瀬川冬樹
ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より
28号と続けて合計120機種以上のブックシェルフスピーカーを聴いたことになる。もしも聴くことが強制的なノルマのようなものだったら、常人ならとうに発狂してしまうかもしれない。幸か不幸か当方はすでにマニアと呼ばれ自分でも音に関してはキチガイのつもりだから、つまりとうの昔に発狂済みだからこそ、この重労働に耐えられた。
というのは、まあ半分は冗談だが、ほんとうに120もの音を聴き分けそれをまた記憶してノートして書き分けるというのは、こんな仕事には馴れたつもりの私にもいささか手に余った。本当に疲れた。そして正直に書けば、全部を聴き終えてしばらくのあいだは、オーディオが全く嫌になった。オーディオ雑誌、が目につくところに置いてあるのを見るのさえ、嫌になった。一種のノイローゼにちがいない。で、それから1ヵ月も経たないのに、もう、ニコニコしながらオーディオ仲間と話をしているのだから、やっぱり馬鹿か気狂いに違いないと再び確信している次第だが、そんな思いをしてまでスピーカーを聴くのは、ほんとうは、仕事という意識でなく私が一人のオーディオ・ファンとして、そして殊にスピーカーというパーツに最も興味を持っているマニアの一人として、どこかに、まだ私の知らない優秀なスピーカーがあるのではないか、どこかに、いま自宅で聴いている音よりももっと良い音があるのではないかという大きな期待を持って、新製品に接しているのである。そういうものを一度にならべて聴く機会があるのなら、頼み込んでも参加してみたいという、要するに物好きなアマチュアの一人として、ともかく聴いてみたい、という単純な発想から、試聴テストに加わっているにすぎない。
だから本当を言えば、アンプでもスピーカーでも数多くをテストし試聴した後で、自分でもこれなら買って聴いてみたいと思える程度の製品が例え一つでも出てきて欲しい。そういう製品を発見することは、たいへん楽しいことで、その期待があるからこそ、テストに喜んで参加する。今回もまた、三つや四つのそういうスピーカーは見付かったが、ほとんど130あまり聴いた中でのそれだから、割合からいえば3パーセントにも満たない。だとすると、これだけの数を全部聴く機会のないユーザーだったら、自分の本当に欲しい音にめぐり会えるまでに、やっぱり何度か失敗せざるを得ないと思う。
私は、失敗なしで自分にぴったり合う品物にめぐり会うことなどできないと信じているが、しかし反面、ぴったり来るも来ないもそれ以前の、言わば欠陥商品に近いものが堂々と売られて、そういう製品が数多くののさばってユーザーをいたずらに迷わせるとなると、また話は違ってくる。水準以上の性能を具えていてこそ、その次に好きか嫌いか、自分の理想に近いかどうか、などという話になってくるのが道理で、好き嫌いの言えるというのは実は相当に水準の高いところでの話なのである。
ところが現状では、欠陥商品──もっとはっきり言えば音楽を鳴らすにはあまりにも音の悪いスピーカー──までが、好き嫌いという絶好の言い訳をタテにとってまかり通っている。そういうスピーカーを、仕事とはいえ聴いて、メモして、しかも製作者を傷つけない程度に表現を工夫しながら書かなくてはならないという、これぐらい腹の立つ仕事はない。そういうものを書いたあと、きまってオーディオが嫌になる。
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私がずいぶん主観的な書き方をしているように思われるかもしれない。大体お前は主観的にものを評価しすぎると昔から言われる。この問題は、前からテーマに与えられている「オーディオ評論のあり方」という本紙の論壇でいずれくわしく書かせて頂くことになるが、オーディオに限らずあらゆる批評の分野で、自分という存在をとり除いた機械的な評価などというものは存在しえない。自分自身が、何十年かの失敗と模索の体験の中から肌で掴んできた確固たる尺度に照らし合わせて物や事に当る以外に、どんな確かな方法があるのか。自分がそうした体験の中から掴みとった考え方が、自分にとって正しいたったひとつの世界であり理想像であり、そのこと以外に自分の頼るものさしは作ることはできないものなのだ。
いまオーディオ批評の分野で言われている主観とか客観などという言葉は、本来のこれらの言葉の正しい定義とは全く別もので、単に、私用に比較的熱しやすい性質(たち)人間の態度と、もっと突き放して冷静な距離を置いて物事に当ることのできる人との違いにすぎないと、私は考えている。いずれにしても自分の尺度でしか物を言えないという点に変りのあるわけがない。いったいどうやって、他人の考え方、他人の感じ方に従って発言できるというのか。
だから私は自分の尺度、自分が確かに聴きとり掴みとり考え抜いた尺度に照らしてしか、物を判断しない。自分の尺度に照らして悪いものは悪いというしか、ない。その悪いものをどうしたらいいかというのはそれから後の話になる。
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そこでもういちど120機種の試聴に話を戻すが、さっきから120だの130だのと書いて、実際に本紙に載ったのは28号の60機種と今回の56機種の合計116機種。ところが実際にはそれ以上のスピーカーを聴いている。載らない製品のいくつかは、あんまりひどいので掲載をとりやめたスピーカーなのである。しかし実際に市販されている内外の製品はこれよりはるかに多い二百数十機種だから、ここには載らなかったからといっても、まだ半分以上の製品を聴けなかったことになる。同じメーカーの同じシリーズの中にも出来不出来があって、たまたまテストした製品があまり良い評価でなかったとしても、むしろそれより安いランクで優秀な製品があったりすることが多いことを思うと、理想を言えば全部のスピーカーを聴かなくては物が言えないということになりかねない。が、現実にはどうやってみても、完璧なテストなどというものはありえないので、聴き洩らした中にもおそらくよい音があるにちがいないと、欲ばりの私はいつも残念な思いをする。
もうひとつ残念なことは、できるだけ多くの機種を一度にとりあげ、複数のテスターで合同評価するという本誌の方針には違いないにしても、テストしそれを書く私の立場から言えば、一機種ごとに与えられるスペースがあまりにも僅かで、現在のように四百字詰め原稿用紙で一枚あまりという狭い枠の中では、私の文章力では聴きとり分析した内容の全部を言うことが殆ど不可
能なことで、この点だけは何度くりかえしても歯がゆく残念に思う。自分のメモにはもっと多くの内容を書きとっているつもりだし、できれば音質だけでなく他の要求──たとえばデザインや材質やそのメーカーのポリシーなど──にもくわしく言及できれば、一機種ごとの製品の性格をもっと立体的にお伝えできるのに、と、これはいくらか編集長に対してのうらみごとめくが、やはり狭いスペースに凝縮すると、どうしても公正を欠く強い表現をとる傾向が強くなる。
今回は、テスト及び評価の立脚点についてほとんどふれなかったが、それらのことは前回(28号)の同じ欄に多少書いたし、また個人的にはさらに28号の解説(88ページより)と、もしできることなら27号の114ページも併せてご参照願えれば、私のテストの姿勢をご理解頂けると思う。短いスペースでは誤解を招くおそれがあるので、あえて右の記事をあげさせていただいた。
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