でのそれだから、割合からいえば3パーセントにも満たない。だとすると、これだけの数を全部聴く機会のないユーザーだったら、自分の本当に欲しい音にめぐり会えるまでに、やっぱり何度か失敗せざるを得ないと思う。
 私は、失敗なしで自分にぴったり合う品物にめぐり会うことなどできないと信じているが、しかし反面、ぴったり来るも来ないもそれ以前の、言わば欠陥商品に近いものが堂々と売られて、そういう製品が数多くののさばってユーザーをいたずらに迷わせるとなると、また話は違ってくる。水準以上の性能を具えていてこそ、その次に好きか嫌いか、自分の理想に近いかどうか、などという話になってくるのが道理で、好き嫌いの言えるというのは実は相当に水準の高いところでの話なのである。
 ところが現状では、欠陥商品──もっとはっきり言えば音楽を鳴らすにはあまりにも音の悪いスピーカー──までが、好き嫌いという絶好の言い訳をタテにとってまかり通っている。そういうスピーカーを、仕事とはいえ聴いて、メモして、しかも製作者を傷つけない程度に表現を工夫しながら書かなくてはならないという、これぐらい腹の立つ仕事はない。そういうものを書いたあと、きまってオーディオが嫌になる。
     *
 私がずいぶん主観的な書き方をしているように思われるかもしれない。大体お前は主観的にものを評価しすぎると昔から言われる。この問題は、前からテーマに与えられている「オーディオ評論のあり方」という本紙の論壇でいずれくわしく書かせて頂くことになるが、オーディオに限らずあらゆる批評の分野で、自分という存在をとり除いた機械的な評価などというものは存在しえない。自分自身が、何十年かの失敗と模索の体験の中から肌で掴んできた確固たる尺度に照らし合わせて物や事に当る以外に、どんな確かな方法があるのか。自分がそうした体験の中から掴みとった考え方が、自分にとって正しいたったひとつの世界であり理想像であり、そのこと以外に自分の頼るものさしは作ることはできないものなのだ。
 いまオーディオ批評の分野で言われている主観とか客観などという言葉は、本来のこれらの言葉の正しい定義とは全く別もので、単に、私用に比較的熱しやすい性質(たち)人間の態度と、もっと突き放して冷静な距離を置いて物事に当ることのできる人との違いにすぎないと、私は考えている。いずれにしても自分の尺度でしか物を言えないという点に変りのあるわけがない。いったいどうやって、他人の考え方、他人の感じ方に従って発言できるというのか。
 だから私は自分の尺度、自分が確かに聴きとり掴みとり考え抜いた尺度に照らしてしか、物を判断しない。自分の尺度に照らして悪いものは悪いというしか、ない。その悪いものをどうしたらいいかというのはそれから後の話になる。
     *
 そこでもういちど120機種の試聴に話を戻すが、さっきから120だの130だのと書いて、実際に本紙に載ったのは28号の60機種と今回の56機種の合計116機種。ところが実際にはそれ以上のスピーカーを聴いている。載らない製品のいくつかは、あんまりひどいので掲載をとりやめたスピーカーなのである。しかし実際に市販されている内外の製品はこれよりはるかに多い二百数十機種だから、ここには載らなかったからといっても、まだ半分以上の製品を聴けなかったことになる。同じメーカーの同じシリーズの中にも出来不出来があって、たまたまテストした製品があまり良い評価でなかったとしても、むしろそれより安いランクで優秀な製品があったりすることが多いことを思うと、理想を言えば全部のスピーカーを聴かなくては物が言えないということになりかねない。が、現実にはどうやってみても、完璧なテストなどというものはありえないので、聴き洩らした中にもおそらくよい音があるにちがいないと、欲ばりの私はいつも残念な思いをする。
 もうひとつ残念なことは、できるだけ多くの機種を一度にとりあげ、複数のテスターで合同評価するという本誌の方針には違いないにしても、テストしそれを書く私の立場から言えば、一機種ごとに与えられるスペースがあまりにも僅かで、現在のように四百字詰め原稿用紙で一枚あまりという狭い枠の中では、私の文章力では聴きとり分析した内容の全部を言うことが殆ど不可
能なことで、この点だけは何度くりかえしても歯がゆく残念に思う。自分のメモにはもっと多くの内容を書きとっているつもりだし、できれば音質だけでなく他の要求──たとえばデザインや材質やそのメーカーのポリシーなど──にもくわしく言及できれば、一機種ごとの製品の性格をもっと立体的にお伝えできるのに、と、これはいくらか編集長に対してのうらみごとめくが、やはり狭いスペースに凝縮すると、どうしても公正を欠く強い表現をとる傾向が強くなる。

 今回は、テスト及び評価の立脚点についてほとんどふれなかったが、それらのことは前回(28号)の同じ欄に多少書いたし、また個人的にはさらに28号の解説(88ページより)と、もしできることなら27号の114ページも併せてご参照願えれば、私のテストの姿勢をご理解頂けると思う。短いスペースでは誤解を招くおそれがあるので、あえて右の記事をあげさせていただいた。

SAE Mark XII

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 床に置くための台が無ければブックシェルフという変てこな定義から今回のテストにまぎれこんだ感じがするような、むしろこれはフロアータイプじゃないかと言いたいスピーカー。実際にいろいろと置き方を試みたが、ほとんど床の上そのままに、ごく低い(数センチの)台に乗せるだけのフロアータイプそのままの置き方で鳴らしたときが最も良いように思えた。かなり独特の音を聴かせるスピーカーで、アンプのパワーが最低60ワットは必要、最大入力の方は制限なし、と書いてあるのだから我々の感覚とはよほど違う。そこでクラウンの150W×2のアンプで思い切りパワーを放り込んでみた。気の弱い人なら耳をおさえて逃げ出しそうな音量にするとすばらしく引締ってクリアーな音質で鳴る。こんな音量になると切れこみとか繊細さとかいう表現は全く異質なものに思えてきて、もうなにしろ豪快に滝の水を浴びているという一種のスポーツのような痛快な感覚になる。しかしそういう音量で鳴らして、ヴォーカルもシンフォニーもピアノも、むろん大味ながらバランス良くキメも細かく、よく冴えて、確かに良い音で鳴る。四畳半的音量では全く曇ったおもしろみの無い音でしか鳴ってくれなかった。

周波数レンジ:☆☆☆☆
質感:☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆

総合評価:☆☆☆

アメリカ・タンノイ Mallorcan

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 中域から高域にかけては、タンノイの製品に共通したシャープな艶、芯のしっかりした緻密で滑らかな独特の品位の高い音質を聴かせる。たとえばヴァイオリンの独奏などで一瞬ゾクッとくるような妖しい艶めいた響きなど、やっぱりタンノイだと確かに思わせる。蛇足かもしれないがこの種の中~高域の音質は、ユニットが新しいうちはすこし硬くて鋭いトゲが生えているが、鳴らしこむにつれて角のとれた滑らかさが出てきて、よく磨かれた光沢が生きてくる。音像をひきしめて細かく表現するタイプだから、サックスのふてぶてしさが少し出にくいし、スネアのスキンにもやや金属的な響きがつく傾向もあり、それらは聴きようによっては大きな欠点ともなるが、しかしスピーカーの音の魅力とは、多かれ少なかれ欠点と背中合わせに共存している。ただしマローカンの決定的な弱点は低音域で、第一に箱が小さすぎるので重低音が欠如しているし、それでいて中低域では多少こもり気味のところがあってことにピアノなどの低音の品位をやや悪くする。それでもIIILZよりはスケールの大きい余裕のある響きといえるが、いずれにしても部屋のコーナーや壁の助けを借りて低音の土台を補う使いこなしが必要だろう。

周波数レンジ:☆☆☆☆
質感:☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆★

ヘコー P5001

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 だいたいがヘコーというスピーカーは総体に硬派の最右翼で、それがP4001の場合には実に快適なバランスに仕上っていた。言いかえれば辛口の酒を味わう快さ。音の固さが欠点であるよりも一種の爽快感あるいは説得力になっていた。ところがP5001になると、たしかに4001よりもグレードアップされた部分もありながら、反面、その音の硬さがマイナス面に働く場合もあって、総合的な完成度の高さを言えば4001の方が上のように、私には聴きとれる。そのマイナス面とは、大きなところからいえばいかにも勇壮すぎる。たとえばベートーヴェンの「第九」など、どこか軍楽隊めいて聴こえる傾向が出る。むろん音そのものに圧迫感だの耳を刺激するようなやかましさなど少しもない点は立派だが、ただ高音域の上の方に、レコードのわずかな傷みやゴミなどのアラをむしろ粗く目立たせるような鳴り方をする部分があって、それらの点が4001ではもっとうまくコントロールされていたというふうにおもえるのである。ウーファーの領域は実にクリアーで緻密。それだから全体の音をしっかり支えて、むろん総体にはかなり水準の高い音質であり、ヘコー以外には聴けない個性を持っている。

周波数レンジ:☆☆☆☆
質感:☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆★

JBL L88P

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 L88NOVAとくらべるとかなり大幅に音質が改善されている。ノヴァを最初に聴いたのは本誌16号で、そのときは、ブックシェルフに珍しくのびのびと豊かに鳴るその響きの良さに私は最高点を入れた記憶がある。ことに中音以下──というよりウーファーの受け持ち範囲──の音質の良さは抜群で、緻密で充実して音楽をしっかり支えている。その良さはL88Pでも全く変らず受けつがれている。そしてノヴァの弱点であったトゥイーターが、全然別のモデルに変って、L26(本誌28号)で指摘したような、高域のやや冷たい鋭い鳴り方も抑えられて、よくこなれた滑らかな音を聴かせる。クラシックの弦合奏もこれなら十分にこなせる。むしろジャズの場合に、L26の弱点と背中合わせのシャープな鳴り方が魅力だという人があるかもしれないほどだ。ともかく安定なおとなしい音、それでいて力もあり緻密さ、充実感も十分持っているが、ヨーロッパ系の音とくらべると本質的には乾いた傾向があるから、かなり表情の豊かでクォリティの高いカートリッジやアンプを組み合わせたときに88Pの良さが発揮される。私見だが、このままスコーカーを加えずに鳴らす方がトータル・バランスが良いと思う。

周波数レンジ:☆☆☆☆
質感:☆☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆☆

エレクトロリサーチ Model320

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 個人的な話から始めて恐縮だが、今年の初夏に訪米した折、ロサンジェルスの友人の紹介でこのメーカーの社長(設計者)に会うことができて、このスピーカーを知った。それが縁で今回輸入されることになった全くの新顔である。いろいろな意味で変りダネといえ、わずかのスペースではとても全部が書ききれないので詳細は別の機会に書くが、第一に4ウェイという海外には珍しい構成であり、第二にその音質も従来までのウェストコースト・サウンド(アメリカ西海岸の、JBLとアルテックに代表される独特の音)とは少しくニュアンスを異にする鳴り方をする。4ウェイという構成のため、レベルコントロールの位置指定もない連続可変型なので、コントロール次第で音色が大幅に変る。最適位置にセットするのに多少の時間を要するが、私の判断でセッティングを行なった音質は、中低音のしっかりした土台の上に、ヨーロッパ的な高音のデリケートな切れこみが加わって、シャープで解像力の良い、そして腰の強い力のある独特の迫力と、ニュアンスに富んだ味の濃い音を聴かせる。デリカシーがあってパワーにも強いという点は、いままでの製品に少ない特徴といえる。

周波数レンジ:☆☆☆☆☆
質感:☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆☆☆
解像力:☆☆☆☆☆
余韻:☆☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆☆★

セレッション Ditton 44

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 セレッションとしてはわりあいに新しい製品だが、デザインの共通性からみればディットン15や25などのロングセラー製品と一連の系列を整え直したという印象。というのも、この音はディットン25のところでも言ったように、いわゆる現代の高忠実度再生用のスピーカーというよりも、ヨーロッパの伝統的な電蓄のどこか古めかしい、しかし何とも息の通うソフトな響きを先ず聴かせるからで、そういうつもりで評価してそれを承知で買うのでないと期待外れという結果になる。たとえば、いわゆるハイファイ・スピーカー、或いはモニター・スピーカーのような音の切れこみや解像力はディットン44には無い。低音も多少ボンつくような鳴り方で、男声などふくらむ傾向がある。が、弦のアンサンブルもピアノのコードも、全く無理なく自然に溶け合いよくバランスして、安定で、ウォームで、それでいてよく唱う。つまり現代ふうのシャープな音とは正反対に、渋い、マットな質感で、目立たないが永く聴いて味わいの出てくるという音質だ。レベルコントロールが無いので置き方をくふうしてみたが、せいぜい30cm以下の、あまり高くない台に載せる方が良かった。

周波数レンジ:☆☆☆☆
質感:☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆★

ビクター SX-7

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 たいそう滑らかで美しい、肉乗りの良いよく弾む音質でまず聴き惚れさせる。聴いていて楽しくなってくるという音質が、海外の優秀製品に一脈通じるよさである。ヤマハ690の清潔で抑制を利かせた、どちらかといえば冷たい肌ざわりの音に対してSX7の音には温かさ、厚みが感じられ充実した気分が味わえる。どんな曲に対しても適度のバランスを示し、余分な夾雑音がよく整理されているので鳴り方にさわがしさが無く、しっとりと静かな雰囲気をかもし出す。こせこせしない大らかさは、鳴り方にゆとりがあるせいかもしれないがともかく長く聴いていられる音質だ。レインジも十分広く、低音も重くなくよく弾み、しかも豊かだ。こう書いてくればベタほめになるが、こういう音が皆無であった国産のこのランクに優秀な製品が出てきてくれた嬉しさから、いくらか表現がオーバーになっているので、細かなことをいえば高音域の質感にもう一息の緻密さを望みたいなど注文はむろんある。また試聴したのはデンオン370と同じく量産試作の段階の製品だったので、市販されるものがこの音をそっくり出せれば、総合評価であと1点を追加したい。

周波数レンジ:☆☆☆☆
質感:☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆★

デンオン VS-370

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 以前に一度試作品を聴いたときはあまり良くなかったが、追加試聴に加えられた製品は相当によくなっていた。そして本誌の合同試聴のあとさらに改良された試作品を聴いたところ、ここに載っている製品からまた音質が変っていっそう改善されていた、というように、まだ量産の決定以前の段階での試聴なので、音質について細かなことを書いても市販品と違ってしまうおそれがあるので、ごく大まかな言い方をしたいが、いくつかの段階で試聴した音に共通しているのは音の彫りが深いという点で、ここに載っているものではそれが少しオーヴァーに出て聴いていてリラックスするよりもむしろ緊張させられているような固苦しさがあったが、その後の改良品ではそこにもっと弾みと柔らかさが出てきて、少なくとも音のバランスとか周波数レインジなどの点では十分なものを持っているから、この方向に改良が続けられ市販されれば、ヤマハ690、ビクターSX7と好対照をなす製品に仕上がるだろうことは断言できる。右のような理由から、今回の採点は少し辛くなっているが、ビクターSX7と同じようにもっと点数の上がる可能性を十分に持っている。

周波数レンジ:☆☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆

総合評価:☆☆☆★

オーレックス SS-510

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

〝オーレックス〟というニューブランドでデザインも含めて大幅なイメージ・チェンジを打ち出したとはいえ、以前の東芝のスピーカーを頭に置けば、これは全然別のメーカーの音、といいたいくらい、全体の音の感じが違っている。以前の東芝のどことなく薄味で、あるいは力強さ、迫力、または言い方を変えればおしつけがましいほど自己主張の強い、アクの強い音を聴かせる。バランス的には中音域を張り出させ充実させたいわゆるカマボコ型のように(聴感上はそのように)聴こえ、相対的に高音域をなだらかに抑えこんだように、あるいはレインジがあまり広くないように聴こえるので、爽やかさとか涼しいという感じの音が出にくく、相当に暑くるしい音に受けとれる。しかしこれが若者向きの、少々粗っぽいほど元気の良い聴き方の層を
ねらったのだとするとわからなくもない。あまり練れているとは言えないがアジの濃さで聴かせてしまおうという音質だ。しかし後発製品として、他のメーカーのイメージを追うような意匠は感心しにくいし、少なくとも世界に名を知られた大手メーカーのやり方ではないだろう。もっとオリジナルな意匠を打ち出して欲しい。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆
プレゼンス:☆☆☆
魅力:☆☆

総合評価:☆☆