早瀬文雄
ステレオサウンド 94号(1990年3月発行)
「Music Consolette 偶然の結晶を求めて」より
武蔵野の面影が色濃く漂う──とよく表現される。井の頭公園あたりの閑静な住宅街は、たしかに緑がおおい。クヌギやナラの雑木林がそこそこに点在している。
早春の夕闇が街をうっすらと青く染め始める時間、僕は駅前からほそく入り組んだ道をゆっくりと歩きながら、これから聴かせていただくK氏の新しいシステムの音に期待していた。
氏のお住まいにも庭に背の高い楠があったことを思い出した。
五年前、庭に面したリスニングルームに置かれたタンノイ・オートグラフが奏でたエネスコのベートーヴェン「クロイツェル」ソナタを思い出す。心の中に眠っている遠い記憶に向かってそっと視線を戻したくなるような響きだった。
往年の名指揮者、名演奏家の50年代、60年代の名演名録音がぎっしり、かつ整然とならんだレコード・ライブラリーには度肝をぬかれた。
白髪の温厚な紳士である氏が、そのふっくらとした手で繊細にレコードを取り扱う様は、目の当たりにすると、まるでオーディオの人間国宝みたいな感じがしてくる。
曲間の無音溝にスッと針を落とす時のアームさばきはCDポン、しか知らない世代には真似のできない「芸術」だ。
たぶん、何万回におよぶ動作のくりかえしの過程で、いろいろな心の葛藤をこめて、レコードに針を落とした年輪みたいなものがあって初めて可能な所作なのかもしれない。
ウェスタンエレクトリックの300Bという3極管は、シングルで8Wほどの出力しか得られないが、これを高域用のパワーアンプに使ったふっくらとして透明な響きは今も鼓膜にしみついたままだった。
それにしても管球アンプ党の氏が買い込んだ新しいシステムとは一体何なのだろう。
「近頃CDにもよい復刻盤がそろってきたのでね、気軽に楽しんでおるよ」
そう言って電話の向こうで笑っていた。
長く続いた神楽坂の料亭で花板をしていた氏の五感を満たしたもの……。
由緒正しい日本建築のストイックな空間には新しいスピーカーシステムがなにげなく置かれていた。クォードESL63だ。
そして、そこにはある種のはりつめた空気が漂っていることを僕はすぐに感じた。
なにげなく置かれた装置の、その何気なさにどうやら原因があるようだった。
その空間の中で、その位置でしかけして上手くならないという絶対位置があるとすれば、そのスピーカーは、まさにその位置に置かれていたのだ、なにげなく。
いかにもよい音がしそうな予感が音を出す前からみなぎる。
料理でいえば、これは盛りつけの妙味みたいなものかもしれない。
「やあ、いらっしゃい」といいながらゆっくりと居間に現われた氏は、しばらくお会いしない間にほんの少しだけ痩せられたような気がした。たぶん、もう七十歳を越されているはずだ。サイドボードを開けると、アンプが出てきた。
「どう思う?」目を細め、まるで子供みたいに無邪気なお顔をされて、そう訊かれる。
クォードの最新型、66と606そしてCDプレーヤーが、あたかもずっと昔からその場にあったような自然さで、そこに並べられていた。
ややひかえ目の音量で鳴り始めたのは、ブラームスの交響曲第3番、第3楽章ハ短調、ポコ・アレグレットだった。
そうして、僕はCDのジャケットを見て驚愕した。なんと、昨年亡くなってカラヤンの最後のブラームス録音となったものだ。
「驚いたかね」
僕は黙ってうなずいた。
「カラヤンを聴く気になったのは、欧州に旅に出かけた折に、彼の墓を見てからなんだよ」
木管が甘美な哀しさをたたえた響きで揺れるように旋律を奏でる。
「もう、カラヤンを聴くまいと思って、かたくなになっていた自分の殻が剥げ落ちたんだね。死というものは、いろいろなことを人に考えさせるものだ」そう言って深いため息を一つついた。
「現実的な存在感をもつカラヤンそのものが、いつのまにか私の中で観念的なものに転倒した。そうして、むしろ観念の産物としての過去の名盤といわれるものが、私の現実になっていた。たしかに、それも悪くない。しかし、意識のねじれを自分でかんじてしまったんだよ、墓を見た時にね」
そう言って、氏はテーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばした。
機能と使い勝手が現代のクォード的にいかにも巧みにまとめられたリモコンだ。
軽いクリックの音がして、少しだけボリュウムが上がった。一般のトーンコントロールにあたる「チルト」でほんの僅かばかり高域を下げ、低域を上げてあった、シーソーみたいに。僕はじっとカラヤンのブラームスを聴いた。その時、あの後悔とも諦観とも違う独特の哀しみをたたえた旋律が流れ、僕はふいに目頭が熱くなるのを感じた。クォードの引き締まった無駄のない響きと、合理性という無機的な言葉を忘れさせるウィットとユーモアに富んだ作りは、まるで澄んだ空気の中を散策するような落ち着いた気持ちを聴くものにわけあたえてくれる。しかし、おそらく僕が同じ装置を同じように並べてみても、この音は出せないだろう。そう、これは、氏の人生の年輪の響きなのだ。
*
K氏のシステムはスピーカーにクォードESL63を使い、最新の66CDと66プリアンプ、606パワーアンプを組み合わせたものだ。7系統の入力をもつ個性的で小粋なプリアンプは、すべての操作を専用のリモコンで行なう。このリモコンの操作感は、きわめて暖かみがあり、また伝統のチルト式とトーンコントロールは、本体の美しい液晶ディスプレイに表示され実に楽しい。同時発売の66CDもプリアンプのリモコンで操作可能である。先行して発表された純正ペアとなる606パワーアンプは、コンパクトなデザインながら130Wの出力をもち、小出力時はA級動作となる。
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