Category Archives: パワーアンプ - Page 35

QUAD 33, 303, 405, FM3

瀬川冬樹

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「世界の一流品」より

 創設者のP・ウォーカーは英国のオーディオ界でも最も古い世代の穏厚な紳士で、かつて著名なフェランティの協力を得てオーディオの開拓期から優秀な製品を世に送り出していた。ロンドンから一時間ほど車で走った郊外にあるアコースティカル社は、現在でもほんとうに小さなメーカーで、QUADブランドのアンプ、チューナーとコンデンサースピーカーだけを作り続けている。
 QUADは、なぜ、もっと大がかりでハイグレイドのアンプを作らないのか、という質問に対してP・ウォーカーは次のように答えている。
「もちろん当社にそれを作る技術はあります。しかし家庭で良質のレコード音楽を楽しむとき、これ以上のアンプを要求すればコストは急激にかさむし、形態も大きくなりすぎる。いまのこの一連の製品は、一般のレコード鑑賞には必要かつ十分すぎるくらいだと私は思っています。音だけを追求するマニアは別ですが……」
 こうした姿勢がQUADの製品の性格を物語っている。
 管球アンプ時代から、QUADはアンプをできるかぎり小型に作る努力をしている。ステレオプリアンプの#22は、それ以前のモノーラル・プリアンプと全く同じ外形のままステレオ用2チャンネルを組み込むという離れわざで我々をびっくりさせた。必要かつ十分な性能を、可能なかぎりコンパクトに組み上げるというのがQUADのアンプのポリシーといえる。
 この小さなアンプたちはデザインもじつにエレガントだ。ブラウン系の渋いメタリック塗装を中心にして、暖いオレンジイエローがアクセントにあしらわれる、というしゃれた感覚は、QUAD以外の製品には見当らない。このデザインは、どんなインテリアの部屋にも溶け込んでしまう。ことに、プリアンプとFMチューナーを一緒に収容するウッドキャビネットは楽しいアイデアだと思う。
 必要にして十分、と言っていたQUADも、一年前にパワーアンプの新型#405を発表した。100W×2というパワーをこれほど小さくまとめたアンプはほかにないし、そのユニークなコンストラクションは実に魅力的でしかも機能美に溢れている。
 アメリカや日本のアンプのような贅を尽した凄みはQUADの世界にはないが、33、303のシリーズの音質は、どこか箱庭的な、魅力的だがいかにも小づくりな音であった。405はその意味でいままでのQUADの枠を一歩ひろげた音といえる。この小柄なシャーシから想像できないような、力のある新鮮な音が鳴ってくる。クリアーで、いくらか冷たい肌ざわりの現代ふうの音質だ。アメリカのハイパワーアンプと比較すると、ぜい肉を除いた感じのやややせぎすの音に聴こえる。そして、405の音を聴くと、QUADはおそらく33よりも一段階グレイドの高いプリアンプと、やがてはチューナーも用意するのではないかと想像する。しかしそれはあくまでも良識の枠をはみ出すことのない、QUADらしいコンパクトな製品になるにちがいない。

ラックス M-6000

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 200Wをこすハイパワーアンプは、オーディオコンポーネントというよりは、マシーンを思わせる業務用機器として開発されたモデルが、そのすべてといってもよい。これらのパワーアンプは、一般的に19インチ・ラックサイズのパネルをもち、デザイン、重量、外形寸法のいずれをとっても、実際に家庭内で使用してみると、予想外にその存在を誇示し、ある種の違和感はまぬがれないようである。
 M6000は、そのなかにあって300W+300Wという、現時点でのこの種のアンプの上限ともいえる巨大なパワーを備えながら、当初からコンシュマーユースとして企画され、製品化された異例なパワーアンプである。
 たしかに、実質的な外形寸法、重量は、いわゆるコンシュマーユースの枠をこしてはいるが、デザイン的に考慮されているために、感覚としては大きく感じられず、家庭内に置いて、さして違和感が生じないメリットは大きい。機能面でのメーターとLEDを使ったピークインジケーターの組合せによるパワー表示、リモートコントロールでリレー制御によっておこなう電源のON・OFFなど、高級パワーアンプに応わしいものが備わり、音質的にもハイパワーアンプにありがちな粗い面がなく、平均的な音量では柔らかく、細やかな音を聴かせながら、ピーク時には並のアンプでは想像できない穏やかながら底力のあるエネルギー感を再現する。趣味としてのオーディオに徹したラックスならではのハイパワーアンプだ。

オーレックス SC-77

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 SC55と同寸法のシャーシに収まったものパワーアンプで、出力は120Wである。回路構成は、初段カスケード接続差動2段、3段ダーリントン全段直結順コンプリメンタリーOCLで、電源分は、トロイダルトランスと低倍率電解コンデンサーのコンビ。ゲイン切替、メーター端子のほか、サブソニックフィルターがある。

オーレックス SC-55

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 薄型デザインの60W+60Wの出力をもつステレオパワーアンプである。構成は、初段カスケード接続、差動2段全段直結OCL型で、電源分は左右チャンネル独立したトランスを使用している。機能面では、左右チャンネル独立の入力調整のほか、NF量可変によるゲイン切替をもっている。また、スピーカー端子と並列にメーター端子があり、別売のピークレベルメーターで出力レベルのチェックが可能である。

ヤマハ C-I, B-I

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 海外製品、国内製品ともに、セパレート型アンプのジャンルでは、新製品が意欲的に開発され、発表されているが、高級セパレート型に限ってみれば、すでに最新モデルではなくなったとはいえ、ヤマハのセパレート型アンプのプレステージモデルである、コントロールアンプCIとパワーアンプBIは、大変にユニークな存在であることに変わりはない。
 ヤマハが、文字どおりに世界に先駆けて開発したオーディオ用のバーティカルタイプ・パワーFETをパワー段に、並列接続ではなく、いわゆるシングルプッシュプルとして使い、150Wのパワーを確保し、しかも、前段の信号増幅系はすべてFET構成という、パワーアンプのBIは、回路構成のユニークさ、機構設計のオーソドックスさなど、どの面をとっても本格的な高級セパレート型アンプらしい。
 基本的なデザインは、米アルテックの業務用アンプなどと共通性があって、フロントパネルを持たない、機能優先の単純な魅力があり、オプションのピーク指示型メーターをもつ、コントロールパネルを付ければ、一般的なこの種のパワーアンプのスタンダードなタイプとなり、加えて5系統のスピーカーシステムがレベル調整付で使用可能という2面性は、大変に興味深いところだ。また、メーター付のコントロールパネルUCIは、専用ケーブルを使用すれば、BIから離してリモートコントローラーとしても使用できる特長がある。
 BIは、いわゆるFETアンプらしい音が表面的に感じられず、充分にコントロールされたトランジスターアンプと、あまり音質的な隔りがないところが特長である。聴感上の帯域バランスはナチュラルで、音の粒立ちが明快であり、粒子の角が適度に磨かれており、力強く、音を整然と整理して聴かせるタイプである。低域に力感があり、硬さ、柔らかさを対比して表現できる質感の再現性に優れ、中域でも音像の輪郭をシャープに見せるクリアーさが好ましい。表情はやや硬く、聴く側にある種の緊張感を要求するが、格調の高さは一流品ならではのものがある。
 コントロールアンプCIは、BIにやや遅れて登場した、やはり全信号増幅段をFET構成とした特長のほかに、本格的なコントロールアンプとして、ほとんど要求を満たすことが可能な、驚くほどの多機能を備えた製品で、コントロールアンプとしてこれほど重量があるモデルは他にないといってよい。
 連動誤差を抑え、かつスムーズに音量をセットできるスイッチ型でない、連続可変型のボリュウムコントロール、高音、中音、低音にわかれたトーンコントロール、連続可変型ラウドネスコントロール、ピーク指示型で多用途なレベルメーター、さらに、ピンクイズとサインウェーブの発振器など、ある種の簡単な計測まで可能という機能の幅は大変に広い。
 CIは、デザイン、機能がメカニックなことにくらべると、予想に反して非常に透明度が高い、澄み切った音である。音の反応はかなり早く、BIよりも、音色が明るく、伸びやかさが魅力的である。

パイオニア M-73

井上卓也

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 いわゆる標準ラックサイズのパネルには、ピーク指示型で対数圧縮目盛をもつ2個の大型パワーメーターを備えている。表示は、8Ω負荷で0・01W〜200Wである。
 電源分は、ドライバー段以降の左右チャンネルを分離した2電源方式で、回路構成は、差動2段全段直結パラレルプッシュプル純コンプリメンタリーOCLで、出力は85W+85Wである。

ダイナベクター DV-3000, DV-8050

岩崎千明

電波科学 12月号(1976年11月発行)

 本誌の読者のように自らの手によってアンプを自作することが苦労でないオーディオマニアにとっては、一台20万、30万円という管球式アンプ、その価値をいったいどこに認めるのかいぶかしいに違いない。「この程度の物なら外観こそかまわなければ、おそらく半分の費用で作れることだろうに」というのが偽らざる気持だろう。
 ではいったいメーカーが手作り同様に手を掛け時間を掛け、少数、作り上げるこれらのアンプの「製品」の価値は一体どこにあるのだろうか。この答えの端的なあらわれが最近米国のオーディオファンの間で、こうした高価な管球式アンプが見なおされ、関心を高められている、という形ではっきり示されてきていることからもわかる。①希少価値 ②手作りによる限定生産 ③量産品、つまりトランジスタアンプに対するアンチテーゼ 以上のようなはっきりした理由から、この一年間、アメリカにおいても、日本の一部のマニアだけがひっそりと使っていた真空管アンプの良さが再認識され急激に復活している。この傾向は、再度日本のオーディオ高級ファンに逆輸入されつつある。
 ところで、これら最新の真空管アンプは、決して昔のままではなく、回路を確かめ、回路定数を調べれば、明らかなように、トラジジスタによって培われた電子回路技術が、大幅に取入れられて、電気的性能は良くなっている。周波数帯域にしても、入出力特性にしても、あるいはひずみ率特性にしても、最大出力帯域幅と、どれをとってみてもひとケタかふたケタは良くなっているし、位相特性を計れば、その基本特性の良さも、もっと良くなっていることが確められるのではある。
 さて、加うるに、もうひとつの大きな製品としての価値がある。自作アンプでは、つい、ないがしろにしてしまいがちなパネル板の厚さとか、内部構造の貧弱さとか、あるいはプリント基板の相対位置とか、配線の引き回しとか。つまりもろもろの目につき難くい、おろそかにしやすい、すべての付帯事項と思われがちなポイントで、これは実は、高級機種においては、けっして2次的なものではなくて、信頼性に直接かかわるだけでなく、S/Nにとっても、重要な関連を持つ。
 ダイナベクターのアンプの最大の特長は、なんといっても管球式アンプとは思えない明晰な音と、素嘱しいS/Nにあるのだが、この2つの点は少なくともトランジスタよりも、より大きな構造を要求される真空管アンプにおいて、それに見合った「堅固さ」が必要である。だから、分厚く、途方もない金属の塊のようなパネルも重要なるS/Nと信頼度との要求から絶対的に必然性のあるものなのである。
 高級機らしいフィーリングとよくいわれるが、それはつまみの手ざわりの感覚とか、それを廻すときの手ごたえとか、スイッチの切れ味とかを意味し、それはつまみの大きさと重さとにも大きく影響され得るファクターだ。ダイナベクターのアンプの場合、パネルに半分埋まったそれらのつまみは、すべて金属の無垢だが高級磯としては単なる目的ではなく、手段なのであることはいうまでもない。高級機らしさは、視覚的にも触覚的にも、それを受けとる側のセンスに直結したファクターであるが、ダイナベクターアンプの場合、それは必ずしも普遍的なものではなく、かなり凝ったうるさ方向きの好みを満足させる点を指摘したい。
 最近の高級アンプのはっきりした進歩は、S/Nの向上の形で具体的に音からも確かめることができる。S/Nはフォノ入力からスピーカ端子において70dB(定格出力にて)が高級機の平均の水準であったが、それが10dBは向上しなければ、いまや不十分だ。できることなら86dB以上ほしい。さらに実用レベルの1/2の音量、あるいは2/3の音量、つまり1/4出力ないしは1/3出力のS/Nが大切だ。さらに単なる数字だけでなくてノイズ成分の周波数分布、スペクトラムが大切で聴感上、ホワイトノイズとしてのうるささを感じさせないものが好ましい。真空管アンプの残留雑音は、この点からいうと、トランジスタに比べて格段に有利になる。数字が少々悪くても聴感上より有利なことはしばしば経験するが、この辺に理由がある。特にこのダイナベクターDV3000のように超広帯域をめざして設計した回路においては、数字の示すものも良いが、さらにがぜん実用性能の方が有利になってくるといえそうだ。
 しばしばその優劣が話題になるイコライザの回路における「NF形か、CR形か」という点もダイナベクターでは、きわめてはっきりと結論を下している。つまり、増幅回路には周波数に関係なく、常に一定のNFがかかることによって、安定な動作が定インピーダンスのもとに確保され、段間にCRイコライザが挿入される。したがって、きわめて広い帯域内での位相特性が保たれることになる。それがきわめてすっきりした、まるでとぎすまされた透明感を思わせる音になって、とうてい真空管の音とは思えないほどだ。しかし、よく聴けば、その限りなく澄んだ音には、けっしてつきはなされたような冷たさがないことに気付くだろう。これは特に肉声、あるいは自然な発声姿勢から歌われる歌を聴けば、はっきりと知ることができる。あくまでも人間の暖かみを失うことがないし、ただそれがのどの動きまでわかるはど刻明に再現されるだけである。あるいはヴィオラとか、ヴァイオリンとかの複数の弦を聴けば、知ることもできる。それは、豊かで、くっきりとして一弦一弦の音を聴くことができると同時に、全体の和音によって積み重ねられた豊かなハーモニーがゆったりと感じられる。そこには、わずかたりとも鋭さとか、きつい音はこれっぱかしもない。あくまでも耳当りよく、ボリウムを上げたとて、楽器が近づくだけで、うるさくはならない。少くともこうした持続音の再現には、あきらかに管球式アンプの利点を感じとりやすいものだが、ダイナベクターのアンプの場合「管球式アンプを一歩つきぬけた鮮明さ」をはっきりと示しながら、なおかつ「管球式アンプの暖かさ、ソフトなタッチ」が共存するのは、奇蹟としかいいようがないのが事実である。
 こうした現代の真空管アンプの特長的なサウンドをきわめて明瞭な形で示してくれるこのダイナベクターのアンプの良さは、むろんプリアンプ以上にそのパワーアンプDV8050の良さに関わっていることが大きい。真空管アンプの良さのひとつは、スピーカというダイナミックな動特性をもつ負荷に対する動作こそ重要だと思われるが、このためには、単にNFによる出力インピーダンスの低下を計るだけではだめで、電源回路自体の出力インピーダンスの絶対値が問題となる。低内部抵抗の出力管、さらにそれをより以上効果を上げるプッシュプル回路、加えて効率を高めるシングルエンドと重ねて凝った理想に近い構成がとられているのも、回路技術を知った所産であろう。
 なぜならば、優れたスピーカほど動作中、アンプを負荷とした強力なる発電機となり、それをなだめるには、アンプの実効出力インピーダンスの低減以外に道がないのだから。今日の録音技術の所産である立ち上りのよい音をそこなわずに再現するのは、新しいオーディオ回路技術だが、それをどぎつい音に行き過ぎるのを収めるのは、どうやら管球式アンプが切り札のようである。

「マッキントッシュ論 あるいは友人ゴードン・J・ガウを語る」

菅野沖彦

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・マッキントッシュ」(1976年発行)
「マッキントッシュ論」より

「マッキントッシュ論」という、本来きわめてかたい文章を引き受けたわけだが、私はどうもこれから、〝友人ガウを語る〟というにふさわしい文を書いてしまうような気がする。というのも、私がこれほどまで深くマッキントッシュを知り、また知ろうという気持になったのは、ゴードン・J・ガウという一人の男を知ったからであり、その男の魅力にひかれたからでもあるからなのだ。
 彼は現に、マッキントッシュ社の頭脳でもあり行動そのものでもある。すなわち、ガウを語ることは、そのままマッキントッシュ社を語ることであると、私には思えてならないのである。
 私がマッキントッシュ社をはじめておとずれたのは、1969年早々だった。ちょうど、同社のトランジスター・アンプが評価を得たころだったと思う。私はその製品の美しい魅力にひかれ、こういうものを作る会社は、一体どんな会社だろう、という期待に満ちて、マッキントッシュ社をたずねる気になったわけだ。
 マッキントッシュ社は、ニューヨークのマンハッタンから、当時はプロベラ機で40分ほど、やや西に飛び、有名なナイアガラ・フォールスとマンハッタンの中間ぐらいに位置する、ビンガムトンという小さな町にあった。
 小高い山の頂上を削って出来た飛行場からは、美しいビンガムトンの町全体が、見渡せるほどの感じだった。
 その空港で、一人の小柄な紳士が私を迎えてくれた。小柄とはいっても大変に精桿な印象で、しかも、体に似合わない非常に大きな声で、明るくあいさつをしてくれた。「おれはゴードン・ガウという者だ」
 もちろん私は、彼がどんな人物なのか全く知らなかった。そればかりか、彼がさしだした名刺を見ても、この人がマッキントッシュの中心人物であることを、知ることはできなかった。なぜなら、彼の名刺にはなにも書いてない。そこにはただ、ゴードン・J・ガウ、マッキントッシュ・ラボラトリー・インコーポレイテッドとだけしか書かれていない。これは後で知ったことなのだが、マッキントッシュ社の人々がもつ名刺には、どれも肩書きがないのだ。いや、肩書きがないというよりも、彼等は、肩書きとして書くべき地位をもっていないというべきだろう。ともに仕事をする人間関係に対する、マッキントッシュ社のユニークな考え方が、ここにあるのだが、その話はあとにゆずろう。
 そして、これも次第にわかってきたことなのだが、空港で私を迎えてくれたガウ氏が、これからお話をするマッキントッシュの中心人物で、マッキントッシュ製品のすべてを手がけ、創業以来、製品づくりから製品の売り方まで、すべてのことをやってきた人物だったわけである。
 そのときの私の印象では、彼は、それほどの年配でもなく、いわゆる大ボスという風格をもった人ではなかった。ただ、精桿な面構えで、現役バリバリの技術部長というふうな感じを私は受けた。
 彼の運転するクライスラー・インペリアルで、空港のある山頂から町へおりたわけだが、それは、緑の多い、すばらしい景色だ。彼はそのときこんなことをいった。「これはリンゴの木だ。これはマッキントッシュ・アップルというリンゴの木なのだ」と。もっとも、マッキントッシュ社と関係があるのではなく、偶然のことであるらしい。
 やがて、木の間がくれにサスケハナ川の両側に拡がる、ビンガムトンの小ぢんまりとした愛らしい町並みが見えはじめた。
 実のところ当時の私は、アメリカのアンプ工場で、文字どおりのクラフツマンシップを目にするとは、考えてもいなかった。アメリカに対する漠然たる認識は、マスプロダクションにほかならなかったからである。しかし、ビンガムトンのその工場では、まさにクラフツマンシップが展開されていたのである。どこを見まわしても、ベルトコンベアーらしきものは見当らない。当然そこでは、一人のワーカーが非常に多くの作業を受け持っている。一台のアンプは、せいぜい数ブロックに分けられる程度であり、多少オーバーな言い方をすれば、まさに、一人で作っているのだ。
 さらに、もう一つ驚かされたのは、日本のメーカーなら当然、専門の下請工場へ出すべき部分まで、すべて自社生産である。シャーシの板金、メッキ、塗装、そしてあのグラスパネルのシルクスクリーン・プロセスまで。もちろん、マッキントッシュ・アンプの心臓部であるユニティーカップルト・トランスフォーマーも、自社で巻いている。大変に年配の人が、せいぜい三人ぐらいで……。
 こういう一貫生産という姿、これは日本人の私達でさえ、すでに忘れかけていたものだった。さらにもう一つ、私が今でもはっきりと印象に残っている光景があった。それは、工程から工程へ移るとき──マッキントッシュの製品はご存知のように、ガラスパネルもメッキ部分も、すべてピカピカであり、その美しいフィニッシュを得意としている──必ずクロスですべての部分をピカピカに磨きあげて、次の人に渡す。当然、次の人はそれを受け取り、自分の手あかをつけるわけだが、自分の仕事が終った後、また、ピカピカにして次の人に渡す。
 私の「なぜだ」という質問に、ガウ氏は笑いながらこう答えた。「別にわれわれが強いてこうしろと言っているのではない。自分達が作っているものを大切にする気持が、自然にあらわれているんだ。ここで彼等がふくたびに、きっとマッキントッシュ・スピリットが入ってゆくんだろうな」と半分冗談まぎれに……。
 しかし、私にとってその光景は大変に印象的であり、なるほど、文字どおり手塩にかけて作ってゆく商品は、どこか違うはずだ、という感じをつくづく持ったのを覚えている。
 そして、その後、何回マッキントッシュの工場をたずねても、ごく最近では今年の6月におとずれた時でさえ、その物づくりの徴密さという点は、全く変っていなかったのである。
 マッキントッシュ社のクラフツマンシップが、いかに根強いものであるかを証明する一つの材料として、ガウ氏が話してくれた次のようなことが思い当る。
 それは、マッキントッシュ社の人間関係についてだが。
 アメりカという国はご承知のように、雇用関係がきわめてドライな国であり、昨日までGMの社長が、今日からフォードの社長になるといったことも、けっして珍しくない。こうした風土に生まれたマッキントッシュ社は誕生時10人のメンバーでスタートしている。
 誕生から30年近くを経た現在では、600人とかいう数になっているわけだが、スタート時の10人のうち8人が、今でも同社で働いているのである。これは恐らく、雇用関係が義理人情でしばられやすい日本でさえも、ちよっと珍しいことではないだろうか。
 何かでしっかりと結びついているに違いないこの人間関係が、私にはマッキントッシュ社のクラフツマンシップと、無関係に考えることのできない、重要な事実のように思えるのである。
 そしてさらに、前記した、名刺に肩書きがないということも、緊密な人間関係と、緻密なクラフツマンシップに深いかかわりを持つのではないだろうか。
 人間に肩書きをつけないという方針は、まさにガウ氏の考え方であり、彼はそのことについて次のような話をしてくれた。
「人間にタイトルをつけるということは、大変に人間を侮辱することなのだ。一体、誰が誰にタイトルを与える権利があるのだ。人間はタイトルによって働くものだと、今の会社組織は思っているようだが、とんでもない。タイトルを与えれば、タイトル以外のことはしなくなる。部長とか課長とかいうタイトルは、与えるものではなく、自分がつくるものである。リーダーは上の人が任命するのではなく、下の人が自然につくりだすものではないか。フォロワー、つまり、従う人間があってはじめて真のリーダーたり得るはずなのだ」
 この考え方を、マッキントッシュ社では現に実行している。だから、社長であるはずのマッキントッシュ氏をはじめ、ガウ氏、さらに現場の一技術者に至るまで、名刺だけに肩書きがないのではなく、定められた地位や仕事のわくにしばられていない。全く、彼等からもらった名刺からは、誰が何をしているのかわからないのである。
 人間同志の緊密なつながりを最も尊ぶこの考え方は、マッキントッシュの社内の人間関係だけにはとどまっていないようだ。これは、方針といったものではなく、マッキントッシュ社の体質なのである。 その具体的なあらわれを、私はいくつか知ることが出来たし、私自身も経験した。
 これは、前記したマッキントッシュ社がすべてを一貫生産する、ということにもかかわる話なのだが。マッキントッシュ社の中には印刷工場まであり、カタログや宣伝物まで、すべて自分達の手でつくっている。もちろんこれには、彼等なりの経済的な理由もあるのだが、それよりも、この機構が、ユーザー一人一人を直接マッキントッシュ社と緊密に結びつける上で、重要な働きをしている。
 というのも、マッキントッシュ社は、いわゆる雑誌広告とか、どこかへ広告を出すとかいったアドバタイジング活動は一切やらない。それに代えて、あくまでも厳選した販売店ごとの新製品の紹介も含めた販売店ニュース的なものや、自社製品のダイレクトメールなどを、この印刷工場で印刷し、販売店にかわって、全部ZIPコードをつけお客のところヘダイレクトで送る。ユーザーに直接コミュニケーションするための機構として、この印刷工場はフルに活動しているわけである。
 もちろん、ここでは自社製品の説明書やカタログなども印刷しているわけだが、そうしたものも、外部に依頼すると必ず種々のトラブルが生じ、結果的にサービスの低下につながる、という。そして「この方式が、ユーザーからも販売店からも、最も信頼され、かつ効果的な方式である」とガウ氏は言った。
 マッキントッシュ社が、自分の責任、自分のオリジナリティをきわめて大切に、しかも、緊密な人間関係を重視していることの、一つのあらわれではないだろうか。
 さらに、ユーザー一人一人とマッキントッシュ社を強く結びつけるものとして、クリニックカーによるマッキントッシュ・クリニックのシステムがある。
 マッキントッシュ社では、今、申し上げたようなシステムによって、どの地区にどれだけのユーザーがいるということを、はっきり掴んでいるわけである。したがって、それに応じ、クリニックカーが定期的に順回してくる。もちろんそこでは、マッキントッシュのすべての製品を、また、他社製品でさえ、フリーで測定し自社製品は無料で修理するという、きめの細かい活動が行なわれるのである。
 このことは、今申し上げている、ユーザーと直接、緊密なつながりを持つという事のほかに、もう一つ、マッキントッシュにとって重要な意味を持つ。それは、マッキントッシュの製品はすべて開発段階で、将来ともにフリー・オブ・チャージでサービス出来るという、条件をそなえていなくてはならないことになるわけである。製品開発の基本的な姿勢をここに置く、ということが条件づけられるわけなのだ。現にそれは守られている。
 マッキントッシュ社がこのように、社内の人間関係を大切に考え、かつユーザーとの緊密なつながりなど、あくまでも心のかよったあたたかさですべてを通している根底として、私は、マッキントッシュ氏とガウ氏、この二人の人柄と友情を無視することは出来ないと思う。
 とにかく二人とも、本当にいい人なのだ。だから、先ほども述べたように、この緊密な人間関係は、けっして方針ではなく体質に違いないと思うのである。ことに、この二人の仲の良さ、友情の深さは本当に驚くばかりだ。二人がマッキントッシュ社をはじめて、すでに30年を経過するわけだが、お互いに、本当に信頼し合っていなくては、こうした関係がこれほどの期間つづくものではない。
 会ってみると、二人とも実に頭のきれる人で、しかも人間的な魅力があって、明るく豪快。そして、そのホスピタリティのすばらしさには、ただ、驚くばかりである。とにかく彼等は、皆で飯を食い、飲むということが大好きである。それも、こちらがとまどうばかりに、実に綿密な計画と準備万端で客を迎える。私はその後、しばらくは毎年行ったのだが、こんなにしてもらっていいのだろうかと思ってしまうほどだった。ある時は私達のテーブルに、アメリカと日本の小さな国旗をかざり、ある時は、日本からのお客様だからといって、どこで探したのか、日本の菊の花をいっぱいにかざる。滞在中は二度と同じ所で食事をさせない。ある時など、ニューヨークへの定期便が時間的に都合悪くなると、「われわれの方でチャーターしてあげる」といって、チャーター機を用意してニューヨークまで送ってくれたりもする。
 そう、その時の話がいかにもガウ氏の人柄をしのばせるので紹介しよう。
 空港まで送ってくれたガウ氏は、そこで自分のしていた「マッキントッシュ」のネクタイピンをはずし、これをあげると言って私のネクタイにさした。しかし、私は以前にもらったことがあったものなので、機内に入ってから同行のN君に、「君にやるよ」と言ってネクタイにつけさせたわけだ。やがてニューヨークに着いた私達の前に、ショファー・スタイルの一人の男があらわれ、N君にこう問いかけたのである「あなたはミスター・スガノであるか」と。ネクタイピンは目印だったのだ。
 迎えのリムジンでホテルまで送られながら、私は何ともいえないあたたかいものを感じた。おそらくガウ氏は、私達を送り出すとすぐに、ニューヨークに電話をして迎えの手配をしたのだろう。そして今頃、空港の迎えに驚いている私を想像しながら、楽しんでいるに違いない。彼はそういう男なのだ。
 ガウ氏はよくこう言う。「われわれは高い広告費を払って広告はしない。その費用があったらそれは研究開発に回す。また、こうして話しながら食事をしたり飲んだりする方が、はるかにマッキントッシュを理解して考えられるではないか。一人一人のユーザーにまでそれは出来ないが、考え方は同じだよ」
 でも、この言葉は半分うそであろう。彼のホスピタリティは営業的政策以前のものである。それは彼の体質である。彼は客をもてなす事を、彼自身、真に楽しんでいるのである。彼はそういう男である。だから、そこで本当に心が通じ合うのではないだろうか。
 マッキントッシュ社は、正式には「マッキントッシュ・ラボラトリー・インコーポレイテッド」という。オーナーのフランク・H・マッキントッシュ氏は、以前、ワシントンで放送機器関係のコンサルタント業とともに、FM放送のサブキャリアを使った、バックグラウンド・ミュージックの仕事をしていた。ガウ氏は、そのときエンジニアとしてマッキントッシュ氏に雇われたのである。
 彼に与えられた仕事は、BGMの音質を改良することであった。彼はそこで、こつこつとアンプを設計したり、手づくりで製造していたという。
 彼が、より良い音のアンプを作るために、一番気になったことは、プッシュプル回路のノッチングひずみであった。それまでの標準的なプッシュプル回路では、どうしてもBクラスのノッチングひずみが出てくる。しかし、Aクラスではあまりにも効率が悪すぎてコマーシャルベースに乗りにくい。Bクラスのエフィシェンシーを持ち、かつ、何とかノッチングひずみをへらす方法を考えたいと、研究を重ねたわけである。
 このノッチングひずみについては、1936年にペン・タン・サーという人が、すでに問題を提起していたが、ガウ氏が非常に印象を受けて、自分の研究の刺激になったのは、フレッド・ターマンというオハイオ州立大学の教授が発表した論文であるとの事であった。彼がまず取り組んだ回路は、シングルエンディット・プッシュプル、すなわちSEPP回路によるひずみの低減であった。その結果ぶち当った問題が、今度はアウトプット・トランスフォーマーということになったわけである。それまでのトランスでは、どうしてもある程度以上にひずみを減らすことは出来なかったわけだ。
 とにかく彼は、入出力のリニアリティを上げるために、コア材と巻き線の両面で非常に苦労をした。とくにコア材に関しては、フラックス・デンシティとコイルの磁力がリニア関係をもつものが、全くなかったという。彼はいろいろなコア材の研究をした結果、グレイン・オリエンテッド・シリコン・スチールという鋼材が、きわめて良好な結果をもたらすことを発見した。これを具体的に採用したのが、ウエスティングハウスの開発に成るハイパーシル・コアというものであった。
 一方、ワインディングすなわち巻き線に対しても、彼は多くの研究を重ねている。その結果得たものが、現在のバイファイラー・バランスド・シンメトリックという、つまり、1次線と2次線をパラレルにして同時に巻いてゆく方法なのだが、これに至るまでに、実にあらゆる方法を実験したそうである。 たとえばその一つは、実に58ものタップが出るコイルであった。普通のトランスでは五つか六つのタップであるが、それが58もあったわけだ。彼は苦心して作ったハイパーシル・コアに、58ものタップをもつコイルを巻いた試作品を作り、マッキントッシュ氏に見せた。その時マッキントッシュ氏は「これは大変にすばらしい、しかし、一体いくらにつくのだ!」とさけんだという。
 ガウ氏はその時の事を私にこう話してくれた。「はっきり覚えちゃいないけど、とにかくとても商品になるような値段ではなかったよ」と。しかし、この回路を元に、その後二人でもっと実用性のある方向にアレンジを加え、そして出来上ったのが、1946年に出願したマッキントッシュ・サーキットなのであった。そして1949年に、この回路はパテントを得ている。
 マッキントッシュ社が会社として設立されたのは、前記した特許出願の年、1946年、場所はまだビンガムトンではなくワシントンDCであった。もちろん当時は、まだ、それまでのプロフェッショナル・ユースのアンプを一点づくりで納めていた、アメリカ流に言えばガレージ・メーカーである。その後、パテントを得た1949年に現在のビンガムトンに本拠を構え、アンプメーカーらしいアンプメーカーとしてスタートする。この時、前に申し上げた10人の社員になったわけである。
 その段階で、マッキントッシュのオリジナルサーキットが決まり、その後、チューブ・アンプリファイアーからトランジスター・アンプリファイアーになっても、この基本回路はずっと踏襲されてきている。
 現在のマッキントッシュ社は、社員が約600名。本社工場をはじめ、ビンガムトン内に七つのプラントを持っている。この七つのプラントで、アンプ、チューナー、スピーカーをはじめ、前記したようなシャーシ類の製造から例のガラスパネル、そして各種の印刷物まで、すべてを作っている。そして、会社の中心人物は、マッキントッシュ氏、ガウ氏のほかに、技術関係をコーダーマン氏、総務的な問題をペンショー氏、営業的な面をキャロル氏が担当しているらしい。らしいと言うのは、たびたび申し上げるように、彼等の名刺には何も肩書きが書かれていないからである。
 私とガウ氏の交友もすでに7年になり、その間、何度も顔を合わせて、いろいろな話をしているわけだが、マッキントッシュの製品に関して、私が以前から興味を持ちながら、しかもなぜか、一度もあらたまって質問したことのない部分があった。それはマッキントッシュ製品のデザインについてである。
 ご存知のようにマッキントッシュ製品は大変にすばらしいデザインを持ち、高級品にふさわしいオリジナリティと美しいフィニッシュを誇っている。
 マッキントッシュ社のデザイン部門をガウ氏がプロデュースしていることは、以前から私も知っていた。しかし、デザインに対するポリシーなど、その考え方については、これまで、とくに質問したことがなかったわけだ。マッキントッシュ社では、すべてを自社生産しているように、そのデザインもいわゆるデザイン事務所に外注したりはしていない。社内にデザイン・セクションがあり、彼の意見によって若いデザイナー連が仕事をしている。
 ガウ氏は驚くほどいろいろな事をやってきた人なのだ。アフリカにいたこともあるらしいし、サンフランシスコの大学で教鞭をとっていたり、それからアナウンサーをしていたこともあるという。そんな彼だから、恐らくいつのまにか、デザインについても意見を持つようになったのだろう。これは私の想像なのだが、先日ステレオサウンドで見たC−8のパネルに書いてある「BASS」とか「TREBLE」とかいったフリーハンドの文字が、どう見ても彼の筆跡に似ている。恐らくあれは、ガウ氏の字だろう。
 そう言えば、彼は以前、マッキントッシュの一連のパワーアンプにほどこされているシャーシのメッキについて、こんなことを言ったことがある。「あれは要するに、おれのアマチュアイズムなんだ。おれは自分で物を作ったら、それがバラックみたいなかっこうであることがいやなんだ。別にデザインというほどのものではないよ」とその時点では謙遜していた。しかし、「ガラスパネルを本格的に使うようになってからのものは、デザインらしいデザインと言えるかな」とも言っていたわけだ。そこで今回、この一連のガラスパネルによるアンプデザインについて、そのポリシーなどをたずねてみた。しばらく、ガウ氏の話に耳をかたむけてもらおう。
 おれはデザインについてこう思うんだ。デザインは思いつきや感覚だけで出来るものではないと。最も大切なのはリアリティだよ。君がおれのアンプをきれいだと言ってくれるのは大変うれしい。もちろん、きれいじゃなくては困るんだけど、一番必要なことは、絶対に必然性だ。機械としてのね。
 そこで、アンプの場合には何が最も必要かという事になるのだが、アンプは音楽を聴くためのものだ。音楽を聴く場合には、音楽を聴く人のエモーショナル・レスポンス・フォー・ミュージック──音楽に対する情緒的反応──これが生命だと思う。だからアンプは、エモーショナル・レスポンス・フォー・ミュージックというものを持つべきで、これを大切にしなくてはいけない。そのために何が最もふさわしいかなのだが、おれはそれに対し、イルミネーションが最もふさわしいものだと考えたわけだ。
 次に、それならイルミネーションの色はどうすべきか、という問題になる。
 そんな事を考えながら、ある時、飛行機に乗っていて、それが滑走路へおりて行く時に、おれはタクシーウェイのイルミネーションを見た。これだ、これは絶対にすばらしいと思った。しかも、これはだてや酔狂で、ネオンサインのつもりで色をつけているのではないはずだ。そう思うだろう? 相当リサーチされた結果に違いないんだよ。
 実の所、イルミネーションでいこうと決めた時、その色やデザインについて、おれはミシガン大学の研究室に協力をあおいでいたんだ。(ミシガン大学はデトロイトにある関係もあって、すぐれた自動車デザイン部門を持っている)おれは何をやるにも、まず基本的なスタディからはじめないと気がすまない性格だからね……。
 ガウ氏は、この空港で得たヒントを研究室に持ち帰り、徹底的なリサーチを行った。その結果決定されたのが、マッキントッシュのイルミネーションに使われている、ブルーでありグリーンであり、レッドなのである。
 彼の説明によると、ブルーという色は、人間に、少ない光量で視覚的に正確な認識を与えるものとして最も適している。光量が一番少なくていいわけである。要するに、イルミネーションで正確な認識を与えるためには、光量が多ければいい。しかし、それでは結果的にまぶしく、疲れてしまう。最低の光量で、最も正確に認識しうるものが、イルミネーションの基本のはずである。「現に、飛行場のイルミネーションも、この実験から生まれたものだったんだよ」と彼は言う。
 しかし、心理的に、このブルーという色は冷たい感じを与える。「視野の中に入ってきたブルーから冷たい感覚を得ないためには、それにグリーンとレッドを組み合わせること。こういうデータをミシガン大学の研究室で得たんだ」
 たとえばメーターは、最低の光量で見えるべきだ。見てまぶしいようなメーターでは困る。最低の光量で正確に見える色はブルーである。だが、これだけでは冷たい。そのためにグリーンを持ちレッドを持つ。「これが、あのイルミネーションの基本的な考え方なんだ」
 次に、なぜガラスを使ったかなのだが、これについてガウ氏は、「それは単純だよ」と言う。つまり、イルミネーションというアイデアが浮かべば透明なものを使わなくてはならない。考えられるのはアクリルなどのプラスチック類とガラスである。「三つの点でガラスがまさっている。第一に傷に強い。第二に最も純粋な透明度が得られる。第三にフィーリング・オブ・アキュラシー、つまり緻密な精度感を持つ。せっかくいいメカニズムを作っても、そのフィニッシュにアキュラシーなフィーリングがなくては……。それは中味を象徴することになるのだから」
 だが、材質をガラスに決定した事によってイルミネーションのプリントには大変な苦労をしたようである。ピンホールがちょっとでも出来ると、相手が光だからパッと出てしまう。しかもプリントの精度は、1万分の1インチ以上でなくてはフィーリング・オブ・アキュラシーが出ない、と彼は言う。
「とにかく、200種類のインクを分析して実験した。その結果、出来るようにはなったんだが、プリント時の温度は絶対に70度プラスマイナス5度。そして湿度は15%プラスマイナス5%。これを管理しなければならない。実際にこれは、途中で何回やめようと思ったかわからない。でも、思いついたことをやりとげるのが自分達の仕事の喜びなんだ」
 あまり飾らないガウ氏が熱をこめて語るこの言葉は、同時に、彼のマッキントッシュ製品に対する自信のほどを、裏づけるものとも、私には思えたのである。
 マッキントッシュ社の緊密な人間関係や、ユニークな一貫生産のシステム、そしてガウ氏のデザイン・ポリシーなどについて話してきたわけだが、次に、もう一歩ふみこんで、彼の、ということはすなわちマッキントッシュ社の、プロダクト・ポリシーといった面に話をすすめてみよう。
 ガウ氏がよく口にする言葉がある。「大切な事は、たゆまぬ研究開発である。しかし、研究開発というものは常に動的なプロセスであって、その段階で、それをすぐ製品化してしまうということは、大変に危険なことなのだ。自分達は断じて、お客様にリライアビリティ、すなわち信頼性を保証しなくてはならない。リライアビリティが保証できる自信のないものは製品化すべきでないんだ」これが彼の製品づくりの哲学と言ってもいいと私は思う。この点に対するガウ氏の神経の使い方は大変なもので、信頼性のない製品は必ずすべてをぶち壊してしまうと言う。客に迷惑を与え、販売店をぶち壊し、メーカーを駄目にする。もちろん機械に故障はつきものだが、だからこそ万全を期して、大きな故障が起きないようにしなくてはならない、と言うわけだ。
 このリライアビリティの重視は、すなわち製品のロングライフにつながる。「使っていて、短期間のうちに極端に初期性能が衰えてしまうようなものは、自分としては絶対に作りたくない。何年間でも、調整さえすれば常にオリジナルの状態に復元できるような機械でなくてはだめなんだ。これは機械の作り方だけの問題ではなく、基本設計の時点ですでに問題になることなんだ」そしてさらに「だから、まず良いオリジナルな設計を持つ事が大切だし、それを持ってスタートしたら、今度はとことんまで製造面を追求して行かなくてはならない」
 マッキントッシュ社にとってのオリジナルは、前に申し上げたバイファイラー・トランスフォーマーによるマッキントッシュ・サーキットであるわけだから、彼等はこれを、けっして捨てることはないわけである。「このオリジナルに、もうリサーチの余裕がないという事になればともかく、まだまだ、これを発展させ改良させることは可能だ。簡単に捨ててしまうようなものは、本当のオリジナリティではない」と彼は常に言っている。
 アンプがトランジスターになった時、それでもトランスをしょっていることについて、彼はいろいろな人から質問を受けたらしい。私が質問した時にも、またか、と言った感じだったが、その時にも彼が言ったことは「一番大きな理由はロングライフだ。これは絶対に壊れないんだ、トランスをしょっていれば」という事だった。現に彼は、その頃のハイパワー・アンプのライフテストを全部やって、その結果、マッキントッシュのアンプが最も過酷な使用に耐えるアンプであるというデータを自分で確認していたのである。
 ガウ氏はアンプの音質について、こんな考え方を持っている。もし、二つのアンプが同じひずみ率、現在はかり得るすべてのディストーションが同じグレードにあったとしたら、その二つのアンプのオーバーロードではない範囲の音質すなわち、静かにかけている場合には、二つの音質の違いは非常に聴き分けにくい。アンプの問題は、ほとんどの場合オーバーロードで働かされている事にある。
 たとえば彼の実験によると、スネア・ドラム1個のアコースティックパワーは5ワット出ると言う。ところが、能率の悪いエアーサスペンションのスピーカーだと、音響変換効率はせいぜい1%である。そうすると5ワットのエネルギーを出すためには500ワットのパワーを入れなくてはならない。だからアンプは、まず大きなパワーを持たなくてはならない、と言うわけである。たしかにマッキントッシュのアンプは、その時代、その時代で、いつも大きなパワー、大きなパワーという方向に行っているが、それは彼のこうした考え方によるものなのだろう。
 もっとも、ガウ氏は個人的には静かな音で音楽を聴くのが大好きなのである。「オーディオ機器のあらが一番出ない、静かな音で、イメージとして音楽を聴くのが、最もハッピーである」と言う。しかし、実際の使われ方はそうではない。多くの人はスピーカーからリアリティを求めている。「そうなると、きわめて大きなパワーがなければリアリティは求められない」という事になる。
 彼は言う。現に、現在のほとんどのアンプはオーバースイングの状態で使われている。そういう状態では、アンプはきわめて音質の差がはっきり出てくる。たとえばチューブアンプとトランジスターアンプの場合、いろいろな要素はあるけれど、一番ティピカルな音の違いはオーバーロードに対するものだ。この二つのクリッピング波形は、はっきりそれとわかる。これを何とかしなければ、いつまでたってもおまえのところのMC2105より275の方が、はるかにパワフルで、はるかにいい音だと言われてしまう。だから、現在アンプで最も問題にしなければならないのは、クリッピングしないほどのパワーを持たせるか、あるいはクリッピングしても、それをあまり強く感じさせないことだ。
 彼は、こんな実験をしたという。それは、最近よく問題にされるスルーレートに関するものである。「方形波を入れて、それがアウトプットでどういう形になるか。それがアンプの特性を示す一つの目安になることは確かだ」と彼も言う。しかし同時に「現在のような形でスルーレートを取り上げるジャーナリズムのあり方には、大きな問題がある」と言うわけだ。
 彼は、一般のユーザーを集め、方形波のかなり悪いシステムと、かなり良いシステムを比較させ、音楽を聴く上でそれがどれだけの影響を持つかを確めている。彼は言う「たとえばテープレコーダーは方形波がきわめて悪い。磁気ヘッドは本質的に位相特性が非常に悪いから、方形波はめちゃめちゃに崩れてしまう。でも、そういうテープレコーダーで、はたして音楽は音楽でなくなってしまうか。あの波形を見ると、確かにびっくりするほどの波形だが、音楽はちゃんと音楽らしく鳴っているではないか」
 もちろん彼は、エンジニアにとって方形波が非常に重要なものである事は認めている。ただ、現在のジャーナリズムの取り上げ方は本当にアンプの物理的なことを理解していないコンシューマーに対して、「方形波がこうなるということは、あたかも音楽がそういう形になるかのようなすりかえで、アピールしている」これは大変に危険なことだ、と言うのである。
 私はこの考え方を、オーディオの認識のトータルの姿として重要だと思う。これを、単なるガウ氏のデモンストレーションとして受け取ったら、それは浅い。彼自身の意図は、エンジニアリングの立場だけを、一般の人にアピールしたのでは、一般の人たちが神経質になってしまい、オーディオを楽しめなくなってしまう、という事なのだ。それは、ガウ氏が単なるエンジニアではなく、彼自身が音楽好きで、しかもオーディオマニアであるからだろう。もし単なるエンジニアだけだったら、方形波は悪くとも音楽は聴けるではないか、というような事はなかなか言えるものではないと思うのである。
 前記した、クリッピング時の波形がアンプの音質にとって重大な影響を持つというガウ氏の考え方は、マッキントッシュのアンプが、常にハイパワー化へ方向づけられていたゆえんでもあるわけだが、最近、もう一つの新しい方向が持ち出され、製品化されている。
 彼はチューブアンプとトランジスターアンプの音質の差という事に、本当に真剣に取り組んで、いろいろな研究をしてきたわけである。この結果、クリッピング波形の問題に着目した。たとえば彼が言うのは、10ワット程度の真空管アンプは、たしかに10ワット程度のパワーしか出ないからダイナミックレンジは狭い。しかし結構豊かな音で鳴る。ところが、トランジスターアンプは50ワットあっても豊かさに乏しい。その最大の理由が、クリッピング時の波形の違いであると言うわけだ。トランジスターアンプのクリップ波形はシャープで、サインウェーブが方形波のようになってしまうが、真空管アンプはクリップしても、なかなかそういう波形にはならない。現実には先ほども申し上げたように、ほとんどのアンプがひんぱんにクリップポイントにリーチしながら使われているからトランジスターアンプはひずんだ音が気になるケースが多い。
「トランジスターアンプがオーバードライブされても、ひずみとして耳に感じさせない事。これがわれわれの、一つの新しい方向なのだ」この回路が、新しいパワーアンプMC2205をはじめとする一連の製品に採用された、パワー・ガード・サーキットである。これは簡単に言うと、インプット波形とアウトプット波形を常に比較して、アウトプット波形が1%のひずみに達した時、インプットを制御する方式らしい。したがって、オーバーロードでもシャープなひずみが発生しないわけである。ダイナミックレンジはそこで狭まることはあっても、ひずみとして耳に聞こえる事はない。これは実際に聴いてみると非常に効果のあるものであった。
 だからと言って、もちろんマッキントッシュがハイパワーの方向を捨てたわけではない。と言うのも、近々、400ないし500ワット・パー・チャンネルのアンプを登場させるという。従来の200ワットクラスの大きさと目方で、それぐらいのパワーが取り出せるようになったと、ガウ氏は最新の情報として話してくれた。
 これまでお話し申し上げたように、私はマッキントッシュを大変にすばらしいメーカーだと思っている。と言うのも、これは私のオーディオ観でもあるのだが、私のオーディオに対する喜びの中の一つの大きな要素として、メカニズムそのものに対する魅力というものを無視することができない。もちろん、オーディオの大部分は、音楽を聴くための道具であるが、音楽を趣味とすると同時にオーディオそのものを趣味としている一つの理由が、メカニズムの魅力だと思う。そして、そのメカニズムの魅力とは何かと言うと、結局、帰するところは、メカニズムを作った人間との対話なのだ。結果的にあらわれた、すばらしいメカニズムだけを評価してすませてしまうか、あるいは、作った人間がどういう人間であろうかというふうなところまで、考えをめぐらすかどうか、と言う事だと思う。そして私の場合には、メカニズムを通してその人間を想像し、いろいろと楽しんでいる。私はそういうメカニズムとの接し方をしているのである。
 したがって、そのメカニズムから、どうしてもその裏側にあるべき人間が想像できないようなものは、きわめて気味が悪く、私にとってはあまり魅力がない。これはオーディオだけではない。カメラ好きの人はカメラからそれを感じるだろうし、車好きの私は、やっぱり車からもそれを感じる。どうしても、設計者や製造者に対する興味を禁じ得ないのである。
 そういう意味からマッキントッシュにも私はアプローチをし、その人達と親しくなったわけだ。その結果、マッキントッシュの製品から受けるものが、実際に会ったマッキントッシュの人々と、非常によく合致するということを明確に感じた。
 またガウ氏の話で恐縮だが、彼がよく行くレストランにベステル・ステーキハウスというのがあって、そこでは本当にびっくりするほどの、サイズ・イレブンと称せられる物すごいサイズのローストビーフを出す。誇張でなく、その隣にスカッチの水割りグラスを置くと、その高さとローストビーフの厚さが同じなのである。ガウ氏はそれをペロッと食ってしまう。私も懸命になって食べたが、まさに獅子奮迅の格闘をして食ったあとでも、その口ーストビーフは持ってきた時と大して形が変わっていなかった。でも彼は、本当にペロッと食べてしまう。
 それから、彼は絶対に大きい車が好きである。小さい車には全く興味を示さず、仕事に使うのはキャデラックの75リムジン、キャデラックでも一番大きい車である。ガウ氏自身もこう言っている「おれは小さいだろう、だから何でもデカイのが好きなんだ」と。
 そして私には、この彼の性質と、マッキントッシュの作る強力なアンプ、常に大パワー、大パワーを目指す方針が無関係とは思えないのだ。もちろんその方針は単なる感覚的な事ではなく、理屈の裏づけがあってのことなのだが、それでも、そこからは彼のスケールの大きさがそのままにじみ出ているのだ。
 私がガウ氏に会う前に、マッキントッシュの製品から想像していたイメージが、実際のガウ氏とほとんど食い違わなかった事に、私はひそかな喜びを感じたのである。やっぱりこれほどの製品になれば、メカニズムを通しての人間との対話ということが、本当にありうるものだと、しみじみ感じた次第である。
 こう書いてくると、私はまるでマッキントッシュ・クレージーのように思われるかもしれない。だから誤解がないようにつけ加えておかなくてはならないのだが、私自身は、マッキントッシュの音そのものはマイ・サウンドとは言えないのである。私は決して、マッキントッシュのアンプを自分の音として愛用しているものではない。C−28とMC−2105を以前に買って持っているが、常用ではない。マッキントッシュ・サウンドのあの大柄な、あのたくましい感じが、私のものとは違うという感じがするのである。それでも私は、マッキントッシュの製品に最大限の評価と賛辞を惜しまない。ここがオーディオのむずかしいところなのだろう。もっともこれは必ずしもオーディオだけに限らず、たとえば車でも同じ事が言える。
 いずれにしてもマッキントッシュは、すぐれた頭脳と堅実な思想、そして彼等の豊かな人間性によって、すばらしい製品を作り上げている。もちろんそれも、ある見方を変えれば、たとえば古いと言われる一面も持っているかもしれない。マッキントッシュ社は、けっして新しいテクノロジーをどんどん取り入れて行くタイプではない。いまだにアウトプットトランスをしょったアンプは、アウト・オブ・ファッションと言われるかもしれない。しかし、それを単なる古さ、おくれた考え方とだけ見るのは大きなあやまちである。私はむしろ、そこに彼等の、文化に対するどっしりとした精神的バックボーンを見るのである。
 私は常に、明治のハイカラ思想と第二次大戦後の欧米コンプレックスの二つが、日本のいいものをかなぐり捨てた、そして、いま日本はそれによってあえいでいると実感している。優秀なものが大量に出来るようになったが、ドーンと人を感動させる最高級なものを作ることが出来ないでいる、現在の日本の精神構造の弱さ。これほど高い文化の歴史を持つ国でありながら、現代人が作り出すものの中に文化というにおいがしない。これは工業製品だけではなく、すべての分野に言える事であろう。
 しかし、われわれオーディオの好きな人間ぐらいは、そういう精神文化というものを大切にしていきたいと思う。その点においても、私はマッキントッシュ製品を、高く評価しているし、この考え方は今後も変らないものと思っている。

「私のマッキントッシュ観」

岩崎千明

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・マッキントッシュ」(1976年発行)
「私のマッキントッシュ観」より

 昭和三十年頃の僕は、毎日毎日、余暇をみつけては、ハンダごてを握らない日はなかった。この頃の六、七年間、数多くのアンプを作った。作っては壊し、作っては壊ししたそれらは当時のラジオ雑誌にほとんど紹介してきたものだが、もともと、そうした記事のために、目新しい回路をもととして、いままでとは、どこか違った、新しいアイディアを必ず盛り込んだものだった。もうはとんど手元にはなく、ただ昔の、古く色あせた雑誌の写真に姿をとどめているだけだ。つまり、製作記事のための試作アンプにすぎない、はかない存在だ。しかし、中には壊すのが惜しくて、そのまま実用に供し、そばに置いて使おうという気を起こさせたものもある。いまでも、そうしたアンブ、そのほとんどがモノーラルの高出力アンプだが、20数台もあろうか、物置の片隅を占領してしる。その多くが30Wないし50Wのパワーを擁する管球式で、外観は、共通し当時のマッキントッシュの主力アンプMC30に酷似する。
 なぜ、マッキントッシュに似たか。理由は唯ひとつ、僕の中にそれを強くあこがれる意識が熱かったからだろう。
 当時、日本には、海外製品として、英国製のスピーカー以外は入ってきていなかったし、海外製のアンプは、たまにこれらラジオ雑誌に簡単に技術紹介されるだけであって、その実力を知ることもなかった。まして現物になどお目にかかれるなどという幸運は一般のマニアにまったくなかった。だから、このマッキントッシュに対するあこがれの理由は、どこに端を発したのか、今ではしかと思いだせない。手元にある古い雑誌を見ても、マッキントッシュの広告は、まだほとんどなくて、その名前さえ知られることのない一九五〇年代の前半のことだ。でも不確かな記憶だが、マッキントッシュのMC30をたった一度だけ、見たのは、当時、駐留軍としての米国の高級将校の家で米ボーゲン製の小型アンプと置き換えたばかりの雄姿に触れた時だった。
 あまり大きくないクロームメッキのシャーシーに、ギリギリいっぱいの位置におかれた肩の丸い黒い角型ケースに収まった特徴あるトランスがふたつでんと収まった力強い姿だ。この時の印象があまりにも強かったので、他のアンプのイメージがすっかりうすれてしまったともいえる。少なくとも構造的にまったく違った構造配置のパワーアンプが、常識であった当時だ。たとえば、マランツのおなじみ8Bに代表されるようなシャーシーの半分に、出力トランス、電源トランスをすっぽりとケースで包んでしまった形は、業務用アンプの代表であって、映画館を初めとするプロ用ラックタイプのアンブはほとんどこれだった。細長いシャーシーの両端にふたつのトランスを配し、その間に真空管を並べるアクロサウンドの形式も多かった。しかし、こうしたアンプよりも、マッキントッシュに強く惹かれるのは、外観だけの問題ではなく、それを作ろうとする時、大きな利点を見いだせるからだ。つまり、出力管と、出力トランスを、至近距離においた上、パワーアンプ初段管のカソードヘの帰還回路の配線が、最短距離で達成され、さらに、出力トランスと、出力端子が極端に至近距離におけるという、理想的な配線は、マッキントッシュのMC30のシャーシー配置構造の利点なのである。
 これは、作ったものでないと判らないし、一度作れば、これ以上によい方法は、ちょっと思い浮かびあがらないほど、完璧だ。
 だから、今、手元にある20数台のアンプは、出力トランスと出力真空管と、むろんそれらの大きさと、最大出力の違いのため、そのシャーシーの大きさが、てんでんばらばらだが、構造的には、マッキントッシュのMC30によく似ているのである。もうひとつの共通点は、MC30よりも、出力が大きく、当時の水準からすれば、「大出力アンプ」といい得るものだ。念のために申し添えると昭和30年前後のその頃の技術雑誌の製作記事で、MC30をはっきりと意識したアンプは、たったひとつの例外を除いて、僕の作ったもの以外にはないと20年経った今でも自負している。
 そのたったひとつの例外というのは、某誌の表紙にまでカラー写真でのったY氏製作の30Wのアンブだ。
 これは、金のない僕の作るものとは違って、シャーシーまで本物のMC30のように、メッキされていたように記憶している。
 その時、「ははあ、彼氏もマッキントッシュの良さを知っているな」と秘かに同好の志のいるのを喜ぶとともに手強いライバルを意識した。しかし、Y氏は、それきり、アンプの記事は書かなかったように記憶する。最高を極めたからか。
 Y氏、実は山中敬三氏である。
 さて、今までの長い前置きでもわかる通り、僕にとっては、マッキントッシュのアンプといえば、MC30以外には、ない。一次捲線と二次捲線とを、二本並べて捲くという、いわゆるバイファイラー捲きの特許の出力トランスを用いた高出力アンプにこそ、マッキントッシュならではのオリジナル技術だが、それを、広く高級オーディオファンの手にわたる具体的な商品として、現実に製品化した一号機こそが、MC30なのであって、むろん、それ以前の製品もあるのだが、それが本来のMC30の、歴史的意義にもなっている。
 しかし、そうした背景は、一切目もくれないとしても、僕にとっては、アンブとしてのMC30そのものの印象も、価値も大きいのだ。
 いまや、ソリッドステートの時代となって、マッキントッシュも、MC2300を初め、最新のノン・クリッピング技術を盛り込んだMC2205、さらに、あまりにも有名な、良く知られているMC2105等、すべて、管球アンプではない。また、管球アンプとしての最後の製品となったMC3500の中をのぞくと、カラーテレビの水平出力用に使われる大型の高能率、高耐圧出力管が、ずらりと8本ならんでいて、その様は、どうみてもレギュレーター、ないしは定圧電源といった感じで、ハイファイアンプとしての楽しい夢のある容姿ではない。ステレオの最後の管球アンブ、MC275あたりが、オーディオファンにとっては、いかにもマッキントッシュ、ここにあり、といったイメージだが、いっそ、真空管なら、その原点にまで目を向けたくなってくる
 マッキントッシュと並ぶ、マランツのアンブをば語る時のように、プリアンプとパワーアンプのペアを、考えようとすると、マッキントッシュでは、C22管球ステレオプリや、C28、あるいはC26といったプリアンプの名前が出てくることになるが、本来、マッキントッシュの場合、その技術は、あくまで出力管回路、パワーアンプにある。プリアンプでは、時代とともに、型番も、むろん回路内容も改められてきた。つまり、パワーアンプほどに、明確なる決定打はなかったと、いってよい。パワーアンプが、いくつかあるのは、その出力の違いによるものだし、その原点は、6550をパワー管とした60WのMC60、さらには1614をパワー管とした30WのMC30に行き着いてしまうのである。
 だから、昨年、マッキントッシュ・クリニックのシールも新しいMC30を、当時のプリアンプC8とぺアで、ステレオ用として、2組入手したときに、僕のマッキントッシュにかかわる思い出と、永い散策とに、やっとピリオドを打ったような気がしたものだ。マッキントッシュMC30を、米軍将校の部屋で見染めてから、それは22年の長い道程でもあった。

「私のマッキントッシュ観」

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・マッキントッシュ」(1976年発行)
「私のマッキントッシュ観」より

 私のマッキントッシュ観に影響を与えた二冊の雑誌を思い浮かべる。その一は月刊『ラジオ技術』昭和31年4月号。もうひとつは季刊『ステレオサウンド』第三号(昭和42年夏号)である。
 昭和31年の2月、フランク・H・マッキントッシュは日本を訪問している。マッキントッシュ・アンプの設計者でありマッキントッシュ社の社長として日本でもよく知られていたミスター・マッキントッシュが、何の前ぶれもなしに突然日本にやって来たというので、『ラジオ技術』誌のレギュラー筆者たちが急遽彼にインタビューを申し込み、そのリポートが「マッキントッシュ氏との305分!」という記事にまとめられている。こんな古い記事のことをなんで私が憶えているのかといえば、ちょうど同じこの号が、おそらく日本で最初にマルチアンプ・システムを大々的にとりあげた特集号でもあって、「マルチスピーカーかマルチアンプか」という総合特集記事の中には、私もまた執筆者のはしくれとして名を連ねていたからでもあるが、しかしこのころの私はまた『ラジオ技術』誌のかなり熱心な愛読者でもあって、加藤秀夫、乙部融郎、中村久次、高橋三郎氏らこの道の先輩達によるマッキントッシュ氏へのインタビュウを、相当の興味を抱いて読んだこともまた確かだった。
 しかしその当時、マッキントッシュ・アンプの実物にはお目にかかる機会はほとんどなかった。というよりも日本という国全体が、高級な海外製品を輸入などできないほど貧しい時代だった。オーディオのマーケットもまだきわめて小さかった。安月給とりのアマチュアが、いくらかでもマシなアンプを手に入れようと思えば、こつこつとパーツを買い集めて図面をひいて、シャーシの設計からはじめてすべてを自作するという時代だった。回路の研究のために海外の著名なアンプの回路を調べたり分析して、マランツやマッキントッシュのアンプのこともむろん知ってはいたが、少なくとも回路設計の面からは、それら高級アンプの本当の姿を読みとることが(当時の私の知識では)できなくて、ことにマッキントッシュのパワーアップに至っては、その特殊なアウトプットトランスを製作することは不可能だったし、輸入することも思いつかなかったから、製作してみようなどと、とても考えてもみなかった。そうしてまで音を聴いてみるだけの価値のあるアンプであることなど全く知らなかった。これはマッキントッシュに限った話ではない。私ばかりでなく、当時のオーディオ・アマチュアの多くは、欧米の高級オーディオ機器の真価をほとんど知らずにいた、といえる。実物はめったに入ってこなかったし、まれに目にすることはあっても、本当の音で鳴っているのを聴く機会などなかったし、仮に音を聴いたとしても、その本当の良さが私の耳で理解できたかどうか──。
 イソップの物語に、狐と酸っぱい葡萄の話がある。おいしそうな葡萄が垂れ下がっている。狐は何度も飛びつこうとするが、どうしても葡萄の房にとどかない。やがて狐は「なんだい、あんな酸っぱい葡萄なんぞ、誰が喰ってやるものか!」と悪態をついて去る、という話だ。
 雑誌の記事や広告の写真でしか見ることのできない海外の、しかも高価なオーディオパーツは、私たち貧しいアマチュアにとって「すっぱいぶどう」であった。少なくとも私など、アメリカのアンプなんぞ回路図を調べてみれば、マランツだってマッキントッシュだってたいしたもんじゃないさ、みたいな気持を持っていた。私ばかりではない。前記の『ラジオ技術』誌あたりも、長いこと、海外のパーツについて正しい認識でとりあげていたとは思えない。そういう記事を読んでますます、なに、アメリカのオーディオ機器なんざ……という気持で固まってしまっていた。
 昭和30年代のなかばを過ぎたころから、自分のそういう感じ方が偏見以外の何ものでもなかったことを、少しずつではあったが知らされはじめた。たいしたもんじゃない、と思いこんでいたオーディオ・パーツが、少しずつ日本にも紹介されはじめ、それを実際に見、聴きしてみると、むろんそれらすべてがとはいえないまでも、海外でも一流と定評のあるオーディオ機器は、我々日本人の感覚で眺め、触れ、聴いてみてもまた、立派な製品であることが十分に理解できた。そうして私は、マランツの#7を購入し、JBLのスピーカーを、次いでアンプを購入し、シュアーのカートリッジに驚かされ、それまでの反動のように海外の高級パーツにのめり込んで行った。昭和30年代の終りごろから、私にもそれらのパーツが、やっとの思いではあってもともかく買えるだけの身分になっていた。しかしそれでもまだ、マッキントッシュのアンプについては、私はその真価を知らなかった。
 昭和41年の終りごろ、季刊『ステレオサウンド』誌が発刊になり、本誌編集長とのつきあいが始まった。そしてその第三号、《内外アンプ65機種—総試聴》の特集号のヒアリング・テスターのひとりとして、恥ずかしながら、はじめてマッキントッシュ(C—22、MC—275)の音を聴いたのだった。
 テストは私の家で行った。六畳と四畳半をつないだ小さいなリスニングルームで、岡俊雄、山中敬三の両氏と私の三人が、おもなテストを担当した。65機種のアンプの置き場所が無く、庭に新聞紙をいっぱいに敷いて、編集部の若い人たちが交替で部屋に運び込み、接続替えをした。テストの数日間、雨が降らなかったのが本当に不思議な幸運だったと、今でも私たちの間で懐かしい語り草になっている。
すでにマランツ(モデル7)とJBL(SA600、SG520、SE400S)の音は知っていた。しかしテストの最終日、原田編集長がMC—275を、どこから借り出したのか抱きかかえるようにして庭先に入ってきたあのときの顔つきを、私は今でも忘れない。おそろしく重いそのパワーアンプを、落すまいと大切そうに、そして身体に力が入っているにもかかわらずその顔つきときたら、まるで恋人を抱いてスイートホームに運び込む新郎のように、満身に満足感がみなぎっていた。彼はマッキントッシュに惚れていたのだった。マッキントッシュのすばらしさを少しも知らない我々テスターどもを、今日こそ思い知らせることができる、と思ったのだろう。そして、当時までマッキントッシュを買えなかった彼が、今日こそ心ゆくまでマッキンの音を聴いてやろう、と期待に満ちていたのだろう。そうした彼の全身からにじみ出るマッキンへの愛情は、もう音を聴く前から私に伝染してしまっていた。音がどうだったのかは第三号に書いた通り。テスター三人は揃って兜を脱いだ。しかもそれから約二年後、トランジスターの最高級機MC—2105を聴いて再びマッキントッシュのすごさを知らされた。
 マッキントッシュの音やデザインの魅力については、いまさら私が、ましてこの特集号で改めて書くことはあるまい。要するにそれほど感心したマッキントッシュを、しかし私は一度も自家用にしようと思ったことがない。私は、欲しいと思ったら待つことのできない人間だ。そして、かつてはマランツやJBLのアンプを、今ではマーク・レヴィンソンとSAEを、借金しながら買ってしまった。それなのにマッキントッシュだけは、自分で買わない。それでいて、実物を眺めるたびに、なんて美しい製品だろうと感心し、その音の豊潤で深い味わいに感心させられる。でも買わない。なぜなのだろう。おそらく、マッキントッシュの製品のどこかに、自分と体質の合わない何か、を感じているからだ。どうも私自身の中に、豊かさとかゴージャスな感じを、素直に受け入れにくい体質があるかららしい。この贅を尽した、物量を惜しまず最上のものを作るアメリカの製品の中に、私はどこか成金趣味的な要素を臭ぎとってしまうのだ。そしてもうひとつ、新しもの好きの私は、マッキントッシュの音の中に、ひとつの完成された世界、もうこれ以上発展の余地のない保守の世界を聴きとってしまうのだ。これから十年、二十年を経ても、この音はおそらく、ある時期に完結したもの凄い世界ということで立派に評価されるにちがいない。時の経過に負けることのない完結した世界が、マッキントッシュの音だと思う。

スタックス DA-80

岩崎千明

スイングジャーナル 10月号(1976年9月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 8月のまだ暑さの厳しい、ある日の昼下り、SJ試聴室にふと立寄った時、見なれぬブランドのパワー・アンプが眼に入った。〝Stax〟と小さく、しかし、鮮やかな文字がパイロット・ランプ以外に何もない、そのスッキリとしたパネルにあった。知る人ぞ知る個性派ナンバー・ワンのメーカー、スタックス・ブランドのアンプということで、大いにそそられ、聴きたくなったのも当然だろう。
 SJ試聴室の標準スピーカーJBLスタジオ・モニター4341が接続され、音溝に針を落してボリュームが上がると、響きが空間を満たした。その時のスリリングな興奮は、ちょっと口では言えないし、まして、こうして文字で表わすことなどできない。なんと言ったらよいのだろうか、まず4341が、JBLがこういう音で鳴ったことは今までに聴いたことがない。それは、やわらかな肌触わりの、しなやかな物腰の、品の良いサウンドであった。いわゆるJBLというイメージの、くっきりした鮮明度の高い強烈さといった、いままでの表現とまったく逆のものといえよう。だからといって、JBLらしさがなくなってしまった、というわけでは決してない。そうした、いかにもJBLサウンドという音が、さらにもっと昇華しつくされた時に達するに違いない、とでもいえるようなサウンドなのだ。まったく逆な方向からのアプローチであっても、それが極点に達すれば、反対側からの極点と一致するのではないだろうか。ちょっと地球の極点のように、南へ向っても北へ向っても、ひとまわりすれば極点で一致するのと同じ考え方で理解されようか。
 スタックスのアンプのサウンド・クォリティーを説明するのは、むづかしい。本当は今までになく素晴しい、といい切っても少しも誇張ではないが.それならば、どんなふうにいいのか。少なくとも、音溝のスクラッチ音が極端に静かになる。JBLのシステムで聴くと、レコードのスクラッチはきわめてはっきりと出てくるが、その同じスピーカーでありながら、スタックスのアンプでは、驚くほど耳障りにならなくなってしまう。さらに演奏者の音が、そのまわりの空間もろとも再現されるという感じで鳴ってくれる。ステージでの録音ならばそれは、良い音としての必要条件ともなるが、スタジオでのオンマイク録音においてでさえも、こうした演奏現場の音場空間がスピーカーを通して聴き手の前にリアルに表現される。優れた再生というものの重要なるファクターであるこうした音場再現性が、スタックスのこのパワーアンプDA80でははっきりと感じられる。もし聴きくらべることができる状態ならば、おそらくそうした事実は、誰もが非常にはっきりと感じとることができるのではないだろうか。それは、ちょっときざっぼい、言い方をすれば、再生音楽の限界の壁を越え得たといえる。または、生(なま)へ大きく一歩前進したともいえよう。
 さて、こうした、かってない未知の再生効果の衝撃的体験をしたときから、このアンプDA80は、私に新たなる可能性を提示し拡大してくれたのである。その製品の、オリジナリティーおよびクォリティーの高さは、スタックス・ブランドの最も誇りとするところであり、これはごく高いレベルのマニアの間でこそ常識となっているとはいうものの、「スタックス」というブランドは必らずしもよく知られているわけではない。だからSJ読者の中にも、このページの登場で初めて意識される方も多いことと思われる。スタックスは、国内オーディオ・メーカーの中でも、もっとも永いキャリアーと他に例のないユニークな技術とで知られる、今や世界にもまれになったコンデンサー・カートリッジとコンデンサー・スピーカーからそのスタートを切り、アーム、さらにヘッドフォン、そのためのアダプター・アンプと順次に作ってきて分野を序々に、しかし確実に拡げてきたのち、1年前に、パワー・アンプDA300を発表した。150/150ワットのA級アンプは、ごく一部のマニアの間で、話題になったが商品としては、高価格のため必らずしも大成功とまではいかなかったようだ。今回、このDA300を実用型として登場したのが、このDA80だ。しかし、DA80は、兄貴分たるDA300を、性能的にも再生品位の上でも一歩前進したといって差支えないようだ。AクラスDC構成アンプというその回路的な特長による技術的な優秀性だけが、決してそのすばらしさのすべてではないのだ。おそらくオーディオも商品としてもまた兄貴分DA300は、一歩を譲るに違いあるまい。

パイオニア C-21, M-22

菅野沖彦

スイングジャーナル 9月号(1976年8月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 パイオニアというメーカーは企画のうまさでは抜群である。それも、ちゃんと内容のともなった製品を作るし、タイミングも実によい。パイオニアの製品群にはいくつかの本質的相異を見出すことができるようだ。第1はわれわれが大喜びする超マニア・ライクな高級機器である。第2はそのイメージを、たくみに合理化した中級・上級の製品、第3がパイオニアの商品の武器とでもいうべき、オーディオ的スパイスの効いた大衆商品である。この3本の柱を有機的に組み合せ、強固な商品構成を作りあげているのであろう。
 20番シリーズのアンプ類は、そうした分類からすれば、当然第1のグループに属するものだ。それにしては、C21プリアンプが60、000円、M22パワーアンプが120、000円という価格はそう高くないと思われるかもしれないが、30W+30Wのプリメイン・アンプで、しかも、バス、トレブルの音質調整回路つまりトーン・コントロール機能がなしで、180、000円というのは決して安いものではないことに気がつくであろう。プリメインアンプが1W当り1、000円とかいう、おかしな相場からすれば、これはその6倍強の値段である。いうまでもなく、これは、現在のエレクトロニクス技術とオーディオロジーを結びつけた音質の品位の高さを得るために必然的に出た値段である。〝本当の商人は無駄な銭をとらない〟といわれるがまさにその通りであって、むしろ、あまり安いものはうたがったほうがよさそうだ。もっとも、オーディオのように、見ることも触れることも出来ない音を目的とした商品は、買手が要求しないようなところにコストをかけても無意味であるから、いわゆる大衆商品というものは形だけ整えて、見えない音のほうはそこそこにして成り立ち、いうなれば客が馬鹿にされているわけだが、客がそれでよければ何をかいわんやなのである。その道に、客の要求が高ければ高いほど、目に見えないところにコストと時間をかけて、いいクォリティーの音を追求しなければならず、これが、オーディオ製品の一見同じように見えていながら、大きな価格の差をもった製品が出てくる所以であろう。
 C21、M22はまさにクォリティー製品であって、その性能は、同社の最高価格のC3、M4のコンビに劣らないほどなのである。いや、ある面ではむしろ優れているとさえいえる部分もある。トーン・コントロール回路をもたないC21は、信号系路を徹底的にシンプルにしてSNや歪の劣化を嫌う思想から作られただけあって、きわめてピュアーな音が得られる。選ばれたパーツも高級品であるし、よく音質検討がなされていて、洗練された最新の回路構成でまとめられている。機能的には先に述べたように、まったくシンプルなものだが、これは、コンパクトなシステムとして、マルチプルにシリーズ化する意図を持った製品群の中で占めるプリアンプという明確な姿勢を持っているのである。M22パワーアンプは、M4で実証したA級動作のノッチング歪のない音質の透明度と滑らかさを受け継ぐもので、音の柔軟性はきわめて高く、スムースこの上ない。ただ30Wというパワーはいかにも小さく、よほど高能率のスピーカーでもない限り、これでジャズをガンガン鳴らすというわけにはいかぬ。試聴にもいくつかのスピーカーをつないでみたが、アルテックのA7クラスだと、まず十分なラウドネスを得ることができるし、Dレンジもまずまずだが、ほとんどのブックシェルフ・スピーカーでは、フォルテを犠牲にしなければならなかった。つまり、このパワーアンプの本当の使われ方は、小音量で、最高の質の音でイメージの再生を目的とするクラシック・ファン向きか、あるいは、マルチ・アンプ構成としてその中域か高域に使うことだ。エネルギー的に大きな中低域両域は、現在の水準からして最低100Wを必要とする、というのが私の持論であって理想としては、低域を同社のM3、中域をM4、高域をこのM22というラインアップを組むことである。パイオニアもこれを考えてか、ちゃんと、この20番シリーズでは、クロスオーバー・ネットワークD23を同時に用意して発売しているのである。この本質をわきまえて、この一連のハイ・クォリティー・アンプを活しきったら素晴しい装置が構成し得るであろう。

パイオニア C-21, M-22

岩崎千明

ジャズランド 7月号(1976年6月発行)

 高級パワーアンフが海外製、国産合わせて40機種あまりも市場にあって、互いにその高性能ぶりを競いあっている。そのメーカーにとって最高の位置に存在すべきより抜きの製品の中で、製品としてもっとも成功したのが、パイオニアの特級ブランド「エクスクルーシヴ」の名を冠したM4であることは、よく知られる。
 Aクラス・アンプM4は、海外製のもっとも優れた製品と比較しても、なおそれをしのぐ。アンプをM4に換えれば、音質の差として、聴くものにはっきりと違いを感じとることができるは無論だが、それが品の良いスッキリした響きとして誰でもが質的な向上を知らされるはずだ。
 ただM4はあまりにも高価だ。35万という価格は一般的オーディオ・ファンにとって決して容易ではない。50/50ワットの規格出力のことになると、単位出力当り、世界でもっとも高価なアンプといってよいが、最高を望むにはこれくらいの出費を覚悟しなければならないのだろうか。M4を作った当事者たるパイオニアがそのひとつの解答を与えてくれた。
 Aクラス・アンプM22がその答えだ。価格12万、出力30/30ワットで、M4と変わらぬ高品質のサウンドを与えられたアンプだ。M4の3分の1の価格で6割の出力となると、ざっと計算して、このM22はM4に較べて2倍の価値を持つことになる。
 M4を欲しくても持ってなかったファンがM22に期待し注目するのも当然だといえよう。
 M4が大型のアンプ・ケースに収められたごく標準的な箱型であるのに対し、このM22は昔ながらの、パワーアンプ然として、平なシャーシーの上に中央にトランスを、左右に大きな放熱器を配した、マニアの自作するアンプのようだが、全体はかなり大型でありながら、ごく薄く、いかにも現代的な製品だ。鋳物で造られた軽金属のヒートシンカーはシャーシー上の2分の1を占めて、M22の外観の大きな特徴をなしている。
 Aクラス・アンプとしての動作が、あらゆる意味でM4の特長であるのと同様に、M22においても「Aクラス・アンプである」ということがそのすべてだ。
 Aクラス動作の大きな特徴は、極めて大きな電流をパワー・トランジスタに流すということによってもたらされる高熱発生を前提とすることである。M4の場合は低速回転の放熱ファンによってこれに対処したが、コストを抑えたM22では先程述べた大型の放熱器がこれを受けもつ。つまりM22の特長のすべては外観同様、この放熱器に象徴されるともいえそうだ。
 Aクラス・アンプがオーディオ再生になぜこれほどの優秀性を発揮するかの解析は難しく、現代の技術をもってしても詳かではない。しかし、Aクラス・アンプで優れた設計をなされたアンプは、間違いなくベストな再生を約束するはずだ。
 もし本当にクォリティ本位の選択をするなを、M4あるいはその弟分たるM22を選ぶのに何のためらいもあるはずがない。

 M22とペアになるべきプリアンプがC21だ。プリアンプといっても、それは従来の常識的なプリアンプではなくて、その一部のフォノ・イコライザー回路を独立させ、それに音量調節用ボリューム回路を加えたものだ。だから回路的にトーンコントロールもなく極めてシンプルであり、従ってそれを収めるべきスペースも大きくとる必要はないし、そのフロント・パネルはつまみが極端に少いので小さい面積で済む。
 そうしたC21の基本的特長をズバリ、全体のプロポーションで表明せんとするかの如く、C21はごく薄い形にまとめられている。この特長的な薄型は、だから商品アピールというよりも、本質的な内容を象徴するわけなのだ。
 なぜ、こうした単純化を極度に推進したかというと、「入力信号の純粋性を大切にする」ためだ。今日のように高級アンプはすべての面で充実させようという「万能志向」が、実はその本質を見落してしまう根拠になっていたが、この事実はもう早くから気付いていて、この三年来、高級プリアンプにおいて単純化を求める模索が続けられ、例えば海外製の一部、マークレビンソンのプリアンプなどに成果がみられた。
 パイオニアC21もこうした点を追求して得られたひとつの結果なのである。海外製の価格の上では10倍近い製品と較べても、SNの点ではるかに勝るというべき驚くべきフリアンプがこのC21だ。
 C21はプリアンプの常識的機能をすべて取り去ったマイナスを考慮したとしても、より大きい成果をも生みだした。それは極限まで高められたSN、驚異的低歪率、信号回路の単純化による波形的損失の徹底的な追放等々である。しかし、こうしたデータの上に認められる向上だけを認識するのでは、C21の真の素晴しさを知るには物足りない。
 やはり、C21の良さはそれを優れたパーツで構成されたオーディオ・システムの中に置いて、音楽を演奏したときにはじめてはっきりと体験することができよう。
 それ以外の方法は目下ないのである。

Lo-D HMA-8300

井上卓也

ステレオサウンド 39号(1976年6月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 パワーアンプがハイパワー化するにしたがって、消費電力は飛躍的に大きくなり、100W+100Wクラスでも、ピーク時には、1kWに近い場合がある。
 HMA−8300は、一般的にパワーアンプで使うB級増幅より、さらに電力変換効率が高いE級増幅を採用した200W+200Wのハイパワーアンプである。ローディーで開発されたE級増幅は、音楽信号の平均レベルとピークレベルの分布を調べた結果から、100Wのアンプを例にとると平均出力は約8Wであり、25W以上のパワーを必要とする時間は、1・4%しかないことをベースとし、これに見合う高能率アンプとして考えられたものである。基本回路構成は、並列、または直列接続のパワー段で、平均レベルでは、低電圧電源を使うパワートランジスターが動作し、任意に選択可能なレベル以上の入力にたいしては、高電圧を使うパワートランジスターが切替わり動作するタイプである。この方式は、さらに電源の数を増やせば、B級が理論的に78・5%の効率をもつこととくらべ100%とすることも可能とのことだ。
 HMA−8300では、高低2組の±2電源を使い、低価格でハイパワーを得ている。レベルメーターは、感度切替なしの対数圧縮ピーク指示型で、8Ω負荷630Wまで直読可能である。付属機能には、15Hzのサブソニックフィルター、大容量型スピーカーリレーなどがある。

パイオニア C-21, M-22

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 パイオニアが驚くべきシリーズの新製品を出した。M−22パワーアンプ、C−21コントロールアンプ。それにディバイダーアンプも加わっている。最近流行の薄型プリアンプC−21は、内容の方もフォノイコライザー回路を独立させたもので、パネルにはボリュームコントロールのつまみが左右別々に出ているだけだ。つまり外観通りに簡略化された回路設計を基本として、その部品を最上級のものでかため、プリント回路のパターンも完成度の高いものだ。こうした傾向は信号の純粋性を保ち、歪をおさえSN比を究めるという基本姿勢をそのまま製品に反映させた点で、車でいうなら、走るために徹底したレーシングマシーンみたいなものだ。ひとつの目的にぴたりとねらいを定めて、他を一切排除した設計。アクセサリーや余分の回路、スイッチを省いた設計である。だからC−21のSNは驚くほどで、例のマークレビンソンのプリアンプを上まわるほど優れている。歪特性も同様だ。最新の設計思想で貫かれているのだ。
 個の思想がオーディオに入ってきたのは、まだ最近の1年程度だが、パイオニアのようなもっともポピュラーと見做されていたメーカーから、こうしたハードな姿勢の製品がシリーズ20として出されたことは注目に価しよう。驚くべきことだ。M−22はC−21と同様に、質的な良さを純粋に求め、製品化したわけだ。つまりエクスクルーシブシリーズ中、もっとも好評のM4をそのまま、ひとまわりパワーダウンして価格を1/3に下げて達した驚異的製品だ。30/30ワットという出力は、今日のハイパワー時代には逆行する小出力ぶりだ。ブックシェルフ型隆盛の今日の平均的なスピーカー商品に対して、M−22はその実力を発揮することはあるまい。しかしスピーカーが良質であって質的に高級であれば、必ず今までのアンプとは格段に質が高いことを知らされよう。M−22は、だから本当に良いものを求め、しかし余りあるほどの資力のないマニアにとって、この上ないアンプとなるに違いない。このシリーズにディバイディングアンプが加えられており、M−22を中高音用にも使えるのは+αだ。

GAS Ampzilla

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 米国の新進アンプ・メーカーにグレート・アメリカン・サウンド社という特異な高級製品を作るメーカーがある。いかにも大げさな社名だが、作るアンプの製品名が「アンプジラ」。まるでゴジラみたいなアンプだが、’76年中には出力300ワットの物すごいのを作るといい、その名はズバリ「ゴジラ」。特異な体質のメーカーという理由は、こうした名づけ方からも推察されるのだが、こんな名前をつけられた製品は、どんなにかハッタリに満ちたものかといぶかしい眼でみられてしまうに違いない。特に日本のマニアのように、かなりまじめでオーソドックスな感覚の持ち主には、あまり好ましい先入観念は持てっこない。ところが、である。これらのどぎつい名前のアンプは、その名前からの印象とはまったく違って、きわめて正統的な設計をされ周到に作られており、そのサウンドもまた驚くほどすばらしいもだ。日本に入ってまだ半年も経たないのに、その優秀性がきわめて短時間に轟きわたり金にゆとりある高級ファンの間にちょっとしたブームさえまき起こしている。
 その中をみると、回路設計の簡潔なこと。使われている部品が重点的に最高品質を用いることに徹底している。アースは太い線ではなく、ぶ厚い銅帯を用い、ハンダ付けだけでなくボルト締めを重ねている。放熱には細心の留意をされ作られているが放熱版材料はぜいたくではない。さて、この「アンプジラ」を設計したボンジョルノ氏は多くの高級アンプを設計したキャリアもあり、初めて自尽のブランドで商品化しただけに最高を狙ったという。だがこのアンプは今回の選択から意識的に外した。理由は、間もなくより優れた設計のサーボ・ループ方式に変更されるといわれるからだ。現在、A級ドライバーを含むDCアンプだが、もっと良くなってからにしよう。ただ、アンプジラの持つ特長の数々は、現代アンプの技術的な象徴といえることは確かだ。

マランツ Model 510M

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 わが家には、いつでもスイッチさえ入れれば動作してくれるアンプが何台もあって、その多くは何んらかのスピーカー・システムが接続されている。スイッチさえ入れ、プリアンプをつないでボリュームを上げれば、すぐ音が出る。ところで、こうしたアンプのうちで、もっともスイッチを入れるチャンスの多いのはマランツのモデル2というパワーアンプだ。これは6CA7というフィリップス系のパワー管のプッシュプル接続パワー段で40ワット出力のモノーラルアンプであって、後にこれを2台結合して同じ寸法のシャーシーに収めるため出力トランスを少々小さくして35W/35Wとしたのが、有名なステレオ用モデル8Bである。さて、この管球アンプは多くの管球アンプ海外製品の中でも、もっとも音の良いアンプだ。堂々たる量感あふれるこの低音は、一度聴くと手離せなくなる。これに匹敵する製品はいくら探しても見当らず、マッキントッシュのアンプですら、300/300Wの超出力MC2300以外ない。
 永い間、このアンプに相当するものがなくて、これに近いのが同じマランツが昔作ったソリッドステートのモデル15とそのパワーアップ型、モデル16であった。モデル15の方が、かなりおとなしい中音でオーソドックスなマニア好みはするだろう。共に低音の力強さはマランツ独特のものだ。特にモデル16は今日的な意味でのクリアーな透明感があって、ある意味ではモデル2よりも好みの音である。パワー80/80が、あとから100/100ワットにパワーアップされたとはいえ、現代のアンプとしては少々力不足はいなめない。音マイク録音のすさまじい立上がりの最新録音では、クリアーな音も越しくだけになってしまうのだ。
 マランツの最新型510Mは265/265Wの超出力で、その割にコンパクトなサイズ。それは100/100ワットのモデル16の50%増程度、重量も2倍ぐらいなものだ。クォリティーは、まさにモデル16をはるかに上まわる電気特性で、より透明で鮮明なサウンドがいかにも最新型だ。

テクニクス SE-9060 (60A), SU-9070 (70A)

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 2年ほど前から、米国の新しい小さな電子メーカー、マークレビンソンのプリアンプの優秀性が話題となっている。プリアンプといっても、フォノイコライザー回路を独立させて、それに左右独立の音量調整用ボリュームをつけた形の、純粋にディスク再生のための文字通りのプリ(補助)アンプであって、トーンコントロールやフィルターさえ付いていないが、雑音発生量が極度に抑えられていて、いわゆるSN比は今までの常識よりはるかによい。そのために小さなレベルでの再生がきわだってクリアーでスッキリしている。こまやかなニュアンスもよく出る。こうした点が、高級マニアの注目するところとなった。ただ、あまりに高価で、VUメーターのついたのが90万円を軽く越し、メーターなしの超薄型のでも50万円を越すという驚くほどの価格だ。誰にでも買えるものではないが、この高価格なのが又、新たな話題となって、ますます注目されるという2重のプラス(?)を生んでいる。ただし、うまい商品であるし、商売でもあろう。
 商品としての巧妙さは、また逆にその裏をかかれることにもなるが、持ち前の電子技術を誇る日本のメーカーが黙ってみているはずがない。この半年に、マークレビンソンのフォノイコライザー・アンプを狙った製品がいくつか出てきた。その一番バッターがテクニクスの70Aだ。外観的にはよく似たアンプで、SNもかなりよく、性能的にはテープモニターを2系統プラスしている。音の方も、より暖か味ある日本のマニア好みの音だ。肝腎のSNの点で、もう一歩という所だが、7万円という価格からは止むを得ないのだろう。プリント回路の質的な面で、もう少し良ければなあと望むのは欲ばりすぎかも知れないが、パワーアンプ60Aの出来具合のすばらしさにくらべて、プリの内側はちょっと淋しい。パワーアンプ60Aは、8万円という価格の中で外観、内容とももっともユニークかつ魅力を持ったアイディアと個性にあふれた製品だ。組合わせて聴くと、おとなしい音は大人のマニア向けという感じで生々しく、自然な響きが質の高さを示す。

QUAD 33, 303

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 このアンプだけは、他のものと違って少々くつろいだ選択基準にのっとっている。つまり、朝に夕に、息を抜いたひとときに気軽にスイッチを入れてレコードを楽しむためのアンプとでもいえようか。特に、そうしたときに「音に対決する」といった息づまるような聴き方でなく、音楽を楽しめるコンデンサー・スピーカーを選んで、これを実用的に鳴らすことを考慮した時に必ず浮上するのが英国のアコースティック・インダストリー・マヌファクチャー社のコンデンサー・スピーカーQUAD(クォード)ESLであり、それをドライブするためのアンプとしてのクォード・トランジスタ・プリアンプ33、パワーアンプ303なのだ。
 ごく一般的な音楽の高級ファンの場合「永く聴いても疲れることのない装置」が強く望まれるものだ。QUADのシステムはこうした要求にぴったりであろう。聴く位置は固定されるが音像の確かさもすばらしいし、その品質は価格からは想像できない。まして最近のポンド下落の折で、日本での価格はこれからも高くなることはあるまい。
 クォードのアンプとして、オーディオマニアであれば、管球式のステレオ用プリアンプ・モデル22とパワーアンプ・モデル2を2台というのが、いつわらざる本音だろうし、今日、やや骨董的な価値も出てきて、マニアであればあるほど大いに気になるアンプであろう。
 ただ、今ではこれを探すのは労多く、価格的に割高のはずだ。トランジスターで間に合わせようというわけではないが、303と33でもいい。内容を見れば米国製の同価格の製品とくらべてみるとよく判ろうが、驚くほど綿密に、精緻に作られ、まるで高級測定器なみだ。プリント板の差換えでフォノイコライザーやテープイコライザーを変えられるようになっている所もいい。アンプの再生クォリティーは、今日の水準からは決して優れているというわけではないが、しかしESLを鳴らすには、この303の出力は手頃だし、最新パワーアンプ100/100ワットの405のお世話になることもあるまい。価格対内容では世界有数の製品だ。

パイオニア Exclusive M4

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 良いアンプとは、いったいなんだろう。「良い」という意味は多くある。電気的特性の良さはアンプにとって最低条件だとよくいわれる。電気的特性が良くないのでは、良い音がするわけないともいわれる。しかし、逆に良い音のアンプなのに電気的特性は現代の最新普及価格帯の総合アンプに劣るものもある。いや最近の5万円台のアンプは歪0.1%を下まわり、海外製のひとけた上の優秀なアンプよりも性能表示は優れている。しかし、音は必ずしも電気的特性に伴わない。今日のアンプの音が悪いというわけではないが、電気諸特性がずっと良いのに音を聴くと大したことないのも少なくないのである。
 ところで、こうして記していると結論が出なくなってしまいそうだが、ただアンプをみつめるのでなくて、スピーカーを接続して初めてシステムとして動作することに目をつけて、スピーカーの方から逆に見た方がよいのではないかと思われる。つまりスピーカーをよく鳴らすことが、よいアンプの条件として判断しようというわけだ。
 ところで、アンプ以上に良い悪いの判断が難しいのがスピーカーだが、高価な高級品ほどよく鳴らすのがむずかしいものである。わが家には昔作られた、昔の価格で1000ドル級の海外製高級システムから、今日3000ドルもする超大型システムまで、いくつもの大型スピーカーシステムがある。こうした大型システムは中々いい音で鳴ってくれない。トーンコントロールをあれこれ動かしたり、スピーカーの位置を変えたり。ところが、不思議なのは本当に優れた良いアンプで鳴らすと、ぴたりと良くなる。この良いアンプの筆頭がパイオニアのM4だ。このアンプをつなぐと本当に生まれかわったように深々とした落ちつきと風格のある音で、どんなスピーカーも鳴ってくれる。その違いは、高級スピーカーほど著しくどうにも鳴らなかったのが俄然すばらしく鳴る。昔の管球式であるものは、こうした良いアンプだが、現代の製品で求めるとしたらM4だ。A級アンプがなぜ良いか判らないが、M4だけは確かにずばぬけて良い。

デンオン PRA-1000B, POA-1000B

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 デンオンはこの数年来、高級プリメインアンプでもっとも成功しているブランドだ。昨今話題となっているステレオ右、左のクロストーク特性においても、製品の新型に2電源トランスを用いてアピールしている他のメーカーのような処置は何んらとっていないのだが、実際にはデンオン・ブランドのプリメインアンプのクロストーク特性ほど優れて、2電源の他社製をはるかにしのぐ。ステレオ初期から「ステレオ」用としての基本特性である左右セパレーションを重視しているから当り前であって、何をいまさらというのが、デンオンを作る日本コロムビアのメーカー側の言い分だ。当然である。
 コロムビアの昔の製品に「ステレオ・ブレンド・コントロール」というつまみが付いていたが、左右を混ぜてステレオからモノーラルの間を可変にし、2つのスピーカーの間の拡がりを変えているわけだが、こうしたステレオコントロールを付けるには、始めからステレオのクロストークを十分良くしておかなければならず、それがデンオンアンプのステレオ用としての優秀性を築いてきたのだろう。
 このように基本特性の優秀性はデータの上にはすぐ出てこないけれど、本当のアンプの良さを示すものといえよう。話題になって初めて、ある部分がクローズアップされる。本当に良い製品は、こうした部分的な面が解析されると、すでに手を打ってあって、いつの時代でも優秀性がくずれない。デンオンの新しい管球アンプ1000シリーズは、管球という昔ながらのディバイスを再認識して現代の技術で作り上げた高級品といわれる。つまり、トランジスタ技術を活用した新しい時代の管球アンプなのである。
 だから6GB8という超高性能高能率パワー管を採用し、100ワットという驚くべき出力をとり出し、しかも最新トランジスタアンプ並みの高い電気的特性を保っているだろう。その音は、無機的といるほど透明感があふれ、常識的な管球アンプの生あたたかい音では決してない。プリアンプを含め、いかにもフラット特性の無歪の道のサウンドスペースを創っているといえそうだ。

アキュフェーズ M-60

岩崎千明

サウンド No.7(1976年発行)
「岩崎千明のグレート・ハンティング これだけは持ちたいコンポ・ベスト8(アンプ編)」より

 ケンソニックは、トリオのトップクラスの技術者がグループを作って始めた新進メーカーだ。高級品を選んで作るという姿勢がとても好ましく、いかにもハイファイメーカーとしての基本姿勢そのものをメーカーの体臭として感じとれる。最新に作った製品P−300を始め、すべてのパワーアンプ、プリアンプがすべて海外市場で最高の賛辞を受けた実力ぶりも高く評価できる。特に日本での高級アンプが、価格的にベラボーな高価格が多かった2年前の初期から、他社とは違って実質的価格を打ち出しており、これがまたハッタリのない実力を感じさせるゆえんだ。それというのも、ケンソニックは当初から海外市場を大きなマーケットとしてこそ成り立つことを考えていたためであろう。価格的に、日本市場で極端な割高な海外製品の価格を相手とせず、その本国での価格、つまり実質価格を相手として、ケンソニックのすべての製品価格の基準としている。この辺が内容にふさわしく、海外ライバル製品に対してはるかに割安で、高級製品としても高い商品価値をそなえている理由だ。
 ケンソニックの最新製品はM60と呼ばれる300ワットのモノラルアンプだ。1台28万円、従ってステレオで56万円となるが、300Wのステレオ用となると製品は海外製を見わたしても多くない。マッキントッシュMC2300を始めSAEの2500、マランツ510など250ワット・ステレオが多い。国内製品でもラックスのM6000が唯一で、山水BA5000も250ワット・ステレオだ。M60は、だから300ワットのステレオ用でも、これでももっとも低価格アンプということになる。M60はこうした大出力なのに、驚くほど静かな音が特長だ。静かといっても、一たんボリュームを上げるとフォルテでは床を鳴らし、家をゆるがせるだけのすごいエネルギーを出せるのは、もちろんだ。しかし普段は、これで300ワットかと思うほど静かなのである。とても自然でその音はナイーブですらある。ちょっと女性的なほどだ。しかし、その芯はむろんケンソニックのすべてのアンプのように、ガッチリした力強い筋金入りで、それはここぞというときにのみ、頭をもたげるのだ。

ダイヤトーン DA-P10 + DA-A15

菅野沖彦

スイングジャーナル 6月号(1976年5月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 ダイヤトーンのアンプにかける惰熱がありありとわかる新製品が登場した。今月発売された一連のセパレート・アンプ・シリーズである。プリアンプ2機種とパワー・アンプ3機種が同時に発表されたが、いずれもひとつの明確な思想のもとに開発されたオリジナリティーをもったアンプである。中でも高級機が、今月の選定新製品になったDA−P10プリアンプと、DA−A15パワー・アンプである。このシリーズのアンプでまず目をひくのは、プリ・アンプとパワー・アンプを1台のインテグラル・アンプとしてカップリングできる構造をとったアイデアである。これは今迄、ちょっと考えつかなかった発想ではなかろうか。セパレート・アンプとしての純粋な形からすれば、わざわざカップリングさせるとは余計な考え過ぎという見方もできなくはないが、スペースに制限がある場合、こういう使い方ができるようになっていることはありがたい。しかも、そのドッキング機構もシンプルで確実だし、デザイン的にも、いかにもたくましいインテグラル・アンプの魅力たっぷりな姿が実現する。シャーシ・パネル構造は大変がっちりした頼もしいもので信頼感に、溢れている。
外観が先になってしまったが、肝腎の中身のほうも、セパレート・アンプとしての必然性を十分保証する密度の高いもので、DA−P10もDA−A15も、完全なモノーラル・コンストラクションを採用した本格的な高級アンプなのだ。このコンストラクションにより、従来見逃されていたクロストークの害からほとんど理想的に逃れることを可能にしているのである。両チャンネル間のダイナミックな動作状態においては、クロストークは、単にセバレーション、音像定位などに悪影響を与えるのみならず、歪による音質劣化という現象としての害をダイヤトーンは徹底的に追求したというが、たしかに、このような完全モーラル・コンストラクションによるアンプの音と従来のステレオ・コンストラクション(ただ電源が2台あるだけでは不十分の場合もあり、電源が1つでも急所を抑え余裕のあるものの場合は意外に好結果が得られる)と聴き比べて、臨場感や音像の安定感の差は瀝然なのである。筆者は、2台のステレオ・アンプを使って、この差を確認しているが、それは全体的な音質の差という聴感的な認識をもたらすほどだった。その昔、マランツがモノーラル・アンプを2台カップリングしたアンプを発売していたが、その頃、ステレオといえども、この方式に大きなメリットのあることを某社のエンジニアに話しをしたが全くとり合ってもらえなかったことを思い起こすにつけ、アンプも進歩したものだ? という妙な感慨をもったものだ。薄紙をはぐように、紙一重の音質の向上に、大切なお金と貴重な時間をさいている我々アマチュア精神の持ち主が考えることなど、いちいち聞いてもらえないのも当然だと思っていたものなのだが、最近のようにメーカーが本格的に、こうした地道な基本に目を向け、その成果を定量的なデーターとしても明らかにしてくれることは喜びにたえないのである。
 ところで、このアンプ、いくらモノーラル・コンストラクションがいいといっても、それが全てでは勿論ないし先にも書いたように、ステレオ・コンストラクションでもいいアンプはたくさんあるのだが、音質のほうも、なかなかすばらしい。特にDA−A15パワー・アンプが素晴らしい。差動2段、カレントミー・ドライブ、3段ダーリントンによるピュア・コンプリメンタリー・サーキットは余裕のある安定した電源から150W×2(8Ω)の出力を引き出す。音に深味があって、しかも解像力のよい鋭い切れ込みをきかせる。高域も決してやせないし肉がつく。これに対してDA−P10のプリ・アンプのほうが、やや声域がハーシュに響く。ダイヤトーン独特の高域の華やぎといえるが、筆者にはこれが気になる。高域はもっとしっとり、繊細さと鋭さが豊かさと肉付きを犠牲にしてはならないと思うのだ。これで、そういうニュアンスが再生されたら、倍の値段でも高いとは思えない定価がさらにこの商品の可能性と魅力を高めているのである。
 情熱に裏付けられた、よほどの販売自信がなければ、この品物をこの値段で売ることはできないのではないかと思うほどの価値をもったアンプだ。

ヤマハ C-2, B-2

岩崎千明

スイングジャーナル 4月号(1976年3月発行)
「SJ選定新製品試聴記」より

 市場の数ある高級セパレート・アンプの中で高い評価を得たひとつにヤマハCIとBIのペアを上げるのは妥当であろう。V−FETという現代的なデバイスを基にした技術がアピールされたパワー・アンプBI。至れりつくせりのフル機能の内側をそのままのパネル、デザインの豪華にして、ぜいたくなプリ・アンプCI。ともに「豪華型」において、ひとつのはっきりした特長をズバリと明確にし、ユーザーにポイントをはっきりと把握させることができた点がひときわぬき出た成功の源動力となったといえよう。それというのもこれだけ大きく取り上げて謳い上げ得る特長を持ち、それを外観的デザインに完成させた。
 ところで、こうしたBI、CIの初期段階での華麗なる成功があっただけに次なる豪華型アンプはひどくむつかしくならざるを得ない。大スターのあとに続くスターは、前者を乗り越えなければ成功につながらない、という宿命を内蔵し、それが思い通りに事の運ばぬ大きな理由ともなるものだ。
 ヤマハのC2、B2は、こうした点でCI、BIよりもはるかに試練を受けるべき立場にある。CI、BIの成功が大きければ大きいほど、こうした宿命ともいうべきものを背負ってしまうということになるのである。
 C2、B2はこうした背景のもとに早くから多くの関係者から強く期待され、その期待は時とともに高まった。
 そのヤマハのC2、B2がやっと姿をあらわした。
 ごく一部に片鱗が伝えられていた通りに、C2はCIとはすべての点で、まったく違っている。フル機能ともいい得るほど、考えられるすべての使用用途に応じられるスイッチ類や、コントロール類を盛り込んだCIに対して、C2はすべての点で簡略化されている。外観的にも、C2は高さ8センチにも満たない超薄型の形態にまとめられて、デザイン以上に構造上からもユニークだ。
 プレイヤーがそのまま乗りそうな大きな上面パネルは、側面と一体で全体の強度の中心となっていて、分厚いダイキャストの引きぬきだ。
 全体は上品な艶消しの黒で仕上げられでいるが、ともすると重い感じに陥りがちなこのイマージュを、ケースの縁との断ち落されたようなシャープなラインが外側を囲むように包んでいて、この鮮かなカットが現代的な感覚を強めているため、全体としてスッキリとした格調の高いイメージを強く訴えている。
 裏ぶたを取ると単純化された回路ブロックごとに整然とした配列が、大きなプリント基板の上に見られ、その細かなパーツは整然と並んで僅かの乱れもみせない。回路の部品点数こそ多くないが、そのひとつひとつが大変高い精度であることは、パーツの外観からも確かめられる。数少ないスイッチやコントロール・ボリュームも密閉式であったり、スイッチの接点の金属の輝きにも厳選された高級品としての格調がはっきりと認められるのも、ヤマハの超高級アンプらしい。
 こうした細かいひとつひとつの積重ね、集積がその全体のサウンドの上にも如実に表われているのは響きの澄んだ冴え方から判断できる。
 単純化イコール純粋というパターンの典型が、このC2のすべてでもある。アンプの電子回路的な見地からもパーツからの視点でも、さらにその創り出すサウンドの世界からもこのパターンをはっきりと聴くものに知らされるのだ。CIとの比較試聴がこの特長をひときわきわだたせる。つまり、CIが至れり尽せりの回路の完全性で、非のうちどころのないサウンドとして我々を驚かせるのに対して、C2は自然感そのもの、ナチュラルな響きと素っ気ないまでの素直なことこのうえないスッキリした再生ぶりだ。すっかり賛肉を取去ったこのC2こそ、まさに現代ハイファイが求める音の方向なのだ。
 C2に多くを語ったためB2へのスペースが少なくなってしまったが、そのV−FET出力回路の技術はBIからの直系のもので、特に中出力(といっても100W十100W)の実用的高出力でゆとりをもって鳴らすさまは、BIと置きかえても羞を感じさせないほどの再生クォリティーといってよかろう。
 願わくは、この日本の誇る豪華型アンプがより多くの方の耳にいっときも早く達することを。

ラックス M-2000

井上卓也

ステレオサウンド 38号(1976年3月発行)
「SOUND QUARTERLY 話題の国内・海外新製品を聴く」より

 この新製品はM−6000、M−4000と続いて発表されてた一連のハイパワーアンプに続く、第3のパワーアンプであり、基本とする設計思想もまったく同様なものである。発表された規格も、M−4000と比較してパワーが120W×2であることを除いてほぼ同等であり、外観上も棚などに置かれてあると区別はつきがたい。ただ、外形寸法上で奥行きが、11・5cm短いのが両者の大きな違いといえよう。
 回路構成は、差動2段の全段直結コンプリメンタリーOCLで、出力段のパワートランジスターは、並列接続のパラレル・プッシュプル構成である。入力回路には単独のエミッターフォロワーがある。電源部は左右チャンネルの出力段用に別系統の電源が用意され、2個の2電源用電解コンデンサーを使用している。ドライバー段を含む他の増幅段用には、定電圧電源からの電圧が供給されている。
 フロントパネルにある2個のレベルセット用ボリュウムは、1dBステップのディテント型で、とくにチャンネルアンプなどに使う場合には好ましいものだ。付属回路には、LED表示のピークインジケーター、平均レベル表示のVUメーターと0dB〜10dBのメーター感度切替スイッチがある。
 M−2000は、M−4000にくらべると全体にひかえめな印象の音である。しかし音の粒子は細やかなタイプで、ローレベルの音が美しい。これをC−1010と組合わせると、音に活気が加わりスッキリとした爽やかな音になるのが印象的である。直接、C−1000とは比較しないが、C−1010のほうが明るくフレッシュな音をもつように思われる。