井上卓也
オルトフォンのすべて(ステレオサウンド別冊・1994年2月発行)
「私とオルトフォン」より
非常に個人的な独断と偏見で言えば、オルトフォンはSPUであり、それ以外の何物でもない。
Stereo Pick Upという単純明解なモデルナンバーがつけられたこのモデルは、記録によれば、1959年の開発とのことであるが、最近のように世界の情報が瞬時に日本でも知れる時代と異なる当時では、非常に貴重な情報源であった内外のオーディオ誌で見たことはあっても、それが何であるかは皆目わからず、現実に聴くことができたのは、’60年代に入って数年後であったと思う。
そのころ一部の国内のハイエンドマニアのなかにデンマークにオルトフォンありきとのニュースが伝わり、台湾のハイエンドマニアから、書籍の内部をくりぬいてSPUを収め、密かに輸入する人が現われ、それが想像を超えて驚異的に素晴らしいという。そして、当時の田村町(現在は西新橋と地名が変ったが)の一隅にあった、YL音響の吉村氏の事務所において、SPUと初めて出合ったのである。
吉村氏は幻のホーンドライバー、ウェスタン555を復元しコンシューマー用としてYL555を開発した方で、モノーラル時代に夢の高域ユニットであったYLのH18を使って以来の知り合いである。そこで聴いた、中域以上を3〜4ウェイ構成とするスピーカーシステムとSPUの組合せは、じつに単純な記憶ではあるが、いっさいのビリツキなくレコードを再生するSPUのトレース能力の偉大さに驚嘆し、アッ気にとられたこと以外には、おぼろげな音の姿、形しかおぼえていない。そのときの昇庄トランスは、2次巻線のインピーダンスが、200Ω〜200kΩまで数種用意されており、スタンダードの20kΩで聴いた。また、昇圧比の低い200Ωに最大の魅力があり、200kΩにCR素子を組み合せAUX入力にダイレクトにつなぐ使い方も興味深いという話も聞かされた。
オーソドックスなクォリティ最優先の使い方では、200Ω型の昇圧トランスは最適にちがいないが、当時のステレオプリアンプのSN比では実用にならず、このあたりを軽くクリアーしたのは、マランツ♯7が入手手きるようになってからのことである。
いずれにせよ、現実に入手できるような価格でもなく、プログラムソースのステレオLPさえ買うことが容易ではない時代のことで、まさしく夢のカートリッジSPUであった。
SPUの詳細を自分なりに納得のいくレベルで知ったのは、偶然のことから、当時代々木上原の近くにあったオーディオテクニカの試聴室の仕事をしてからのことである。
そこでは、SPU・G、RMG309、20kΩ型昇圧トランスをリファレンスシステムとして、マランツ♯7プリアンプと組み合わせ、パワーアンプは、サンスイQ35−35、これに加藤研究所の糸ドライブターンテーブルと3ウェイホーン型スピーカー、サブにダイヤトーン2S208というラインナップで、当然、オーディオテクニカの各種製品は常時試聴できるようになっていた。ここで約3年間、SPUにつきあっている間に、SPUタイプのカートリッジをつくったり、この発展型にトライ、さらに、カンチレバーレスMC型へアブローチしてみたり、また逆に、MM、MI型の一種独特の心地よい曖昧さのある音にも魅惑され、しばらくは、ある種のクラシック系の音楽専用にしか、SPUを使わない時期がかなり長くあったように思う。
SPUはたしかに独特の魅力的な音をもっているものの、当時の製品は、カンチレバーとスタイラス接合部の工作精度が悪く、いわばカンチレバーにスタイラスチップが串刺し状に取りつけられ、そのうえ取りつけ角度がまちまちで、少なくとも、数個のSPUからルーペで確認して選択しなければならなかった。しかも選択したモデルであっても、使い始めは音が固く、かなり使いこんでよく鳴りだしたら短時間に劣化する傾向があるため、よく鳴りだしたらつぎのSPUを購入し、エージングしておく必要があるという、いまや伝説的となった、SPUファンならではの悩みをもっていた。このことは、趣味としてはかけがえのない魅力でもあるが、この安定度のなさは、ストレスにもなり、SPUアレルギーにもなる原因で、個人的にもSPUをメインに使わなくなった最大の原因である。
ちなみに、1987年のオルトフォンジャパン設立以後は、この部分の工作精度は格段に改善され、最近ではルーペでチェックする必要もなくなった。
一時期は、工作精度と使い難さに加えて、SPU独特の曖昧さのある音が、トランスデューサーとしてふさわしからぬものと感じられ、それもSPUと疎遠になった要因であった。しかし、圧倒的な物理特性を誇るCDでも、音楽を楽しむためのプログラムソースとして、いまだ未完の状態であることを経験すると、アナログディスクの、音溝とスタイラスチップの奇妙で不思議なフレキシビリティのある接触からくる、大変に心地よい一種のゆらぎ感や、エンベロープをほどよく描きながら一種の曖昧さで内容を色濃く伝え、音楽を安心して聴けるところが、また一段と楽しいものとなった。それを究極的に伝えてくれるのがSPUで、ふたたびSPUを使う頻度は、格段に多くなっている。この、ある種の輪廻的な感覚は、かなり興味深い。アナログディスクの、聴感上のSN比が高く、音楽にまとわりつかぬノイズの質のよさは、非常にオーディオ的な世界なのである。
SPU系の項点には、開発者ロバート・グッドマンセン氏が、生涯最高の傑作と自負するSPUマイスターが限定発売され、たしかに納得させられるだけの見事な基本状態と音を聴かせてくれるが、個人的には、もっともクラシカルでプリミティヴな、SPUクラシックに心ひかれる昨今である。
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