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ビクター SX-500II

早瀬文雄

ステレオサウンド 95号(1990年6月発行)
特集・「最新スピーカーシステム50機種 魅力の世界を聴く 小型グループのヒアリングテストリポート」より

 音場の透明感が、さすがにこのクラスになると一段向上する。国産機らしくまんべんなく物量と手を入れられた優等生的な音だ。ビクターの伝統か、国産の中では音色が明るく色彩感に富み、かといって、油っぽさが少ない品のよさもある。音像定位にも正確さが出てきて、センターで聴く限り、ジャック・デジョネットの精妙なシンバルワークにおいて、サイズも音色も異なるいくつかのシンバルを叩きわけている様子がよくわかる。各楽器の位置関係の描写力が、国産で9万円というここへきてやっと出てきたということか。マルサリスのスタジオ録音では、冒頭の声の掛け合いがリアルで、遮蔽板の存在がみえそうなほど、音場の再現性が高まっている。

メリディアン 206

早瀬文雄

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 英国、ブースロイド・スチュワート社よりすでに発表されている200シリーズコンポーネントは、201プリアンプを核として204FMチューナータイマー、205モノーラルパワーアンプ、209リモートコントロールユニットから構成され、そのデザインや機能のユニークさで話題を集めていた。
 今回同シリーズ中の、プリアンプ機能をあわせ持つCDプレーヤー/207MKIIの派生モデルとして、このプリアンプ機能を排し、よりコンプリートな単体CDプレーヤーシステムとして、音質や機能の細部をリファインしたCDプレーヤー/206が登場した。
 従来通り、エレクトロニクス部とCDトランスポート部を独立した筐体に納めているが、使い勝手の向上を期して、ジョイントバーで結合された一体化構造をとる。
 従来通り、D/Aコンバーターは16ビット4倍オーバーサンプリングを採っているが、ディスクユニット部は最新のフィリップス製CDM4を採用している。
 メカニズムおよびサーボ部は、3ポイントサスペンション(ゴム系緩衝材のソルボーテン)によってフローティングされ、振動による悪影響を排除している。
 出力は3系統あり、固定アナログ、同軸デジタル、および光デジタル出力を備え、より組合せの自由度を増している。
 見慣れたとはいえ、やはりこのデザインの美しさは、単に個性的と言うレベルをつきぬけ、メカニカルの機能美と趣味線の高さを高いレベルで融合させている。
 過度にコスメティックな要素でゴテゴテと飾りたてるのではなく、洗練と簡素化を究めたより純粋な意味でのインダストリアルデザインのあるべき姿の良い見本となっていると思う。
 これは、北欧のB&Oと並び、究めて貴重な存在であり、わが国にも、そろそろこういったコンセプトの瀟洒なシステムが登場してもよいような気がする。
 音質についても同様なことがいえる。そこには、あざといメリハリ強調型の紋切り的音作りは皆無で、落ち着いた穏やかな表現がまず印象に残る。
 従来の弾力性のあるやや暖色系の暖かさは引き継いでいるが、よりニュートラルで中立的といえる大人っぽさを仕上げの要素に含んでいるように聴けた。
 中庸を得た破綻のなさが、どんな装置に組み入れても、全体のバランスを掻き乱すことなく、安心して使用できる汎用性を高めたといえよう。
 プリアンプ機能を省略したために回路がシンプルになり、電気的に洗練された結果だろうが、明らかに響きの透明感や音場の再現性の向上が聴き取れた。

ビクター SX-700

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

小型2ウェイ方式に、低音専用のサブウーファーシステムを独立したキャビティ採用で組み合せ、トールボーイとしてまとめた手堅い手法の製品である。柔らかく量感があり、ほどよく反応が速いサブウーファーを加えた低域の豊かさは、この製品の特徴であり、この部分をどうこなすかがアンプの実力の問われるところ。

セレッション SL6Si

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「プリメインアンプ×スピーカーの相性テスト」より

英国系の小型2ウェイシステムを代表する、適度に反応が速くプレゼンスの良い音と、メカニカルでわかりやすいデザインが巧みにマッチした製品である。Siに発展して中域の薄さが解消され、低軟、高硬の性質は残っているが、小型システムの、音離れが良くプレゼンスの良い特徴も併せて、総合的な完成度はかなり高い。

ダイヤトーン DS-77Z

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「プリメインアンプ×スピーカーの相性テスト」より

口径30cmを超すウーファーベースの伝統的3ウェイブックシェルフ型の典型的存在であり、現在生き残っている数少ない機種だ。3ウェイらしく中域のエネルギーが充分にあり、情報量が多いため、使いこなしを誤れば圧倒感のあるアグレッシヴな音になりやすく、このあたりを使いこなせないようではオーディオは語れない。

クレル MD-1 + SBP-64X

早瀬文雄

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 アンプメーカーとしてその名を馳せた米国クレル社から、デジタル機器専門メーカーとして独立して創立されたクレル・デジタル社より、既発表のCDターンテーブル/クレル・デジタルMD1と、シグナルプロセッサー/SBP64Xがついに正式発売となった。
 昨今アメリカ国内では、ハイエンドメーカーのデジタル機器への参入が活発化しているが、これは、先に発表されて話題を独占している感のあるワディアに続く存在として期待されていた。
 ワディアが単体のD/Aコンバーターのみであったのに対して、こちらはシステムとして完成した、いわゆるセパレート型CDプレーヤーシステムの形態をとっている点にマニアの関心が集中しているのだろう。
 元来、アナログディスクの信者として自他ともに認めるクレルの創始者、ダニエル・ダゴスティーノ氏の作品であるだけに、まずCDターンテーブル/MD1は、ディスク再生時に、アナログ再生に等しい儀式を要求する。
 分厚いアクリル製ダストカバーをゆっくりと持ち上げ、おもむろにCDをセットしたあと、クランパーの代りともなるディスクスタビライザーを乗せる。
 ダストカバーを閉める時、途中で手を離しても、重いカバーはゆっくりと自動的に下降するようになっており、一切のショックはない。
 ディスクトランスポート部はフィリップスのCDM3を使用しており、これをスチューダーのA730と同じものだが、その固定方法などを含め、きわめて対照的なアプローチがみられ、ここではアナログプレイヤー的剛性を追求しているようである。
 本体四隅の丸いカバーはサスペンションタワーと呼ばれ、中には多重構造のインシュレーターが隠されている。
 内部の詳細は明らかにされていないが、周辺機器に対する高周波ラジエーションの問題なども充分考慮されているとのことだ。
 一方SBP64X/ソフトウェアベース・デジタルプロセッサーは、デジタルフィルターに56ビットアキュムレーターを備えるモトローラ製DSP56001をチャンネルあたり2個の計4個使用しており、これまでにない演算精度を獲得しているという。
 SBP64Xではワディア/2000同様、DSPを用い毎秒6000万回余りの速さで独自のソフトウェアアルゴリズムを実行するのに必要な演算を行う。DSP56001の24ビット幅データパスと56ビットアキュムレーターが、デジタルデータの入力に厳密な18ビット64倍オーバーサンプリングで信号を補完し、バーブラウン製PCM64、18ビットD/AコンバーターでD/A変換を行う。さらに、完全ディスクリート構成の電流・電圧変換器からデグリッチ回路を経て、ディスクリートバランス型出力段に至る構成である。
 DSPにより、一般のデジタルフィルターとして用いられるFIR(Finite Impulse Response=有限インパルス応答)フィルターでは克服できなかった過渡特性的な欠点をクリアしている。
 電源部は3個のトロイダルトランスを独立させ、デジタル回路、DAC回路、アナログ回路に独立して電源供給を行なう。
 電源部から本体へのパワーケーブルも2本あり、1本がアナログ部とDAC部へ、もう1本がデジタル回路へと分かれており、デジタルノイズの混入を防いでいる。
 聴き慣れたディスクを国産最新のセパレートCDプレーヤーと比較しつつ聴いた。その上で、これは物凄い情報処理能力をもった画期的な製品であることが、じわりと実感できる。音の密度、音場の空間再現性において、まるで同じソースを聴いていると思えないほどの圧倒的なクォリティ差を一聴して感じさせ、まさによく出来たアナログディスクを極上の状態で聴くに近似した心地良さを提供してくれるものだった。
 複雑にからみあう楽音を精緻に分解して聴かせながら、響きの有機的なつながりが緻密で、弦楽器群のオーバートーンの重なりやローレベルでの透明感、情報量がすばらしく、余韻の消え方は圧巻だった。
 パルシヴなソースでも、叩きつけるようなエネルギー感がありながら、響きに高い品位が維持されるあたり、ただものではないという印象を強くした。

アヴァロン Ascent MKII

早瀬文雄

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 米国、カリフォルニア州ボゥルダーに本拠を置くアバロン社製スピーカーシステム/アセントMKIIが輸入されることになった。
 写真のように、やや個性的ともいえるプロポーションを持つが、この形こそコンピューターシミュレーションと聴感から追い込んで作られた必然の形態だったという。
 バッフル面からの一次反射と、回折によるユニット周辺の残留音響エネルギーが付帯音として作用し、システムトータルとしての響きの透明度を濁す原因ともなるトランジェント低下をきたすことに留意して、トランジェントの向上という点に偏執狂的なこだわりをもってアプローチした、という印象が強い。
 ユニットは、22cm口径のウーファーをベースに、5cm口径のチタンドームスコーカーと2・5cm口径の同じくチタンドームトゥイーターという3ウェイ構成をとっている。いずれも、ドイツ製のユニットということだ。バッフル面は、なんと板厚15cmという恐ろしくぶ厚いもので、基本的にエンクロージュアの共振によるエネルギーロスを最少に止めるという、ハードな作りがなされている。
 そのエンクロージュアの作りは、熟練した職人芸を要求されるような高度で複雑な携帯をとり、実際、細部の作りは見事な仕上りを見せる。
 エンクロージュア本体の後ろに設置される。サブエンクロージュアともいえそうな黒いボックス(片チャンネルにつき一本)はネットワークを収める専用の独立した箱で、下部に取りつけられたネットワークはエポキシ系樹脂で封印固定されている。これは、ユニットから浴びることになる磁気的悪影響や振動、温圧による揺さぶりからネットワーク素子を守るためだ。
 一方、使用素子は厳密に選別され、1%以内という誤差許容度を確保しているという。またネットワーク本体に、プリント基板を使用していないとのことだ。
 パワーアンプとの接続はバイワイヤリング接続のみならず、トライワイヤリング接続も可能で、バイアンプ駆動にも対応している。
 先端指向のアプローチがなされた結果は、音そのものに見事に反映しており、トランジェント特性の良さゆえの、本物の柔らかさがあり、透明で濁りのない響きは、特にアコースティックな楽器の持つ響きのリアルさや、澄み切った再現性において第一級の冴えをみせる。
 ギターを弾く音、管楽器のエネルギー、怒涛のような音の盛り上がり、そういったものが、見た目の瀟洒な作りからは想像できないレベルで再現された。これは家庭用の羊の顔をかぶったモンスターといえそうだ。

マイクロメガ CDf1 Premium

早瀬文雄

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 フランス・マイクロメガ社製CDプレーヤー/CDF1プレミアムが本邦でも発売されることになった。
 同社はヨーロッパ圏で唯一のCDプレーヤー専業メーカーであり、CDF1プレミアムはその代表的な位置を占める製品である。
 写真からもわかるようにトップローディングタイプであるため、分厚く丁寧な作りのアクリル製ダストカバー(という表現がしたくなるような)をまず開けるところから〝儀式〟は始まる。
 ディスクを乗せ、さらに専用スタビライザーを装着し、ゆっくりとカバーを閉めるという一連の動作が必要なのだ。
 コンパクトですっきりとしたデザインから、軽くて可愛らしい音を想像していたのだが、実際に音が鳴り始めるや、そうしたあらぬ先入観は直ちに吹き飛んだ。
 さすがフランス製というだけあって、響きには、絵画的な色彩感や艶がのり、つぼを押えた音の隈取りの明快さにまず驚かされた。弾力のある暖かい響きには、味わいの豊かな個性的な面もあり、聴きごたえ十分だ。さらに適度な重量感もあり、ほどよく広がる音場にはどこか大人っぽい雰囲気があった。
 決して個性だけで聴かせる製品ではなく、現代的な情報処理能力も十分にもっていて、すっきりしたデザインに精度感が音の面からも感じることができた。したがって、現代的な録音の透明感や繊細感も十分に表現可能だ。
 注目のドライブメカは、すでに高い信頼性を獲得しているフィリップス製アルミダイキャストベースのCDM1IIにCDM4ピックアップを搭載している。
 フローティングには、同社のオリジナル機構が採用され、徹底した防振対策がとられているという。
 ディスクスタビライザーは、内部損失の大きいケブラー繊維とカーボンファイバー、そして直径がおよそ30mm、重さ約120gの真鍮製ウェイトから構成されている。
 D/Aコンバーターには、フィリップス製クラウンマーク付ヴァージョンS1仕様を採用し、アナログ回路はディスクリート構成クラスAオペレーションアンプとし、左右独立の大型トロイダルトランスを定電圧回路に採用している。
 またアナログアンプ部は、電源プラグをコンセントに差し込むと常に通電され、フロントパネルの電源スイッチのオン/オフによらず、ヒートアップが準備された状態で聴くことができるようになっており、短時間のウォームアップで所期の性能が得られるよさばかりでなく、動作の安定性も高めているという。

チェロ Amati MKII

早瀬文雄

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 マーク・レヴィンソン氏の主宰する米国チェロ社より、スピーカーシステム/アマティが改良され、タイプIIとなり再登場した。
 写真のごとく、スピーカー本体は、かつてのAR社LSTをベースにしているとはいえ、ユニットや内部配線、ネットワークにはまったく独自の設計が施され、また、エンクロージュア自体の材質も異なるようだ。
 氏はホーンタイプスピーカーが必然的にもつホーンの固有音をナーヴァスまでに嫌ってる様子で、あくまでも柔らかく、かつしなやかな響きを追求しているようだ。それが、このアマティIIからも実によくうかがえる。
 30cmのウーファーをベースに、ソフトドーム型スコーカー4個、特殊なペーパーを成形した2cmという比較的小口径のドーム型トゥイーター4個を搭載している。
 このシステムは専用スタンドの使用で片チャンネルあたり2本のスピーカーをスタックして使用することがオリジナルだが、ユーザの希望により片チャンネル1本ずつの使用も可能だということである。
 メーカー純正の黒ミカゲ石をベースにした超重量級のスタンドは、標準的なリスニングルームではやや背が高く、また強固な床を要求するため、輸入元では、特注の木製スタンドを使用状況に合せ供給する用意があるとのことだ。
 なお、試聴はオリジナルの状態のみで行っている。
 アマティIIはオーソドックスな構成をとり、伝統的なスピーカー造りのセオリーを踏襲してゆったりとした落ち着いた響きを基調にしている。
 ダイナミックな音楽にも想像以上に追従する現代的な側面も備えているが、やはり最先端指向の製品の持つ情報処理能力、克明なディテールの再現性という点では一歩を譲るようだ。というより、初めから狙っている線が明らかに違うものだということが、先端指向のスピーカーとの比較でより明らかになる。
 おおらかで、刺激的な音が出にくく、弦楽器のトロッとした自然なホールトーンは、長時間音楽を穏やかな気持ちで聴く気分にさせてくれる。ゆったりとしたソファーに身を沈め、グラス片手に音楽に接する、そんな聴き方がよりふさわしい製品という印象である。
 ジャズ系のソースでも、サックスの咆哮や打楽器のパルシヴな音の立上りはマイルドで、全体的な響きの溶け合う雰囲気的な表現が主体になろう。ただ、オーディオパレットの併用では、かなりダイレクトでスッキリした表現に追い込むことも可能であった。
 条件が許されるなら、オールチェロシステムのメインスピーカーとして楽しむべき製品といえよう。

メリオワ ControlCenter, Poweramp.

早瀬文雄

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 カナダのモントリオールに本拠をかまえるミュージアテックス・オーディオ社より、〝マイトナー〟シリーズの姉妹機に相当する〝メリオア〟シリーズが登場した。
 コンパクトで美しい仕上げのウッドケースに納められ、シンプルなブラックフェイスのデザイン、その垢抜けして飄々としたところが好みの分かれるところでもあったマイトナーだが、部屋の空気に自然に溶け込む存在感の軽妙さは、またカナダ版クォードともいえそうな雰囲気があった。
 今回発表されたメリオワ/コントロールセンターは、リモートコントロールユニットですべての機能が操作でき、しかも8系統ある入力をユーザのニーズに応じてメモリー可能な機能を有している点が目新しい。しかも、各入力端子ごとに、ボリュウム、バランスのレベルを個別に設定しメモリーできるという画期的なものだ。
 フォノイコライザーはなく、アナログディスクの再生にさいしては、なんらかのイコライザーアンプが必要であるが、近日中には同シリーズのフォノアンプが発売される模様だ。
 全体の仕上げはマイトナー・シリーズに一歩譲るとはいえ、このシンプルなデザインの良さには変りはない。
 試聴は、同時発売のパワーアンプとの組合せで行なったが、一聴して、相当にすっきりとした響きであり、生真面目さを感じさせるやや寒色的な響きで、音楽に真面目に向かい合うといった気分にさせてくれる響きだ。
 こうしたコンセプトの製品にはリラックスした、テンションのやや緩めの響きが多い中にあって、スケールこそやや小ぶりだがこれは辛口で本格派の音といえる。
 そういった点でも、これはかなりクォードを意識した作りではないかという気がしてくる。
 小編成の室内楽曲などでそのよさが発揮され、指揮者の意図や緑音の意図などをぼかさないのである。たとえば、新しい解釈による最近の古楽器オーケストラがもつ響きの端整さや潔癖さ、清潔感といったものに、しっかりとした音の骨格やオーケストラの構成要素をはっきりと描き出すのだ。プリアンプ、パワーアンプとも回路の詳細は不明だが、オーソドックスに真面目に作られた機械という印象が強い。
 ただ、おしむらくは、リモコンユニットのデザインと作りだ。システム全体の作りにそぐわない玩具っぽさがあって残念だ。
 リモコンで操作することが前提である以上、クォードやB&Oのように、その機能、あるいは手に持った時の質感、重さ、操作性に、えもいわれぬ馴染みのよさをもっている製品が既にあり、ぜひともみならってもらいたいものだと感じた。

ソニー CDP-R1a + DAS-R1a

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 温和で、しなやかな充分に磨き込まれた音を持った、雰囲気のよい音を聴かせるプレーヤーである。
 ロッシーニは、しなやかではあるが、スッキリとした音を指向した音を聴かせる。各楽器はひととおり分離するが、各パートの声は少し伸び切らない印象となる。音場感情報量、柔らかく定位する小さな音像など、平均を超すレベルだ。ピアノトリオは、ホールの響きをたっぷりと聴かせるサロン風なまとまりである。中高域には硬質な面があり、音の輪郭を聴かせる効果はあるが、ヴァイオリン、チェロの高域成分は少し硬い。ブルックナーは、一応のレベルの音だが全体にちぐはぐな面があり、再生系との相性の悪さが出た音だ。平衡出力では、コントラストが下がり、フレキシビリティは出るが、三万二してまとまらない。ジャズは集中力が不足し、力がいま一歩の印象でまとまらない。もう少し低域のリズム感が支えれば、一応の水準になる印象が強い。

マイクロ CD-M2DC + DC-M2

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 穏やかで、一種独特の重さ、暗さがある渋い音を持つ個性的な音である。CDとしては再生する情報量は多く、演奏会場の空気の動きや椅子などのキシミ、楽器のノイズなどを聴かせる。試聴位置は中央の標準位置。ロッシーニは、基本的にはウォームトーン系のまとまりだが、角がとれたクッキリとした音はアナログディスク的なイメージがある。各パートの声は少し伸びが抑えられ、音像はフワッと大きく定位する。ピアノトリオは、低域が重く粘りがあり反応は遅いが、中低域以上はほどよく立上りの良い素直な音であるため、低域のコントロールをすれば個性的な良い音になるだろう。ブルックナーは、音楽的な意味でのブルックナーらしさがあるが、オーディオ的には見通しが悪く、晴々としない音である。平衡接続ではプレゼンスは良くなるが、ダイナミックレンジは抑えられ、表情も鈍くなる。ジャズは、狭帯域型バランスと閉鎖空間的プレゼンスが特徴だが、安定度、力感が欲しい。

ソニー CDP-R3

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 音の粒子が細かく、滑らかに磨き込まれた低域から中域と、聴感上で高域がゆるやかに下降したかのように聴きとれる、柔らかく穏やかな帯域バランスをもつが、基本クォリティが高く、際立ちはしないが、聴き込むとナチュラルに切れ込む音の分離は相当なものだ。ロッシーニは、中高域に輝きのある硬質さが時折顔を出すが、空間の拡がり感もあり、やはり価格に見合うだけのクォリティの高さが感じられる。ピアノトリオは、全体に低軟・高硬の2ウェイスピーカー的なまとまりとなり、一種のアンバランスの魅力があるまとまりといえるだろう。ブルックナーは、演奏会場の暗騒音もよく聴きとれ、一応の水準を保つ音だ。平衡出力は、全体域にゆとりがあり、しなやかさが加わって弦楽器系の硬質な音が解消され、見かけ上でのダイナミックレンジも大きく聴かれるが、高域は抑え気味。ジャズは、ライヴハウス的イメージの音で、音源が少し遠くなるが、適度なノリで、かなり楽しめる。

メリディアン 206

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 全体に各種プログラムソースを、ややクラシカルな個性的な自分の音として消化して聴かせる独特のキャラクターに注目したい製品。ロッシーニは、全体にナローレンジで硬質な音にまとまり、情報量は少ないが、古いアナログディスク的な一面のある音とでも表現したい印象がある。ピアノトリオは、206の硬質な個性がよく出た明快なピアノとチェロがオーディオ的にわかりやすいコントラストを聴かせる。音場感は少し狭いタイプだ。ブルックナーは、音の輪郭をクッキリと聴かせる、かなり個性的なまとまりとなるが、一種の思い切りの良さが感じられるポイントを押えた音楽の聴かせ方は、再生音楽としてオーディオ的にこれならではの魅力を感じる向きもありそうだ。ジャズは、明快なクッキリとした音を描くまとまりである。聴き込めばブラスは薄く、ベースが小さく硬調となるが、余分な音を整理し、分離よく聴かせどころを巧みに残したような独特の個性は興味深い。

アキュフェーズ DP-11

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 柔らかく、軽く、爽やか指向の音をもつデルであるが、音情感はフワッと柔らかい雰囲気にまとまる傾向があり、見通しの良さは平均的程度である。ロッシーニは爽やかで軽い音にまとまるが、中高域に独特の輝く個性があり、声の伸びやかさを抑え気味として聴かせ、空間の拡がりも不足気味。ピアノトリオは音色が暗く、暖色系となり、中域の表情が硬く、息つぎの音が少し誇張気味に感じられ、プレゼンスもあまり出ない。
 ブルックナーは予想よりも大掴みで、大味なまとまりとなり、低域に誇張感がある。全体に力がなく、低域の輪郭の明瞭な特徴が活かせない。平衡出力は、空間の再現能力が高く、ホールの広さが感じられるようになる。低域の軟調描写傾向は残り、大太鼓はボケ気味で、弦楽器が全体に硬くなるが、全体のバランスは保たれている。プログラムソース全般に同一傾向があり、再生システムとの、いわゆる相性のようでもある。

フィリップス LHH500

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 柔らかく角のとれた、しやかで雰囲気のよい音をもつモデルである。プログラムソースとの対応の幅は広く、あまりハイファイ調とせず聴きやすいが、音楽的に内容のある音をもつ点は、大変に好ましい。ロッシーニは、ほどよくプレゼンスのあるナチュラルな音だ。ほどよく明るい音色と、中域から中高域にかけての素直な音は魅力的でさえある。低域の質感が甘い面もあるが、まとまりの良さはフィリップスらしい特徴である。ピアノトリオは、サロン風なまとまりとなり、予想より音の厚み、音場感情報が不足気味で、中高域に強調感があり、息つぎの音の自然さがなく、気になる。ブルックナーは、全体にコントラスト不足で音が遠いが、平衡出力にすると音情感はたっぷりとあり、音の芯も明快で一段と高級機の音になる。ダイナミックレンジ的伸びと鮮度感が不足気味で、fレンジは少し狭くなり、中域の量感がむしろ減る傾向となる。ジャズは実在感がいま一歩で分離もいま一歩。

ビクター XL-Z1000 + XP-DA1000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 音場感情報が豊かで、音楽が演奏されている空間の拡がりを、ゆったりとした余裕のあるプレゼンスで聴かせる特徴がある。ロッシーニでは、予想より硬質な面と、音の分離にいまひとつの感があるが、木管楽器特有の高質さとふくらみや、コントラバスのピチカートなどはかなり実体感があり、見通しもよい。ピアノトリオは、中高域に少し硬質さがある薄味傾向のまとまり。楽器のメカニズムの出す固有のノイズをかなり聴かせるが、ピアノのリアリティは抑えられる。ヴァイオリン、チェロは少し硬質で、やや響き不足の音だ。ブルックナーは、奥行きの深い空間を感じさせる音場感の豊かさがあり、響きはたっぷりとあるが全体に力不足で、トゥッティで音の混濁感がある。平衡出力では、スッキリと見通しの良さが聴かれ、反応の軽さが出るが、再生系の持つ一種の重さ、暗さがある低域が全体のバランスを崩しているようで、これは聴取位置が左側に偏っていることも関係がある。

デンオン DCD-3500RG

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より
 適度に緻密で安定感のある中域を中心に、ナチュラルな帯域バランスと標準的な音情感の再現能力、明快な音像定位が聴かれるリファレンスモデル的な内容の音は、昨年発表された時点とは格段の差のグレードアップである。聴取位置は中央の標準位置である。ロッシーニは柔らかい雰囲気型の音で、音像は奥に定位する。安定度は充分にあるが密度感が不足気味で、ウォームアップ不足だ。ピアノトリオは、安定感のある帯域バランスと芯のしっかりした音で、一種の重厚さめいた印象が特徴。ブルックナーは厚みのある安定した、いわば立派な音だが、トゥッティでは混濁気味。平衡出力では、ホールトーンはたっぷりとあるが表情が甘く、コントラスト不足の音で、かなり音量を変え、セッティングを少し変えた程度では変化がなく、再生系との相性の問題がありそうだ。ジャズは、低域が腰高で安定せず、全体にモコモコとした一種の濁りのある音とプレゼンスでまとまらない音だ。

EMT 981

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 整然とした硬質な音を、適度な力感を持って聴かせる個性型のプレーヤーだ。ロッシーニでは、弦、木管などのハーモニクスが個性的な輝きを持ち、コリッとした硬めのテノールは本機の特徴を物語る。音場感は特に広くはなく、ある限定された空間にピシッと拡がり、輪郭がクッキリとした音像定位はクリアーで見事である。ピアノトリオは間接音成分が抑えられ、スタジオ録音的まとまりとなるが、硬質で実体感のある音は楽器が身近に見える一種の生々しさがあり楽しい。ブルックナーは、トゥッティで少しメタリックな強調感があるが、音源が予想より遠くスケール不足の音だ。No.26Lの不平衡入力から平衡入力に替えると、音場感、各パートの楽器の音がかなり自然になり、このクラス水準の音になるが、編成の大きなオーケストラのエネルギー感は不足気味だ。それにしても、ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか。

パイオニア PD-5000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 響きの豊かさがあり、基本的なクォリティが高く、各プログラムソースの特徴を引き出しながら、安定感のある立派な音が聴ける製品だ。ロッシーニでは、自然な拡がりのあるホールトーンと安定した音を聴かせ、音像の立ち方もやや立体的なイメージがある。中域の一部には少し硬質な傾向があり、楽器の分離がよくリアリティのある音で描く効果があり、柔らかく質感のよい低域と巧みなバランスを保つ。ピアノトリオは響きが豊かで、ディテールをサラッと聴かせる素直な再現能力と実体感のある音像定位が好ましいが、再生システムのキャラクターか、やや硬調な描写となりやすく、アタック音が少しなまり気味だ。ブルックナーも共通で金管が硬く聴かれ、トゥッティの分離がいま一歩であるが、安定した質感のよい音と自然なプレゼンスは相当によい。低域の伸び、ゆとりに少し不満が残るが、価格からは無理な注文だろう。ジャズは、低域腰高で軟調傾向だが、よくまとまる。

ティアック P-500 + D-500

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 全体にプログラムソースの音を軽く、柔らかい傾向の音として聴かせる。いわば個性の強い製品ではあるが、音色が暗くならず、表情に鈍さがないことが好ましい。ロッシーニは、かなり広帯域型のfレンジと、軽く滑らかな雰囲気のよい音だが、少し実体感が欲しいまとまりだ。ピアノトリオは、楽器の低音成分が多く、やや中域を抑えたバランスの、線が細く柔らかな音だ。音場は引っ込み奥に拡がり、響きはきれいだが音源は遠く、細部は不明の音。ブルックナーは、音源は遠いが、空間を描く音場感のプレゼンスはナチュラルでフワッとした雰囲気があり、これでよい。トゥッティでは予想外に中高域に輝く個性があり硬質な面が顔を出すが、それなりのバランスで聴かせるあたりは、ターンテーブル方式の利点であるのかもしれない。ジャズは、定位はブーミーでエネルギー感が抑え気味となり、いまひとつ弾んだリズム感が不足気味で、見通しもやや不足気味だ。

テクニクス SL-Z1000 + SH-X1000

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 柔らかくフワッとした、温和な音を聴かせるモデルであるが、ローレベルのこまやかさが描けるようになり、音の消えた空間の存在がわかること、帯域バランス的には中域の質感が改善され、硬さの表現ができるようになったことが、従来と変った点だ。なお、聴取位置は中央の標準位置である。ロッシーニでは、空間の拡がりを感じさせる暗騒音も充分に聴かれ、柔らかい雰囲気を持ちながらこまやかさがある素直な音である。音像は小さくソフトに立つ。ピアノトリオはプレゼンスよく、光沢を感じさせる、ほどよく硬質な各楽器のイメージは、かなり聴き込めるが、低域はいまひとつ分離しない。ブルックナーは、ややこもった音場感でスケール感もあるが、アタックの音が軟らかく、抑揚が抑え気味となり単調に感じられる。平衡出力では,ベールが一枚なくなったようなスッキリした音場感、各パートの楽器の分離などでは優れるが、鈍い低域が問題で、再生系と相性が悪い。

ソニー CDP-X77ES

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 聴感上での帯域バランスを重視し、あまり広帯域のfレンジとせず巧みに総合的な音をまとめた印象が強い手堅いモデルだ。ロッシーニは、音の細部にこだわらず素直なバランスの音を聴かせる。表情は真面目で少し抑える傾向があるが、ややウォームアップ不足気味の音と思われる。ピアノトリオは、柔らかく線の細いピアノと硬質なヴァイオリン、線が太く硬さのあるチェロのバランスとなるが、金属的に響かないのが好ましい点だ。しかし、響きが薄く、厚みがいま一歩不足気味である。ブルックナーは、線が太く硬い鉛筆で描いたような一種の粗さがあり、演奏会場のかなり後ろの席で聴いたような音の遠さがある。平衡出力にすると、バランスは広帯域型に変り、全体に薄いが独特のクリアーさ、シャープさのある音になり、高域はむしろ透明感がかげりがちだ。ジャズは薄味の軽快指向のまとまりで、表彰が表面的になりやすく、低域の質感をどうまとめるかがポイントだ。

エソテリック P-2 + D-2

井上卓也

ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
特集・「最新CDプレーヤー14機種の徹底試聴」より

 聴感上でのS/Nが優れ、音場感情報が充分にあり、奥行き方向のパースペクティヴ、上下方向の高さの再現ができるのが最大の特長。試聴は2度行ない、聴取位置は中央の標準的位置だ。細部の改良で基本的な音の姿・形は変らないが聴感上でのS/Nが向上したため、低域の質感や反応の素直さをはじめ、全体の音は明瞭に改善されている。ロッシーニは、柔らかいプレゼンスのよい音である。音の細部はソフトフォーカス気味に美しく聴かせるが、各パートの声や木管などのハーモニクスに適度な鮮度感があり、薄味傾向の音としては、表情もしなやかで一応の水準にまとまる。ピアノトリオは、サロン風のよく響く音だが、表情は少し硬い。ブルックナーは、奥深い空間の再現性に優れ、予想より安定した低域ベースの実体感のある音である。平衡出力では、音場感は一段と増すが、音の密度感、力感は抑えられる。ジャズはプレゼンスよく安定感のある低域ベースの良い音だ。

白いキャンバスを求めて

黒田恭一

ステレオサウンド 92号(1989年9月発行)
「白いキャンバスを求めて」より

 感覚を真っ白いキャンバスにして音楽をきくといいよ、といわれても、どのようにしたら自分の感覚をまっ白にできるのか、それがわからなくてね。
 そのようにいって、困ったような表情をした男がいた。彼が律義な人間であることはわかっていたので、どのように相槌をうったらいいのかがわからず、そうだね、音楽をきくというのはなかなか微妙な作業だからね、というような意味のことをいってお茶をにごした。
 その数日後、ぼくは、別の友人と、たまたま一緒にみた映画のことを、オフィスビルの地下の、中途半端な時間だったために妙に寝ぼけたような雰囲気の喫茶店ではなしあっていた。そのときみたのは、特にドラマティックともいいかねる物語によった、しかしなかなか味わい深い内容の映画であった。今みたばかりの映画について語りながら、件の友人は、こんなことをいった。
 受け手であるこっちは、対象に対する充分な興味がありさえすれば、感覚をまっ白にできるからね……。
 彼は、言外に、受け手のキャンバスが汚れていたのでは、このような味わいのこまやかな映画は楽しみにくいかもしれない、といいたがっているようであった。ぼくも彼の感想に同感であった。おのれのキャンバスを汚れたままにしておいて、対象のいたらなさをあげつらうのは、いかにも高飛車な姿勢での感想に思え、フェアとはいえないようである。名画の前にたったときには眼鏡をふき、音楽に耳をすまそうとするときには綿棒で耳の掃除をする程度のことは、最低の礼儀として心得ておくべきであろう。
 しかし、そうはいっても、眼鏡をいつでもきれいにしておくのは、なかなか難しい。ちょうどブラウン管の表面が静電気のためにこまかい塵でおおわれてしまってもしばらくは気づきにくいように、音楽をきこうとしているときのききてのキャンバスの汚れもまた意識しにくい。キャンバスの汚れを意識しないまま音楽をきいてしまう危険は、特に再生装置をつかって音楽とむきあおうとするときに大きいようである。
 自分の部屋で再生装置できくということは、原則として、常に同じ音で音楽をきくということである。しりあったばかりのふたりであれば、そこでのなにげないことばのやりとりにも神経をつかう。したがって、ふたりの間には、好ましい緊張が支配する。しかしながら、十年も二十年も一緒に生活をしてきたふたりの間ともなれば、そうそう緊張してもいられないので、どうしたって弛緩する。安心と手をとりあった弛緩は眼鏡の汚れを呼ぶ。
 長いこと同じ再生装置をつかってきいていると、この部分がこのようにきこえるのであれば、あの部分はおそらくああであろう、と無意識のうちに考えてしまう。しかも、困ったことに、そのような予断は、おおむね的中する。
 長い期間つかってきた再生装置には座りなれた椅子のようなところがある。座りなれた椅子には、それなりの好ましさがある。しかし、再生装置を椅子と同じに考えるわけにはいかない。安楽さは、椅子にとっては美徳でも、再生装置にとってはかならずしも美徳とはいいがたい。安心が慢心につながるとすれば、つかいなれた再生装置のきかせてくれる心地よい音には、その心地よさゆえの危険がある。
 これまでつかってきたスピーカーで音楽をきいているかぎり、ぼくは、気心のしれた友だちとはなすときのような気持でいられた。しかし、同時に、そこに安住してしまう危険も感じていた。なんとなく、この頃は、きき方がおとなしくなりすぎているな、とすこし前から感じていた。ききてとしての攻撃性といっては大袈裟になりすぎるとしても、そのような一歩踏みこんだ音楽のきき方ができていないのではないか。そう思っていた。ディスクで音楽をきくときのぼくのキャンバスがまっ白になりきれていないようにも感じていた。
 ききてとしてのぼく自身にも問題があったにちがいなかったが、それだけではなく、きこえてくる音と馴染みすぎたためのようでもあった。それに、これまでつかっていたスピーカーの音のS/Nの面で、いささかのものたりなさも感じていた。これは、やはり、なんとかしないといけないな、と思いつつも、昨年から今年の夏にかけて海外に出る機会が多く、このことをおちおち考えている時間がなかった。
 しかし、ぼくには、ここであらためて、新しいスピーカーをどれにするかを考える必要はなかった。すでに以前から、一度、機会があったら、あれをつかってみたい、と思っていたスピーカーがあった。そのとき、ぼくは、漠然と、アポジーのスピーカーのうちで一番背の高いアポジーを考えていた。
 アポジーのアポジーも結構ですが、あのスピーカーは、バイアンプ駆動にしないと使えませんよ。そうなると、今つかっているパワーアンプのチェロをもう一組そろえないといけませんね。電話口でM1が笑いをこらえた声で、そういった。今の一組でさえ置く場所に苦労しているというのに、もう一組とはとんでもない。そういうことなら、ディーヴァにするよ。
 というような経過があって、ディーヴァにきめた。それと、かねてから懸案となっていたチェロのアンコール・プリアンプをM1に依頼しておいて、ぼくは旅にでた。ぼくはM1の耳と、M1のもたらす情報を信じている。それで、ぼくは勝手に、M1としては迷惑かもしれないが、M1のことをオーディオのつよい弟のように考え、これまでずっと、オーディオに関することはなにからなにまで相談してきた。今度もまた、そのようなM1に頼んだのであるからなんの心配もなく、安心しきって、家を後にした。
 ぼくは、スピーカーをあたらしくしようと思っているということを、第九十一号の「ステレオサウンド」に書いた。その結果、隠れオーディオ・ファントでもいうべき人が、思いもかけず多いことをしった。全然オーディオとは関係のない、別の用事で電話をしてきた人が、電話を切るときになって、ところで、新しいスピーカーはなににしたんですか? といった。第九十一号の「ステレオサウンド」が発売されてから今日までに、ぼくは、そのような質問を六人のひとからうけた。四人が電話で、二人が直接であった。六人のうち三人は、それ以前につきあいのない人であった。しかも、そのうちの四人までが、そうですか、やはり、アポジーですか、といって、ぼくを驚かせた。
 たしかに、アポジーのディーヴァは、一週間留守をした間にはこびこまれてあった。さすがにM1、することにてぬかりはないな、と部屋をのぞいて安心した。アンプをあたためてからきくことにしよう。そう思いつつ、再生装置のおいてある場所に近づいた。そのとき、そこに、思いもかけないものが置かれてあるのに気づいた。
 なんだ、これは! というまでもなく、それがスチューダーのCDプレーヤーA730であることは、すぐにわかった。A730の上に、M1の、M1の体躯を思い出させずにおかない丸い字で書いたメモがおかれてあった。「A730はアンコールのバランスに接続されています。ちょっと、きいてみて下さい!」
 スチューダーのA730については、第八十八号の「ステレオサウンド」に掲載されていた山中さんの記事を読んでいたので、おおよそのことはしっていた。しかし、そのときのぼくの関心はひたすらアポジーのディーヴァにむいていたので、若干の戸惑いをおぼえないではいられなかった。このときのぼくがおぼえた戸惑いは、写真をみた後にのぞんだお見合いの席で、目的のお嬢さんとはまた別の、それはまたそれでなかなか魅力にとんだお嬢さんに会ってしまったときにおぼえるような戸惑いであった。
 それから数日後に、「ステレオサウンド」の第九十一号が、とどいた。気になっていたので、まず「編集後記」を読んだ。「頼んだものだけが届くと思っているのだろうが、あまいあまい。なにせ怪盗M1だぞ、といっておこう」、という、M1が舌なめずりしながら書いたと思えることばが、そこにのっていた。
 困ったな、と思った。なにに困ったか、というと、ぼくのへぼな耳では、一気にいくつかの部分が変化してしまうと、その変化がどの部分によってもたらされたのか判断できなくなるからであった。しかし、いかに戸惑ったといえども、そこでいずれかのディスクをかけてみないでいられるはずもなかった。すぐにもきいてみたいと思う気持を必死でおさえ、そのときはパワーアンプのスイッチをいれるだけにして、しばらく眠ることにした。飛行機に長い時間ゆられてきた後では、ぼくの感覚のキャンバスはまっ白どころか、あちこちほころびているにちがいなかった。そのような状態できいて、最初の判断をまちがったりしたら、後でとりかえしがつかない、と思ったからであった。
 ぼくは、プレーヤーのそばに、愛聴盤といえるほどのものでもないが、そのとき気にいっているディスクを五十枚ほどおいてある。そのうちの一枚をとりだしてきいたのは、三時間ほど眠った後であった。風呂にもはいったし、そのときは、それなりに音楽をきける気分になっていた。
 複合変化をとげた後の再生装置でぼくが最初にきいたのは、カラヤンがベルリン・フィルハーモニーを指揮して一九七五年に録音した「ヴェルディ序曲・前奏曲集」(ポリドール/グラモフォン F35G20134)のうちのオペラ「群盗」の前奏曲であった。此のヴェルディの初期のオペラの前奏曲は、オーケストラによる総奏が冒頭としめくくりにおかれているものの、チェロの独奏曲のような様相をていしている。ここで独奏チェロによってうたわれるのは、初期のヴェルディならではの、燃える情熱を腰の強い旋律にふうじこめたような音楽である。
 これまでも非常にしばしばきいてきた、その「群盗」の前奏曲をきいただけですでに、ぼくは、スピーカーとプリアンプと、それにCDプレーヤーがかわった後のぼくの再生装置の音がどうなったかがわかった。なるほど、と思いつつ、目をあげたら、ふたつのスピーカーの間で、M1のほくそえんでいる顔をみえた。
 恐るべきはM1であった。奴は、それまでのぼくの再生装置のいたらないところをしっかり把握し、同時にぼくがどこに不満を感じていたのかもわかっていたのである。今の、スピーカーがアポジーのディーヴァに、プリアンプがチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーがスチューダーのA730にかわった状態では、かねがね気になっていたS/Nの点であるとか、ひびきの輪郭のもうひとつ鮮明になりきれないところであるとか、あるいは音がぐっと押し出されるべき部分でのいささかのものたりなさであるとか、そういうところが、ほぼ完璧にといっていいほど改善されていた。
 オペラ「群盗」の前奏曲をきいた後は、ぼくは、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」(アルファレコード/CYPREE 32XB123)をとりだして、そのディスクのうちの「すてきな青いレインコート」をきいた。この歌は好きな歌であり、また録音もとてもいいディスクであるが、ここで「すてきな青いレインコート」をきいたのには別の理由があった。「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」は、傅さんがリファレンスにつかわれているディスクであることをしっていたからであった。傅さんは、先刻ご存じのとおり、アポジーをつかっておいでである。つまり、ぼくとしては、ここで、どうしても、傅さんへの表敬試聴というのも妙なものであるが、ともかく先輩アポジアンの傅さんへの挨拶をかねて、傅さんの好きなディスクをききたかったのである。
 さらにぼくは、「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾほチェロ/ウェルナー・トーマス」(日本フォノグラム/オルフェオ 32CD10106)のうちの「ジャクリーヌの涙」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」(EMI CDC7476772)のうちの「セビリャの理髪師」であるとか、あるいは「O/オルネッラ・ヴァノーニ」(CGD CDS6068)のうちの「カルメン」であるとか、いくぶん軽めの、しかし好きで、これまでもしばしばきいてきた曲をきいた。
 いずれの音楽も、これまでの装置できいていたとき以上に、S/Nの点で改善され、ひびきの輪郭がよりくっきりし、さらに音がぐっと押し出されるようになったのが関係してのことと思われるが、それぞれの音楽の特徴というか、音楽としての主張というか、そのようなものをきわだたせているように感じられた。ただし、その段階での音楽のきこえ方には、若い人が自分のいいたいことをいいつのるときにときおり感じられなくもない、あの独特の強引さとでもいうべきものがなくもなかった。
 これはこれでまことに新鮮ではあるが、このままの状態できいていくとなると、感覚の鋭い、それだけに興味深いことをいう友だちと旅をするようなもので、多少疲れるかもしれないな、と思ったりした。しかし、スピーカーがまだ充分にはこなれていないということもあるであろうし、しばらく様子をみてみよう。そのようなことを考えながら、それからの数日、さしせまっている仕事も放りだして、あれこれさまざまなディスクをききつづけた。
 ところできいてほしいものがあるですがね。M1の、いきなりの電話であった。いや、ちょっと待ってくれないか、ぼくは、まだ自分の再生装置の複合変化を充分に掌握できていないのだから、ともかく、それがすんでからにしてくれないか。と、一応は、ぼくも抵抗をこころみた。しかし、その程度のことでひっこむM1でないことは、これまでの彼とのつきあいからわかっていた。考えてみれば、ぼくはすでにM1の掌にのってしまっているのであるから、いまさらじたばたしてもはじまらなかった。その段階で、ぼくは、ほとんど、あの笞で打たれて快感をおぼえる人たちのような心境になっていたのかもしれず、M1のいうまま、裸の背中をM1の笞にゆだねた。
 M1がいそいそと持ちこんできたのは、ワディア2000という、わけのわからない代物だった。M1の説明では、ワディア2000はD/Aコンバーターである、ということであったが、この常軌を逸したD/Aコンバーターは、たかがD/Aコンバーターのくせに、本体と、本隊用電源部と、デジリンク30といわれる部分と、それにデジリンク30用電源部と四つの部分からできていた。つまり、M1は、スチューダーのA730のD/Aコンバーターの部分をつかわず、その部分の役割をワディア2000にうけもたせよう、と考えたようであった。
 ワディア2000をまったくマークしていなかったぼくは、そのときにまだ、不覚にも、第九十一号の「ステレオサウンド」にのっていた長島さんの書かれたワディア2000についての詳細なリポートを読んでいなかった。したがって、その段階で、ぼくはワディア2000についてなにひとつしらなかった。
 ぼくの部屋では、客がいれば、客が最良の席できくことになっている。むろん、客のいないときは、ぼくが長椅子の中央の、一応ベスト・リスニング・ポジションと考えられるところできく。ワディア2000を接続してから後は、M1がその最良の席できいていた。ぼくは横の椅子にいて、M1の顔をみつつ、またすこし太ったのではないか、などと考えていた。M1が帰った後で、ひとりになってからじっくりきけばいい、と思ったからであった。そのとき、M1がいかにも満足げに笑った。ぼくの席からきいても、きこえてくる音の様子がすっかりちがったのが、わかった。
 ぼくの気持をよんだようで、M1はすぐに席をたった。いかになんでも、M1の目の前で、嬉しそうな顔をするのは癪であった。M1もM1で、余裕たっぷりに、まあ、ゆっくりきいてみて下さい、などといいながら帰っていった。
 ワディア2000を接続する前と後での音の変化をいうべきことばとしては、あかぬけした、とか、洗練された、という以外になさそうであった。昨日までは泥まみれのじゃがいもとしかみえなかった女の子が、いつの間にか洗練された都会の女の子になっているのをみて驚く、あの驚きを、そのとき感じた。もっとも印象的だったのは、ひびきのきめの細かくなったことであった。餅のようにきめ細かで柔らかくなめらかな肌を餅肌といったりするが、この好色なじじいの好みそうなことばを思い出させずにはおかない、そこできこえたひびきであった。
 ぼくは、それから、夕食を食べるのも忘れて、カラヤンとベルリン・フィルハーモニーによる「ヴェルディ序曲・前奏曲集」であるとか、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」であるとか、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」であるとか、「O/オルネッラ・ヴァノーニ」であるとかを、ききなおしてみて、きこえてくる音に酔った。
 そこにいたってやっとのことで、そうだったのか、とM1の深謀遠慮に気づいた。ぼくが、アポジーのディーヴァとチェロのアンコールを依頼した段階で、M1には、スチューダーのA730+ワディア2000のプランができていたのである。ぼくの耳には、スチューダーのA730は必然としてワディア2000を求めているように感じられた。ぼくは、自分のところでの組合せ以外ではスチューダーのA730をきいていないので、断定的なことはいいかねるが、すくなくともぼくのところできいたかぎりでは、スチューダーのA730は、積極性にとみ、音楽の表現力というようなことがいえるのであれば、その点で傑出したものをそなえているものの、ひびきのきめの粗さで気になるところがなくもない。
 そのようなスチューダーのA730の、いわば泣きどころをワディア2000がもののみごとにおぎなっていた。ぼくはM1の準備した線路を走らされたにすぎなかった。くやしいことに、M1にはすべてお見通しだったのである。そういえば、ワディア2000を接続して帰るときのM1は、自信満々であった。
 どうします? その翌日、M1から電話があった。どうしますって、なにを? と尋ねかえした。なにをって、ワディア2000ですよ。どうするもこうするもないだろう。ぼくとしては、そういうよりなかった。お買い求めになるんですか? 安くはないんですよ。M1は思うぞんぶん笞をふりまわしているつもりのようであった。しかたがないだろう。ぼくもまた、ほとんど喧嘩ごしであった。それなら、いいんですが。そういってM1は電話を切った。
 それからしばらく、ぼくは、仕事の合間をぬって、再生装置のいずれかをとりかえた人がだれでもするように、すでにききなれているディスクをききまくった。そのようにしてきいているうちに、今度のぼくの、無意識に変革を求めた旅の目的がどこにあったか、それがわかってきた。おかしなことに、スピーカーをアポジーのディーヴァにしようとした時点では、このままではいけないのではないか、といった程度の認識にとどまり、目的がいくぶん曖昧であった。それが、ワディア2000をも組み込んで、今回の旅の一応の最終地点までいったところできこえてきた音をきいて、ああ、そうだったのか、ということになった。
 なんとも頼りない、素人っぽい感想になってしまい、お恥ずかしいかぎりであるが、あれをああすれば、ああなるであろう、といったような、前もっての推測は、ぼくにはなかった。今回の変革の旅は、これまで以上に徹底したM1の管理下にあったためもあり、ぼくとしては、行先もわからない汽車に飛び乗ったような心境で、結果としてここまできてしまった、というのが正直なところである。もっとも、このような無責任な旅も、M1という運転手を信じていたからこそ可能になったのであるが。
 複合変化をとげた再生装置のきかせてくれる音楽に耳をすませながら、ぼくは、ずいぶん前にきいたコンサートのことを思い出していた。そのコンサートでは、マゼールの指揮するクリーヴランド管弦楽団が、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラーの交響曲第五番を演奏した。一九八二年二月のことである。会場は上野の東京文化会館であった。記憶に残っているコンサートの多くは感動した素晴らしいコンサートである。しかし、そのマゼールとクリーヴランド管弦楽団によるコンサートは、ちがった。ぼくにはそのときのコンサートが楽しめなかった。
 第五交響曲にかぎらずとも、マーラーの作品では、極端に小さい音と極端に大きい音が混在している。そのような作品を演奏して、ppがpになってしまったり、ffがfになってしまったりしたら、音楽の表現は矮小化する。
 実力のあるオーケストラにとって、大音響をとどろかせるのはさほど難しくない。肝腎なのは、弱音をどこまで小さくできるかである。指揮者が充分にオーケストラを追いこみきれていないと、ppがpになってしまう。
 一九八二年二月に、上野の東京文化会館できいたコンサートにおけるマゼールとクリーヴランド管弦楽団による演奏がそうであった。そこでは、ppがppになりきれていなかった。
 このことは、多分、再生装置の表現力についてもいえることである。ほんとうの弱音を弱音ならではの表現力をあきらかにしつつもたらそうとしたら、オーケストラも再生装置もとびきりのエネルギーが必要になる。今回の複合変化の結果、ぼくの再生装置の音がそこまでいったのかどうか、それはわからない。しかし、すくなくとも、そのようなことを考えられる程度のところまでは、いったのかもしれない。
 大切なことは小さな声で語られることが多い。しかし、その小さな声の背負っている思いまでききとろうとしたら、周囲はよほど静かでなければならない。キャンバスがまっ白だったときにかぎり、そこにポタッと落ちた一滴の血がなにかを語る。音楽でききたいのは、そこである。マゼールとクリーヴランド管弦楽団による、ppがpになってしまっていた演奏では、したたり落ちた血の語ることがききとれなかった。
 当然、ぼくがとりかえたのは再生装置の一部だけで、部屋はもとのままであった。にもかかわらず、比較的頻繁に訪ねてくる友だちのひとりが、何枚かのディスクをきき終えた後に、検分するような目つきで周囲をみまわして、こういった。やけに静かだけれど、部屋もどこかいじったの?
 再生装置の音が白さをました分だけ、たしかに周囲が静かになったように感じられても不思議はなかった。スピーカーがアポジーになったことでもっともかわったのは低音のおしだされ方であったが、彼がそのことをいわずに、再生装置の音が白さをましたことを指摘したのに、ぼくは大いに驚かされ、またうれしくもあった。
 ぼくにとっての再生装置は、仕事のための道具のひとつであり、同時に楽しみの糧でもある。つまり、ぼくのしていることは、昼間はタクシーをやって稼いでいた同じ自動車で、夜はどこかの山道にでかけるようなものである。昼間、仕事をしているときは、おそらく眉間に八の字などよせて、スコアを目でおいつつ、スピーカーからきこえてくる音に耳をすませているはずであるが、夜、仕事から解放されたときは、アクセルを思いきり踏みこみ、これといった脈絡もなくききたいディスクをききまくる。
 そのようにしてきいているときに、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えることがある。不思議なことに、そのように考えるのは、いつもきまって、いい状態で音楽がきけているときである。ああ、ちょっと此の点が、といったように、再生装置のきかせる音のどこかに不満があったりすると、そのようなことは考えない。人間というものは、自分で解答のみつけられそうな状況でしか疑問をいだかない、ということかどうか、ともかく、複合変化をとげた後の再生装置のきかせる音に耳をすませながら、何度となく、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えた。
 すぐれた文学作品を読んだり、素晴らしい絵画をみたりして味わう感動がある。当然のことに、いい音楽をきいたときにも、感動する。しかし、自分のことにかぎっていえば、いい音楽をいい状態できいたときには、単に感動するだけではなく、まるで心があらわれたような気持になる。そのときの気持には、感動というようないくぶんあらたまったことばではいいきれないところがあり、もうすこしはかなく、しかも心の根っこのところにふれるような性格がある。
 今回の複合変化の前にも、ぼくは、けっこうしあわせな状態で音楽をきいていたのであるが、今は、その一歩先で、ディスクからきこえる音楽に心をあらわれている。心をあらわれたように感じるのが、なぜ、心地いいのかはわからないが、このところしばらく、夜毎、ぼくは、翌日の予定を気にしながら、まるでA級ライセンスをとったばかりの少年がサーキットにでかけたときのような気分で、もう三十分、あと十五分、とディスクをききつづけては、夜更かしをしている。
 そういえば、スピーカーをとりかえたら真先にきこうと考えていたのに、機会をのがしてききそびれていたセラフィンの指揮したヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」のディスク(音楽之友社/グラモフォン ORG1009~10)のことを思い出したのは、ワディア2000がはいってから三日ほどたってからであった。この一九六二年にスカラ座で収録されたディスクは、特にきわだって録音がいいといえるようなものではなかった。しかし、この大好きなオペラの大好きなディスクが、どのようにきこえるか、ぼくには大いに興味があった。
 いや、ここは、もうすこし正直に書かないといけない。ぼくはこのセラフィンの「トロヴァトーレ」のことを忘れていたわけではなかった。にもかかわらず、きくのが、ちょっとこわかった。このディスクは、残響のほとんどない、硬い音で録音されている。それだけにひとつまちがうと、声や楽器の音が金属的になりかねない。スピーカーがアポジーのディーヴァになり、さらにCDプレーヤーがスチューダーのA730になったことで、音の輪郭と音を押し出す力がました。そこできいてどのようになるのか、若干不安であった。
 まず、ルーナ伯爵とレオノーラの二重唱から、きいた。不安は一気にふきとんだ。オペラ「トロヴァトーレ」の体内に流れる血潮がみえるようにきこえた。
 くやしいけれど、このようにきけるようになったのである、ぼくは、いさぎよく、頭をさげ、こういうよりない、M1! どうもありがとう!