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ゴールドリング Electro IILZ

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧ではナチュラルな帯域バランスで、適度に厚みのある低域と軽い高域が特徴。独特の雰囲気があり面白い音。針圧上限では安定度が一段と向上し、低域の量感、質感ともにこのクラスでは注目に値するものがある。とかく華やかになり過ぎの中高域も、MC型としてはナチュラルさが魅力で、プレゼンスも少し距離感はあるが良い成果だ。
 針圧下限では全体に少し穏やかになるが、変化は少なく、この意味では使いやすいMC型である。
 1・9gでは、弦が少しキツクなる他は、かなり良い音だ。2・2gでの安定感は、これがベストだ。音場感的にもプレゼンスが豊かで、弦も浮かず、これは良い音である。
 ファンタジアは音場感も豊かで、雰囲気が良く、ピアノの立上がりもシャープで、力感もあり、左手がダレないのが好ましく、ベースの弾み、質感も、これは楽しめる。
 アル・ジャロウは少し力不足で、リズムが鈍くなる。

エレクトロ・アクースティック EMC-1

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧では、暖色系の柔らかく線の太い低域と、程よく輝やくメタリックな中高域がバランスした安定した音だ。音場感は奥に拡がり、プレゼンスは標準的だろう。
 針圧上限は、低域の質感が、向上し、重心の低い安定した重厚さがある音で、力感もあり、良いホールで聴く演奏会的なプレゼンスが楽しい。かなり本格派の立派な音だ。針圧下限は、軽い雰囲気のあるプレゼンスが特徴。ナチュラルさはこれで、針圧変化による音の変化は穏やかだが、上限と下限で異なった音が聴けるのが特徴といえる。基本的には、良質なトランスとダイナミックバランス型アームにマッチするタイプの音。
 針圧1・65g、IFC量1・5で適度に音場感がある良い音になる。
 ファンタジアは、見通しが良いが、低域は軟調気味。適当な昇圧トランスが欲しい音。
 アル・ジャロウは、天井の低いライブハウス的な響きで、もう少しダイレクトさが必要。

AKG P8ES NOVA v.d.h.II

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧では、抑え気味の低域をベースとし、やや、硬質な中高域がバランスした、個性型の、クリアーで少し乾いた音をもつ。音場は奥に拡がり、まとまりは今ひとつ不足気味だ。針圧上限では、穏やかで、安定型で、重さがあるが、巧みにまとまった印象で、とくに、低域の厚みが魅力的だ。針圧下限では、軽快型で、B&O/MMC1に似た雰囲気があり、リアリティもあり、非常に好ましい。
 針圧に対しての変化は穏やかで、上限の音と下限の音は、違ったキャラクターを示し、両方で楽しめるのが良い。ここでは、安定さと、独特な低域の厚みを活かし、針圧は上限とし、IFC量を1・4に減らし、音場感的な拡がり、プレゼンスの良さを狙ってみる。適度に彫りの深さと、独特の渋さともいえる味わいがあり、これは楽しい音だ。
 ファンタジアは、比較的に芯のクッキリとしたピアノと距離感、雰囲気が楽しく、アル・ジャロウは、予想以上だ。

スタントン LZ9S

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧では、帯域はナチュラルに伸びた広帯域志向型。低域から中域は柔らかく、中高域以上は素直さが特徴。音に汚れが少なく、表情を少し抑え気味に聴かせるあたりは、いかにもスタントンらしい。
 針圧上限は、穏やかで安定したバランスと音で、さしてスピード感はないが、安心して聴せる音だ。針圧下限は、高域のディフィニッションに優れ、低域はソフトだがプレゼンスも良く好ましい。
 針圧を0・75gプラス0・125gにする。スクラッチノイズに安定感があり、ニュートラルで色付けの少ない音になる。これで、ファンタジアを聴く。適度にスイングする音で、かなり楽しめる。プレゼンスも豊かで、安心して聴ける印象は、これならではのスタントンらしい個性だ。
 アル・ジャロウは、ボーカルの力感、リズミックな表情も適度で、ピアノのスケール感、タッチも素直だ。とくに魅力的といえるキャラクターは少ないが、内容は濃い音。

オルトフォン MC200Universal

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧では音色が軽く、低域は軟調傾向で少しオドロオドロするが、適度に輝かしい中高域とバランスを保ち、カラッとして抜けのよい雰囲気は予想以上である。
 針圧上限は、低域の芯が少しクッキリとし、一種の硬質なキツさが、いわゆるオルトフォンらしさを感じさせる。音場は奥に拡がり、イメージ的にはこれだろう。針圧下限は、スッキリと拡がりのある軽快さが楽しめる音。中高域のキャラクターも淡くなり、面白い魅力のあるバランスだ。
 針圧は、標準と上限の間をとり、1・625gとする。SMEの針圧目盛上での値だ。適度に粒立つ、輝かしさが効果的に活かされ、現代のオルトフォンらしい味わいが楽しめる。この値でファンタジアを聴く。残響タップリの録音のため、響きが多く、ライブ的な雰囲気の音だ。ピアノは柔らかく、ベースは豊かだが、反応は少し鈍い印象だ。アル・ジャロウは、ボ−カルに活気がなく、ふくらんだ音。

シュアー V15 TypeIV-MR

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧では、重心が安定感のある低域ベースに、活気のある中域とスッキリとした高域がバランスした大人っぽい音だ。質的にはかなり高いが、色彩感が少し必要だ。
 針圧上限では低域の密度感が加わり、音場感は奥に拡がるが、総合的には良い音。針圧下限は、SN比が気になり、軽快さも出ずNGである。針圧1・125gとする。音に軽さがあり、重さ暗さがなく、音場も素直に拡がる。音場重視ならこれ。音質重視なら標準針圧をとりたい。
 前者の値で、ファンタジアを聴く。柔らかい低域をベースに、素直な中域が聴かれ、ピアノの雰囲気はかなり良い。低域は軟調傾向し、見通しは良くないが、この音の味わいは、さすがに老舗シュアーならではのものだろう。
 アル・ジャロウは、ボーカルにも適度の力感があり、低域は少し重く、暗い傾向をもつが、リズミックな反応も水準を保ち、とくに不満を感じさせないで聴かせる。

B&O MMC1

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧では、ナチュラルに伸びた帯域バランスと、雰囲気のあるスムーズな音が特徴。音色は適度に明るく、伸びやかさもあり、とくに分解能の高さは感じられないが、クリアーさもあり、長時間にわたり聴いても疲れない音。
 針圧上限では質感が向上し、平均的なMC型に準じた分解能、クリアーさがあり、低域は少し軟調で、柔らかいが、音場感的な情報量もナチュラルで、トータルバランスの高さがこの製品の特徴。
 針圧下限では、スクラッチノイズが少し浮き気味となるが、軽く、爽やかで、程よく鮮度感と感じられる、スッキリとした、軽針圧時独特の魅力がある音が好ましい。ただし、1g以下の軽針圧動作では、ここで使ったアームでは慣性モーメントが大きく、いま一歩、音場感的な安定感、見通しの良さが得られないのが残念な点だ。
 ファンタジアは雰囲気重視の音となり、アル・ジャロウは、やはり、力感不足だ。

デッカ Mark7

井上卓也

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)
特集・「いま話題のカートリッジ30機種のベストチューニングを探る徹底試聴」より

 標準針圧では、予想よりも穏やかなまとまった音で、かつての鋭利でシャープな音の面影は少ないが、比較的ソリッド感のある低域をベースとして、やや硬質でクッキリとした中高域が聴かれる。しかし、高域の伸びは少し不足気味である。いわば、整理整頓型の音だ。上限の針圧では、音の芯がクッキリとした、硬質な魅力をもつ音に変わる。低域は適度に弾力性のある、引締まった、質感の良さがあり、中域以上の情報量も多い。針圧下限は、表面的な軽い音でNGだ。
 標準針圧以上を0・1gステップでチェックし1・9gがベストである。音場感的な前後、左右のプレゼンスも優れ、適度に抜けのよい音だ。
 ファンタジアはピアノに独特の硬質な魅力があり、低域もソリッドで軟調にならぬ特徴があるが、表情は穏やか。
 アル・ジャロウは、ボーカルの力感が不足気味で、粘りがない、低域も抑えた印象でリズミックな反応に乏しい。

スタックス SR-ΛPro + SRM-1/MK2Pro、AKG K240DF

菅野沖彦

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「実力派コンポーネントの一対比較テスト 2×14」より

 本誌72号で私は、スタックスのSRΛプロとSRM1MK2というエレクトロスタティックヘッドフォンを〝とっておきの音〟として紹介した。そこで私が述べたことは、リスニングルームの影響を受けやすいスピーカーシステムのセッティングやバランス調整において、感覚の逸脱のブレーキとして役立つこのヘッドフォンの効用についてであった。詳しくは、72号を御参照願いたいが、質のよいヘッドフォンが、一つのリファレンスとして有効であることを再度強調したいのである。いくら、シンプルな伝送系で音の鮮度を保つのがよいとはいえ、部屋の欠陥をそのままにしてピーク・ディップによりバランスのくずれた音を平然と聴いているようでは困るのである。その調整が、部屋の音響特性の改善であれ、イコライザーによるコントロールであれ、音響特性の測定だけでは、まず絶対といってよいほど、音のバランスを整えることは無理である。一つの目安・判断の材料として測定は有効だし必要だが、仕上げは耳によるしかないというのが私の持論である。しかし、ここには大きな落し穴があって、不安定な情緒に支配されやすい人間のこと、測定データ以外に、実際の音のリファレンスがあることはたいへん便利である。その点、ヘッドフォンは、部屋の影響は皆無であり、必要帯域のバランスを聴きとるにはたいへん都合がよいのである。もちろん、ヘッドフォンとスピーカーとでは、その伝送原理が根本的にちがうので、何から何まで同じにすることは不可能であるし間違いでもあるが、音楽のスペクトラムバランスのリファレンスとしては充分に活用出来るのである。
 SRΛプロは、そうした意味で、ここ一年あまり、私の調整の聴感上のリファレンスとして活躍しているのである。また同時に、ヘッドフォン特有の効用で、これで音楽を楽しむのも面白いし、このヘッドフォンのトランジュントのよい、自然な音色は、その圧迫感のないハーフオープンの快さと相侯って、質のよいサウンドを聴かせてくれている。
 そしてごく最近、オーストリアのAKGから出たK240DFスタジオモニターという、ダイナミック型のヘッドフォンに出合い大いに興味をそそられている。このヘッドフォンは、まさに、私がSRΛブロを活用してきた考え方と共通するコンセプトに立って開発されたものだからである。K240DFのカタログに書かれている内容は、基本的に私のSRΛプロの記事内容に共通するものであるといってよい。ただ、ここでは、これを使って調整するのは、部屋やスピーカーではなく、録音のバランスそのものなのである。つまり、よく整った調整室といえども、現実にその音響特性はまちまちで、同じモニタースピーカーが置かれていてさえ、出る音のバランスが違うことは日常茶飯である。私なども、馴れないスタジオやコントロールルームで録音をする時には、いつもこの問題に悩まされる。便法として、自分の標準とするに足るテープをもっていき、そこのモニターで鳴らして、耳馴らしをするということをすることさえある。さもないと、往々にしてモニタ一にごまかされ、それが極端にアンバランスな場合は、その逆特性のバランスをもった録音をとってしまう危険性もある。
 K240DFは、こうした問題に対処すべく、ヘッドフォンでしかなし得ない標準化に挑戦したもので、IRT(Institute of Radio Technology)の提案によるスタジオ標準モニターヘッドフォンとして、ルームアクースティックの中でのスピーカーの音をも考慮して具体化されたものである。そして、その特性は平均的な部屋の条件までを加味した聴感のパターンに近いカーヴによっているのである。つまり、ただフラットなカーヴをもっているヘッドフォンではない。ダイヤフラムのコントロールから、イアーキヤビティを含めて、IRTの規格に厳格に収ったものだそうだ。そのカーヴは、多くの被験者の耳の中に小型マイクを挿入して測定されたデータをもとに最大公約数的なものとして決定されたものらしい。AKGによれば、このヘッドフォンは〝世界最小の録音調整室〟と呼ばれている。部屋の影響を受けないヘッドフォンだからこそ出来るという点で、私のSRΛプロの使い方と同じコンセプトである。
 録音というものは、周波数やエネルギーのバランスだけで決るものではないから、これをもって万能のモニターとするわけにはいかないが、最も重要な部分を標準化する効用として認めてよいものだと思う。ステレオの定位や左右奥行きの立体スケール、距離感などは、スピーカーのコンセプトでまちまちであり、これをバイノーラル的なヘッドフォンで代表させることには問題があるが、この件に関しては、ここでは書き切れない複雑なことなのである。
 しかし、このK240DFのコンセプトは、スタジオモニターとしてのヘッドフォンの特質をよく生かしたもので、私が、ことさら興味を引かれた理由である。
 そこで、この二つのヘッドフォンを比較試聴したのであるが、コンデンサー型のSRΛプロと、ダイナミックのK240DFとでは当然、音の質感に相違がある。
 SRΛプロの高域の繊細な質感は特有のもので、ダイナミック型を基準にすれば、ある種の音色をもっているとも感じられる。これはコンデンサーマイクロフォンにも共通した問題で、私個人の意見では、生の楽音を基準にすれば、どちらも同程度の音色の固有現象をもつものだと思うのである。ハーモニックス領域の再生はSRΛプロのほうがはるかにのびているが、これは、通常、音楽を聴く条件では空間減衰聴こえない領域ともいえる。コンデンサーマイクロフォンによって近距離で拾ったハーモニックスの再生が、よく聴こえすぎるために、高域に独特の質感を感じるものともいえるのである。この点、K240DFのほうは、最高域がおだやかで、空間減衰を含めたわれわれの楽音の印象に近いので、より自然だという印象にもなるだろう。低域もちがう。K240DFはシミュレーションカーヴのためか、たしかにスピーカーの音の印象に近く実在感のある低音である。SRΛプロは、風のように吹き抜ける低音感で、これが、また、スピーカーでは得られない魅力ともいえるのだ。ただ、やや低音のライヴネスが豊かに聴こえる傾向で、これはキャビティ形状などの構造によるものと思われる。
 しかし、両者におけるバランスのちがいは、スピーカー同士の違いや、部屋の違いそして、置き場所や置き方の違いなどによる音の差と比較すると、はるかに差が少なく、いずれもがリファレンスたり得るものだと思って間違いない。そしてリファレンスとしてではなく、ヘッドフォンとして楽しむという角度からいえば、SRΛプロの、コンベンショナルなスピーカーシステムでは味わえないデリカシーとトランジェントのよさが光って魅力的である。重量は、K240DFが240g、SRΛプロが325gだが、耳への圧力感ではSRΛプロのほうが軽く感じられる。しかし、装着感のフィットネスはK240DFのほうがぴたっと決って心地よい。SRΛブロのほうは、やや不安定に感じられるが、これは、個人の頭蓋の形状やサイズにもよることだろう。価格の点ではSRΛプロはイヤースピーカー用のドライバーユニットを必要とするコンデンサー型であり、当然高価になるので、両者のトータルパフォーマンスを単純に比較するのは無謀というものであろう。
 ヘッドフォンは、つい簡易型あるいはスピーカーの代用品のように受けとられがちだが、決してそういう類いのものではなく、独自の音響変換器として認識すべきものである。いうまでもないことだが、耳の属性と心理作用と相俟って、全く異なった音像現象を生むもので、ヘッドフォンによるバイノーラル効果は、伝送理論としてもステレオフォニックとは独立した体系をもつものである。
 この二つの優れたヘッドフォンは、それぞれ異なるコンセプトと構造によるものであるが、いずれも、録音モニターとしても再生鑑貴用としても高度なマニア、あるいはプロの要求を十分満たすものであることが実感できた。

ウエスギ UTY-5、マイケルソン&オースチン TVA-1

菅野沖彦

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「実力派コンポーネントの一対比較テスト 2×14」より

 上杉研究所から新しく登場したアンプ、UTY5は、UTY1、U・BROS3に継ぐ、第三世代のパワーアンプである。
 これに対して、マイケルソン&オースチンのTVA1は、同社の第一世代のパワーアンプで、1978年発売以来、既に7年を経過した製品である。
 真空管アンプとしての設計技術は、今や完成の域に達して久しいが、それらが、必ずしも、同じような音では鳴らないというところは、他のオーディオ機器同様、きわめて興味深い問題である。この二機種の音も、かなり対照的な音といってよく、UTY5の端正で瑞々しい音の美しさに対し、TVA1の熟っぽく力強い音の魅力は、それぞれに個性的ではあるが、その個性は、ある普遍性をもったものとして、第一級のアンプであることを認識させてくれるのである。
 TVA1に関しては本誌でも度々紹介されているので、UTY5に関し少々その内容を御紹介することにしよう。
 UTY5は、モノーラルアンプとして完成され、ステレオには2台使用するし、2台をパラレル駆動させ(合計4台)、約2倍のパワーとして使うことも可能である。パワー管EL34/6CA7プッシュプルによる出力は40ワットである。基本的には、上杉研究所の一貫したポリシーに貫かれたもので前作U・BROS3のコンセプトを踏襲し、安定性と長寿命というディペンダビリティに周到な配慮を払った製品で、40ワットという、ひかえ目なパワーの設定もそのためである。事実、アンプの発熱は、真空管アンプとしては最小に留められている。U・BROS3との最も大きな違いは、先に述べたモノーラルアンプということと、出力段の回路構成にみられる。U・BROS3が、KT88のUL接続で、NFBを出力トランスの三次巻線から初段のカソードへ返していたのに対し、UTY5はEL34/6CA7のプッシュで、出力トランスにカソード専用の四次巻線を設けたカソードフィードバック方式を採用している。この特殊トランスは、上杉研究所とタムラ製作所の協同開発になるもので、これ以外のトランスも全面的にタムラ製作所製を採用している。初段はECC83/12AX7のパラレル接続で増幅・位相反転はECC82/12AU7のカソード結合によっている。電源部はチョークの採用、コンデンサーインプット方式など、基本的にはU・BROS3に準じた余裕のある、周到な設計である。構成は、手前に電源トランスとチョーク、そして初段から出力段の真空管が並び、出力トランスと、信号の流れをそのまま部品配置に置きかえたシンプルなものである。パワートランスと出力トランスが両側に高さがそろって並んでいるので、重量的にも、外観上もバランスがよくとれていて美しい。両トランス間に真空管群が保護されているような形になり、持ち運びも具合がよい。細かい神経による心配りが、いかにも上杉流である。部品配置、配線のワイヤリングなどは整然としたもので、ストレイキャパシティの有害なシールドワイヤーは使われていない。
 全体の仕上げは塗装で、ハンマートーンのトランス、チョークカバーとシャーシの色調は渋い中間色で落着いた雰囲気を感じさせる。この点だけでも、クロームメッキのシャーシにコア一丸出しで精悍さを感じさせるTVA1とは対照的である。そして、片方が、KT88から70ワットという高い出力を捻り出しているのも、ひかえ目なパワーに抑えているUTY5のコンセプトと対をなしていて面白い。たしかに、プレート電圧をプレート損失とのかね合いで規格ギリギリにかけて、高出力を得るというのは、球の寿命にとっては好ましくはない。上杉研究所は、U・BROS3でも、低目の電圧でリニアリティを確保し、球を労わって使っていた。しかし、私の昔の体験だと、この辺りの球の使い方は、ただ単にパワーの差だけではなく、音の量感のちがいとしても感じられたのを記憶している。それに単純に結びつけていうのは間違いかもしれないが、TVA1の音とUTY5の音の根底に潜むちがいに、多くの要因の一つとして、こんなことを思い出した。もちろん、トランスや球などの素子や部品のちがい、回路構成、その工作、コンストラクションなど、全ての無数のファクターの集積が音であり、そのうち、どこかがちがっても音は変るのが実情であるから、下手な推測はしないほうがよいようである。
 両者を徹底的に比較せよ、というのが編集部の命令であるが、個体としてのちがいは、いまさらいちいち取り立てて述べるまでもないほど違うのだ。小は線材から、大はトランス、球まで、ことごとく違うのである。たったひとつ、共通しているのは、電圧増幅に使われているECC83/12AX7という伝統的な真空管だけである。TVA1も、当時としては、きわめて進歩的な考え方でNFB量を低く抑え、裸特性を重視し、TIM歪の発生に着目した周到さの見られるアンプだが、NFBのかけ方は、出力トランスの二次側から初段のグリッドへ返すというコンベンショナルな方法をとっていて、UTY5とは全く違う。つまり、この両者に共通点を見出そうとしても、それは真空管式のパワーアンプの基本的なセオリーぐらいのものである。
 そこで、この両者の音の聴感上のちがいをやや詳しく述べることにしようと思うのだが、これがまた、個体差と同じようにちがうのである。一言にしていえば、頭初に書いたようなちがいなのだが、このちがいは、まさに人文的なちがいとしか思いようも、いいようもない。血のちがい、文化のちがい……つまり、人間のちがいである。
 どちらのアンプも、小規模なラボラトリーの製品で、手造りによる、一品、一品、丹念に仕上げられたものだけに、そこには製作者の感性が表現されているといってよいであろう。アンプの設計製造という技術的なコンセプトを通して、音という抽象的な、それ故に無限の可能性をもつ美的世界に、それが自然に滲み出たという他はあるまい。両者共に、これを作品として世に問うからには、十分な自信と満足の得られているものにちがいないからである。
 UTY5には、日本的な繊細さと透明さ、そしてTVA1には、コケイジアンの情熱的な息吹きと激しさが感じられるのである。それは、あたかも水彩画と油絵の美しさのちがいのようであり、フグやヒラメなどの白身の魚の美味と、ビーフやボークのスパイシーなソースによる料理のちがいのようでもある。
 オーケストラを聴くと、UTY5は、旋律的な印象であり、TVA1は和声的な響きである。これがまた、スピーカーとの組合せで、それぞれの美しさが多彩に変化するところが複雑だ。本誌の試聴室においては、JBLの4344で比較試聴したのだが、力感ではTVA1が圧倒的であり、透明さとまろやかさではUTY5が、ことのほか美しかった。そして、マッキントッシュXRT20をUTY5で鳴らしたことがあるが、この組合せでは、ふっくらとした柔軟さが加わり、しなやかな情緒が魅力的であった。そしてTVA1とXRT20の組合せは、大分前の記憶によるが、力強い低音に魅せられた。ブラスはTVA1の得意とするところだが、ウッドウインドはUTY5が、はるかに透明で清々しく美しい響きであった。
 こうした印象記から推測していただけると思うけれど、この二つのパワーアンプの特徴は、当然音楽の性格に結びついて、それぞれの良さを発揮するが、究極的には、それを使う人との感性の一致が鍵であろう。
 かつて、亡くなったジュリアス・カッチェンというピアニストと親しくしていたが、彼は、ヤマハのピアノの音の美しさに讃辞を呈していた。「こんなに透明で美しい音の楽器を弾いたことがない」と嬉しそうに賞めていたのを思い出す。
 また、ニューヨーク在住のデビッド・ベイカーという録音エンジニアは、ダイヤトーンの2S305を絶賛していた。
 どちらも、異文化のもつ香りへの憧れではなかろうか……と、私は感じたものだ。そして、ドイツ人の録音制作者、マンフレット・アイヒャーが私の家のJBLのシステムを聴いて「これがJBLとは信じ難い。あなたの録音と似ている。日本人はパーフェクショニストなんだなあ」といわれた。さらに、「日本の牛肉もそうだ」といったのである。確かに、日本の牛肉、それも極上の和牛は世界に類がない。しかし、時々ぼくは、そのあまりにも洗練された味に、牛肉特有の香り──悪くいえば獣の匂いだが──が不足するとも思える。牛肉は本来、もっと強烈なフレイバーがあると思うのだ。
 こんなことを思い出させられるような、二つのパワーアンプの音の対照が興味深かった。もちろん、作る当人達の意識とは無関係だし、意識があったら嫌らしい。そして、この自分達固有の特質というものは、時として卑下に連ることもある。日本人は特にその傾向が強いが、外人にもそれはある。特に最近、多くのアメリカ人達が自国の文化を卑下し嫌悪する話を聴かされることが多い。自分たちの文化に誇りをもち、異文化に畏敬の念をもちたいものだ。

トーレンス Reference、ゴールドムンド Reference

菅野沖彦

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)

特集・「実力派コンポーネントの一対比較テスト 2×14」より

 トーレンス/リファレンスとゴールドムンド/リファレンス。恐らく、アナログディスク再生機器として最後の最高級製品となるであろう2機種である。その両者共にヨーロッパ製品であるところが興味深い。西ドイツ製とフランス製で、どちらもが〝リファレンス〟と自称しているように、自信に満ちた製品であることは間違いない。名称も同じだが、価格のほうも似たり寄ったりで、どちらも300万円台という超高価である。共通点はまだある。ターンテーブルの駆動方式が、両者共にベルトドライブである。アナログレコードプレーヤーの歴史は、ダイレクトドライブに始って、ダイレクトドライブに終るのかと思っていたら、そうではなかった。ベルトやストリングによる間接ドライブが超高級機の採用するところとなり、音質の点でも、これに軍配が上ったようである。ぼくの経験でも、たしかに、DDよりベルトのよく出来たプレーヤーのほうが音がいい。
 一般論は別として、この両者は共に、フローティンダインシュレ一夕ーを使って内外のショックを逃げていること、本体を圧倒的なウェイトで固めていることにもオーソドックスな基本を見ることが出来る。だが、プレーヤーとしての性格は全く異なるもので、それぞれに頑として譲れない主張に貫かれているところが興味深く、いかにも、最高の王者としての風格を感じるのである。
 この両者の最大の相違点は、ピックアップ部にある。
 トーレンス/リファレンスは、本来、アームレスの形態を基本にするのに対し、ゴールドムンドのほうは、アーム付である。いわば、ターンテーブルシステムとプレーヤーシステムのちがいがここに見出せる。そして、ゴールドムンドは、そもそも、リニアトラッキングアームの開発が先行して、T3というアームだけが既に有名であったことを思えば当然のコンセプトとして理解がいくだろう。このリファレンスに装備されているのはT3Bという改良型だが、基本的にはT3と同じものである。このリニアトラッキングアームは単体として評価の高かったものだが、実際にこれを装備するターンテーブルシステムとなると、おいそれとはいかなかったのである。そこで、ターンテーブルシステムの開発の必要にも迫られ、いくつかのモデルが用意されたようだ。このリファレンスは中での最高級機である。この場合、リファレンスという言葉は、T3リニアトラッキングアームのリファレンスといった意味にも解釈出来るが、広くプレーヤー全体の中でのリファレンスというに足る性能を持っていることは充分納得出来るものであった。
 これに対して、トーレンスのリファレンスは、ターンテーブルシステムが剛体、響体として音に影響を与える現実の中で一つのリファレンスたり得る製品として開発されたものであって、やや意味の異なるところがある。したがって、こちらは、コンベンショナルな回転式のトーンアームなら、ほとんどのものが取付け可能だ。それも、三本までのアームを装備できるというフレキシビリティをもたせているのである。結果的にターンテーブルシステムに投入された物量や、コンセプトは同等のものといってよいが、このプレーヤーシステムとしての考え方と、ターンテーブルシステムとしてのそれとが、両者を別つ大きなターニングポイントといえるのである。
 デザインの上からも、このちがいは明らかであって、ゴールドムンド/リファレンスは、コンソール型として完成しているのに対し、トーレンスのほうはよりコンポーネント的で、使用に際しては然るべき台を用意する必要がある。そのアピアランスは好対照で、ゴールドムンドのブラックを基調とした前衛的ともいえる機械美に対し、トーレンスのモスグリーンとゴールドのハーモニーはよりクラシックな豪華さを感じさせるものだ。
 両機種の詳細は、本誌の64号にトーレンス/リファレンスを私が、73号にゴールドムンド/リファレンスを柳沢功力氏が、共に〝ビッグ・サウンド〟頁に述べているので御参照いただくとして、ここでは、この2機種を並べて試聴した感想を中心に述べることにする。
 ステレオサウンド試聴室に二台の超弩級プレーヤーが置かれた景観は、長年のアナログレコードに多くの人々が賭けてきた情熱と夢の結晶を感じさせる風格溢れるものであって、たまたま、そばにあった最新最高のCDプレーヤーの、なんと貧弱で淋しかったことか……。これを、技術の進歩の具現化として、素直に認めるには抵抗があり過ぎる……閑話休題。
 ゴールドムンド/リファレンスは先述のように、リニアトラッキングアームT3BにオルトフォンMC200ユニバーサルを装着。トーレンス/リファレンスにはSME3012Rゴールドに同MC200を装着。プリアンプはアキュフェーズのC280(MCヘッドアンプ含)、パワーアンプもアキュフエーズP600、スピーカーシステムはJBL4344で試聴した。
 リファレンス同志の音は、これまた対照的であった!
 ゴールドムンドは、きわめてすっきりしたクリアーなもので、これが、聴き馴れたMC200の音かと思うような、やや硬質の高音域で、透明度は抜群、ステレオの音場もすっきり拡がる。それに対して、トーレンスは、MC200らしい、滑らかな質感で、音は暖かい。ステレオの音場感は、ゴールドムンドの透明感とはちがうが、負けず劣らず、豊かな、空気の漂うような雰囲気であった。温度でいえば、前者が、やや低目の18度Cぐらい、後者は22度Cといった感じである。低域の重厚さとソリッドな質感はどちらとも云い難いが、明解さではゴールドムンド、暖かい弾力感ではトーレンスといった雰囲気のちがいがあって、共に魅力的である。さすがに両者共に、並の重量級プレーヤーとは次元を異にする音の厚味と実在感を聴かせるが、音色と質感には全くといってよいほどの違いを感じさせるのであった。これは、アナログレコード再生の現実の象徴的な出来事だ。プレーヤーシステムの全体は、どこをどう変えても音の変化として現われる。この二者のように、トーンアームの決定的なちがいが、音の差に現われないはずはないし、ターンテーブルシステムにしても、ここまで無共振を追求しても、なお残される要因は皆無とはいえないであろう。それが証拠に、同じトーレンスでも、リファレンスとプレスティージとでは音が違うのである。だから、かりに、ゴールドムンドにSMEのアームをつけたとしても(編注:専用のアームベースを使用すれば可能)、同じ音になることはないだろう……。ましてや、このリニアトラッキングのアームとの比較は、冷静にいって、一長一短である。トラッキングエラーに関しては、リニアトラッキングが有利だとしても、響体としてのQのコントロールや、変換効率に関しては問題なしとは云い難い。これは、両者に、強引にハウリングを起こさせてみても明らかである。いずれも、並の条件では充分確保されているハウリングマージンの大きさだが(ほとんど同等のレベルだ)、非現実的な条件でハウリングを起こさせてみると、その音は全く違う。ゴールドムンドのほうが、周波数が高く、複雑な細かい音が乗ってくる。トーレンスのほうが、周波数が低く、スペクトラムも狭い。この辺りは確かに、両者の音のちがいに相似した感じである。不思議なもので、ゴールドムンドのアピアランスと音はよく似ているし、トーレンスのそれも同じような感じである。つまり、ゴールドムンドは、どちらかというとエッジの明確なシャープな輪郭の音像で、トーレンスのほうがより隈取りが濃く、エッジはそれほどシャープではない。この域でのちがいとなると、もう、好みで選び分ける他にはないだろう。正直なところ、私にも、どちらの音が正しいかを判断する自信はない。しかも、カートリッジやアンプ、スピーカーといった関連機器も限られた範囲内でのことだから、単純に結論を出すのは危険だ。
 操作性でも、どちらとも云い難い。どちらも、操作性がよいプレーヤーとはいえないだろう。ゴールドムンドは、プレーヤーシステムとしての完成型であるから、本当はリードイン/アウトもオートになっていてほしいと思った。エレクトロニクスのサーボ機構を使っているメカニズムであるし、プッシュスイッチによる動作やデジタルカウンターという性格などからして、そこまでやってほしかった。針の上下だけがオートなのである。指先で、カートリッジを押してリードインやアウトをさせるのは、この機械の全体の雰囲気とはどうも、ちぐはぐである。
 一方、トーレンスは、全くのマニュアルで、大型の丸ツマミによる操作であり、これもリフトアップ/ダウンだけはオートで出来るものの、決して操作のし易いものではない。ただ、これは、見るからにマニュアルシステムであるから違和感はないのである。しかし、どちらもアナログディスクの趣味性を十二分に満してくれる素晴らしい製品である。

チェロ AUDIO PALETTE

菅野沖彦

ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)
「BIG New SOUND」より

 マーク・レヴィンソンといえば、オーディオ愛好家なら誰一人として知らない人はいないだろう。そのマーク・レヴィンソン氏が、最近、チェロというメーカーを起し氏特有のデリカシーとパーフェクショニストぶりを遺憾なく発揮した製品開発を再開した。
 その第一弾が、ここに御紹介する〝オーディオパレット〟である。といっても、これは初めての造語であるから、どういう機械だか解らない方も多いにちがいない。まず、この機能の説明から始めなければならないだろう。一言にしていえば、これは〝音色バランスコントローラー〟である。つまり周波数イクォライザーであるが、グラフィックイクォライザーという言葉は使うべきではない。グラフィックというのは視覚的という意味で、パターンとして眼で判別できる機能にこそあてはまる。このオーディオパレットは、むしろ、そのグラフィックに真向から対立するコンセプトにこそ特徴のあるイクォライザーであって、このことを理解しないと、この製品の意図を誤解することになるし、ひいては、この製品の価値に疑いをもつことになるだろう。あえて、グラフィックイクォライザーに対する名称を与えるとすれば、これはエステティックイクォライザー(esthetic frequency equalizer)とでもいうべきものである。グラフィックイクォライザーが、周波数特性がグラフィックに見ることにより調整するという、いかにも物理的な観念で作り出されたものであるのに対し、このオーディオパレットは、実際に音の変化を聴きながら、レコード(プログラムソース)からスピーカーの鳴る部屋の音までのトータルの感覚的に調整する機械なのだ。そして、その調整が最も有効かつ容易におこなわれるための、周波数帯域の設定、カーヴの設定、増減幅とそのステップの設定に綿密で周到な配慮と、ノウハウが投入されている。さらに、この機能を万全に働かせるため、きわめて精密なパーツの特製により、最高の次元のメカトロニクスに具現したところが、いかにもマーク・レヴィンソンらしさである。
 因みに、そのコントローラーは、15Hz、120Hz、500Hz、2kHz、5kHz、25kHzの6ポイントを中心に巧妙な帯域幅と組み合わされ、15Hzでは±29dBにまで及んでいる。そして、その増減度は、帯域によって異なると同時に、500Hz、2kHzではワンステップが0・25dBという精密さまで持っているのである。そのコントローラーは抵抗式でラチェットは削り出しの59接点2連式の超精密型である。プリント基板は見るだに美しいディスクリート構成で、5000個にも及ぶというパーツ類全て超高級品で、この機器の挿入による宿命的なロスを最少限に食い止め、そのメリットを大きく生かすのに役立っているのである。大型トロイダルトランスによる充実した電源部とそのレギュレーターによる高品位なパワーサプライを見ても、この製品の並々ならぬ高品位性が納得出来るであろう。左右チャンネルを上下二段構成にまとめたシャーシーコンストラクションも本物だ。
 誰が、かつて、このような機能をもった機器を、このような作りの高さで仕上げること考えたであろうか。まさに常識をはるかに逸脱した信念と執念の情熱的結晶である。
 さて、肝心の効用について述べなければならないが、初めに断っておきたいことは、この〝オーディオパレット〟の使い手に要求される能力についてである。
 もちろん、誰が使っても、すぐ使えるし、それなりに音の変化は楽しめる。この機械をリスニングポジションの前方に置いて、音を聴きながら、それぞれのレコードで、あるいは、それぞれの音楽のパートでコントロールすることで、まるで、指揮者や録音ミキサーのリハーサルのように、音色を自由に制御できる喜びを味わえるであろう。一度これを使ったら、やめられなくなる魔力をも感じられるであろう。オーディオによるレコード音楽の鑑賞は、聴き手の再演奏であるというぼくの持論からも、この〝オーディオパレット〟の存在には決して否定的ではない。どうぞ御自由に……といいたいところなのだが……。まかり間違うと、とんでもないバランスで音楽を聴くことにもなりかねないのである。イクォライザーによる音の変化は、専門のミクサー達にとっても決して容易な仕事ではない。音楽のあるべきバランスの直感的判断力を要求される仕事なのであって、それには長年のキャリアを必要とする。それだけに、このパレットを使うことによって、自身の音楽的感性を磨くことも可能であるし、熟練すれば、レコードや機器や部屋の欠陥を補うことも容易である。このあたりを十分認識して使いこなすことが出来れば、これはたいへんな機器になる。ぼくがエステティックといったのは、美学には感性と、その裏付けとなる造詣が必要であるからだ。
 この〝オーディオパレット〟をさわって、まず感じることは、そのアッテネーターの抜群のフィーリングである。廻しているだけで快感をおぼえる。そして、これは増減を大幅にやりながら、だんだん細かく攻めていくというのが使い方のノウハウである。初めからワンステップやツーステップを恐る恐るカチカチやっていても埒があかない。大胆に大きく左右に廻す。そこから、感じを把んで、徐々に微調整に入る。重要な帯域は0・25dBステップだから、この辺りが、最後のツメとして絶妙な効果が期待できる。まことに心憎いばかりの配慮である。考えようによっては、高価なスピーカーやアンプの買い替えからすれば、この高価格も馬鹿げた出費ではないとも思えてくる。しかし、現実に、これを一枚一枚のレコードでいじっていたら、肝心の音楽を聴いている暇はない。調整が終わった頃にはレコードも終りかけている……ということもあり得る。また、ある程度、固定させて使うことを考えると、グラフィックのほうがよいように思えてくる。また、メモリー機構もほしくなる。しかし、それでは、〝オーディオパレット〟は生きないのだ。つまり、この〝オーディオパレット〟は、プロ級の実力をもつものが使ってこそ初めてその威力を発揮するといえるだろう。だから、録音スタジオなどでは、従来のイクォライザーとはちがった使い易さと、クォリティの高さで真価を発揮するように思われる。いうまでもないが、SN比、歪率などの物理特性は最高で、イクォライザーIN/OUTでの音の鮮度の差は全く問題なしといいきってよい。オーディオパレット、つまり、音の調色機とは云い得て妙である。
 なお、これには、2チャンネルの入力ゲインコントロールと出力のマスターコントローラー、そして3Dのセンターレベルコントローラー、正逆の位相切替スイッチ(いわゆるアブソリュートフェイズ切替)もついていて、3Dによる左右チャンネルのセパレーションコントロールも可能である。サブウーファー的な3Dというよりも、むしろ、中央定位用の広域センターチャンネルを意図しているらしい。

JBL 120Ti

井上卓也

ステレオサウンド 74号(1985年3月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 JBLからコンシュマープロダクツの新ラインナップとして、Tiシリーズが登場することになった。この新シリーズは、従来のL250をトップモデルとしたしシリーズに替わるべき製品群で、現在、250Ti、240Ti、120Tiと18Tiの4モデルが発売されているが、そのモデルナンバーから類推しても、120Tiと18Tiの中間を埋めるモデルが、今後登場する可能性が大きいと思われる。
 新シリーズの特徴はスコーカーの振動板にJBLとしては、初めてのポリプロピレン系の材料と、既にコンプレッションドライバーユニットのダイヤフラムとして、2425、2445に採用されているチタンをトゥイーターダイヤフラムに採用したことである。ちなみに、Tiシリーズの名称は、このチタンから名付けられたものだ。
 新シリーズの4モデル共通に採用されているトゥイーター044Tiのダイヤフラムは、25μ厚のチタン箔をダイヤモンドエッジと特殊形状のドーム部分とを下側から渦巻状の窒素ガスを吹付けて一体成形してあり、ドーム部は、強度を確保するために放射状に配した4本のメインリブと2本の同芯円リブ、さらに、両者の交点をつなぐサブのリブを組み合せた特殊構造により、2425などに採用された250μ厚のチタンと同等の強度を得ており、従来の044と比較して出力音圧レベルが、3dB、許容入力も30Wのピンクノイズに耐えるまでに向上しているという。また、周波数特性も−3dBで23kHzと伸び、ダイヤフラムが軽量化されたため、過渡特性も優れ、デジタル録音に素晴らしい立上がりを示す。
 一方、ポリプロピレン系の振動板もJBLとしては初採用だが、従来の紙に替わって新採用されたのは、19Tiの16cm口径ウーファーが最大のサイズであり、それ以上の口径では、紙のほうが便利との結論のようであり、安易に、より大きな口径のコーン型ユニットに採用しないのは、名門の見識とでもいいたいところだ。ある雑誌に240Tiの36cmウーファーも特殊ポリプロピレンコーン採用とのリポートがあり、一瞬、驚かされたが、資料をチェックしてみれば明らかに誤報である。それほど、ポリプロピレンで大口径コーン型ユニットを開発することは、困難であるわけだ。なおJBLで採用したポリプロピレンは、炭素粉を適量混入して硬度を上げているとのことで、3ウェイ構成以上のコーン型スコーカーは、すべて、この特殊ポリプロピレンコーン採用である。
 その他、エンクロージュア関係では、フィニッシュがチーク仕上げとなり、グリルが、フローティング・グリルと呼ばれるグリル枠の反射によるレスポンスの劣化を防ぐ構造が新採用されている。また、上級2モデルは、バッフルボードの端にRをとった、ラウンドバッフル化が特徴である。
 今回、試聴した120Tiは、Lシリーズでは、ほぼ、L112に相当するユニット構成をもつ3ウェイ・システムである。
 30cmウーファーは、独特な魅力のあるサウンドで愛用者が多いアクアプラス複合コーン採用で、表面からスプレーをかけて黒に着色してある。磁気回路は当然のことながらJBL独自のSFGタイプだ。
 13cmコーン型スコーカーは、特殊ポリプロピレン振動板採用の104H、トゥイーターは、シリーズ共通のチタンダイヤフラム採用のドーム型ユニット044Tiだ。
 エンクロージュアは、リアルウッドのチークを表面に使い、40年間のキャリアを誇るJBL伝統のクラフトマンシップを感じさせるオイル仕上げであり、ユニット配置は左右対称ミラーイメージペアタイプであるが、左右の木目はリアルウッド採用の証しで、絶対に一致することはない。
 また新シリーズは、Lシリーズではバッフル面にあったレベルコントロールが、スイッチ型になり裏板の入力端子部分に移され、不要輻射を防ぐとともに、接点部分の信頼性が一段と向上し、音質的なクォリティアップがおこなわれている。
 試聴は、スタンドにビクターLS1を、底板にX字状にスタンドが当たる使用方法ではじめる。最初の印象は、JBL独特の乾いて明るい音色が、少し抑えられ、穏やかさ、スムーズさが出てきた、といったものだ。スタンド上で位置の移動でバランスを修正し、ユニット取付けネジを少し増締めすると、反応がシャープになり、全体に引締まった音に変わってくる。良い意味でのポリプロピレン系の滑らかさ、SN比の良さが中域をスムーズにし、チタンの抜けの良さが、音場感の拡がりと、低域の活性化に効果的だ。かなり楽しめる新製品だ。

AKG P8ES NOVA

井上卓也

ステレオサウンド 74号(1985年3月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 オーストリアのウィーンに本社を置くAKGは、マイクロフォン、ヘッドフォンなどの分野で、ユニークな発想に基づく、オリジナリティ豊かで高性能な製品を市場に送り、高い評価を得ている。
 例えば、マイクロフォンの2ウェイ方式ダイナミック型D224Eや、システムマイクとして新しい展開を示したC451シリーズなどは、録音スタジオで活躍している同社の代表製品である。また、ヘッドフォンでは、かつてのドローンコーン付きダイナミック型K240や、低域にダイナミック型、高域にエレクトレットコンデンサー型を組み合せた現在のトップモデルK340なども、AKGならではのユニークな高性能モデルである。
 一方、フォノカートリッジは、同社としては比較的新しく手がけたジャンルで、テーパード・アルミ系軽合金パイプカンチレバーを採用して登場したPu3E、Pu4Eが最初のモデルだと記憶している。
 AKGカートリッジの評価を定着させたモデルが、第2弾製品であるP6E、P7EそしてP8Eなどの一連のユニークなテーパー状の四角なボディをもつシリーズである。とくに透明なボディにシルバー系とゴールド系のシールドケースを採用したP7ESとP8ESは、適度に硬質で細やかな独特の音とともに、現在でも第一線で十分に使える魅力的なモデルであった。
 そして、第3弾製品が、1981年に登場した現在のP10、P15、P25をラインナップとするシリーズである。
 昨年、同社のスぺシャリティモデルとして登場したP100Limitedは、出力電圧が高く使いやすく、MM型に代表されるハイインピーダンス型の振動系が、MC型の振動系より軽量であることのメリットがダイレクトに音に感じられる、久し振りの傑作力−トリッジであった。
 今回、登場した新モデルは、これまでのAKGの総力を結集して開発された自信作である。
 モデルナンバーは、AKGブランドを定着させたP8を再び採用。ボディのデザインと磁気回路の原型は現在のP25MD系を踏襲している。スタイラスにP100Limitedでのバン・デン・フル型をさらにシャープエッジ化したII型を採用するといった、充実し凝縮した内容をもつ。
 リファレンスプレーヤーを使いP8ES NOVAの音を聴く。針圧は、1〜1・5gの針圧範囲のセンター値、1・25gとする。ワイドレンジ型で軽やかさがあり、プレゼンス豊かな雰囲気が特徴だ。
 試みに針圧を0・1g増す。音に芯がくっきりとつき、焦点がピッタリと合う。ナチュラルで落ち着きがある音は、安定感が充分に感じられ、AKGならではの他に類例のない渋い魅力がある。
 音場感情報は豊かだ。スピーカー間の中央部も音で埋めつくされ、音場は少し距離感を伴って奥に充分に広がる。定位もクリアーで、音像は小さくまとまる。音楽のある環境を見通しよく、プレゼンス豊かに聴かせるが、とくに静けさが感じられる音の美しさは、P8ES NOVAならではの魅力だろう。

ボストンアクーティックス A400(組合せ)

菅野沖彦

ステレオサウンド 74号(1985年3月発行)
特集・「ベストコンポーネントの新研究 スピーカーの魅力をこうひきだす」より

 ボストンアクースティックスのA400というスピーカーの外観上の一番大きな特徴は、エンクロージュアのプロポーションにあります。ユニットの口径に対して、比率でいうと、大きなバッフル面積をもっていて、しかも奥行きの短いフラットな形です。これはいわゆるバッフル効果を考えている証拠だと思います。バッフル効果というのは、スピーカーの放射する音の廻り込みを抑えるので、フェイズをコントロールするのに大変に素直な状態に持っていくことができる。そのために、いわゆる平面バッフル、無限大バッフルにユニットをつけて鳴らしたときの効果に似ていて、音に癖がなくて、そしてステレオ・ペアとして使った場合に、極めて広い、独特の音場感ができます。
 それから、エンクロージュアの奥行きが浅いために、低域にエンクロージュアのキャビティによる影響が出にくく、いわゆる箱くささのない音です。
 低域がすっきりとしているため、量感的には多少すくない感じがしますが、その分、濁りも少ない。こういう広い面積を待ったバッフルにつけることによって、部屋の影響も受けにくくなっています。これがこのスピーカーのデザインポリシー、技術的な設計のポリシーの特徴でしょう。
 ユニット構成で面白いのは20cm口径のウーファーを二発使っていることです。現代のスピーカー理論からいうと、よい低音を出すという点では口径を上げていった方が有利ですが、磁気回路と振動系の関係で、現在の技術レベルでは、特性のすぐれたスピーカーをつくるには、おのずから大きさに限界がある。そのことは、セレッションのSL6とか、SL600の主張にもはっきりとあらわれています。
 僕は自分でも大口径ウーファーを使ってますけれども、それも時代を追って変化してきています。今から十五年ぐらい前までは、良質な低音を得ようとしたら、せいぜい25cmまでが限界で、それ以上は無理だとか……。その後やっと、30cm口径まで使えるような時代になったとか、ようやく38cmでも使えるユニットが出現するようになったとか、そういうプロセスをずっと体験してきているわけです。ですから、もちろん今、自分のマルチウェイシステムでは38cmウーファーを使っているし、いいスピーカーユニットも数多くありますけれども、確かに技術的にいろんな面の無理ない設計をすると、16cmとか18cm、あるいは20cm、このぐらいのところが技術的には問題のないサイズだということも言えるわけです。
 したがって、あえて大口径ウーファーを使わないで、小口径ウーファーを二発使ったというところにも、このスピーカーの特徴があると思います。当たり前のことですが、大口径にすればするほど、指向特性が高い方では悪くなりますから、そういう意味で、小さな口径に抑えたというところに、このスピーカーの設計の意図がはっきりとでています。それが、このエンクロージュアのフラットな、そして表面効果の大きなフロントバッフルとマッチして、癖がなく、重くるしくなく、左右と奥行きにすぐれた音場感の再現ということにつながっているのでしょう。このボストンアクースティックスというメーカーは、アクースティックサスペンション方式のオリジネ一夕ーと言えるARの流れをうけついだメーカーです。このA400もアクースティックサスペンション方式を採用して、比較的小さな口径のスピーカーを完全密閉箱に入れることで、十分な低音を出すことに成功しています。そういう意味で、基本的な技術のコンセプトはARの流れを踏襲しているけれども、昔のARのスピーカーというのは、どうしても重く、少し鈍い低音でした。そのままでは現代スピーカーの要求にマッチしないわけです。そこで、同じアクースティックサスペンションの理論を使いながら、明るく、引きずらない、重苦しくならない低音を出したのが、このスピーカーのすばらしいところだと思います。アクースティックサスペンションが持っているよさを活かしつつ、悪い部分を大幅に改善している。
 家庭用として使う場合にも、奥行きが浅いということは、とてもスマートだと思います。実際に今、この試聴室では割合に壁から離して使いましたけれども、もし壁に近づけて置いても、それほど低域の持ち上がりがありません(コーナーに置いてしまっては無理ですが、コーナーから多少離して、左右方向の長さがとれる部屋でしたら、壁にかなり接近させて置いても、低域が不明瞭にならないよさがあります)。奥行きが少なく、高さは少し高目だけれども、高さ方向というのは居住空間にさほど邪魔にならないわけで、むしろこのぐらいの高さの方が普通のリスニングポジションには、高域のディスパージョンがちょうど合っています。クラシック音楽のときに特に感じることですが、音源が自分の位置より低いよりも、少し上ぐらいの方がナチュラルに聴こえます。演奏会場のいいポジションというのは、多少ステージを見上げるようなポジションが普通ですから、そういう習慣からもスピーカーは、少し高目ぐらいがいい。その意味で、スピーカーの下に台を置く必要がなく、ちゃんとスタンドがついていて、この高さということは、家庭での実用という点からも、非常によく考慮されているスピーカーだと思います。
 最近は日本のスピーカーは一般的にサテンの色が黒とか、濃紺とか、濃い色が多く、存在感が強すぎると思うんです。その点、A400のように中間色のサランネットの方がスピーカーの存在感が強過ぎなく、部屋の中で適応性も広いと思えます。モダンでいてクラシック。そういう外面的なコスメティックなデザインの面でもなかなかすぐれたスピーカーです。
 音の特徴は、何といっても、全帯域のバランスが非常に素晴らしいということにつきます。一聴したところ個性がないように感じられますが、非常に美しく緻密な、いかにもファイングレインといえる、きめの細かい音です。音の質感がナチュラルで、ホームリプロデュースの可能性と限界というものをほどよくバランスさせた明確なコンセプトが感じられる音です。このスピーカーはばかでかい音でガンガン鳴らすということは考えていないでしょうが、しかし、現代の技術水準をクリアーした、かなりリアリティーのある、そこに何か楽器を置いて演奏するかのごとき音量ぐらいまでは十分再現できる。今のオーディオの中庸をとらえたスピーカーだといえます。
 値段的にも外国製スピーカーで、この質の高さからするとリーズナブルです。輸入品でこの価格というと、おそらく一般にはもう少し低いクォリティのスピーカーを想像すると思いますが、このスピーカーの持っているクォリティは見事で、これの倍ぐらいの価格がついていても、恥ずかしくないサウンドクォリティを備えています。
 A400は使いやすいスピーカー、偏らないスピーカーと言えますが、その分個性は淡泊です。ですから、猛烈に深情けで惚れる、というスピーカーではない。しかし、何をかけても、何を聴いても、ちゃんと満足させてくれる数少ないスピーカーの一つです。
 このスピーカーを鳴らすに当たって、用意したプログラムソースですが、いろいろなものを揃え、特定のジャンル、傾向、表現性格に偏らないものを選びました。
 一枚はミケランジェリのピアノと、それエドモンド・シュツッツ指揮のチューリッヒ・チェンバー・オーケストラの共演しているハイドンのピアノ・コンチェルトのアナログレコードです。これは十年前のアナログレコーディングで、 チューリッヒ・チェンバー・オーケストラというのは意外にレコードが少ないんですけれども、アンサンブルがしなやかで非常にいい室内オーケストラです。このレコードはEMIですが、チューリッヒ室内オーケストラのレコードは、昔、ヴァンガードでステレオ初期に何枚も出ているのを大分聴いて、このアンサンブルの音色をよく知っています。そのしなやかなアンサンブルは、組合せを選択する上においても一つのテストソースとして非常にいい。こういう古典をきちんと古典らしく聴かしてくれるということが、優れた再生装置の一つの条件です。そういう意味でこのハイドンのピアノ協奏曲を一枚選んだのです。
 それから、リヒャルト・シュトラウスの有名な三つの交響詩が入ったCD。アンタル・ドラティが指揮するデトロイト・シンフォニーで「ドン・ファン」と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と、それから「死と変容」です。これは、同じオーケストラでもチューリッヒ室内オーケストラとは全然性格の違う、もう少し大きなオーケストラ編成です。その二枚をクラシックとして選びましたが、同じクラシックでも性格は非常に違います。
 ポピュラーの方も性格の違うものを選びまして、一枚はダイアン・シューア。今、話題の歌手ですが、盲目の女性歌手です。彼女の声の変化がすばらしい。この人はゴスペル的な歌い方もできるし、ブルース的な歌い方もできる。それから新しい、かわいらしい声で歌うこともできる、声の変化のうまい人です。新しいレコードだけに、デイヴ・グルーシンのアレンジでバックがついていて、今の、ナウい音楽的なサウンドも同時にこのレコードの再生では当然要求されます。それでいて、決してディスコミュージックだとか、ある種のフュージョンなどに出てくるヴォーカルのような、それこそハーモナイザーを使った、ぐしゃぐしゃにされたヴォーカルではありません。声はちゃんと彼女のナチュラルな声ですが、バックには適度にエレクトリックサウンドが使われ、そういうナウい音楽に対する適応性もありながら、オーソドックスなヴォーカルとしてもいける。いいかえれば、逆に、ナウな音楽的なよさを活かさないと、このレコードはまた生きてこないと思います。
 もう一つは、非常にオーソドックスな、アコースティックのジャズです。それも非常に古い、今から二十五年も前、コンテンボラリーというレーベルで活躍したロイ・デュナンといって、僕がジャズの録音の仕事をするときに最もお手本としたミキサーが録音した、ソニー・ロリンズの「ウェイ・アウト・ウェスト」という古いレコードのCD化されたものです。
 ロイ・デュナンのレコーディングの特徴として、一つ一つの楽器の音のクリアネスというのがすばらしいと同時に、当時としては珍しく、ちゃんとステレオフォニックな空間をつくつている。しかもとても自然なライヴネスなんです。当時は、鉄板エコーが一般的だったころですが、そんなものは全く使っていません。人工的なものは、一切使用せずに、自然の空間でのライヴネスというものと、そしてジャズに要求される楽器の近接感、リアリティをよくバランスさせています。CD化されたものを聴いてみますと、これが二十五年前の録音かと思うほどSN比も高く、帯域も広く、立派なものだと思います。そして、何よりも、こういうアコースティックなジャズに表現されるプレーヤーの個々の生きた表現、これが細かなところまで再生されないとジャズの息吹というものが出てきません。そういう意味で、さきほどのダイアン・シューアのものと同じポピュラー系レコードながら全然違う音楽で、当然、再生装置に要求される要素も違います。結果的には四つの全くバラエティに富んだプログラムになったということです。
 組合せをつくっていく過程でいろいろなアンプを聴いてみましたが、アナログレコードのよさ、たとえば、チューリッヒのしなやかなアンサンブル、それからミケランジェリが使っているピアノ──これは古いスタインウェイで、ピアノとしては古典に入るぎりぎりのところですが──その独特の音色が、まず、どういうふうにアンプによって変わるかを、最初に聴いてみました。ところが、おもしろいことにこれが全部、見事に違うのです。
 一番最初にトリオのKA1100SDを聴きましたが、このアンプは実に何も難点のない、ごくごくまっとうな音です。ただ、僕は高い方にちょっとしなやかさがないように思いました。そこがちょっと気になる。ヴァイオリンのパートが分かれたハーモニーのときに、ちょっとぎすぎすした感じになる。その辺でちょっと気になったけれども、全体としてはこのレコードを比較的正しく再生してくれたと思います。またピアノが引き込まずに再生されるよさがあります。ポジショニングとして、このレコーディングの場合には、決してオーケストラにピアノが囲まれたというような録音ではなく、ピアノがちょっと前面に打て、その後ろにオーケストラがいるという録音ですが、その感じが非常によく出ている。全体として、充分に使えるアンプです。
 次は、ヤマハのA2000。このアンプは非常に独特な美しさを待ったアンプです。そして、美音のアンプです。高域が、特にこのレコードを聴いた場合に少し脚色されますが、その脚色は美しさと説得力を持ち、「ああ、きれいだな」と思って聴かされてしまいます。しかし、このチューリッヒのアンサンブルが持っている音として、少しくすんだところがなくなり、やや明るくなり過ぎる。全体的にいえば見事なのですが、ただもう少し、独特の陰影が出てほしいといえます。
 次がラックスL550X。これがチューリッヒ・アンサンブルの音色の陰影を一番よく出しました。一番よく出しましたけれども──これは50Wというパワーのせいかもしれないのですが──骨格のしっかりしたところがやや弱い。ただし、音としては、このチューリッヒ・アンサンブルに関する限り、非常にいい。恐らく、今まで聴いてきたアンプの中では一番いいという感じがしました。
 それから、アキュフェーズE302。このアンプは、他のアンプと比較して、全く違う音がしました。アンサンブルの音がアレンジされたという感じなんです。全く別の楽団のような音がしました。それなりにすばらしく、ものすごく輝きがあって、透明で、それはすばらしいのですが、このアナログレコードの音にしては少々色づけがある。多少あり過ぎるという感じがして、異質な感じを持ちました。バランスであるとか、パワーだとか、オーディオ的な音だとかいう点では大変にいいアンプだと思いますが、その色合いの点で、このレコードからは少し異質感を感じたわけです。
 次にビクターのA-X1000。全体に音が非常に柔軟で、高域の荒れが一番少ないアンプです。使用したレコードのなかで、もうぎりぎりのところでもって荒れそうなところが何ヵ所かあるんだけれども、そこの荒れが気にならないでスムーザに響いたのがこのアンプです。ほかのアンプがひずみがあるわけではないのですが、ヴァイオリンの音の荒れの一番目立たなかったのがこのアンプです。
 そういう点で確かにいいアンプだと思うし、ある種のソースに限定したら、これは非常にクローズアップするに値いするモデルです。アンサンブルを聴いたとき、ヤマハと対照的なわけです。ヤマハの場合、少しきれい過ぎて、美し過ぎて、明る過ぎると言ったけれども、ビクターの場合には少し暗くて重い。重心が少し低く過ぎる。
 次がアルパイン/ラックスマンのLV105。このアンプは、僕がこのアンサンブルを聴くときに非常に重要視するビオラ、チェロの内声部がとてもいい。指揮者のハーモニー感覚にごく近いわけです。オーケストラでは、メロディというのは、ほとんどの場合、ヴァイオリンで出てくる。そして、ハーモニーで一番下のベースを受け持つのがコントラバスセクションです。ビオラとチェロというのがその間に入って、しっかりした色合いとボディをつくるわけだけれども、その内声から多少メロディとベースを浮き上がらせる、そのぎりぎりのところのバランスというのが、このアンプの場合、見事なわけです。録音でもハーモニー感覚のいい指揮者とハーモニー感覚のいいミキサーがいないといいバランスのレコードができずに、大体メロディーが浮き立って、そして低域がゴーンと出て内声部がおろそかになる。メロディーも良く、ベースの音もしっかりして、さらに内声の動きと厚みがちゃんと出てくることが大事です。それはアンプやスピーカーにもいえることで、LV105は内声が非常によく出ますが、ちょっと下と上が弱い。ほかのアンプにないよさを持ち、ほかのアンプの持っているよさがないという、非常に微妙なアンプです。
 そこで、マランツPM84を聴いてみました。これがなかなかバランスがいい。このアンプを聴いて、一番、中庸を得たモデルだとおもいました。それまでのアンプが聴かせた音の振幅のなかで、それがちょうどピシッといいところにきたなという感じが、このマランツでしたわけです。
 アンプを選ぶ過程において、ナウなサウンドのサンプルとしてダイアン・シューアを聴いてきたんですけれども、ダイアン・シューアのバックのデイヴ・グルーシンの演奏も、このアンプが一番リズムががっちりと明確でした。それでいて細かいエレクトリック楽器のエフェクトもはっきりと聴き取れ、ナウい要求にもこたえられるということで、結局、このマランツPM84が残ったわけです。
 つぎに、さきほどのR・シュトラウスの三つの交響詩と、もう一枚のジャズの「ウェイ・アウト・ウェスト」、この二枚をCDで聴きました。そこで大きな問題があった場合つぎの候補を捜す必要があるわけで、そんな心配もしながらCDを聴きましたが、結果は非常によかった。特にロイ・デュナンの録音した、二十五年も前のソニー・ロリンズのレコード「ウェイ・アウイ・ウェスト」がとてもよかった。
 ソニー・ロリンズは、ご承知のようにニグロで、イーストコーストの非常にガッツのある、重厚なテナーサックス奏者です。ついせんだって亡くなった、非常にセンスのいい、よくスウィングする卓抜のテクニックを待ったウエストコーストのシェリー・マン、同じく卓越したテクニックと、いいサウンドを持ったベースのレイ・ブラウンの、その二人とロリンズがミートしたところに「ウェイ・アウト・ウェスト」の音楽的な特徴があるわけです。このレコードはそういう意味で企画的にも非常におもしろいわけです。
 したがって、このレコードはガッツのある、どろどろっとしたイーストコースト的な音になってしまっては困るんです。かといって、スカーッと晴れ上がったウエストコーストになり切ってはまた困ると言うところに、このレコードの音楽的特徴とともに再生する上での難しさがあります。これはうがった話ですが、聴いていて僕が感じたのは、ボストンアクースティックスというスピーカーが実にそういう音になってます。つまり、本当にアクースティックサスペンションの落ちついたよさを持ちながら、重さがとれて、明るさが出てきたんです。だから、このレコードの性格とこのスピーカーの性格というのはピシッと合った。これは一番満足して聴けました。
 それから、リヒャルト・シュトラウスの交響詩三つが入ったドラティのレコードは、英デッカの録音で、最新録音というわけでもありません。そして、多少きらびやかなところがあるんだけれども、しかしリヒャルト・シュトラウスの色彩的なオーケストレーションにはこのぐらいのきらびやかさも決して違和感がないんです。そういうリヒャルト・シュトラウスの、複雑な色彩感を待ったオーケストレーションのあやみたいなものをよく生かした録音だけれども、今の組合せで聴いた音というのは、そのあやをよく出しています。ときには、少々、弦などに英デッカ独特のキャラクターがつき過ぎている感じがしないでもないですが、レコード音楽として、特にこういうリヒャルト・シュトラウスのようなオーケストレーションには、むしろこういう音は効果的です。決して音楽の本質から外れたエフェクトではなくて、いいエフェクトだと思えますが、それがボストンアクースティックスで鳴らしたときに非常に生きたと思います。加えて、プレゼンスも非常によかった。いかにも二つのスピーカーから出てきたという音場感ではなくて、そこに奥行きを持った一つの空間が、むしろ音としては面で迫ってくる。きれいに融合したいい感じの音場できて、オーケストラの量感というものが非常によく再現されたと思います。オーケストレーションの細かいところは実に明確に録音されているんだけれども、それが全部出てました。
 特に「死と変容」の、スコアで三枚目ぐらいのところだろうと思いますが、フォルテになるところがあります。その前に、チェロのトレモロがあるんです。そのトレモロの感じというのはこのスピーカーで聴くと独特の魅力があります。普通のスピーカーでは、中でごそごそという感じになりがちなんです。ところが、それがちゃんとスピーカーの前にきて、いかにもそこで弦が並んでトレモロをやっているという感じの、いい感じで出てくる。大型スピーカーでガーンと、本当に生らしいというようなイリュージョンを聴かせるところまではいかないけれども、家庭用としてはほどよいリアリティーとエフェクトだと思います。
 CDプレーヤーとレコードプレーヤーシステムについて、最後に触れておきたいんですが、レコードプレーヤーは、特にアナログのプレーヤーというのはいろいろなコンセプトがあって、どこをどう変えてもすぐ音に影響するというのがアナログの良さでもあり、悪さでもあります。とにかく使う材料をちょっと変えれば変わるし、目方をちょっと変えれば変わる。つまり、どこかのバランスをちょっと変えれば、必ず音が変わってしまう。そういうアナログプレーヤーにあっては、これが絶対のものだということはあり得ない。結局、限られた現実の中でもって、いかにしてバランスのいい音をつくるかということが絶対必要だと思います。その点で、比較的そういうバランスを気にしないで、モーターならモーター、ターンテーブルならターンテーブル、トーンアームならトーンアームの物理的特性だけを追求していく傾向にある日本のプレーヤーは、なかなか優秀なプレーヤーではあるのですが、やはり使ってみると音に違和感が感じられる場合が多い。カートリッジにもそういうことが言えます。
 結果的に、ARのターンテーブルにトーンアームはSMEの3009SII、これにB&OのMMC1カートリッジでまとまったわけです。決して最高のものとは言えないけれども、妥当なバランスでまとまっていると思います。プレーヤーとして本当にコンパクトで、大げさでないモデルです。多少、フローティングサスペンションのスプリングをダンプする構造がもう一つ加わってほしいことと、使い勝手の点で──揺れて、しばらく揺れがとまらないというところで──ちょっと使いにくいところがあるし、あるいはSMEの3009SIIも、アームレストがどうも使いにくくて困るんだけれども、これはなれていただくことにして、トータルパーフォーマンスとして、ちょうど僕はボストンアクースティックスA400と同じレベルにバランスしているプレーヤーだと思う。全体の組合せとして考えたときに、実にいいコンビネ-ションと言えるでしょう。
 CDプレーヤーはLo-DのDAD600を使いましたけれども、これはLo-DのCDプレーヤーとしては三世代目になります。このDAD600は、バランスのいいCDプレーヤーで、特にアナログ的にフワッとする音でもないし、デジタル的にぎすぎすしたところのない、中庸をいくモデルです。値段の点からいくと中級機種ですが、まずCDの音を間違いなく、あるバランスで聴かせてくれるプレーヤーだと思います。もちろんCDプレーヤーは、各社からいろいろなモデルがでていて、ファンクションの点でも、音の点でも、これを越えるものはたくさんありますけれども、組合せのバランスからいくと、パーフォーマンスも、値段も、やはりちょうどいいところにあると思います。
 取り立てて高価ものを使っているという組合せではなく、バランスがとれて、お金のかからない方向というので考えたわけですけれども、出てきた音を聴きますと充分納得できる値段だと思います。
 さらにチューナーを加えるとすると、マランツではPM84とのペアモデルはだしていませんので、ケンウッドのKT2020がいいと思います。この組合せはパネルデサインの面でもマッチします。このKT2020はAMも備えたFMチューナーとして、最近の製品の中では一頭地を抜いたモデルと言っていいでしょう。

●スピーカー
 ボストンアクーティックス:A400
●プリメインアンプ
 マランツ:PM84
●CDプレーヤー
 Lo-D:DAD600
●ターンテーブル
 AR:AR turntable
●トーンアーム
 SME:3009SII/Imp.
●カートリッジ
 B&O:MMC1
●チューナー
 ケンウッド:KT2020

エレクトロボイス DIAMANT, SAPHIR

井上卓也

ステレオサウンド 74号(1985年3月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 超弩級フロアー型システムである、パトリシアンIIをトップモデルとするエレクトロボイス社から、新しく、コンシュマーユースのラインナップとして、ジュエリー・シリーズが登場することになった。
 このシリーズは、スイスEVにより開発されたシステムであり、ヨーロピアンサウンドとヨーロッパ調デザインに特徴がある。シリーズの名称が示すように、CRISTAL、OPAL、SAPHIRとDIAMANTの、それぞれ、宝石の名がつけられた4モデルシリーズを構成している。
 今回試聴をしたのは、SAPHIRとDIAMANTの上位2モデルであるが、他の2モデルも簡単に招介しておこう。まず、CRYSTALは、もっとも小型なモデルで、20cmウーファーと25mmドーム型トゥイーターを2500Hzでクロスオーバーした2ウェイ方式のシステムである。このモデルのみ、エンクロージュア仕上げがウォルナットレザーとブラックオークレザーの2種類が用意されている。
 OPALは、CRYSTALよりひとまわり大きなバスレフ型エンクロージュアに、20cmウーファーと38mmスーパードームトゥイーターを1500Hzでクロスオーバーした2ウェイシステムである。この2モデルは、ユニット配置が、バッフルボード中心に置かれたインラインタイプで、トゥイーターユニットの上部に、EVでいう、ヴェンテッドボックスという、バスレフ型のポートがある、というユニークな点が特徴であろう。
 まず、今回の試聴で最初に聴いたSAPHIRは、20cmウーファーをベースに、38mmスーパードーム・ミッドレンジと25mm口径CDホーントゥイーターを、1500Hzと7000Hzでクロスオーバーした3ウェイシステムである。
 新シリーズをユニット構成から眺めてみると、CRYSTAL、OPAL、SAPHIRの3モデルが、20cmウーファーを採用したモデルで、CRYSTALをジュニアタイプとすれば、OPALが標準型、SAPHIRは、そのグレイドアップ型とすることができるだろう。つまり、この3モデルは、シリーズ製品というに相応しい内容をもっているといえるだろう。
 SAPHIRは、とくにワイドレンジを意識させないスムーズなレスポンスをもつシステムである。低域は、20cmウーファーらしい、軽やかで、適度な反応の早さが特徴であり、滑らかでサラッとした中域と程よくクリアーな高域が、巧みにバランスする。
 使いこなしのポイントは、気持ちよく、軽快に弾んだ音を楽しむといった方向へのチューニングが好ましいであろう。
 まず、スピーカーの置台は、構造的に充分に剛性があり、音質に注意を払った材料を使った木製のスタンドあたりが好ましい。もしも、平均的にコンクリートブロックを使うとすれば、その表面は薄いフェルトなどでカバーし、ブロック固有の乾いた響きは抑えたいものだ。そして、その上に、木のブロックや角棒などを置いてから、システムをセットするとよいだろう。
 またスピーカーコードも、情報量が多いOFCやLC−OFCを使い、トータルバランスは細かにスピーカーのセッティングを変えて修整することがポイントだ。
 DIAMANTは、新シリーズのトップモデルであるが、内容的には、上級機種のBARON・CD35iのジュニアタイプとも考えられる。しかし、両者を比較すると、新製品らしく音響的には、DIAMANTのほうが基本設計が一段と進んでいるように見受けられる。
 その、第1は、新シリーズ共通の特徴であるが、バッフルにネックステル材料が採用され、バッフル面の不要輻射を抑えていること。第2に、中音と高音用のアッテネーターが、バッフル面から除かれ、この部分でのノイズ発生を防いでいることだ。
 このシステムは、新シリーズのトップモデルだけに、かなり本格派の音をもっている。さすがに、30cmポリプロピレン・ウーファーをベースとするだけに、SAPHIRと異なり、スケール感が格段に豊かになり、柔らかく余裕のあるベーシックトーンをもっている。中域以上も、適度にクリアーで抜けがよく、帯域感は充分に伸び、音場感もナチュラルに拡がり音像も比較的クリアーに立つ。使いこなしの基本は、SAPHIRと共通であるが、チューニングをした結果として得られる音は、明らかに1〜2ランク異なったものである。
 平均的な国内製品の高級システムよりは使いこなしは難しいが、期待に応えられるだけの内容を備えた製品と思われる。

BOSE 901SS-W, 301MM-II

井上卓也

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
「BEST PRODUCTS」より

 ボーズからの新製品は、同社のトップランクモデルとして開発された、901SS−Wシステムである。その基本型は、前面と背面の2通りの使い方ができるバイフェイシャル方式のユニークなモデルとして発売された901SSで、これに数々の改良が加えられた新モデルであり、901シリーズIVとは、異なったラインの製品である。
 このモデルの最大の特徴は、エンクロージュアの仕上げが、落着いたローズウッド調のダークブラウン系にまとめられていることで、エンクロージュア底面には、入力端子と天井取付金具CB1、スピーカースタンドSS5が使えるように、ナットが埋込まれており、別売のスタンドには色調を揃えた茶系のPS4SSが用意される。
 発表資料によれば、901SS−Wの音質面での特徴は、高域における繊細さをさらに洗錬させるための改良を随所に施し、SN比の向上、ダイナミックレンジの拡大と併せて、音楽性をより一層高めた、とある。
 インピーダンス0・9Ωのフルレンジユニットを9個直列接続にして、8・1Ωとしていることをはじめ、エンクロージュアの基本構造はシリーズIVと変わらないが、細部においては、合成樹脂系の成形品で作られている内部構造材と木製のジャケット的な外皮でエンクロージュアとしシリーズIVと比べ、内部構造材そのものだけでエンクロージュアを形成してこの部分の気密性を高めてあること、ユニット関係では、振動系の外観上の変化は少ないが、高域の歪の低減をはじめ、耐入力、耐破損性を高めるとともに、コーン裏側に施したダンプ材料のコーティングなど、細部を含めればシステムとして100箇所あまりの改良が加えてあるというのが、ドクター・ボーズのコメントであるとのことだ。
 なお、専用イコライザーは、初期の901SSでは、ブラックパネルに2個のレベルメーターが付いたタイプであったが、これが新タイプに発展したブラック仕上げが901SS用であるが、この901SS−W用には、シルバー仕上げのイコライザーが専用として用意されている。
 301MM−IIは、発売以来すでに4年が経過し、仕様を変更して、今春シリーズ IIに発展している。これにともない301MMのカラーバージョン301MM−WもシリーズIIに変わった。
 主な変更点は、まず、ユニット構成が従来と同様に2ウェイ方式であるが、トゥイーターが2個になり、エンクロージュア内部で一定の角度で前後に向けて固定され、旧型のフォーカシングコントロールがなくなったことが最大の特徴である。その他、前面と側面のウレタン製グリルが布製になり、BOSEのエンブレムが固定式となった。また、左右グリル間の木製の板が成形品となったことも印象が異なる。
 エンクロージュアの外形寸法は旧型と同様だが、板厚が数mmほど厚くなったためPR3以外の従来の取付金具は使用できず、新タイプの金具が用意されている。
 ユニット関係は、振動系コーンの色調がグレイ系から新製品共通のブルー系のコーン材料に変更され、裏側にダンピング材料がコーティングされている手法は901SS−Wと共通なところだ。
 901シリーズの音は、小口径フルレンジユニットを前面に1個、背面に8個分散させ、実際のコンサートホールでの直接音と間接音の比率をリスニングルームに再現するというユニークな構想に基づいた特徴に加えて、小口径フルレンジユニットの音に不連続な面がなく、緻密で、いきいきとしたサウンドの特徴を活かした点にある。低域と高域の不足を電気的なイコライザーで補い、その技術的内容がダイレクトに音として感じられる、プレゼンスとサウンドの魅力がメリットである。
 901シリーズIVが、穏やかなまとまりを示しながらも、緻密で内容の濃い音を聴かせるのに比べ、901SSは、同じようにダイレクト/インダイレクトの使いわけをしても、適度に広帯域型で、分解能が向上したクリアーで現代的なクールな音と雰囲気が、コントラストを作っていた。今回の901SS−Wは、901SS系をベースに分解能が一段と向上した印象である。細やかさ、しなやかさが、穏やかで暖かな雰囲気のなかにまとまって、熟成されているのが魅力であろう。
 この性質は、直接音を大きくして使う、サルーンスぺクトラムの場合でも、901SSとの性質の違いとなってあらわれるが、エンクロージュア左右に一対として付属しているフィンが、901SS−Wでは、木製ということもあって、バイフェイシャルな使いかたで、音とプレゼンスが大きく変化する。一例として、壁面から数十cm離して設置し、901シリーズIVと同様にフィンを閉じた状態と、外側のフィンを壁と平行とし、内側のフィンを各種の角度で使ってみると、音のバランスをはじめ、音像定位、音場感が相当に変化をするのが聴き取れるだろう。つまり旧301MMのフォーカシングコントロール的に考えればこの2枚のフィンは、サウンドキャラクターとプレゼンスのコントローラーとして使いたいユニークな機能である。この901SS−Wの小型高密度タイプでありながらクォリティが高く、音場感的プレゼンスに富むところは、他に類例のない魅力である。
 なお、301MM−IIは、旧型よりキメ細かく、しなやかとなり聴感上でのSN比が良いのが特徴だ。2個の固定した高域を活かすためには、使用にあたり内側と外側に置換えて調整するのがポイントだ。

トーレンス Reference

菅野沖彦

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
特集・「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」より

 トーレンスのリファレンスに大金を投じたのは、マッキントッシュXRT20というスピーカーとの出会いが刺戟になってのことである。このスピーカーの魅力の虜になった私が、何とかして、このスピーカーの最大限の能力を引出してみたいと思うようになったからである。
 それまで、JBLのユニットを使った3ウェイのマルチアンプシステムと15年も取組むうちに、その明解な音像輪郭の描き出す音に満足しながらも、時として、少々、肩肘張り過ぎる音の出方が気になってもいた。また、ターンテーブルやプレーヤーシステムも、いわゆる高級・高額品というものには物量が投じられ、剛性を確保したものがほとんどで、それらには同じ傾向が強いことに疑問を抱いていた。たしかに、音が明確な存在感をもって響くのはある種の快感である。締まった低音、曖昧さのない確固たる音像と定位、立上がりの鋭い切れのよい打楽器類の鮮烈なリズム感などは、いい加減にもやもやした鈍い音からすれば質は高いだろう。しかし、時として、それが行過ぎになる傾向がオーディオにはあるように感でいたのである。そうした傾向のプレーヤーでは必ず、本来、もっとも柔軟でしなやかであるべき弦楽器の音が刺戟的な方向で鳴るし、ピアノの打鍵は一様に鋭いパルスが勝って、あの楽器特有のボディのあるソフトな質感が出にくいのである。いくらピアノが、打楽器の仲間で鍵盤を打って音を出す楽器だといっても、まるで鉄のハンマーで打弦するような、金属音が支配するようでは音楽の表現もモノトーンになるし、絶妙なピアニスティックなタッチの変化や音色の多彩なニュアンスは聴くことが出来ない。最近の優秀録音やハイファイシステムは、どうも、その傾向が強く辟易させられる。これは、マイクロフォンに始まって、再生スピーカーに至るまでの数多くのオーディオ機器のもつ、ある種の歪が原因だと思うし、また、それを、ただ無定見に新鮮な魅力として、これを誇張するような録音再生のソフトまで流行しているように思うのである。
 人間、ごく単純にいえば、弱いより強いものに、低いより高いものに、柔らかいものより硬いものに、暗いより明るいものに……といった具合に、量的に優位なものに気をそそられるのが普通である。また、オーディオ機器や、その使い方の中で、人は、元の音のあるべき姿を知らないと、一対比較で、音を判断し、この量的優位の感覚で決めてしまう危険性がある。長年のレコード制作で、私がよく体験することであるが、オリジナルテープの音よりカッティングされた音を喜ぶ人が多いもので、それは何らかの原因で、機械式変換のプロセスが音を硬い方向へもっていくことに起因しでいるようなのだ。
 よく、超高級のターンテーブルなどで、レコードにはこんな音まで入っていることに驚かされる……といった説明を聴くが、私には、それが必ずしも、レコードに入っている音ではなく、むしろ、ターンテーブルシステムの創造する音ではないかという疑問が浮かんでくるのである。Qの高い金属製ターンテーブルにレコードを直接置くようなプレーヤーの使い方は、私にはどうしても納得出来ない。不自然な音の質感をもつものが多いのだ。この理由の説明は長くなるので、ごく簡単にいおう。レコード製造課程で作られる金属原盤(マザー)と、そこから作られるスタンパーでプレスした塩ビのレコードの音とを聴きくらべると、工程からいって当然、マザーのほうが波形の忠実度が高いのに、その音は明らかに金属的な質感で、よりクリアーで迫力はあっても不自然である。よりクリアーで迫力があれば不自然でもよいというのなら何をか言わんやだし、何が自然なのか解らない人にはそれでもよいかもしれないが、微妙な音楽の質感を大切にする耳には塩ビのレコードの音のほうがはるかによい。金属原盤のQの高さが害を生むのであろう。現在の塩ビのレコード材料が、Qの点からもスティフネスの面からも最上のものかどうかは疑問があるが、これ以上Qの高い材料にすることは賛成出来ないように思う。
 もちろん、これはカートリッジやアームの問題とも密接に関連することだが、現行の汎用カートリッジやアームで使うには明らかに、このことがいえる。レコードを金属ターンテーブルに密着させるということは、塩ビとターンテーブルの一体化によりQを高い方向へもっていくことになるだろう。吸着式はレコードの平面性の確保という点ではたしかにメリットがあるだろうが……。もし吸着させるなら、可聴周波数帯域内に害をもたらさないQの小さな材料か、複合材でダンプをすべきではないだろうか。数キロもある金属と一体化に近い状態になったレコードからは、たしかに、曖昧なシートにのせられたものとはちがソリッドで明確な音が出てくるが、これを単純により優れた音と判断するのは感覚的にも教養的にも淋しい話と思えてしかたがない。
 マッキントッシュのXRT20が、私のJBLのシステムと違う最大のポイントは、音楽の自然な質感であった。それに触発されて、それまで、いろいろな点で不満であったターンテーブルシステムの充実をはかることにしたのである。自然な質感を失わず、しかも、機械変換機能をもつもののベースとして十分な質量をもたせ、メカニカルフィードバックにも対処させる方向で。その私の考えの線上に浮上したのがリファレンスであった。案に違わず、このシステムは、超弩級のシステムでありながら、トータルバランスを重視した設計で、決してエキセントリックな音を出さない。リファレンスの名にふさわしい妥当な音だ。レコードで音楽を楽しむひとときに、なくてはならない、とっておきのプレーヤーである。

マッキントッシュ XRT20, JBL

菅野沖彦

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
特集・「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」より

 正確には記憶していないが、多分、1967年ぐらいから、ぼくのメインシステムとしてJBLの375ドライバー十537−500(ホーン/レンズ)を中心としたスピーカーを使い始めた。当初から、3ウェイのマルチアンプシステムとして使い始めたもので、ぼくにとってこのスピーカーは、まさに妻のようなものであった。何故なら、ぼくがこれを使い始めた頃、ぼくの気持ちの中では、一生、このスピーカーとつきあおうと思っていたし、また、そうなりそうな予感もあったからである。トゥイーターは075、ウーファーは初めのうちはワーフェデールのW12RS・PST、そして後に目まぐるしく変り、結局、JBL2205に落着いて現在に至っている。もっとも、075は、その後、ぼく流に改造しているし、375ドライバーも2445Jに変ってはいるが、これは妻を変えたようなものではなく、女房教育をしたようなものである。つまり、通称〝蜂の巣ホーン〟を中心としたJBLのユニットによる3ウェイのマルチシステムという基本は、この17年間変ってないのである。もちろん、その間にも、いろいろなスピーカーに出会って、浮気心を起こしたこともあるし、そのうちの何人かは、本妻と一時的に同居させたこともあった。しかしいつも、せいぜい3〜6ヵ月で、妾のほうは追出されてしまうのが常だった。まさに浮気のようなもので、本妻と並べてみると、改めて、妻の美点がクローズアップされ、一時期血迷った自分を反省するのであった。時には妻にはない魅力を垣間見せる妾もいたが、総合的にはいつも妻のほうが上であった。それに気がついてしまうと、とても妻と妾を同居させている気がせず、妾のほうにはお引取り願うということになるのであった。
 そんなぼくとスピーカーとの関わり合いに、かつてない大事件が起きたのが、今から3年前、1982年の春である。
 その2年前、ぼくは録音の仕事でアメリカへ行き、ニューヨークで二週間ほど仕事をしたが、その間に、マッキントッシュのXRT20というシステムに出会ったのである。ぼくの浮気の虫は、にわかに鎌首を持上げ、この熟女の魅力の虜になってしまった。しかし、この時は、かろうじで理性が勝って旅先での出来事にとどめることが出来たのである。しかし日本に帰って、久しぶりにわが家で妻の歓迎を受けながらも、XRT20の妻にはない魅力が想起され、妻には悪いと思いながらも、妻との営みの最中にXRT20を空想したり、妻にXRT20の魅力を求め無理強いしたりという一年がつづいていた。しかし、再び、妻との生活に馴れ、いつしか、XRT20の記憶も薄れていったのだった。もとの落着いた心境で、夜な夜なベートーヴェンやハイドンを、バッハやモーツァルトを、そして、マーラーやブルックナーを招いて楽しい一時を過していたし、時にはソニー・ロリンズやアート・ペッパーを、また、大好きなメル・トーメやジョニー・ハートマンを招くこともあった。ジャズメンを招いた時の妻の喜々とした表情は、ことのほか魅力的で、とても15年連れそった古女房とは思えない若返りようであったものだ。
 が、忘れもしない1982年の春、日本でXRT20に再会してしまったのである
 XRT20が来日した! と聞いた時からぼくの胸は高鳴り、ニューヨークで味わった興奮が、まるで昨日のことのように甦ったのである。もう、居ても立ってもいられない。ぼくは後先顧みず、XRT20をわが家へ連れ込んでしまったのだった。彼女のために部屋を片づけ、レコード棚の一つは廊下へ出し、なんとかXRT20のために居心地のよいスペースを確保した。
 それからの数十日は、ぼくは平常心を失っていたように思う。朝な夕な、夜更けまで、ぼくはXRT20に狂っていた。柔らかく優美な肌、しなやかでいて強勒な、その肉体にのめり込んでいった。気性は妻よりややおとなしいように見えたが、どうしてどうして芯は強い。若いだけあって柔軟性に富んでいて、クラシック畑の人ともジャズ細の人とも、分け隔てなく馴染んでくれた。ぼく流の教育にも従順で、驚くほどの適応性を見せるのだった。
 この間、妻は無言であった。そしてある夜、ふと沈黙の妻の存在に気づき、久し振りにぼくは妻との語らいの一時をもった。そしてぼくはまたまた、妻の能力を再再発見したのである。妻はいった。
「私はXRT20とは違うのよ。でも、私は長年、あなたによって教育され、大人になったと思うの。それだけに新鮮味はないかもしれないけれど、XRT20とは違った心地よさをあなたに与えてあげられる自信があるの。この前、あなたの親しい瀬川冬樹さんが来られて、あなたとお話ししていらしゃっるのを聞いたわ。瀬川さんはさかんに私との離婚をあなたにすすめられていたわね。でも……私、嬉しかった。あなた絶対に首を縦に振らなかったもの。ありがとう。」
 ぼくはこの時から、長年の主義を破って妻を二人持つことに決めたのである。辛いオーディオ国の法律では重婚は禁じられていないようである。そして、新しいXRT20に、長年JBLに注ぎ込んだ情熱的教育に匹敵する努力を集中的に一年間傾注したのである。来ては去った多くの妾達とはXRT20は違っていた。他人からみるとXRT20がぼくの正妻のように見えるかもしれない。しかし、今や、堂々と、それでいて、ひかえ目に存在するJBLとは馴染んだ年輪が違う。どちらも、ぼくのとっておきの音である。
 この二人の妻と、いつまで続くかはぼくにもわからない……。

dbx SF1

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 これまで、ニュージェネレーション・スピーカーの技術の指向するポイントが、エネルギー変換器としてのスピーカーから音場変換器としてのスピーカーへ移行しつつあるということをずっと述べてきたわけです。そのためには、様々なアプローチと音場の聴かせ方があって、単に指向性を改善するもの、あるいはユニットのレイアウトを工夫するもの、あるいはバッフル効果によって自律的な音場を作るもの、あるいは、レコードにおいて人工的に強調され過ぎた音をスピーカーの側で少しコントロールし、生のイリュージョンを雰囲気として聴かせようとするものなどがあり、かなりバリエーション豊かな新世代が、いかにもアメリカらしくいっせいに開花しつつあるわけですね。
 そういう中で、dbxのSF1というスピーカーは、それだけでは足りない、むしろ積極的に音場を創成してゆこうというアプローチに基づいたスピーカーです。
 具体的にどうなっているのかというと、スピーカーエンクロージュアの四面にウーファーとスコーカー、そして項部に6個のトゥイーターがぐるりと取りつけられていて、一見無指向性のように見えるのですがそうじゃないんですね。エネルギーのラジエーションパターンが、卵型の楕円を描き、しかも音圧の一番強い方向が、左右スピーカーの向い合う内側なんです。逆に、左右スピーカーの外側、つまり壁に向かう方向が音圧は最も低い。そして、単に音圧レベルを変えてあるだけではなく、左右スピーカーの対向方向から外側にかけて、ネットワーク内部でタイムディレイがかけられているんです。従来のスピーカーというのは、どんな形式をとるにしても、リスナー方向に音軸が定められ、f特も指向特性も、そこを規準に考えられてきたわけです。ところが、このSF1は、左右スピーカーの作り出すトータルな音場、つまりリスニングルーム内にどういうパターンでエネルギーが分布すればもっとも豊かな立体音を形成するのか、そして2本のスピーカーからできるだけ複雑な位相成分を出そうということを、人間の音響心理、音響生理学的な見方も加えて考案されて
設計されているんじゃないかな。ですから、最初から音場の変換器としてペアスピーカーを考えるという徹底したアプローチでしある点が、これまで聴いてきたどのニュージェネレーションのスピーカーと比べても、なお斬新なところなんですね。
 プログラムソースに入っているものをそのまま忠実に、という発想ではなく、むしろ積極的に音場を創成してゆこうという姿勢ですね。もともとdbxというメーカーは、その名の通り、デシベルをエクスバンドにするという、いわゆるノイズリダクションシステムで、プロの分野で70年代に一躍脚光を浴びたメーカーです。その後、エレクトロニクステクノロジーをどんどん積極的にソフトウェア化する方向に向かい、サブ・ハーモニックシンセサイザーや、帯域別にダイナミックレンジを拡大するエクスバンダーを、コンシュマー化し、近年はさらにもう一歩進んで、20/20という音場補正用のイコライザーを手がけたわけです。
 おそらく、その時点から、dbxにおいて、音場というものに対する関心が、にわかに高まったのではないかと想像します。端的に言えば、dbxにとって、「SNから音場へ」というセカンドステップを実現したのが、このSF1なんです。
 20/20の開発において、音場のエネルギー特性を補正するプロセスを経験するうちに、dbxは極めて好奇心の強い会社で、しかも天才的な発想、自由な発想を待った会社ですから、エレクトロニクスでは伝送系の一部をコントロールできるにすぎないことから、アコースティックに直接タッチせざるをえないようになったんだと思います。
 エレクトロニクス技術で、アコースティックな変換系をコントロールするとすれば、ひとつには先に言ったイコライザーであり、もうひとつは位相のコントロールがあります。つまり、部屋の中に展開する音の運動波、波状をエレクトロニクスでコントロールできるのは、位相、時間特性の変化なんですね。
 このSF1には、SFC1というプロセッサーユニットが付属し、その特徴的なフィーチェアが、その位相成分のコントロール機能に当てられ、スピーカーの独特なエネルギーラジェーションに相乗効果として働くよう設計されています。
 中域の和信号(L+R)をプロセッサー内で加え、たとえばヴォーカリストの中央定位をより明快にしたり、ソロを際立たせるという使い方や、逆に差信号である逆相成分を元の信号に加えて、左右の広がりをスピーカーの外側にまでイメージさせようという内容で、おそらくプログラムソースの内容により使いわけるということが、原則としては考えられるでしょう。
 かつて、「4チャンネル」が流行したときに、マトリックス再生という方法があったんですが、そういうプロセッサーを作ることはdbxにとっては、いたって簡単なことだったろうし、それに対するソフトウェアを彼等はものすごく実験しているはずです。おそらく、様々なリスニングルームの特性をデータ化し、分析するということを前提としてやっていると思います。
 これまでのスピーカーが、レコード再生における新しいクォリティの発見として音場をとらえているとすれば、このSF1はさらにそこから一歩進んで音場の創成に向かっているということですね。
 実際に音を聴いてみて、興味深いのは、たとえば、ステージ中央で歌っている歌手の位置が、リスニングポイントを左右に大きく動いても、空間のある一点に定位したまま動かないということです。これは考えてみれば当然で、もしリスニングポイントが右へ移動すれば、左側のスピーカーのエネルギーの強い射程に入り、かつ右チャンネルは、音圧の低くなる方向となるわけですから、単純に言ってしまうとコントロールアンプのバランスコントロールを左チャンネル側へ回したようなことになるわけです。おそらく、SF1というスピーカーシステムは、リスニングエリアを広くとりたい、あるいはどこで聴いても、音像が動かないことを狙ったんでしょうね、その効果は、明瞭に聴きとれる。しかし、そういうモノ的な定位だけではなく、位相差成分を活かした、もっと効果的なステレオエフェクトも積極的に作りだせるはずで、逆相成分をコントロールした音場の楽しみ方も可能でしょう。
 もし、これが単純な無指向性スピーカーにすぎないとすると、左右のレベル差だけで定位している音像というのは、無指向性であるが故に、リスニングポイントが移動したときに定位も移動してしまうんですね。SF1のラジェーションパターンを見れば理解されると思いますが、リスナーがどちらかへ寄った場合、寄ったほうのスピーカーのエネルギーが弱くなる設計で、しかも、ディレイが入るという、非常に凝った設計になっています。
 SFC1というコントローラーは、SF1から出るそうした音の波の状態を積極的に変化させようというものであって、20/20のような補正的な考え方ではない。やっぱり創があるんですね。
 さらに考えられることは、たとえばスピーカーの間にビデオプロジェクターなりモニターテレビを置いて、そのプログラムソースが、ボーカリストを中心にしたものであった場合、複数の人間が観賞するときにも、音像が移動しないというのは大きなメリットになります。両端で聴いている人にとっても、歌手がブラウン管の位置から聴こえてくるという、音像と映像の定位の一致という点で、ぼくはとても興味深いスピーカーであると思います。
 このスピーカーシステムの一番のポイントというのは、一言ではいい言葉がないんですが、プログラムソースというものを一つの素材として、それをより立体的な生演奏のイメージに近づけようという発想にあり、ハイフィデリティというよりも、ハイクリエイティヴィテイという姿勢に近いと思います。ですから、ナイーブリアリズムの対極にあるという見方もできると思いますよ。アメリカの経験主義的な合理精神というか、プラグマティズムを感じますね。
 過去のオーディオの歴史において、様々な考え方が流行しましたが、かつては、忠実なプログラムソースの再生にはデッドな部屋のほうがいいという考え方があって、極端に言えば、現実無視の無響室のような部屋が、ハイファイに適しているという理想論だったんですね。しかし、現在では逆にある程度、ライブネスを待った部屋の中で聴いたほうが、より自然であり、より美しい音が聴けるという方向へ変わってきいます。
 つまり、すでに、なにがなんでもプログラムソースに忠実でなければならないという発想が、現実を前にして破綻しているんですよ。その方向をぐうーんと押し進めてゆくと、スピーカー設計の最初の段階から音場創成を前提にするというコンセプトは、さして驚くべきことでもないとも言えるんです。このシステムを、エキセントリックな見方でとらえることは誤りでしょう。
 今回聴いたニュージェネレーションのスピーカーの中では、ある意味では一番進歩的な発想で作られているということが言えるかもしれない。音場型の典型的なスピーカーであると言っていいと思うんです。やはり、テクノロジーのソフトウェア化に長けたdbxならではのスピーカーシステムだと思います。

アクースタット Model 2M

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 エレクトロスタティック型の発音原理というのは、ダイナミックスビーカーと同じくらいの歴史をもつ古いもので、その構造自体がニュージェネレーションであるという判断は誤りでしょう。むしろ、70年代においてアメリカでセイデンが多スピーカーの音が好まれたということに、より大きな意味がある。エレクトロスタティックならではの良さというのは、何と言ってもトランジェントがいい、つまりマスレスな動作による自然な音の肌合い、繊細で誇張感のない音色にあり、その良さを基本的に満たしたうえで、充分な音圧を確保すべく改良が重ねられてきたのが、アクースタット社のスピーカーです。
 冒頭に、インフィニティの音の肌合いに静電型に通じるマスレスの思想があるということを述べましたけれども、そのほかにプラズマスピーカーというような、本当にマスの存在しない発音原理、つまり空気をイオン化して直接発音させるという実験的な試みも、アメリカでは盛んにやられていた。そういう音の感受性というのは、かつてのAR、JBL、アルテックの時代には存在していなかったもので、スネルのところでも言いましたけれど、完全にアメリカのニュージェネレーションを代表する感受性のひとつなんです。
 じゃあ、このアクースタットはスネルのようなナイーブリアリズムなのかというとこれはとても単純には言い切れない。ナイーブリアリストだったら、やはりライブの音場感、空間の定位に素朴に生演奏のイメージを求めるということが基本にありますね。しかし、アクースタットの場合、平面波による音場合成ですから、リスニングルーム内に立体音場を再現しようという方法ではないのです。まるでヘッドフォンのように、頭の中で合成してステレオフォニックな定位を得るという平面波特有のエフェクトがあるわけです。つまり、平面波の場合、それを二つの耳で聴くことによって、人間の両耳効果の属性によって立体感のイリュージョンを、スピーカー側にあたかも展開するように聴くことになるんですね。ナイーブリアリストは、おそらくそこに違和感を感じるかもしれない。しかし、その違和感というのは、このスピーカーにしか求められない独自のイリュージョニスティックな音場でもあるんですよ。
 平面波というのは、距離をおいても、多少は散らばるとはいえ、あくまで平面波で押してくる。したがってドーム型や、ホーン型にディフユーザーを付けたドライバーのように距離に比例して指向性がブロードに広がってゆく性格をもたないために、平面面波独特の波状効果による音場体験を聴くことになるんですね。これは、自然条件において、たとえばコンサートなどで聴く音場とは違います。ですから、ぼくはそれを違和感と言ったけれども、ある意味では現実の現象としては存在しないが故のスーパーリアリズムに通じる部分があるかもしれない。
 さらに、このスピーカーの場合、非常に広い面積から音が放射されるため、そのことも一種独自の音場感に役立っていることも事実でしょう。
 しかし、ぼくはこのスピーカーの場合、空間よりも、むしろ質感にひかれてゆくナイーブリアリズムではないかと思います。つまり、生の音に通じるデリカシー、美しさをアクースタットは求めて静電型を選んでいるのではないかという判断なんです。弦楽器の優しい表情、細やかな旋律の起伏、どこにも強制的な、人工的な鳴り方のない音の魅力というのは、やはり目方のある振動板から音が出ているというスピーカーとは根本的に異なるクォリティですよ。音の立ち上がりの軽さ、トランジェントの良さというのは、生の音の良さに通じるんですね。
 逆に言うと、一般のスピーカーがだらしないとも言えるんですね。オーディオスピーカーここにあり、という鳴り方に辟易しているわけですよ。そこは、やっぱりナイーブリアリストに共通したところなんです。
 70年代に、そういった様々な意味でナイーブリスナー、あるいは音楽ファンを迎え入れるスピーカーが数多く登場してきたことの背景には、オーディオのメカニズムにあたかも支配されたようなサウンドを、ある意味では全面否定しようという共通意識があったからでしょう。それが、質感の徹底したナチュラリズムへ向かうのか、音場のナチュラリズムへ向かうのか、いずれにしても「自然へ帰れ」的な共通意識を感じます。
 ナイーブリアリストというのは、低音域の大振幅によるダイナミックな再生というのは望んでいないということも言えそうですね。つまり、先のスネルにしてもアクースタットにしても、実際に生の音楽では低域の大振幅を感じさせる大袈裟な鳴り方じゃないという認識が、出発点にあったはずです。つまり、音楽の聴き方として、一方がダイナミズムや音量的な満足感を求める聴き方にウェイトを置くとすれば、他方、ナチュラルな音響空間を求める聴き方にウェイトを置くこともあるわけで、ニュージェネレーションの聴き方のひとつはそこに求められていると言うこともできるでしょう。
 ただ、それはどっちかに片寄っていいということではない。ぼくだったら、このスピーカーを活かすために、まあ夢のような話かもしれないけれど、背面の壁は完全な反射面にして、後方へ出たエネルギーも積極的に利用したい。その場合に、壁は平面じゃなくて、曲面に仕上げるわけですよ。それで、反射音と直接波のブレンドをうまくバランスさせると、相当にラウドネスの限界は超えられると思う。
 いずれにせよ、ユーザー、リスナーの志向がどこを向いているのかが明快に問われるほど、ある意味では今日のオーディオシーンは多様化しているんですね。かつてのように、極端な個性と個性のぶつかり合い、思い入れのようなものから脱しているということなのかもしれない。それは、個性の普遍化へ向かいつつあることの証しでもあると思います。

エレクトロボイス baron CD35i

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 エレクトロボイスのニュージェネレーションを代表するバロンCD35iは、これからのオーディオ産業そのものの国際化を考えるうえで、非常に重要な位置にあるスピーカーです。つまり、企業が国際化してゆくということと、音の個性の国際化というレベルの問題を、これほど鮮明に打ち出した製品はかつてなかった。
 まずこれはとても美しいデザインとフィニッシュワークが、大きな魅力のひとつになっているわけで、本当のヨーロッパ製スピーカーでもなかなかこれだけのセンスのあるまとめ方というのは少ない。
 音のうえからも、男性的な、どちらかと言えば骨太のしっかりとしたエレクトロボイス伝統のサウンドをちゃんと継承し、そのうえさらにニュージェネレーションのスピーカーと呼ぶにふさわしいプレゼンスの豊かさを持っています。指向性の改善というのは、このスピーカーのひとつのポイントだけれども、いわゆる音場型スピーカーと呼ばれるスピーカーにややもすると感じられるひ弱なところがまったくない。これは、70年代にアメリカで登場した新世代スピーカーとまったく異なるところで、先のJBL/L250同様に、しっかりと伝統を踏まえた音作りがされています。
 とてもおもしろいことだと思うのは、今、オーディオ製品というのはエレクトロボイスに限らず、どんどん国際的な作られ方がされるようになっていて、パーツや素材供給のレベルでは、様々な国籍のものが使用されています。アメリカ製のアンプの中をのぞいて、日本製のパーツがあったり、北欧製のパーツが入っていたりというのは日常化している。これも、ニュージェネレーションのひとつの特徴でしょうね。
 なにも、オーディオに限ったことではなく、すでにカメラやクルマ、およそすべての工業生産品は現地生産あるいは協同開発という国際的な展開が日常化しつつあるわけです。あの頑固なポルシェをして三菱のパーツが使われるという時代なんですね。
 少し話が飛躍するかもしれないけれど、世界には様々な国があって、今後は、産業分担主義で行かないことには成り立たないんじゃないかと、ぼくは考えているんです。日本は日本が一番得意とする産業で世界中を賄う、アメリカはアメリカで、という具合にね。
 たとえば、現在の飛行機の開発というのは、最終的な仕上げ、アッセンブルはアメリカがやるけれど、ある部分はフランス、ある部分は日本という形で分担することが可能になっている。このバロンというスピーカーは、エンクロージュアデザインをスイスのE−Vが担当し、サウンドのコンセプトはアメリカのE−Vが担当するという形で、商品の完成度はとても高い。
 ところが、世の中には、まったくそれとは逆の意味での国際化、というよりも国籍不明の均一化という現象もある。ヨーロッパのものがアメリカナイズされたり、最近では外国製品と言えどもジャパンナイズされてゆく傾向があるんです。文化の独自性が生きるような国際社会を目指さないと、音のアイデンティティ、個性が失われてゆくことになりますからね。デラシネ・オーディオじゃ駄目なんだ。
 今、日本だけではなく、ヨーロッパでもPAシステムにエレクトロボイスやJBLが使われるというのは極く当然なこととしてあるわけです。つまり、サウンドの輸出という意味で、明らかに文化交流的なレベルで音の国際化は進行している。で、文化交流というのは、文化ごちゃ混ぜ、均一化ということではなく、自分たちの音に対する感覚、嗜好とは異質な音をより広く、深く知ろうということにあるわけでしょう。つまり、自分とは異質なもの、他国の音を聴くことで、さらに自分たちの音の文化を高めようということになるんですね。
 オーディオというのは、科学技術ですから、その面での国際化、均一化は急速に進みます。しかし、それは、産業レベルの話であって、音の個性、それを育んだ地域性の根は、洗練されながらも国際舞台に乗ることで、より広いファンを得てゆく。音の国際化、普遍化というのは、そういう意味でなければならないんです。
 エレクトロボイスのバロンというスピーカーが、ニュージェネレーションのスピーカーの中で果している役割は、ですから非常に重いと言えます。インターナショナルサウンドというのは、音の無国籍化であってはならない。
 個性というと癖のように、個人の勝手気ままな性格のように思われるけれども、じゃベートーヴェンが、マーケットリサーチをして音楽を作ったのか、受けようと思って作曲したのかといえば、そうじゃない。あれほど強烈に自己主張を主観的に押し出した音楽が、これほど普遍性をもっているという事実が、なによりも音の普遍化を説明しているでしょう。
 たとえば、国際化、普遍化がもっと進めば、現在のように特に日本向けに作る、あるいはアメリカ向けに作るということのナンセンスさが問われてくるでしょう。オーディオはたしかに音楽を伝達する道具には違いないけれども、オーディオを楽しむということは、オーディオ機器に個性を求める、選択するということに意味があるわけで、何でもいいやということにはならない。国籍不明のオーディオや、日本向けオーディオという発想は、非常に危険なことであるということを、このスイスメイドのエレクトロボイスが警告しているといっていい。

JBL L250

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 JBLの技術的な特徴というのは、かつてはハイエフイシェンシー、ハイパワードライブという業務用から派生したヘヴィデューティな性格にあったと思うのですが、JBLというメーカーの創設意図というのは、本来、家庭用の高級フロアースピーカーを作ることにあった。例えば、ランサー101、L200、L300といったホーンドライバーを用いたシステムが代表的な存在でしょう。L250は、コンセプトとしては、JBLの家庭用フロアースピーカーのカテゴリーに入るのですが、その独特なプロポーションとユニット構成は、JBLの家庭用スピーカーの歴史の中で異彩を放っています。しかし、L200、L300とこのL250を歴史的に埋める位置にあたるL222Aというトールボーイのシステムを見てみると興味深いことに、3ウェイ構成でトゥイーターはホーン型、スコーカーは13cmコーン型なのですが、そこに波型プレートの音響レンズがつけられていた。つまり、JBLとしては、家庭用として旧来のホーン型からコーン型へ移行する経過をよく表わしていると思うんです。エンクロージュアも、側板にテーパーがついて、定在波や剛性の面でも独創的なデザインを採用し、このピラミッド状のL250へ連なるものでしょう。
 しかし、もっと遡ってみると、L250の原点というのは、実は、かつてJBLのラインナップの中で異色な位置を示めていたアクエリアス・シリーズのあたりからだと思いますね。74年頃に一時期輸入されたことがあり、それまでのJBLの考え方とは全く異なったコンセプト、つまりスピーカーを1チャンネルの中だけで考えたシグナルの忠実な変換器としてステレオ用に2本使うというのではなく、最初から家庭内でステレオフォニックな拡がりというものを意図し、ホームインテリアにも溶けこむようなデザインから無指向性のペアスピーカーとして設計されていました。ですから、ユニットに、強烈なドライバーや大口径ウーファーを使ってエネルギー変換の忠実度を上げるというよりも、音の拡散とそのコントロールにウェイトが置かれていた。結果的にアクエリアス・シリーズというのは、JBLにおいて失敗に終ってしまったんですが、ひとつには実験的な性格が強過ぎたということもあったんじゃないかと思います。
 ステレオフォニックな音場というのは、位相差、時間差、レベル差というものによる立体感、つまり奥行きと拡がりのあるソリッドな空間ということですね。で、この2チャンネルの伝送変換というのは、モノーラルが単純に二つになったということとはまったく違います。ところが、2チャンネルの関連を使って、和差信号、位相差を空間で再生するためのステレオスピーカー技術というものは、アメリカにおいては70年代にようやく始まったと言え、アクエリアス・シリーズも当時にあってはJBLの解答のひとつだったわけです。
 70年代までというのは、とにかくエネルギーの忠実な変換器ということに技術が偏っていたように思います。偏っていたというのは悪い表現なんで、徹底していた。徹底していたからこそ、4343のような4ウェイ構成でもって、全帯域を緻密にエネルギー変換できるクォリティの高いスピーカーが生まれえたわけですよ。
 それに対して、アクエリアス→L222A→L250という系譜が語る別のラインというのは、忠実なエネルギー変換器であることに加えて、ステレオ空間の変換に対する忠実度を高めようというアプローチの上に礎かれてきた、もうひとつのJBLの歴史なんです。もちろん、音場変換器としてのスピーカーというとらえ方は、ボストンにも、先のスネルにも濃厚に表われていて、これはアメリカのスピーカーのニュージェネレーションに共通した問題なんですね。JBLとしては、バイラジアルホーンの開発というのも、明らかに指向性コントロールをステレオ音場の変換というポイントから取り入れた技術で、JBLにあっては、ホーンドライバーが音場変換に適していないとは判断していないことがうかがえます。
 ですから、そういう意味でL250を眺めてみると、これは完全に左右ペアスピーカーとして考えられており、ステレオフォニックな空間再生としてのあるべき技術的なポイントがどこにあるのかということに、大きなウェイトを置いて開発されたスピーカーなんです。
 ただし、JBLのように伝統のあるメーカーの場合、基本的にユニットを大幅に変えるということはしないで、柔軟に対応してゆくということはあるわけで、ユニットの設計そのものは従来のようにハイリニアリティ、ローディストーションという物量の投じられた内容をもち、L250の場合、エネルギー変換器としての忠実度を基本的に満たした上で、さらにエネルギーレスポンスのフラット化、位相コントロールという考え方が後からアダプトされている。このあたりの慎重な対応が、伝続あるJBLらしいところなんですね。
 L250の音の上での良さというのは、指向性がブロードになり、エネルギーレスポンスがフラット化されているためか、ステレオフォニックなプレゼンスによる響きの柔らかさということがまず聴き取れると思います。とはいっても、あくまでも芯のしっかりとした、輪郭の明確なJBLサウンドを継承していますね。
 それから、これはJBLの嫌いな人に言わせると、中低域にJBLのスピーカーというのはかなり特徴があり、ややボクシーな音がする。なにか容れ物の中から音が出てくるというイメージを彷彿させる。
 逆に言えば、聴きごたえのする、迫力のようなものが得られるという解釈もできるんですが、L250を聴いても、その中低域の、悪く言えばボクシーな感触というのがやはりありますね。エンクロージュアのプロポーション、バスレフボートの位置など、ボクシーな感触をある意味では避けた配慮がみられますが、やっぱりJBLの音であるな、という感想が出てくる。
 そうした意味においては、70年代に生まれたニュージェネレーションのスピーカーメーカーとは、一味も二味も違うスピーカーであるという、やはり大人なんですね。
 JBLファンというのは、最もJBL的な音が円熟して、まるで19世紀のヨーロッパの爛熟した貴族文化のように確立した時代に求めず、たしかに、JBLのヴィンテージが、そこにあったことは事実でしょう。
 それからすれば、L250のようにコーン型、ドーム型ユニットを用いたシステムというのはどうも……ということになるかもしれないけれども、スピーカーは空間の変換器であるべきだというこの客観的な共通意識を、実際のリスニングレベルでどう感じるのかということがかかわってくることなのでしょう。
 ただ、JBLくらいの大規模なメーカーになれば、ひとつの技術的な理想を実現するために、ホーン型は絶対に使えない、これからはコーン型しかないんだというような短絡した見方はしない。
 ニュージェネレーションは、じゃホーンシステムでは実現できないのかというとそれも妙なことでしょう。ホーンによって、いつの日か、もっと指向性が良くて、球面波再生を実現した呼吸球のようなホーンスピーカーができないとは言い切れないでしょう。それから、まったく逆に、指向性を自在にコントロールできるホーンの設計が可能になれば、意図的に指向性を狭くして、サービスエリアのコントロールをすることもできる。それらは、すべてニュージェネレーションに属した発想なんですね。
 ニュージェネレーションを迎え入れるために、我々はもうひとつのファクターを、まったく違ったアングルからとらえる必要があります。スピーカーというのは、リスナーの趣向に対応して鳴り響くものであるけれども、というよりもまさにそれゆえに、人間というのは本質的に飽きる、感覚が麻痺する、何か別の違うものを要求するという本能があるわけで、人間の広い感性の中でオーディオを見る見方が必要だと思うんです。それをただ縦の線上に並べて云々する、妙なヒエラルキーの中に閉じこもってしまうというのは、オーディオをどんどん袋小路へ追い込んでゆくことになるんですね。精神的には、プアーなオーディオになってしまう。
 たしかに、オーディオはテクノロジーの世界だから、良い悪いをテクノロジカルに表現して、縦の線で順序付けることは可能かもしれない。しかし、そのこと自体はオーディオの楽しみ、快楽とは無関係な、あくまでもテクノロジーの世界での話でしょう。もっとそこに、人間や音楽が立体的に絡んでくるより大きな世界がオーディオですよ。ですから、ニュージェネレーションのスピーカー群は、その意味で、フレッシュなるがゆえの魅力、まったくそれまで追求してきた自分のオーディオの方向を逆に振ってくれるような魅力が問われていることも事実なんですね。
 極端なことを言えば、それまでと違えばいいんです、変化が与えられればいい。
 その変化というのは、善悪、良し悪しの価値判断とは、まったく別問題なんです。ところが、そこをいい加減に混乱させてしまうために、オーディオのコンセプトに様々な混乱が生じている。混乱しているために、それを逃がれるかのように極端な保守的な考え方に閉じこもったりするわけだ。
 人間が、何か違うものを欲しがる、これは本能なんです。とりわけ、音に対する感性や情緒というのは、そういう本能のもとに常にさらされている。また、それを制約する規制があっては本質的に困るんですよ。
 変わる場合には良く変わらなきゃならないということは、絶対的な知性だけれど、それが良いのか悪いのか判断する物差しは趣味判断であり、個性であるという複雑な二面性をオーディオはもっている。
 ですから、ニュージェネレーションに共通したファクターが、音場、つまり時空間の変換器としてのスピーカーという新しいスピーカー像を提示していることは、客観的に認めうるとしても、それだけでは片手落ちですよ。人間の感性、情緒という本能に基づいたニュージェネレーションという見方が、基本には必要なんですね。
 イーストコーストサウンドは、その意味では一変した。しかもいい意味で一変したんだけれども、JBLの場合、伝統がある故にその伝統に引きずられている面もあると言えるし、新世代への対応はやはり慎重であると言えるでしょう。なぜ、アクエリアス・シリーズのオムニディレクショナル(無指向性)が成功を収めなかったのか、その教訓を誰よりもJBL自身が受けとめているはずなんです。

スネルアクースティック Type A

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 ぼくはこのスピーカーは今回初めて聴くんですが、スネルという会社はさっきのボストンと同様にイーストコーストに位置し、少し北のニューベリーボートというところにあるメーカーです。初めて聴くスピーカーなんですけれども、ぼくはこのスピーカーを作ったエンジニアの気持ちがとても良くわかります。一口で言うと、オーディオ臭い音が大嫌いなんです。逆に、ライブのコンサートの音のイメージに近く鳴らそう、鳴らそうとしている。ですから、レコードに入っている音を忠実に再生しようという気はまったくないと言ってもいい。つまり、コンサートで受ける音のイメージをスピーカーから忠実に再生しようという〝コンサートフィデリティ〟に基づいたコンセプトであることが強列に音に出ています。
 ジャズを例にとれば、ピアノトリオの場合に、アコースティックベースはエネルギーが足りないから、録音の際にブースターを使うなり、レベルバランスを上げて録音するわけですが、このスピーカーでそういうレコードを再生しても、ベースはバランス上やはり足らない。前へは出てきません。
 ハイドンのシンフォニーを聴いてみても、明らかにコントラバスセクションが足りないというバランスなんですね。しかし、実際、生演奏で、コンサートホールの中でコントラバスがブンブン響くということはありえないし、ジャズの場合でも、ウッドベースはドラムスとピアノの影に隠れてほとんど聴きとれないような音量バランスが現実なんです。
 このスネルというスピーカーは、そうした実際のコンサートで聴かれるバランスこそベストパフォーマンスなのだという出発点からスピーカーを設計している。やや短絡的な見方かもしれませんが、レコードにどんな音が録音されていようが、そんなことはともかくとして、スピーカーから再生される音の雰囲気が、おれが普段体験しているような生演奏のプレゼンスに近ければいいスピーカーなんだ、そういうフィロソフィがうかがえるんですね。
 しかも、ステレオフォニックな奥行き、プレゼンスを豊かにするために、スコーカーとトゥイーターは曲面バッフルにマウントされ、ディスパージョンを広げようとしているし、トゥイーターは、センター方向に指向性が強く出ないよう、ダイアフラムの直前のセンターチャンネル側にフェルトが固定され、左右方向の広がりを自然に再現しようとしている跡がみられる。
 それから、ウーファーというのはどうもドスンドスンという不自然な量感しかもたらさない以上、オムニディレクショナルにスッと拡散させたほうが、実際の生の会場の音場に近いということから、かなり低いところへクロスオーバー周波数(275Hz)を設定し、指向性に影響が出ない低域を下向きに取りつけたユニットから間接的に部屋の中へ放射させようという構造にしてある。ですから、たしかに低音の実体感、実存感は薄れますが、逆に、ライブパフォーマンスに近い残響感が含まれ、むしろ自然な音域に近いわけで、当然、そのことを取って作られたスピーカーなんです。
 構造を見ても、音を聴いても、これを作った人間がそこにいます、見えますね、ぼくには。その人が言いたいことを全部言えると思います。
 ですから、マルチトラックレコーディングによるオンマイク録音主体のレコードよりも、ペアマイクのワンポイントに近い録音、たとえば北欧のプロプリウスレーベルのような教会の長い残響感を活かしたようなレコードにうってつけなスピーカーであるとも言えます。
 ここで、オーディオマニアを含めて、音楽ファンの聴き方について少し考えてみよ
うと思うんです。
 まず基本的にレコードの録音と再生というのを知れば知るほど、レコードと生とは根本的に違うんだということがわかってきて、ポジティヴな面でもネガティヴな面でもそのことは肯定せざるを得ない事実としてある。そういうメカニズムに魅力を感じているのが大半のオーディオマニアであるとすれば、そういった一切に魅力を感じない人を、通常は音楽ファンと呼び、その中にもレコードというのを全然聴かないコンサートファンの三種類がいます。
 全くレコードを無視する、あれは作りものだということでレコードを聴かない、音楽は生が最高であるという音楽ファンがいて、その対極に、レコードの音が好きで、様々なスピーカーの音に興味があり、生と違うことを知っていてもなおかつオーディオ独自の音の魅力を追求してゆく音楽ファンとしてのオーディオマニアがいるとすると、このスピーカーの聴かせる音の世界というのは、生の雰囲気をオーディオという人工空間の中に再現しようというやや特異な位置を占めています。
 つまり、オーディオというエレクトロニクス、メカニズムの再生系に対し、非常にナイーブ、つまり素朴なリアリズムを要求している。ですから、レコードに録音されているすべての情報を正確に引き出そうという考え方で、このスピーカーに接したら失望する。しかし、生の演委で得られるライブな雰囲気をそのまま再生装置に求めようというコンサートファンにとっては、とてもマッチングがいい。ですから、このスピーカーの評価というのは、その人のレコード音楽の受け取り方によって、決定的に変わってしまうところがありますね。
 このスピーカーを作った人というのは、絶対にクラシックファンですね。しかも、ボストンのところで申しあげたように、イーストコーストのメーカーのつくるかつての重苦しい低音に相当に嫌気がさしたはずだね。そのことがすごくよくわかると同時に、このスピーカーは、実は、現代のハイテクノロジーに支えられたオーディオ機器に対してひとつの強烈なアンチテーゼを浴びせようという意図がありますね。
 つまり、現代の録音のメカニズム、それから絶対クォリティを追求したオーディオのメカニズム、そういったことは彼にとってはまったく関心外か、あるいは逆に物すごくそのメカニズムを知り抜いて、徹底的に批判している。少なくとも、クラシック録音で言えばカラヤン的な録音は大嫌いなはずだし、ホーンスピーカーなんて論外でしょう。
 これは、アメリカだからこそ生まれえたひとつの狂気といっていい。スピーカーから再生しようとしているのは、ナイーブリアリズムで、とても単純で素直なんだけれど、その単純さと素直さの狂気なんです。
 全然、話は変わってしまいますが、アメリカには、しなびたような野菜を好んで食べる自然主義者というのがいるでしょう。自然栽培とかいって、化学肥料による野菜は絶対に口にしない、ビタミン剤は飲まない、味の素は大嫌い、とにかく自然栽培の見てくれの悪い、しわしわの野菜しか食べないという徹底した自然主義者の狂気メリカには存在するわけ。オーディオにおける狂気の自然主義が、このスピーカーなんです。
 ですから、レコードをとても自然に鳴らしてくれるという意味で、このスピーカーの良さというのは明確に理解されますけれども、現状のオーディオ界の中での共通理解に立って、自然に音楽を鳴らすという表現は誤解を生むと思います。もっと明快に「自然に帰れ」というポリシーが、ある意味では非常に過激に表明されている。
 つまり、録音と再生のメカニズム系を飛び越えて、いきなりコンサートホールへ行こうという考え方なんです。
 たとえば、このスピーカーの音量レベルの一番いいポイントというのは、中音量から下へかけてのローレベルにあります。生の音楽会へ行って、決して大音量でガーンと鳴るということはありえないわけで、そのあたりにもナイーブリアリズムの性格が色濃く出ていると思います。
 狂気に属すものとして、例えばコンデンサースピーカーもそういうナイーブリアリズムから派生してきたものだと思うんです。特に音の肌合い、色艶、質感といった面で、自然な再生を求めてゆくと、静電型という答えが出てくる。その対極に位置しているのが、JBLであり、アルテックであり、昔のARだったと思うんです。「オーディオスピーカーここにあり!」という鳴り方とは正反対な方向にあるのが、静電型やこのスネルなんですね。オーディオスピーカーが大勢を支配していることは事実だけれど、これを作った人はそのことに対する物すごい怒りを込めて作ったと思いますよ。
 やはり、アメリカのように個性が共存し合う国だからこそ出てきたスピーカーですね。ただ、こういう考え方のスピーカーというのは、世界的に見ると劣勢の立場にあるでしょう。少なくとも、録音と再生のオーディオメカニズムのエフェクトを全面否定していますから。だけど、マジョリティというのは、そういうテクニカル・エフェクトにすぐいかれる、というと悪い表現だけれども、そこでまた録音と再生側の進歩が促されるという事実を見逃したら、オーディオも録音もエンジニアリングの意味がなくなってしまうんですよ。
 ぼくは、このスピーカーの音を聴いて、昔のドイツ・グラモフォンのピアノ録音を思い出しました。当時は、低域をかならずカットしたんです。特にケンプなんか、完全に低域がない。というのは、ホールでピアノ演奏を聴いたときに、ピアノの低音というのは今日のレコードから聴けるような、うなりを上げるような低音では絶対にないわけで、あくまでもコンサートのイメージに忠実に、つまりナイーブリアリズムでもって録音しようとすると低音はある程度カットしたほうがリアリティがあるんですね。
 それに対して、ヘルベルト・フォン・カラヤンが、ベルリン・フィルに君臨し、ドイツ・グラモフォンに発言権を持つようになってから、録音がずいぶん変わったように思うんです。
 彼の指揮した最もいい例は、チャイコフスキーの四番のシンフォニーがあるんですが、そのレコードを聴いてぼくが推測するマイクアレンジメントは、オンマイクとオフマイクで全体のバランスをとったものがあり、そのそれぞれにサブマスターがあって、その全体がマスターに入るというミキシング・レイアウトになっている。そして、音楽の情景、場面によってオンマイクになったり、オフマイクになるわけです。
 こういったことは、先ほど申しあげたコンサートフィデリティから言ったら、明らかにおかしい。オーケストラが向こうを行ったり、こっちへ来たりするわけですからね。ところが、音楽家にとっては、こういうことはあまり大した問題じゃない。
 たとえば、フルートのソロになったときもっと遠くから聴こえるように吹けという指示があるとすると、実際に遠くへ行くことは不可能なんだから、イメージの上でそういう音色が欲しいということでしょう。そういう音色の変化というのは、ミキシングテクニックでレコードのメカニズム内でどうにでもコントロールできます。音楽家は、まったく音楽的な欲求から、そういう録音を要求してくる。
 ところが、実際にレコードになってそれを聴いてみると、オーケストラが遠くなったり近くなったりするという不自然さが目立つんですよ。ぼくは、レコードとしてそれはいいレコードじゃないと思うんです。
 しかし、レコード制作者側の意図として、生の演奏だと絶対に聴きとれないような音をもスコアに忠実に録音するということがあったとしても、それは誤った考え方と決めつけることはできないんです。つまり、作り手の論理として、録音という機能を使いこなして、音楽家の要求、表現上の要求に対応することは、あくまで正論なんです。
 そうしますと、録音の側でもコンサートフィデリティとスコアフィデリティという対極的な考え方があり──現実にはなんらかの形でそのバランスを取るわけだけれども──再生側にも、エネルギー変換器としての忠実度を求めたモニタースピーカー的な考え方と、このスネルに代表されるように、コンサートフィデリティ、音場に対する忠実度を素朴に追求しようという二派に分極すると言っても過言ではないでしょうね。
 このスピーカーは、そういう意味で、録音と再生系のテクノロジー、そしてその目的といった本質的な問題を考えさせる上で、非常に示唆的な内容を提示していると思います。

ボストンアクーティックス A400

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 昔のARとこのA400、音の傾向はもちろんガラリと変ったということを前号で書きましたが、同じアコースティックサスペンション方式とは言え、エンクロージュアについての基本的なコンセプトに決定的な違いがあります。まず、できるかぎりバッフル面積を広くとって、スピーカー口径に対し充分にバッフルの幅を確保し、バッフル効果を積極的に得ようという発想なんです。
 おそらく、そのことと重複することになると思うのですが、ウーファーは、小口径のせいぜい20cm程度のユニットが選ばれている。A400は、容積でいったらAR3程度だと思うけれども、あれにはバッフル幅ギリギリに32cm口径くらいのウーファーが使用されていましたね。あの場合は、いかに小さく見せて、いかにその小さい箱から重低音を出すかということがテーマだったわけで、バッフルなんていうのはどうでもよかったんです。ところが、このスピーカーを作ったペティートにとっては、小口径ウーファーとバッフル効果を上手に利用したスピーカーというコンセプトが重要だった。
 つまり、大口径ウーファーというのは、どうしてもムービングマスが大きくなりますから、機械的なリニアリティというか、小入力に対して反応が鈍い、重苦しい音の傾向があり、さらに加えて密閉形式ですから余計に抑圧された音という印象になりますね。そうした従来のイーストコーストサウンド特有の重厚な響きから、完全に脱した新世代の響きが、A400の音質上の特徴です。
 バロック、ロココ、ロマンという円熟した芸術運動の中で、非常に洗練された美をもつクラシック音楽に村し、昔のイーストコーストのスピーカーは、どうもそこにボテッとした鈍い響きが加わりすざて、少々品の悪い音だったと思います。
 つまり、スピーカーの個性が強過ぎるために、広くオーディオ機器として賄わなければならない様々な種類の音楽に対する適応という点で、問題化せざるをえないという矛盾を、従来のイーストコーストサウンドというのはかかえていた。時がたつにつれて、個性的であるがゆえの守備範囲の狭さが批判されてきたということでもあるでしょう。
 A400は、そうした抑圧されたような鈍重な音から、解き放たれた良さというのが、音の上にはっきりと聴きとれます。意匠的に見ても、ヨーロッパを意識しているところはあるし、より広い意味ではインターナショナルな方向へ脱皮したイーストコーストのスピーカーという位置付けができますね。
 さらに、スピーカーという商品が、従来にない国際的な性格を要求され、インターナショナルな舞台に上がったとき、逆にアコースティックサスペンションに固有の技術的な問題が、スピーカーテクノロジーの進歩というスケールの中でも、クローズアップされてきた。つまり、当時のアコーステックサスペンション・スピーカーはまだまだ究極的な姿とは言えないという分析が行き届いてきたんだと思います。
 たとえば、大口径ウーファーのマスの重さからくるデメリットというのは、英国のニューウェイヴ・セレッションSL6にも際立って表われている同時代的な認識ですね。質のいい低音を合理的に追求してゆこうという場合に、大口径ウーファーに対する技術的な批判が持ち上がってきたことは事実だし、それは正しいことだと思います。
 ぼく自身、XRT20で12インチウーファーが使えると思ったのは、比較的最近のことなんです。常用システムには15インチウーファーが入っているけれども、それはメリットとデメリットを承知のうえで使っている。
 しかし、全面的に大口径ウーファーが駄目であるという短絡した発想は、明らかな誤りで、音楽ソースによっては、実際に演奏されている音量感に匹敵するほどの出力レベルが要求されることもあるし、絶対的なマージンというのはそれだけで魅力のひとつでしょう。ただその場合には、磁気回路やフレーム構造などに小口径ウーファーとは比較にならない物量が投じられなければ基本性能の高さが生きないわけで、コストは飛躍的に増すわけです。しかし、音の質感、性格、色合いというのは、スピーカーの場合、コストに比例しないという特殊な性格があるんですね。
 ステレオサウンド誌で、常に大型システムをメインに据えてきたというのは、あらゆる使用条件に適応範囲が広いという絶対的なポテンシャルを考えてのことなんです。
 スピーカーというのは、食べ物にたとえて言うと、味と量という関係があり、小さなお皿にちょびっと美味を食べて満足したという人もあるし、どんぶり飯をたらふく食って満足したという人もいるでしょう。
 スピーカーというのは、あくまでもメカニズムですから、大音量再生と低歪を両立させるには、かなりコストとの比例関係が出てくると思います。しかし、スピーカーの音質や性格というのは、コストにリニアに比例するどころか、ほとんど無関係なんですね。
 ですから、聴くほうの様々な条件のなかで、いったいどれくらいの音圧が必要なのか、リスナーとスピーカーの距離、部屋の吸音率などを考えてみることも、スピーカーを判断するうえで重要なファクターになってくる。実際、このA400で音量に不満が出るというのは、相当限定された条件だと思いますね。
 小さいスピーカーは安い、だからクォリティは低いという硬直した判断が通用しないことを、A400を通してもう一度確認する必要があるでしょうね。
 A400のもうひとつ新しいテクニカルコンセプトは、小口径ウーファーのメリットを生かすということに加えて、先にも触れたようにスピーカーバッフルの効果を積極的に生かそうということがあります。
 昔から日本でも、平面バッフル、無限大バッフルがいいということはよく言われてきました。非常にすっきりとした、音離れのいい音で、しかも、部屋のアクースティックの影響が少なく済む。A400の場合、ユニットはインラインにならび、ウーファー口径に対して左右バッフル幅は3倍近くある。このスピーカーが、割合とどういう部屋にもっていっても音が変わらない良さというのは、そこにあると思います。たとえば、イギリス系で極端にバッフル幅の狭いスピーカーがありますけれど、そういうタイプのスピーカーの場合、壁面の影響を受けやすいために、かならずある程度は壁から離すセッティングをしますね。だから、スピーカーには、その部屋のアコースティックな条件に対して依存度の強弱があるように思うんです。バッフル効果をエンクロージュアの設計に取り入れるというのは、ある程度、エネルギーのラジエーションをスピーカーが自律的にコントロールできるという良さがある。
 小口径ウーファーのもつメリットと、それからバッフル効果を生かすというテクニカルコンセプトが、このA400では違和感なくバランスしていますね。
 ぼくはまだミスター・ペティートに会っていないので、どんな人であるか実際にはわかりませんけれど、想像するにこの人は、相当な合理主義者だと思いますよ。
 おそらくね、経営者がほっといても、大丈夫なエンジニアです。無駄金を使うことは絶対に嫌いなんじゃないかな。英語で発音すればベティートだけれど、仏語のプティ(小さいという意味)そのまま、つまりムッシュ・プティ(笑)。
 それでいて、とてもセンスがいい、貧乏根性じゃない、しかし絶対に無駄は嫌う。それは音にも見事に出ている。
 このシステムで、じゃあ低音に不足があるのかというと、ないわけでしょう。逆にどんな大口径ウーファーを使っても低音不足ということはあるわけで、けっきょくスピーカーというのはバランスであるという大前提にゆきつく。
 ですから、このスピーカーは何を聴いてもいい。特定のジャンルの音楽に、際立った冴えのある再生をするというスピーカーではない。それでいて、音のグレードでいったら、明らかに上級スピーカーに匹敵する。
 何を聴いてもいいというと、無性格な、つまらないスピーカーに受け取られる危険があるけれど、非常に魅力的なみずみずしい音のスピーカーですよ。音楽がすべてみずみずしくなる。そういう意味で、誰にでも推められる良さというのが、A400の特徴だと思います。
 質と量のバランスを完成させることが、今の未完成技術のなかから生まれてくるスピーカーにとって、最も大切なことだと思います。そういう見方をした場合に、とてもバランスのとれたシステムですよ。
 ボストンという町が、ヨーロッパに近い、そして歴史のある町だということに無関係だとはいえないかもしれない。ペティートという人は、フランス系アメリカ人ですから、本人も意識していないところで、血というものが表われてしまうんでしょう。アメリカというのは、人種のるつぼだとよく言われますけれども、そういう非常に複雑な社会であるだけに、血という問題がかならず絡んでくる。それこそ、プエルトリコ系のアメリカ人に、ヨーロピアンセンスを期待するのは無理ですからね。
 A400は万人にすすめられるスピーカーだと言ったけれど、ペティート氏にはおそらく狂気のようなものはないね。だから、おもしろくないと言えばおもしろくない。
 しかし、オーディオマニアと言われるくらい、オーディオにはパラノイア的な狂気が満ちあふれている。もともとオーディオというのは、狂気の盛んな世界なんです。ぼく自身も狂気があると思うから、狂気を感じさせるようなオーディオ機器にはものすごく魅力を感じる。しかし、あまり狂気に走るというのも、反省しなきゃならないことで、科学技術というのはそれ自体、狂気ではなく、きわめて普遍的なものであり、真理であり、客観的な世界でしょう。
 そういうものをベースにして成り立っているのがオーディオなんだから、狂気にばかり走るのも困る。それに狂気が日常化してしまっては、ちっとも狂気じゃないでしょう。
 そのあたりもペティートという人は、いいバランス感覚をしていると思います。生活のバランスがいい、しかもセンスがいいと思う。趣味のいい人ですよ、きっと。
 アメリカというのは、狂気に市民権を与える社会だと最初に言ったけれど、これはまったく違う世界、いわゆるエソテリックとかハイエンドとは無縁の良識派に属している。そういう意味では、乱立する個性のアメリカンオーディオシーンの真中に位置しているといってもいいんじゃないでしょうか。
 ただ、このスピーカーは、聴かせる音は狂気じゃないけれども、ぼくのようにちょっと狂気じみたマニアさえ満足させる一面をもっているところがすごい。狂気じゃないスピーカー、いわゆる無個性なスピーカーというのは、数多いけれども、聴く人間の狂気は満たしてくれない。
 出てくる音が狂気なんじゃなくて、狂気を満たしてくれるところに、A400のしたたかな性格が潜んでいると思いますね。