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ダイナコ Mark VI

井上卓也

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 耳あたりのよいウォームトーン系の、適度にクリアーさのある独特の音を聴かせるパワーアンプである。
 聴感上での周波数レンジは、現在の水準から見ればナローレンジ型で、一種独特のしなやかさと力強さがあり、鮮度感もかなりあり、落着いて長時間音楽を聴くときに応わしい安定感のある音である。音の表情はさして細やかさはないが、活気がありおだやかさも充分にある。
 ステレオフォニックな音場感は、空間がフワッと滑らかに広がった印象があり、パースペクティブもそれなりに感じられる。音像はややふくらみ、大きいが、輪郭はかなり線が太く、明瞭である。

DBシステムズ DB-6

井上卓也

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 カッチリと引き締った、小柄だがエネルギッシュに音を出すパワーアンプである。
 聴感上での周波数レンジは、かなりフラットレスポンス型で、バランス的には、ローエンドはシャープカットされているようである。音色は寒色系のソリッドで引き締ったタイプで、割り切ったスパッとした音の決りかたは、セパレート型アンプに要求される個性を充分に備えている。
 定格パワーはかなり少ないが、エネルギー感は予想以上にあり、ローパワーアンプにありがちな、低域が甘く軟調で、クリアーに質感が再現されない点は皆無といってよい。中域から中高域の音の粒子は、粗粒子型だがクリアーな光沢があるタイプだ。

BGW Model 203 + Model 410

瀬川冬樹

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 いかにもアメリカのアンプらしい、こだわりのない力の満ちた音がする。国産の一部の製品にはあるような、帯域のどこかに隙間風が吹くような薄手の部分がなく、音がいっぱい詰まっている。かなり乾いた傾向の質感で、そのためか総体にいくぶん素気ない、よく言えば音楽によけいな表情をつけ加えないいわゆるザハリヒな良さがあるともいえるのかもしれないが、しかしどこか突き放したような鳴り方があって、もう少し親密な雰囲気が出てもいいのではないかという気分にさせる。しかしハイパワーでも音を抑え込まずにどこまでもよく伸びるし、弱音でも汚れっぽさもなく、楽器どうしの音の溶けあいも対比もバランスも、ほどよく再現され、その意味では欠点は少ない。しいていえば、「オテロ」冒頭でのオルガンの持続音や「サイド・バイ・サイド3」のベースなどで、低音の量感はもう少しあってもいいように思えた。音楽に肉迫するというタイプではなく、ややデータ本位につくられたアンプのようだ。

マークレビンソン LNP-2L + ML-2L

瀬川冬樹

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 単体でのML2Lの音の説明が、すなわちLNP2Lと組み合せたときの音そのものなのだから、組み合わせての印象はそちらを参照して頂くことにして、ここではもう少し別のこまかなことを補足する。まずML2Lは、電源を入れてから動作の安定するまでに少なくとも30分。さらに音質の安定するまでには鳴らしはじめてから2時間以上が必要だ。また、あまりデッドに仕上げたリスニングルームや低域の調整に不備のあるスピーカーシステムとの組合せでは、かなりやせた感じの音に仕上りやすいので注意が要る。またLNP2Lは、ゲイン切換(パネル右端上のツマミ)が10または20のところが最も音のバランスが良いと私は思う。ゲインが高すぎるときは、メーター両わきのレベルコントロールで−10ないし−15程度まで絞っても、ゲイン切換はできるだけ20以上を保ちたい。単体のところでも書いたように、別売のバッファーアンプを追加すること。一旦電源を入れから、使わないときでも電源を切らない。

BGW Model 410

井上卓也

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 大陸的なスケール感の大きい、ウォームトーン系の柔らかく粘った印象の音をもつパワーンあプである。
 聴感上での周波数レンジは、現在の水準からすればややナローレンジ型で、バランス的には、ローエンドが抑えられた、中低域がタップリとした安定型のレスポンスであり、高域はやや下降気味のように受けとれる。音の粒子は全体に粗粒子型で、低域は甘く重く、中域は硬質な面が感じとれる。203コントロールアンプとの組合せに感じられたトータルキャラクターは、パワーアンプ側に多くあるようだ。表情はおおらかで落ちつきがあり、反応はおだやかで、独特のエネルギー感がある。

マークレビンソン ML-1L + ML-2L

瀬川冬樹

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 LNP2Lは組み合わせたときとくらべて、音質がどう変化するのか、が興味の中心だろう。単体のところでも書いたように、旧JC2からML1Lと型番が変ると共に内容も一新されたために、旧型ほどの両者の音の差はなくなって、ほんの紙一重のちがい、とでもいえるほどになってきたが、むしろこのクラスになればその紙一重が重要だ。したがって聴感上はきわめてわずかの差をやや拡大して書くことになるが、一例を上げれば、菅野録音のベーゼンドルファーのあのこってりと脂と艶の乗った響きの部分、あるいはシェフィールドののテルマ・ヒューストンの黒人独特の照りのある声の艶、などが、LNPにくらべるとわずかに厚みの減る傾向になる。またクラシック全般については、LNPよりもMLの方が、これもほんのわずかながら音が硬めに仕上がる。ことにM得る2Lとの組合せでは、両者ともぜい肉をことさらおさえる傾向があるため、かなり細身の音に聴こえがちだ。

アムクロン IC150A + DC300A IOC

瀬川冬樹

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 とても大らかな安定感があり、良い意味で男性的な、細部にこせこせとこだわらずに必要な音はすべて大づかみにぴしっと決めるという、とても気持の良い音がする。リファレンスに使っているLNP2Lと510Mの組合せがこう何度も反復して聴いていると、あまりにも細部を彫り起してディテールを細かく聴かせる音がときどき鼻についてくるが、そういうときにこのアムクロンのような、充実感もスケール感もかねそなえた、足をしっかり大地にふみしめて立つ感じの、総身によく知恵もまわった大男のたくましさのような音を聴くと、とても良い気分になってくる。音が細かくケバ立つようなことがなく、しかし細部を塗りつぶすわけではなく十二分にディテールを聴かせるが暖かくソフトな肌ざわりが聴き手を大きく包み込むようで、まさに父親の大らかなやさしさのようだ。厚みがあって厚ぼったくなく、ひよわでないが色気もあり、なにしろ気持の良い音だ。質感の乾いていることすら気にならない。

アムクロン DC300A IOC

井上卓也

世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より

 リファレンスコントロールアンプLNP2Lと組み合わせると、エネルギー感がタップリとし、ゆったりと伸びやかに鳴るようになる。表情は、豊かでおおらかに鳴り、クォリティが高く、充分に楽しませてくれる。
 聴感上での周波数レンジはナチュラルに伸びており、基本的にはウォームトーン系の音である。低域は力感があり、軟調気味ではあるが、厚みが充分にあって、安定したベーシックトーンとなっている。中域は少し密度が薄い傾向があり、粒子が少し甘くなるが、量的にタップリあり、エネルギー感もかなりあるために、さして不足感はない。高域は少しラフな面があるが、トータルなまとまりは良い。音像はかなり締っている。

アルテック 612C Monitor

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 アルテックの612Cは、当社が長い歴史をかけて完成させてきた2ウェイのコアキシャル・モニタースピーカー、604シリーズの最新製品8Gを比較的コンパクトなエンクロージュアに内蔵したシステムである。コアキシャル・スピーカーらしい、音像定位の明確さ、聴感上のバランスのよさが保証されるが、エンクロージュア容積の不足もあって、なんといっても低域の再生が十分でない。これが、このシステムの一番の泣き所といってよいだろう。しかし、中・高域のバランスは最高度に整っているし、各種音色の分離、音の質感の解像力は、さすがに、世界的に広く使われているモニタースピーカーとしての面目躍如たるものがある。音像の輪郭がきわめてシャープであり、あいまいさがない。ステレオフォニックな位相感の再現も、コアキシャルらしい自然さをもっているが、やや左右の拡がりが狭くモノ的音場感になるようだ。このスピーカーの持つ、メタリックな輝きは、決して、個性のない、いわゆるおとなしい音とはいえない。にもかかわらずこれが世界的に使われている理由は一に実績である。モニタースピーカーというものは、多くのスタジオで、多くのプロが使うという実績が、その価値を決定的なものにするといってよく、この点、アルテックの長い歴史に培われた技術水準とその実績の右に出るものは少ないといえるだろう。

JBL 4333A

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 4331Aにスーパートゥイーターを追加しただけだが、この違いは相当に大きい。まず中高音域以上の音色が、リファレンスの4343に非常によく近づいてくる。ロス=アンヘレスの唱うラヴェルの「シェラザーデ」のように、音の微妙な色あいを大切にするプログラムソースでもそのニュアンスをかなのところまでよく表現する。音域が4343よりも少し狭いためか、音像の空間へのひろがりがわずかに減少するが、オーケストラのハーモニィもバランスをくずすことなく、いつまにかつい聴き惚れてしまうだけの良さが出てくる。構造上、やや高めの(本誌試聴室では約50cmの)台に乗せる方が中域以上の音ばなれがよくなるが、反面、低音域の量感が少なめになるので、アンプの方で4ないし6dBほどローエンドを補強して聴く方が、少なくともクラシックのオーケストラに関するかぎりバランス的に好ましい。これによって、音の充実感、そして高域に滑らかさがそれだけ増して、安心して聴き込める音に仕上ってくる。
 ただ、オーケストラのトゥッティでも弦の独奏やピアノの打音でも、しばらく聴き込むにつれて4331Aのところでふれたようなごく軽微な箱鳴り的なくせが、4333Aにも共通していることが聴きとれるが、しかしハイエンドを十分に延ばしたことが利いているのか、4331Aほどにはそれが耳ざわりにならないのは興味深い。
 このJBLの新しいモニターシリーズを数多く比較しているうちに気のつくことは、スーパートゥイーター♯2405に多少の製品の差があるということ。たまたま、リファレンスに使っている4343のトゥイーターと、試聴用の4333Aのそれとの違いがあったのかもしれないが、少なくとも本誌試聴室での比較では、4333Aの高域の方が、4343よりも音のつながりがスムーズに思えた。そのためか、とくにジャズ、ポップスのプログラムソースの場合に、4343よりもこちらの方が、高音域での帯域に欠落感が少なくエネルギー的によく埋まっている感じがして、パワーを思い切り上げての試聴でも、ポピュラー系に関するかぎり、4333Aの方が、線の細い感じが少なく、腰のつよい明るい音が楽しめた。反面、クラシックのソースでは、とくにオーケストラのトゥッティでの鳴り方は、4333Aでは高域で多少出しゃばる部分があって、4343のおさえた鳴り方の方が好ましく思える。そして相対的には、4343の方が音全体をいっそう明確に見通せるという印象で、やはりグレイドの差は争えない。
 アンプの音の差はきわめてよく出る。この点では4343以上だと思う。試聴条件の範囲内では、すべてのソースを通じてモニター的に聴き分けようというにはマランツ510Mがよく、低音の量感と音のニュアンスを重視する場合にはSAE2600がよかった。

JBL 4333A

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 JBLの4333Aは、別記のベイシックモデル4331Aと同じエンクロージュアを使って、最高域(8kHz以上)に2405スーパートゥイーターを加えた3ウェイシステムである。4331Aの項でも述べたように、これが、JBLのモニターシリーズの代表的位置に存在する、もっとも標準的なプロフェッショナル・モニターである。3ウェイ構成をとっているために、当然レンジは拡がり、最高音の再生は、このほうが勝る。高域の繊細な音質、それによる細かな音色の判別には一段と威力を発揮する。しかし、4331Aのほうが、バランスとしてはよくとれている……というより、とりやすいという印象もある。このシステムの最高域を受けもつ2405は、優れたトゥイーターであるが、やや質的に異質な感触をもっていて、不思議なことに、低域の感じに影響を与え、2ウェイのほうが、低域がよく弾み、しまっているようである。3ウェイと2ウェイのメリット・デメリットは、こうして聴くと、ここのユーザーの考え方と嗜好で決める他ないように思われてくるのである。ただし、一般鑑賞用としての用途からいえば、4333Aの高域レンジののびは効果として評価されるのではないだろうか。弦楽器のハーモニックスや、シンバルの細やかな魅力は、スーパートゥイーターの有無では、その魅力の点で大きく異なってくるからである。

マークレビンソン HQD System

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
「マーク・レビンソンHQDシステムを聴いて」より

 マーク・レビンソンについてはいまさら改めて紹介の必要もないと思うが、アメリカのコネチカット州の郊外に生まれた、音楽家としてもまたオーディオエンジニアとして非常に有能な若者で、一九七三年に発表したローノイズ・プリアンプLNP2によって一躍世に認められ、いまや世界最高のアンプリファイアーのメーカーとして確実な地盤を築いた。彼の工場は、総員20名そこそこの小企業だが、妥協を許さずに常に最高の製品しか発表しないという姿勢が評価を高めて、ここ数年来、アメリカ国内でもマーク・レビンソンの成功に刺激されて中小のアンプメーカーが次々と名乗りを上げはじめたが、それらのほとんどが、発表資料の中に「マーク・レビンソンに比較して云々」という表現でデータを発表している例が多いことをみても、逆に、マーク・レビンソンの性能や声価のいかに高いかを読みとることができる。
 数年前から社名をMLAS(マーク・レビンソン・オーディオ・システム)と改称したことに現われているように、マーク・レビンソンは、自らの理想とするオーディオを、単にアンプの高性能化だけでは実現できないことを知っていたようだ。実際、二年前に来日したときにすでに「いま全く新しい構想のスピーカーシステムを実験している。やがてこれは市販するつもりだ」と語っていた。
 また、昨年からは彼の録音による半実験的なレコードの制作もはじめていることからも、彼自身が、プログラムソースからスピーカーシステムに至る一連のプロセスに、すべて自分で責任を持って手を下すことを最終目的としていることが読みとれた。本誌45号418ページの特別インタビューの中でも、彼自身がこうした理想について語っているが、とりわけ興味深かったのは、スピーカーシステムとしてQUADのESLを二本パラレルにドライブする、いわゆる「ダブル・クォード」システムを芯に据えた彼のHQDスピーカーシステム。もうひとつは、プロ用として誰もが全幅の信頼を置いて使っているスイス・スチューダーのプロフェッショナル・テープレコーダーA80の、エレクトロニクス(録音再生アンプ)部分が気に入らないので、トランスポート(メカニズム)だけを購入してエレクトロニクスをMLASで組込んだ、マーク・レビンソン=スチューダー、およびその普及機としてのマーク・レビンソン=ルボックスを市販する計画を持っている……という部分であった。これらの話はマーク自身の口からすでに聞いてはいたが、彼がそのオーディオ・システムの一切をほぼ完成させて、東京でデモンストレーションをする、というニュースを耳にして、想像していたよりも完成の早いことに驚くと共に、非常な期待を持って試聴に臨んだ。
 試聴会は2月3日(金)が予定されていたが、レビンソンとその輸入元RFエンタープライゼスの特別なはからいで、本誌のレギュラー筆者を中心に、2月2日の夜、前もって特別試聴会が催された。以下の感想はそのときのリポートである。
     *
 試聴の場所は、3日のディーラー筋への発表を前提として、赤坂プリンスホテルの一室があてられた。ごくふつうの宴会場で、席につくと、マーク・レビンソンは例の神経質な表情で、この部屋が自分の再生システムにとってやや広すぎる上に、音響特性がデッドすぎると、しきりに言いわけをした。
 HQDシステムは、ダブル・クォードESLに100Hzから7kHzまでの、ほとんどの音域を受け持たせ、100hz以下の重低音域に、別の大型エンクロージュアに収めたハートレイの24インチ(60センチ)ウーファー224HSを、そして7khz以上にデッカ=ケリィのリボン・トゥイーターの、フロントホーンを取り外したのを、それぞれ組み合わせた彼のオリジナルシステムで、ハートレイ、クォード、デッカの頭文字を合わせてHQDシステムと呼ぶ。各帯域はそれぞれ専用のパワーアンプでドライブされるが、そのために彼は、ピュアAクラス動作のモノーラル・パワーアンプML2Lを開発した。出力は8Ω負荷で25ワットと小さく、しかも消費電力は一台あたり400ワット。これが、片チャンネルの高・中・低に各一台ずつ、合計六台使われるのだから、スイッチを入れた瞬間から、パワーアンプだけで2・4キロワットの電力を消費しはじめるという凄まじさである。
 彼自身が、例のマークレビンソン=スチューダーで録音した秒速30インチ(76センチ)の2トラックテープがレビンソン=スチューダーのデッキに装着されて、まずギターのソロが鳴りはじめた。ギターの音色は、スピーカーがそれを鳴らしているといった不自然さがなくて、全く誇張がなく、物足りないほどさりげなく鳴ってくる。左右のスピーカーの配置(ひろげかたや角度)とそれに対する試聴位置は、あらかじめマークによって細心に調整されていたが、しかしギターの音源が、椅子に腰かけた耳の高さよりももう少し高いところに呈示される。ギタリストがリスナーよりも高いステージ上で弾いているような印象だ。これは、二台のQUADがかなり高い位置に支持されていることによるものだろう。むしろ聴き手が立ち上がってしまう方が、演奏者と聴き手が同じ平面にいる感じになる。
 もうひとつ、ギターという楽器は音源として決して大きくないが、再生される音はどちらかというと左右のスピーカーのあいだに音像がひろがって焦点が大
きくなる傾向がある。これはHQDシステムそのものの特性なのか、あるいは録音のとりかたでそう聴こえるのか明らかでない。
 しかしその点を除けば、ギターの音はきわめてナチュラルであった。
 次にマークの選んだのはコンボジャズ、そしてそれよりもう少し編成の大きなブラス中心のバンド演奏。近頃、耳を刺すほどのハイパワーでの再生に馴れはじめている私たちの耳には、マークのセットするボリュウム・レベルはどうにも物足りない。もう少しレベルを上げてくれ、と言おうと思うのだが、彼をみていると、神経質そうに耳をかしげては、LNP2Lのマスターボリュウムを1~2dBの範囲で細かく動かしていて、とうてい6dBとか10dBとか単位で音量を上げてくれといえる雰囲気ではない。彼は仕切りに、QUAD・ESLがまだ十分にチャージアップしていないのだ、完全に電荷がチャージすれば、もう少しパワーを上げられるし、音もさらにタイトになる、といっていた。このパワーは、おそらく一般家庭──というよりマーク自身の部屋は20畳あまりのアメリカの中流家庭としては必ずしも広くないリビングルームだということだが、そういう部屋──では、一応満足のゆく音量になるのだろう。が、試聴当日は、かなり物足りなさを憶えた。音量の点では、24インチ・ウーファーの低音を、予想したようなパワフルな感じでは彼は鳴らさずに、あくまでも、存在を気づかせないような控えめなレベルにコントロールして聴かせる。
 念のため一般市販のディスクレコードを所望したら、セル指揮の「コリオラン」序曲(ロンドン)をかけてくれた。ハーモニィはきわめて良好だし、弦の各セクションの動きも自然さを失わずに明瞭に鳴らし分ける。非常に繊細で、粗さが少しもなく、むしろひっそりとおさえて、慎重に、注意深く鳴ってくる感じで、それはいかにもマーク・レビンソンの人柄のように、決してハメを外すことのない誠実な鳴り方に思えた。プログラムソースからスピーカーまでを彼自身がすべてコントロールして鳴らした音なのだから、試聴室の条件が悪かったといっても、これがマークの意図する再生音なのだと考えてよいだろう。
 だとすると、私自身は、この同じシステムを使っても、もう少しハメを外す方向に、もう少しメリハリをつけて、豊かさを強調して鳴らしたくなる。この辺のことになると、マルチアンプであるだけにかなり扱い手の自由にできる。おそらくこのシステムには、もっとバーバリスティックな音を鳴らす可能性があるとにらんだ。
 マーク・レビンソンによれば、レビンソン=スチューダーのデッキを含めてスピーカーまでの全システムと、そのために彼が制作して随時供給する30インチスピードのレコーデッド・テープ、そして彼の予告にもあるようにおそらくは近い将来ディスクプレーヤーが発表される。過去のオーディオ史をふりかえってみて、アンプやスピーカーやデッキ単体に名器は少なくないが、ひとりの人間がプログラムソースからスピーカーまでを、しかも最高のレベルで完成させた例は、他に類を見ないだろう。

モニタースピーカーと私

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 少なくとも10年ほど前まで、私はモニタースピーカーをむしろ嫌っていた。いま、どちらかといえば数あるスピーカーの中でもことにモニタースピーカーにより多くの関心を抱くようになったことを思うと、180度の転換のようだが、事実は全く逆だ。
 こんにち、JBLのモニター、あるいはイギリス系のいくつかのモニターのような、新しい流れのモニタースピーカーが比較的一般に広められる以前の長いあいだ、日本オーディオ関係者のあいだで「モニタースピーカー」といえば、それは、アルテックの604E/612Aか、三菱ダイヤトーンの2S305(NHKの呼称はAS3001)のどちらかと、相場がきまっていた。日本の放送局や録音スタジオの大半が、このどちらかを主力スピーカーとして採用していた。これら以外にも、RCAのLC1Aや、タンノイや、その他のマイナーの製品が部分的に使われていたものの、それらはむしろ例外的な製品といってよかった。
 アルテックも三菱も、それぞれにたびたび耳にする機会はあったが、そのいずれも、自分の家で、自分の好きなレコードを再生するためのスピーカーとはとうてい考えられなかった。アルテックの音はあまりにも強烈で、三菱音は私には味も素気もない音に聴こえた。実際、放送局や録音スタジオのモニタールームでそういう音が鳴っていたし、数少ないながら個人でそれらのどちらかを鳴らしている人の家を訪問しても、心に訴えかけてくるような音には出会えなかった。スピーカーシステムは自分でユニットを選び、自分の部屋に合わせて組合せ調整する、というのが永いあいだの私の方法論になっていた。そして、それぞれの時期は、いちおうは満足のゆく音が私の部屋では鳴っていて、その音にくらべて、アルテックや三菱のほうが音が良いとは、一度でも感じたことはなかった。今ふりかえってみても、あながちこれは自惚ればかりではなかったと思う。
 自分が考え、求め、理想とする音を鳴らしたいためにスピーカーシステムを自作するのだから、そこには自ずから自分の主張が強く反映して、はなはだ個性の強い音が鳴ってくるであろうことは道理だが、しかしその範囲内でも私の求めていたのは、その音の再生される部屋(再生音場)まで含めて、できるかぎり特性を平坦に、高音から低音までのバランスを正しく、そしてできるかぎり周波数レインジを広げたい、という目標だった。こんにちでも私自身の目標は少しも変っていなくて、言いかえればその意味ではこんにちの新しいスピーカーの目標としているところを、ずっと以前から私は目ざしていたということになる。
 このことを何も自慢しようというのではない。というのは、この、平坦なワイドレインジ再生というのは、当時から急進的なオーディオ研究家の一貫して目ざしたテーマであったので、私にとって大先輩にあたる加藤秀夫氏や今西嶺三郎氏らのお宅では、事実そういう優れた音がいつでも鳴っていた。ただ、重要なことは、少なくとも十数年以上まえには、ごく限られた優秀な研究家のお宅以外に、そうした最先端の再生音に接する機会がなかったということで、その点私は極めて恵まれていた。
 とりわけ今西嶺三郎氏(現ブラジル在住)からは多くのことを教えられた。今西氏の再生装置は、すでに昭和三十年以前から、おそろしいほどのプレゼンスで鳴っていたし、単に音の良さばかりでなくその装置で、ジョスカン・デ・プレやモンヴェルディや、バッハの「フーガの技法」やベートーヴェンの後期四重奏など、音楽の源流のすばらしさを教えて頂いた。当時の最新録音でストラヴィンスキーやプーランクを驚異的な生々しさで鳴らしたその同じスピーカーが、古い録音のSPからの転写さえ、すばらしい音楽として生き生きと再現するのを目のあたりに聴かされて、私は、本当のフィデリティが、レコードからいかに音楽を深く描き出すかを知らされた。今西氏には、いまでも何と感謝してよいかわからない。
 こうした最高の教師に恵まれ、私は乏しい小遣いをやりくりし、自分の再生装置をあれこれくふうし、できるかぎりの音楽会通いをしてナマの音に接すると共に、先輩たちの鳴らす最高レヴェルの再生音とにかこまれて、自分の耳を鍛えては装置を改良していた。早い時期から、ワイドレインジとフラットネスを目ざしたは、こうした背景に恵まれたからだったし、このようにして本当に平坦で広帯域の再生音を聴き込んだ耳には、アルテックや三菱が不満に聴こえたのも無理ではないだろう。
 だからといって、それなら私がどんなに立派なスピーカーを持っていたかというと、名前をカタログ的に列挙するかぎりでは、まるでお話にならないしろもので、パイオニアやフォスターやコーラルや、テクニクスやYL音響やその他の、ごくローコストのユニットを寄せ集めては、ネットワークのコイルを巻き直したりエッジを切りとって皮革のフリーエッジに改作したり、マルチアンプにしてみたり、いろいろ試み・失敗をくりかえしては、どうにか音のバランスを仕上げてゆくといった態のもので、頼りになるのは先輩諸氏の音とナマの音との聴きくらべだけだ。測定設備があるわけでもない。そうしたある日、今西嶺三郎氏に無理矢理、汚い六畳の実験室にお出かけ願って、レコードを聴いて頂いた。マルケヴィッチのバッハの「音楽の捧げもの」などを鳴らしたと思う。しばらく耳を傾けておられた今西氏が、あのいつでも酔っているみたいな口調ゆえにどこまでが本気かわからないような、しかしお世辞を絶対に言う人ではなかったが、「良いじゃないの。このぐらい聴ければ十分だよ。とっても良いよ」と言ってくださって、私はむやみに感激した。秋も近い夏の終りの一夜だった。
 そのあとを飛ばして一拠に「ステレオサウンド」誌創刊以後の話になる。あれは昭和45年だったか46年だったか。本誌の組合せテストのとき、それまで全く馴染みのなかったイギリスKEF製の中型スピーカーが、試聴テストからはみ出して試聴室の隅に放り出されていた。あらかじめのノルマの組合せ作りの終ったあと、ほんの遊びのつもりで気軽に鳴らしてみた瞬間、実をいうと私は思わずうろたえるほどびくりした。久しく聴いたことのなかった、素晴らしく格調の高い、バランスの良い、おそらくは再生レインジの相当に広いことを思わせるまともな音が突然鳴ってきたからだ。正確にいえば、KEFの冷遇されていたその部屋で、この偶然出会った、しかしその後の私に大きな影響を及ぼした〝BBCモニターLS5/1A〟は、その真価を発揮したわけではなかった。いわばその片鱗から、このスピーカーが只者でないことを匂わせたにすぎなかった。たまたまその日の私の嗅覚が、このスピーカーとの出会いを決定的にしたにすぎなかった。
 実をいえばこのスピーカーは、これより以前に、山中敬三氏のお宅でほんの短い時間耳にしている。当時から海外製品の紹介を担当していた彼のところに、輸入元の河村電気がしばらくのあいだ置いていたものだ。山中氏から、お前さんの好きそうな音だ、と声がかかって聴きに行ったのだが、彼の家で、アルテックA7のあいだに二台殆どくっつけて置かれて、ステレオの広がりの全く聴きとれなかったそのときの音から、私はKEF/BBCの真価を全く発見できなかった。もしもあとで本誌の試聴の際にこのスピーカーにめぐり合わなかったら、私のオーディオ歴はかなり違う方向をとっていたのではなかったか。
 しかし、LS5/1Aは、最初持ちこんだ六畳の和室ではその本領を発揮しなかった。一年ほど後で、すぐ道路をへだてた向いの家を借りて、天井の高い本木造の八畳の部屋にセッティングしてから、その音の良さが少しずつ理解できるようになった。そしてまもなく、トランジスターアンプで鳴らすようになってから、本当の性能が出はじめた。
 LS5/1Aは、まず、それまでの私のモニタースピーカーに対して抱いていた概念を一掃してしまった。それ以前からすでに、私は研究のつもりで、アルテックの612Aのオリジナル・エンクロージュアを自宅に買いこんで鳴らしていた。その音は、身銭を切って購入したにもかかわらず好きになれなかった。ただ、録音スタジオでのひとつの標準的なプレイバックスピーカーの音を、参考までに身辺に置いておく必要があるといった、義務感というか意気込みとでもいったかなり不自然な動機にすぎなかった。モニタールームでさえアルテックの中域のおそろしく張り出した音は耳にきつく感じられたが、デッドな八畳和室では、この音は音量を上げると聴くに耐えないほど耳を圧迫した。私の耳が、とくにこの中域の張り出しに弱いせいもあるが、なにしろこの音はたまらなかった。
 LS5/1Aの音は、それとはまるで正反対だった。弦の独奏はむろんのことオーケストラのトゥッティで音量を上げても、ナマのオーケストラをホールで聴いて少しもやかましさもないのと同じように、そしてナマのオーケストラの音がいかに強奏しても美しく溶けあい響くその感じが、全く自然に再現される。アナウンスの声もいかにもそこに人が居るかのように自然で、息づかいまで聴きとれ、しかも左右3メートル以上も広げて置いてあるのに音像定位はぴしっと決まっておそろしくシャープだ。音自体に鋭さはなく、品の良さを失わないのに、原音に鋭い音が含まれていればそのまま鋭く再現し、弦が甘く唱えばそのまま甘い音を聴かせる。当り前のことだがその当り前を、これ以前のスピーカーは当り前に再生してくれなかった。
 私は次第にこのLS5/1Aに深い興味を抱くようになって、資料を漁りはじめた。やがてこのスピーカーが、BBC放送局の研究所で長い期間をかけて完成した全く新しい構想のモニタースピーカーであり、この開発に実際面から大きく協力したが、KEFのレイモンド・クックという男であることも知った。このスピーカーの成立を含めた技術的な詳細をレイモンド・クックが書いた論文も入手できた。そして調べるうちに、このスピーカーが、かつて私の目標としていた本当の意味での高忠実度再生を、この時点で可能なかぎりの努力で具現した製品であることが理解できた。モニタースピーカーはこうあるべきで、しかもそうして作られたスピーカーが、とうぜんのことながら原音のイメージを素晴らしく忠実に再現できることを、客観的に確かめることができた。自分流に組み合わせたスピーカーでは、いかに良い音が得られたと感じても、ここまでもの確証は得られないものだ。
 LS5/1A一九五五年にすでに完成しているスピーカーで、こんにちの時点で眺めると、高域のレインジが13kHzどまりというように少々狭い。但しその点を除いては、現存する市販のどんなスピーカーと比較しても、音のバランスの良さと再生音の品位の高いこと、色づけの少ないことなどで、いまだに抜きん出た存在のひとつだと確信を持っていえる。
 JBLはその創立当初から、家庭用の高級スピーカーを主としていたで、ウェストレックスへの納入品を除いては、モニタータイプのスピーカーをかなり後まで手がけていない。LEシリーズの時期に入ってから、ほんの一時期、C50SMという型番で内容積6立方フィート、のちの♯4320の原形となったスタジオモニター仕様のエンクロージュアを作っている。使用ユニットは、S7(LE15A、LE85+HL91、LX5)またはS8(LE15A、375+HL93、LX5、075、N7000)で、これは初期の〝オリムパス〟C50に使われたと同じく、密閉箱でドロンコーンなしの仕様である。このほかに、同じエンクロージュアでS12(LE14A、LE20、LX8)やS14(LE14A、LE75+HL91、LX7)、それにLE14Cなどのヴァリエーションもあったが、いずれもたいした評価は得られずに、プロフェッショナル用としても広く普及せずに終ってしまった。
 数年前にJBLがプロフェッショナル部門を設立した際、モニタースピーカーとしてまっ先に登場したのが♯4320で、かつてのC50SMS7を基本にしていたが、これは大成功で、ドイツ・グラモフォンがモニター用として採用したことでも証明されるように国際的に評価を高めた。日本でも、巣孤児尾用としてはもちろん、多数のアマチュアが自家用に採用した。
 だが、皮肉なことに♯4320の登場した時期は、単にモニタースピーカーに限らず録音機材や録音テクニックの大きく転換しはじめた時期にあたっていた。このことがひいては演奏のありかた、レコードのありかたに影響を及ぼし、とうぜんの結果として再生装置の性能を見直す大きなきっかけにもなった。またそことを別にしても、一般家庭用の再生装置の性能が、この頃を境に飛躍的に向上しはじめていた。
 それら急速な方向転換のために、せっかくの名作♯4320も以外にその寿命は短く、♯4325,そして♯4330の一連のシリーズへと、短期間に大幅のモデルチェンジをする。しかしそれができたということは、裏を返していえば、皮肉なことだがJBLがプロ用モニターとしてはまだマイナーの存在であったことが結果的にプラスになっている。というのは次のような訳がある。
 ♯4320より以前、世界的にみてメイジャー系の大半の録音スタジオでは、アルテックの604シリーズがマスターモニターとして活躍していた。プロ用現場で一旦採用されれば、その性能や仕様を急に変更することはかえって混乱をきたすため、容易なことでは製品の改良はできない道理になる。アルテックの604シリーズがこんにち大幅の改良を加えないのは、アルテック側での技術上の問題もあるには違いないが、むしろ右のような事情が逆に禍しているのではないかと私はみている。
 ともかく4320の成功に力を得てJBLはスタジオモニターのシリーズの完成を急ぎ、比較的短期間に、マイナーチェンジをくりかえしながら、こんにちの4350、4343,4330シリーズ、4311,4301という一連の製品群を生み出した。
 私自身はといえば、♯4320の発売当時、これは信頼しうるモニタースピーカーであると考え、KEF/BBCとはまた少し違ったニュアンスのモニターをぜひ手もとに置きたいと考えて、購入の手筈をととのえていた。ところが、入手間際になって♯4320は製造中止になって、♯4330、32、33という四機種が誕生したというニュースが入った。♯4320の場合でも、自家用としては最初からスーパートゥイーター♯2405を追加して高域のレインジを拡張するつもりだだから、新シリーズの中では最初から3ウェイの♯4333にしようときめた。
 このときすでに、♯4341という4ウェイのスピーカーも発売されたことはニュースでキャッチしていた。これの存在が気になったことは確かだが、このころはまだ、JBLのユニットを自分でアセンブリーしたマルチウェイスピーカーをKEF/BBCと併用していたので、本格的なシステムはあくまでも自分でアセンブリーすることにして、とりあえずは、以前アルテック612Aを購入したときと同じようないささか不自然な動機から、単にスタジオモニタースピーカーのひとつを手もとに置いて参考にしたり、アンプやカートリッジやプログラムソースを試聴テストするときのひとつのものさしにしよう、ぐらいの気持しかなかった。そういうつもりで♯4341を眺めると、♯4350と♯4330シリーズの中間にあってどうも中途半端の存在に思えたし、その後入手した写真で判断するかぎりは、エンクロージュアのプロポーションがどうも私の気に入らない。そんな理由から、♯4341は最初から頭になかった。
 やがて♯4333が運び込まれたが、音質は期待ほどではなかった。ウーファーとトゥイーターの音のつながりがやや不自然だし、箱鳴りが耳ざわりでいかにも〝スピーカーの鳴らす音〟という感じが強い。それより困ったことは、左右二台のうち片方が、、輸送途中でかなりの衝撃を受けたらしく、エンクロージュアの角がひどく傷んでいて、おそらくそのショックによるものだろう、スーパートゥイーター♯2405が、ひどくクセの強い鳴り方をする。ここではじめて♯4341の音を聴いてみたくなった。ちょうど具合の良いことに、、貸出用の1ペアが三日間なら東京にあるので、持って行ってもいいという山水電気の話である。さっそく借りて、♯4333と♯4341の聴き比べをしてみた。
 しかしこれは三日間比較するまでもなかった。ちょっと切りかえただけで両者の優劣は歴然だった。価格の差以上にこの性能の差は大きいと思った。4333のほうは、どうしても音がスピーカーのはこの中から鳴ってくるが、♯4341にすると、音はスピーカーを離れて空間にくっきりと浮かび、とても自然なプレゼンスを展開する。これは比較にならない。片側のトラブルを理由に4333は引取ってもらって、♯4341が正式に我家に収まった。これが現在に至るまで私の手もとにある♯4341である。
 もともとは、さきにも欠いたようにスタジオモニターを参考までに手もとに置いておこう、ぐらいの不純な動機だったものが、♯4341が収まってからは、それまでメインのひとつだった自作のJBL・3ウェイも次第に鳴りをひそめるようになり、やがてKEF/BBCも少しずつ休むことが多くなって、そのうち♯4341一本になってしまった。とはいっても、♯4341がKEFよりあらゆる点で優れているというわけではない。現在の私の狭い室内では、スピーカーの最適の置き場所が限られて、二組のスピーカーに対してともに最良のコンディションを与えることが不可能だからだ。KEFを良い場所に置けばJBLの鳴りが悪く、♯4341をベストポジションに置けばLS5/1Aはまるで精彩を失う。少なくともこの環境が変わらないかぎりは二組のスピーカーのいずれをも等分に鳴らすことは不可能なので、当分のあいだは、どちらか一方を優先させなくてはならない。
 私という人間は、一方でJBLに惚れ込みながら、他方でイギリス系の気品のある響きの美しいスピーカーもまたたまらなく好きなので、その時期によって両者のあいだを行ったり来たりする。ここ二年あまり♯4341を主体に聴いてきて、このごろ再び、しばらくのあいだKEFに切りかえることにしようかと、思いはじめたところだ。KEFにない音をJBLが鳴らし、JBLでは決して鳴らせない音をKEFが、そしてイギリスの優れたスピーカーたちが鳴らす。どんなに使いこなしを研究しても、このギャップを埋めることは不可能だ。
 理くつをこねるなら、理想のスピーカーとはアンプから送り込まれた音声電流を100%音波に変換することが目標のはずで、その理想が達成できさえすれば、JBLとKEFの差はおろか、世界じゅうのすぴーかーの音の違いは生じなくなるはず、だが、現実にはそうはいかない。というより、少なくともあと十年やそこいらで、スピーカーの理想が100%達成できるとは私には考えられないから、その結果としてとうぜん、スピーカーの音を仕上げる製作者の、生まれた国の風土や環境や感受性が、スピーカーの鳴らす音のニュアンスを微妙に変えて、それを我々は随時味わい分けるという方法をとらざるをえないだろう。そして私のような気の多い人間は、結局、二つの極のあいだを迷い続けるだろう。
 モニタースピーカー作り方が、かつてのアルテックに代表される中域の張ったきつい音から、つとめて特性をフラットに、エネルギーバランスを平坦に、そしてワイドレインジに、スピーカー自体の音の色づけを極力おさえる方向に、動きはじめてからまだそんなに年月がたっていない。それでも、アメリカではJBLのモニターの成功を機に、イギリスではそれより少し古くBBC放送局のモニタースピーカーに関するぼう大な研究資料をもとに、そしてそれら以外の国を含めて、モニタースピーカーのあり方が大きく転換しはじめている。そことがコンシュマー用のスピーカーの方法論にまで及んできている。
 そうした世界じゅうのモニターの新しい流れは、モニタースピーカーの好きな私としてはとても気になる。実をいえば、本誌でモニタースピーカーの特集をしようと、もう数年前から私から提案し希望し続けてきた。今回ようやくそれが実現する運びになって、とても嬉しい思いをさせて頂いた。正直のところ、気になっていたスピーカーのすべてを聴くことができたとはいえない。今回の試聴に時間的に間に合わなかったり何らかの事情からリストアップに洩れた製品の中にも、ぜひ聴いてみたいものがいくつかあったが、仕方ないとあきらめた。
 別にモニタースピーカーと名がついていなくとも、優れたスピーカー、良さそうなスピーカーであれば、私はいつでも貪欲に聴いてみたくなる人間だが、こんにち世界じゅうで開発されるスピーカーの流れを展望すると、コンシュマー用としては本格的に手のかかった製品が発売されるケースがきわめて少なくなって、必然的にプロフェッショナル向けの製品でなくては、これはと思えるスピーカーがきわめて少なくなっているのが現状だ。その意味で今回の試聴は非常に興味があった。
     *
 ところで、改めて書くまでもなく私自身がモニタースピーカーに興味を抱く理由は、なにも自分が録音をとるためでもなく、機器のテストをするためでもなく、かつて今西氏の優れた装置で体験したように、本当の高忠実度再生こそ、録音の新旧を問わずレコードからより優れた音楽的内容を描き出して聴くことができるはずだという理由からで、とうぜんのことに、モニタースピーカーをテストするといっても、それをプロフェッショナルの立場から吟味しようというのではなく、ひとりのレコードファンとして、このスピーカーを家庭に持ち込んで、レコードを主体とした鑑賞用として聴いてみたとき、果してどういう成果が得られるか、という見地からのみ、試聴に臨んだ。
 しかも大半の製品はすでに何らかの形で一度は耳にしているのだから、今回のように同一条件で殆ど同じ時期に比較したときにのみ、明らかになるそれぞれの性格のちがいを、できるだけ聴き取り聴き分けることを主眼とした。
 そうした目的があったから、試聴装置やテストレコードは、日頃からその性格をよく掴んでいるものに限定した。とくにプレーヤーはEMT-930stをほとんどメインにして、それ以外のカートリッジは、ほんの参考程度にしたのは、日常個人的にEMTのプレーヤーの音に最も馴染んでいて、このプレーヤーを使うかぎり、プログラムソース側での音の個性を十分に知り尽くしているという理由からで、客観的にはEMT自体の個性うんぬんの議論はあっても、私自身はその部分を十分に補整して聴くことができるので、全く問題にしなかった。プリアンプにマーク・レビンソンLNP2Lを使ったのも、自分の自家用として十二分に性格を掴んでいるという理由からである。
 これに対してパワーアンプは、マランツ510M、SAE2600,マーク・レビンソンML2L×2、ルボックスA740という、それぞれに性格を異にする製品を四機種、切り換えながら使ったが、それは、スピーカーによってはおそらくパワーアンプの選り好みの強いものがあるだろうという推測と、それに対応しうる互いに性格を異にするしかし性能的にはそれぞれ第一級のパワーアンプを数組用意することによって、スピーカーの性格をいっそう容易かつより正確に掴むことができるだろうと考えたからだ。
 テストレコードは別表のように約20枚近く用意したが、すべてのスピーカーに共通して使ったものはほぼ7枚であった。それ以外はスピーカーの性格に応じて、ダメ押しのチェックに使っている。
 リファレンス・スピーカーとしてJBL♯4343を参考にしたが、それは、このスピーカーがベストという意味ではなく、よく聴き馴れているためにこれと比較することによって試聴スピーカーの音の性格やバランスを容易に掴みやすいからだ。そして興味深いことには、従来のコンシュマー用のスピーカーテストの場合には、大半を通じてシャープ4343の音がつねに最良に聴こえることが多かったのに、今回のように水準以上の製品が数多く並んだ中に混ぜて長時間比較してみると、いままで見落していた♯4343の音の性格のくせや、エネルギーバランス上での凹凸などが、これまでになくはっきりと感じられた。少なくとも部分的には♯4343を凌駕するスピーカーがいくつかあったことはたいへん興味深い。
 中でもとくに印象に残ったのは、キャバスの「ブリガンタン」のフランス音楽に於ける独特の色彩感。JBL♯4301とロジャースLS3/5Aの、ともに小型、ローコストにかかわらず見事な音。K+H/OL10のバランスのよさ。そしてUREIのいささが人工的ながら豊かで暖かな表現力。そして試聴できなくて残念だったスピーカーはウェストレーク、ガウス、シーメンスなどであった。
 なお個々の試聴記については、今回選ばれたスピーカーがいずれも相当に水準の高い製品(少なくともプロ用としてオーソライズされた製品)であることを前提として、あえて弱点と感じた部分をかなり主観的に拡大する書き方をしているため、このまま読むとかなり欠点の多いスピーカーのように誤解されるかもしれないがいまも書いたようにリファレンスのJBL♯4343を部分的には凌駕するスピーカーの少なくなかったという全体の水準を知って頂いた上で、一般市販のコンシュマー用のスピーカーよりははるかに厳しい評価をしていることを重々お断りしておきたい。

試聴レコード
●ラヴェル:シェラザーデ
 ロス=アンヘレス/パリ・コンセルバトワール
 (エンジェル 36105)
●珠玉のマドリガル集/キングズシンガーズ
 (ビクター VIC2045)
●孤独のスケッチ2バルバラ
 (フィリップス FDX194)
●J.Sバッハ:BWV1043, 1042, 1041
 フランチェスカッティ他
●ショパン:ピアノソナタ第2番
 アルゲリッチ
 (独グラモフォン 2530 530)
●ブラームス:クラリネット五重奏曲
 ウィーン・フィル
 (英デッカ SDD249)
●ブラームス:ピアノ協奏曲第1番_第2番
 ギレリス/ヨッフム/ベルリン・フィル
 (グラモフォン MG8015-6)
●バラード/アン・バートン
 (オランダCBS S52807)
●ブルーバートン/アン・バートン
 (オランダCBS S52791)
●アイヴ・ゴッド・ザ・ミュージック・イン・ミー/テルマ・ヒューストン
 (米シェフィールド・ラボ-2)
●サイド・バイ・サイド3
 (オーディオラボ ALJ-1047)
●ベートーヴェン序曲集
 カラヤン/ベルリン・フィル
 (独グラモフォン 2530 414)
●ベートーヴェン:七重奏曲
 ウィーン・フィル室内アンサンブル
 (グラモフォン MG1060)
●ヴェルディ:序曲・前奏曲集
 カラヤン/ベルリン・フィル
 (グラモフォン MG8212-4)
●ステレオの楽しみ
 (英EMI SEOM6)

UREI Model 813

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 久しぶりに面白いスピーカーに出会った。永いこと忘れかけていた音、実にユニークな音。
 たとえばブラームスのP協のスケールの雄大な独特な人工的な響き。アメリカのスピーカーでしか鳴らすことのできない豪華で華麗な音の饗宴。そしてラヴェル。「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」とでも言いたい、まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ。だがそれう不自然と言いきってしまうには、たとえばバッハのV協のフランチェスカッティのヴァイオリンで、自分でヴァイオリンを弾くときのようなあの耳もとで鳴る胴鳴りの生々しさ。このスピーカーにはそうしたリアルな部分がある。アルゲリチのピアノのタッチなど、箱の共鳴音が皆無とはいえず、ユニット自体も中域がかなり張り出していながらも、しかしグランドピアノの打鍵音のビインと伸びきる響きの生々しさに、一種の快感をさえおぼえて思わず口もとがほころんだりする。だが何といっても、クラシックのオーケストラや室内楽を、ことに弦の繊細な美しさを、しみじみ聴こうという気持にはとうていなれない。何しろ音がいかにも楽天的で享楽的であっけらかんとしている。スペンドールの枯淡の境地とはまるで正反対だ。
  そのことを裏がえしていえば、ジャズやポピュラーの再生に限定したとき、このスピーカーは全く他に得がたい美しい音を聴かせる。中でも菅野録音に代表される豊かで豪華な音の響きを味わいたいという場合、あるいは、五〇年代に代表される良き時代のスタイルで演奏されるジャズ、こういうプログラムソースが、このスピーカーからは、素晴らしく味の濃い密度の高い、ゴージャズでしかも何よりも大切なことはとても暖かい音で、再生される。この音に楽しまされているうちに、ここ数年来、JBLやイギリスの新しい流れのモニタースピーカーを中心に、少なくとも私自身の耳が、このいくらか古めかしく暖かな音の美しさをすっかり忘れかけていたことに気づかされた。リッチで、ことに低音のリズムが豊かによく弾み、明るく楽しい。音が少しもいじけていない。伸び伸びと、あくまでも伸び伸びとよく唱う。音がいくらでも湧き出てくるような気分になる。スピーカー自体の能率がかなり高いこともあってアンプのボリュウムはかなり絞っておいても音が豊かさを失わないが、能率の高さよりも音の自体の性質がいっそうそれを感じさせるのにちがいない。今日的なワイドレインジと、古き良き日の善意に満ちた(分析的でない)楽しい豊かさとが見事にドッキングして、解像力の高くしかも冷たさのない新しいモニタースピーカーが生まれた。スピーカーユニットの配置が独特なので、試みに天地を逆さまにして床に直接置いてみたが、これでは音像がべったりして全然よくない。指定どおり、高域ユニットが耳の高さ附近にくるように、高めの台に乗せることが必要のようだ。

UREI Model 813

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 ユーレイという名前は日本では奇異な感じを持たれるかもしれないが、このメーカーはアメリカ・カリフォルニア州サン・ヴァレイにあるプロ機器専門メーカーで、ユナイテッド、レコーディング・エレクトロニクス・インダストリーズという。そのイニシャルをとるとUREIとなる。社名が示す如く、主に録音の周辺機器を製造しているが、同社のスピーカーに接するのは、私もこれが初めてであった。このシステムは、今アメリカのスタジオで、一つの流行ともいえる様相を呈しているアルテックの604のモディファイである。604−8Gのセクトラルホーンとネットワークをはずし同社製の800Hというストレートホーンをつけ、これにもう一つ38センチのユニットを追加、これらにタイム・アラインド・ネットワークをつけ、大きなダンプドバスレフ・エンクロージュアに収めた大型モニターシステムである。モデル813と呼ばれるこのユニークなシステムは、正直なところ完全に私を魅了してしまった。その高域は、604−8Gとは似ても似つかぬ繊細かつ、明確、なめらかなハイエンドと化し、しなやかな弦の響きを再現するし、パルシヴな高域のハーモニックスも優美な音を響かせる。加えて、適度にダンピングをコントロールした低域の豊かさは素晴らしく、フェイズ感はナチュラルで、近来稀に聴く優れたスピーカーだった。

スペンドール BCIII

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 44号(219ページ)でも触れたが、BCIIIを何回か試聴した中で、たった一度だけ、かなりよく鳴らし込まれた製品の音をとても良いと思ったことがあった。今月のサンプルは、44号のときよりもさらに鳴らし込まれたものらしく生硬さのないよくこなれた音に仕上っていた。
 とはいっても基本的には44号に書いたことと同じで、本質的にかなりまじめな作り方。言いかえれば、どんな音を鳴らしても決してわめいたり取り乱したりしない端正な音で、いかにもイギリス紳士ふうといえようか。たとえばブラームスのP協No.1の冒頭のオーケストラのトゥッティも、決して露に〝爆発〟しない。渋いバランスを保って、情熱を抑えた鳴り方だ。ラヴェルの「シェラザーデ」のあのオーケストラの音を散りばめたような色彩感も、ひかえめに端正に少しの派手さもなく表現する。音を練り固めるタイプでなく、その意味で強引なところは少しもない。コンセルヴァトワルの音を、ごく注意深く散りばめ、音の光沢をややおさえながら、色あいのちがいは確かに鳴らし分ける。出しゃばりもせずしかし鳴らすべき音は確かに鳴らす。ロス=アンヘレスの声の定位もすばらしく見事だ。のめり込んでゆくタイプの音でなく、一種枯淡の境地を思わせる。ただ、表面はひっそりと静かであっても内に秘めたふつふつとたぎるような情熱を感じとりたいという私のようなまだ血の気の多い人間には、この枯淡の境地まで達観することができない。ときにもう少しハメを外し、唱い、弾み、色気も艶も露にするスピーカーの方に、より多くの魅力を感じてしまう。少なくともスペンドールBCIIIを聴くうちに、自分の求める音の方向が、そういう形で明確に意識させられる。音楽に殉ずるよりもまだまだ音の享楽者でありたい。だがこんなことを考えさせるスピーカーというのは、やはりたいした音なのだろうと、妙なところで感心させられる。
 つまりBCIIIは、どんなプログラムソースでも端正に、可及的に正確にしかしスピーカーが出しゃばるのでなくひかえめに、いわば客観的にプレゼンテイションする音、といえようか。そのことはおそらく、オーディオの再生の中で確かにひとつの正しい方向であるにちがいない。が、そう言い切ってしまうには、私自身の個人的な嗜好や欲求を別としても、「何か」が足りない。もうひとつ聴き手の心を弾ませ、聴き手の心にしみじみと訴えかけてくる何か、が不足していて、どこかつき放したような感じが否めない。この鳴り方がスピーカーとして本当なのだと言い切ることは私にはできない。なぜといって、レコードに刻まれる前のもとの音楽の演奏には、色気も艶も弾みもあると思うからだ。それが鳴ってこないということは、このスピーカーに何かが欠けているのでなければ、録音・再生系のどこかに欠落があるからだ。どこに問題があるのか。それはここで論じるには難しすぎるテーマだ。

スペンドール BCIII

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 スペンドールというイギリスのメーカーは、このBCIIIをBBCモニター仕様で作ったということになっている。同社のBCIIは、私の最も好きな中型システムの一つで、わが家でも愛用している。その瑞々しい艶のある、透明な音は、品位の高さで、ちょっと右に出るものがないと思うほど美しい。このBCIIIは、その上級クラスで、エンクロージュアの外形も大きいし、ユニット構成も、グレイドにおいては高い。全体の音としての魅力はBCIIに軍配を上げるけれど、このBCIIIも、こうして他社のスピーカーと比較試聴すると、実に清新な魅力をもったものである。滑らかな音の感触は、きわめて歪感の少ないもので、音楽の美しさが生き生きと再現される。そして、さすがにBCIIからみると、耐入力も大きく、ハイレベル再生も十分に可能であって、モニターとしての役目は十分果せるシステムだと思う。30センチ・ウーファーがベースとなった4ウェイ4スピーカーというマルチシステムでありながら、定位もよく判別出来るし、全帯域のバランス、位相特性もよくコントロールされている。中音域が、やや細身なのが、BCIIと比較した時、気になっていたのだが、欠点として指摘するようなものでは決してない。レコードのミクシングの細かい点までよく聴き分けられたし、オリジナルテープのもつDレンジやフレッシュネスも十分再現してくれた。

ロジャース LS3/5A

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 今回のように、かなり本格的な大型・中型のモニタースピーカーと同時に比較試聴した場合には、どうしてもかなり聞き劣りするのではないかと想像していたが、意外に結果は良好で、むろんこれがいかにミニスピーカーとはいえ、イギリスBBC放送局で現用している正式の小型モニターのひとつなのだからそうおかしな音を鳴らすわけではないにしても、大型に混じってなお十分に聴きごたえのあるという点にびっくりさせられた。
 ただ、概してイギリス製の、しかも近年に開発されたブックシェルフ系の小型スピーカーは、一般にハイパワーにはきわめて弱い。この種のスピーカーにナマの楽器を眼前で聴くような音量を要求したら、まったく評価できないほどみじめな結果になるだろう。だいいちそんなパワーを放り込んだらこわれてしまう。だからもしそういう音量を鳴らすことをモニタースピーカーの条件としたら、このLS3/5Aなど落第生だろう。
 そういう次第で、本誌試聴室でも平均音量が80dB以下の、つまり家庭で鳴らしてもやかましくない程度の音量で試聴したことをお断りしておく。
 まずブラームスのP協。見かけよりは音のスケールはよく出る。オーケストラのハーモニィと響きがとても美しい。それは、ほんとうに美しい! といいたい感じで、やや弱腰で線が細い傾向はあるものの、従ってオーケストラをやや遠くの席で鑑賞するような響きではあるが、グランドピアノの響きを含めて、音がホールいっぱいにひろがって溶け合う美しさが音そのものよりも原音の持つ響きのエッセンスを聴かせるとでもいう鳴り方で楽しめる。ロス=アンヘレスのラヴェルなど、むしろ控え目な表現だが、フランス音楽の世界を確かに展開するし、バッハV協のヴァイオリンの独奏もバックのオーケストラの豊かな響きも、同じく演奏会場のややうしろで聴くような輪郭の甘さはあるにしても、十分に実感をともなって聴かせる。この点は他のすべてのプログラムソースについて共通の傾向で、いわばすべての音をオフマイク的に鳴らすわけなので、ピアノのソロや、とくにポップス系では音の切れこみや力や迫力という面で不満を感じる人は少なくないだろう。
 要するにこのスピーカーの特徴は、総体にミニチュアライズされた音の響きの美しさにあると同時に、輪郭の甘さ、線の細さ、迫力の不足といった弱点を反面にあわせ持っているわけだが、自家用として永く聴いているひとりの感想としては、小造りながら音の品位が素晴らしく高く、少なくともクラシックを聴くかぎり響きの美しいバランスの良い鳴り方が、永いあいだ聴き手を飽きさせない。メインスピーカーとしてはいささかものたりないが、日常、FMを流して聴いたり、深夜音量をおさえて聴いたりする目的には、もったいないほどの美しい音を鳴らすスピーカーだ。こういういわば音の美感あるいは品の良さが、残念ながら国産に最も欠けた部分のひとつといえる。

ロジャース LS3/5A

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 ロジャースのLS3/5Aは、モニタースピーカーとしては異例の小型なもので、ミニモニターと呼んでもいいだろう。こういう小型なモニターが、いかなるケースで必要とされるのかは、私も少々理解に苦しむのである。小型が場所をとらなくていいに決っているが、ここまで小型にしなくてはならない必然性はなんなのだろう。テープレコーダーのキューイングに、デット一体化して作りつける場合などを別にすれば、業務用としては、野外録音のポータブルでもない限り、必要性は思い当らない。しかし、それはそれとして、このスピーカーの音質は、キメの細かい、精緻なもので、品のいい魅力的なソノリティを聴かせてくれる。10センチ口径のウーファーと2センチ口径のトゥイーターの2ウェイシステムで、クロスオーバーは2kHzである。こういうシステムだから、大きなラウドネスは期待する方が無理で、小さな部屋でバランスのとれた音を楽しむという、むしろ、家庭用のシステムとしての用途のほうが強かろう。JBLの4301の項で述べたようにプログラムソースの制作のプロが、家庭用のスピーカーに近い状態でモニターとして、メインモニターと併用するというのが、本来の製作意図かとも思われるが、鑑賞用として優れた小型システムだと思う。

ロックウッド Major

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 以前の〝モニター・ゴールド〟を収めた製品の印象はなかなか良かった。HPDに改良されてからはユニットの低域共振点が大幅に下がったせいか、低音の量感がかなり減って、低域をぐんと引締めたような音がする。背面を本誌試聴室の厚い木の壁にぴったりつけて、さらにトーンコントロールでローエンドを4ないし6dBほど補整してもいいくらいだ。ただそうしても、エンクロージュア自体の共鳴音はほとんど耳につかないほどよく抑えられているため、、たとえばタンノイ・オリジナル・シリーズの〝ARDEN〟のあの、放っておくと概して低音がダブついたり低音肥大症ぎみになったりする傾向を嫌う向きには歓迎されるにちがいない。
 ただ、同じタンノイのユニットを使っても、エンクロージュアが違っただけで、低音だけが良くなって中~高音域の音色は同じというわけにはゆかないという点が難しい。もともとタンノイのユニットは、旧型のヨークからオートグラフ、そして新しいAからEまでのシリーズまで含めて、エンクロージュアをあまり強固に補強しないで、箱の音色に助けられて独特の音を聴かせていたところがあるので、ロックウッドのように、がんじがらめに共鳴をおさえてしまったエンクロージュアに収めると、タンノイの音もまったく別もののように一変してしまう。
 プログラムソース別にいえば、ロス=アンヘレスのラヴェルのように、音の厚みよりは色彩感で聴かせる曲の場合には、タンノイ独特の中高域の濃い中にも一種華やかに際立つ音色が、声や木管に妖しい魅力を添える。箱の共鳴をおさえて音の肉づきを薄くする傾向も、アンヘレスの声に関しては声を図太くせずに定位をシャープに表現して好ましい。ただ、ブラームスのオケの厚みになるといささかのたりないし、スピーカーユニットの音色がモロに出てしまうせいかヴァイオリン(バッハV協)、ピアノ(アルゲリチ)など原音に少し色をつけすぎる感じがある。また、室内楽やジャズヴォーカル、コンボなどでは、総体に定位がものすごくいい反面、音の響きや肉づきをおさえすぎる印象で、音の豊かさや弾みが生かされにくく、音楽を楽しむというよりも音源を分析してゆくように鳴る傾向があり、その意味でモニターとして音の聴き分けには確かに良いのかもしれない。これだけの大型エンクロージュアの割には音像をふくらませることなく、シャープに、クリアーに、鮮明に鳴らすところは実にみごとだ。リスナーに対して前方にほとんど90度近くまで左右の間隔を広げて設置しても、中央の音が薄くならないし、定位はいっそう明確さを増す。
 ただ、それだけに音を裸にしすぎるような印象があるので、ライブぎみのリスニングルームにはまだよいかもしれないが、一般の鑑賞用としては音をいささか冷たく分析しすぎる気味があると思う。

ロックウッド Major

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 タンノイのユニットを独自のエンクロージュアに入れてシステム化したロックウッドのメイジャーは、コアキシャルユニットの特徴からしても、当然、モニタースピーカーとしての用途を意識して作られたものであろう。しかし、今回の試聴では、期待したほどではなく、前回、他の場所で聴いた時より印象が悪かった。まず、中高域にかなりうるさいピーキーな響きがあって、中域から高域への音のスムーズさが害されてしまう。同じユニットでも、エンクロージュアがちがうと、低域の変化だけとしてではなく、全帯域にわたって音が変るものだが、これもその好例で、タンノイのアーデンとは大分異質の音であった。モニターとして使えるか使えないかといった問題ではないが、私の耳には、少々ピーク・ディップが多過ぎて、個性というよりは癖と感じられたのである。しかし、綜合的には、この豊かでよく弾む低音域に支えられた重厚なバランスは、さひがに高級システムらしい風格に溢れたもので、鑑賞用として、この音を好まれる向きには、所有しがいのある堂々たる製品だ。モニターとしては、細かい定位はよく判別出来るが、エコーの流れなどは比較的不明瞭で、よく響く低域にマスクされるような傾向であった。個性的な鑑賞用のシステムとしてのほうが高い評価が可能だ。

キャバス Brigantin

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 まずロス=アンヘレスの唱う「シェラザーデ」。散りばめた金箔がさまざまの微妙な色彩にきらめきながら舞いつつ消えてゆくようなラヴェル独特の妖しく幻想的な世界。それを演奏するコンセルヴァトワル・オーケストラの艶めいた美しい響き。そして最盛期のロス=アンヘレスの夢のようになまめいた声を収めたこの素晴らしいレコードを、これほど魅惑的に展開して聴かせてくれただけでも、ブリガンタンというスピーカーの存在価値は十分にある。また、バルバラの唱うシャンソン(故度のスケッチ)も、彼女の声がいくらかハスキィになる傾向はあっても、あのいかにもフランス人にしか鳴らせないバックのアコーディオンのつぶやくようなメロディと共に、これも他のスピーカーがちょっと思いつかないほどしっとりと唱わせる。このスピーカーがフランス製だからフランスの音を生かすのは当り前というよりも、そんな言い方をしたら冗談ととられかねないが事実なのだから仕方がない。
 ただこうした面のよさが、ほかの音楽やほかのレコードにも当てはまるというわけにはゆかないところにスピーカーの難しさがある。
 たとえばギレリス/ヨッフムのブラームスのP協No.1。ことにオーケストラのトゥッティで、中高音域に一ヵ所、いつも音を引きずる傾向があって、おそらく5kHz前後のあたりと思えるが、ことに音量を上げたときにそれがかなり色づけを感じさせる。おそらくこの辺が、反面の音の魅力にもなっているのだろうが、さらにヴァイオリンの独奏や室内楽などになると、ハイポジョンで弦の音が金属質というよりはプラスチック質のような特有の音色になるし、木質の胴の響きがやや感じとりにくくなる。クラリネットの音なども、木管よりもプラスチック管のような独特の音になる。ただ、クラリネットに息が吹き込まれ、次第に音がふくらんで広がってゆくあたりの感じは相当に実感を出すのだが。
 総体に金属的な音はほとんど出さないので、リファレンスのJBLとくらべると、4343が中高音域でホーン臭さを意識させるが、反面、ポップス系のソースの大半、およびクラシックでもピアノや打楽器系に注目して聴くと、中低音域の支えがいくぶん薄手で、打鍵音の実体感が出にくい。音全体がしっとりと潤いを持って聴こえるが、その点も、もっとからりと乾いた鳴り方を要求するポップス系に向きにくいところだろう。
 アンプの音色の差や、プログラムソースの音質の差を、JBLやアルテックにくらべるとあまり露骨に鳴らし分けないタイプなので、モニター用という枠にとらわれず、このスピーカーの鳴らす音の独特の世界が気に入った場合には、家庭での鑑賞用として十分に価値のある製品といってよさそうだ。弱点と背中合わせともいえる特長のある個性を受け入れるか入れないかが、このスピーカーへの評価の分れ目となる。

キャバス Brigantin

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 キャバスのブリガンタンというシステムは完全なマルチウェイ・システムで、どちらかというとコンシュマーユースのフロアタイプとして評価できる性格のシステムである。フランス製だけあって、モニターとしての観念が、アメリカや日本のものとやや異なるようだ。モニタースピーカーについての定義は、あってなきに等しいことは別項でも述べている通りだが、このシステムも、メーカーがモニターとして使われる想定で設計し、実際にプロユースとして使われている実績があるから、モニタースピーカーといえるのであろう。再生周波数帯域は大変広く、そうした帯域バランスをチェックするにはいいスピーカーだ。マルチウェイだけあって、定位はコアキシャルやシングルコーンなどとはちがい、中央モノーラル定位が、やや定まりきらない。しかし、ステレオフォニックな音像定位の再現はよく、マルチウェイとしては位相特性と指向性に対しての考慮が行届いていることがわかる。音色的には、艶のある、しなやかなもので、モニターシステムにあり勝ちな味気のない、音楽的感興の湧きにくいものではない。この点でも、コンシュマーユースとしての魅力を持ったものといえる。また、マスターレコーディング用としては、とてつもないパワーが入るが、この点ではこのシステムはミニマムの条件。細部はやや美化される傾向がある。

JBL 4331A

瀬川冬樹

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 リファレンスの4343と切換えながら比較すると、とうぜんながら高域のレインジが狭く、そのためか同じレコードでも情報量がかなり減った感じに聴こえる。反面、4343ではときとして気になりがちなハイエンドの強調によるヒス性のノイズや、レコードが多少傷んでいる場合に打音にまつわりつくようなシャリつきが耳ざわりになる場合があるが、そういうところは4331Aでは殆ど出てこない。少し前までの高音域の延びていないスピーカーの音を永く聴き馴れた人が、4343や4333Aのようにハイエンドを強調ぎみに延ばした音を突然聴いたときに、耳の注意力がついその方に向けられて中音域が薄くなったかのように感じて違和感をおぼえるそうだが、アルテックの604系のスピーカーを使い馴れたスタジオマンなどのあいだで、4333Aよりも4331Aの方が好まれる例が多いというのもそうした理由もあるのだろう。
 しかし一旦ワイドレインジの良さを聴き馴れた耳には、デリケートなニュアンスの出にくいこと、そして、同じ理由から音像がスピーカーを離れて空間に漂うようなエフェクトの出にくいことが、どうにももどかしくなってくる。たとえば、ロス=アンヘレスの声が、どこか骨っぽく、男っぽいと言っては言いすぎにしても人声の持つ滑らかな細やかさが十分に表現されにくいし、「サイド・バイ・サイド3」でのベーゼンドルファーの高域の、部屋の空気に溶け込んでゆくような艶と響きの美しさも十分に鳴らすとはいいがたい。そういう部分のニュアンスの薄れているせいか、4333Aよりも音が乾いて、しなやかさに欠ける印象を受ける。
 またもひとつ、ピアノの打音の場合に、箱なりとまで言ってはこれも言いすぎになるが、ピアノの音にもうひとつスピーカーの箱の響きを重ねたような鳴り方がわずかにあって、楽器の自然な響きを損ねる傾向がピアノばかりでなく、軽微とはいえ弦の低音やヴォーカルでも聴きとれる。この傾向はアルテック612Cにもあったことを考えると、このタイプの箱のプロポーションに共通の弱点ではないだろうか。ただし4331Aの箱鳴りはアルテックよりはずっと少ない。高域のレインジのせまいといっても、612Cにくらべるとよく延びているように聴こえる。いろいろと熟点をあげてはいるものの、個人的には、612Cほどの違和感をおぼえることはない。
 総じてこの手の音は、クラシックの微妙なニュアンスや、弦合奏の漂うようなハーモニィの美しさを再現することのニガ手な傾向を持っている。反面、ポップス系の打音を主体とした音を、ましてスタジオでハイレベルで、マイクの拾った音をじかに長時間に亘ってモニターするというような目的には、こういうハイエンドの無い音の方が良い場合も多い。そこが4331Aの存在理由だと私は理解した。

JBL 4331A

菅野沖彦

ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より

 JBLの4331Aは、いわゆるスタジオモニターの標準的なモデルで、38センチ・ウーファーに、ホーン・トゥイーターを800Hz以上に使った、2ウェイシステムである。このエンクロージュアは、大きさの点からもモニターとして最も手頃なもので、JBLのモニターシリーズ中のベイシックモデルといってよい。同じエンクロージュアに、3ウェイのユニットを構成を持たせたものが、これの上級機種として存在することからも、このエンクロージュアの存在の重要性が理解できるであろう。さすがに、モニターとしての性能は優秀で、このシステムのもつ音色に抵抗がない限り、きわめて正確なモニタリングの可能なシステムだと思う。高い能率と十分なパワーハンドリングで、堂々とした大音量再生も可能だし、音の解像力はきわめて高い。定位もよく判別できるし、位相差の判別も容易である。バランスもよくとれていて、最高域はややだら下りだが、モニターとしても帯域の狭さは感じさせない。音楽的な表現がよく生きて、各楽器の持つ質感をよく伝えるので、鑑賞用としても全く問題ない。むしろ、この音の魅力に強く惹かれるファンも多勢いることだろう。レコードのミクシングの細かな点もよくわかるし、オリジナルテープの再生でも立派にその役目を果してくれた。