私のアルテック観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・アルテック」
「私のアルテック観」より

 アルテックについての忘れられない想い出から書こう。ただそれが昭和三十年代早々ではあったが、いつのことかその辺の正確な記憶はひどくあやしい。
 私はまだ嘴の黄色い若造で、オーディオ界の諸先輩に教えを乞う毎日だった。そんなある日、最も私淑していた池田圭先生に連れられて、当時ユニークな設計で優秀なクリスタル・ピックアップなどを作っていた日本電気文化工業株式会社(DBという商標を使っていた)の味生(みのお)勝氏に紹介して頂くため、雪谷ヶ大塚かそれとも洗足池の近くだったか、とにかく池上線沿線の中原街道ぎわにあった、DBの会社を訪問した。
 まだ工業デザインの本格的な勉強をはじめる以前のことで、しかし若さからくる無鉄砲と世間知らずとで、それまで勤めていたある雑誌社をとび出して、フリーの工業デザイナーを気どってはみたものの、その実仕事をくれる人などありはせず、結局のところ雑誌のカット書きや版下作りなどしながら、素寒貧の暮しをしていた。
 そんな私を見ていられなかったのか、池田先生が味生氏に、この男に何かデザインさせてやってくれないかと、紹介してくださったのだ。
 味生勝氏はアメリカで勉強し向こうで生活しておられたという技術者で、眼光鋭い洗練された紳士だったが、当時の私の、やせて顔色の青ざめた、おどおどした態度の青二才に、まともなデザインのできる筈などないことは誰の目にも明らかで、結局デザインの話などはほとんど出なかったのだが、その晩、池田先生と私を自宅に招いてくださった。そこにあったのが802Cドライバーと811Bホーンだった。
 味生氏の重厚な応接室(といっても実際は味生氏のいたずら部屋であることは一見してわかった)には、そアルテックと、ウーファーがグッドマンのAXIOM150の2ウェイシステムが置かれてあった。ステレオ以前の話である。
 スピーカーは、当時まだ珍しかった高・低2系統のデュアルチャンネル・アンプでドライヴされていた。アンプのことはよく憶えていないが、味生氏製作の6V6PPか何かだったろう。
 ピックアップも、当時としては珍しい(そのときはじめて実物を目にした)シュアの〝スタディオダイネティック〟というモデルで、先細りのスマートな黒い角パイプの先端に、のちに松下電器がWM28というピックアップで国産化したものの原型ともモノーラルのMM型カートリッジがついていて、たしか2~3グラムくらいの針圧(8グラム近辺でも軽針圧と呼んだ当時としては驚異的な軽針圧だ)で動作したと思う。ちに、ステレオ化されて〝スタディオ・ダイネティック〟が〝ステレオ・ダイネティック〟と変わったが、そのカートリッジが単体で市販され、M3Dの名でステレオ用のMMカートリッジのいわば元祖となり、シュアの名をこんにちのように有名にするきっかけを作った(この話は、いずれ出るであろう本誌シュア号のためにとっておくべきであったかもしれない)。
 そこで再びアルテックだが、味生氏の音を聴くまでは、アルテックでまともな音を聴いたことがなかった。アルテックばかりではない。当時愛読していた「ラジオ技術」(オーディオ専門誌というのはまだなくて、技術専門誌かレコード誌にオーディオ記事が載っていた時代。その中で「ラ技」は最もオーディオに力を入れていた)が、海外製品ことにアメリカ製のスピーカーに、概して否定的な態度をとっていたことが私自身にも伝染して、アメリカのスピーカーは、高価なばかりで繊細な美しい音は鳴らせないものだという誤った先入観を抱いていた。
 味生氏の操作でシュアのダイネティックが盤面をトレースして鳴り出した音は、そういう先入観を一瞬に吹き払った。実に味わいの深い滑らかな音だった。それまで聴いてきたさまざまな音の大半が、いかに素人細工の脆弱な、あるいは音楽のバランスを無視した電気技術者の、あるいは一人よがりのクセの強い音であったかを、思い知らされた。それくらい、味生邸のスピーカーシステムは、とびきり質の良い本ものの音がした。
 いまにして思えば、あの音は味生氏の教養と感覚に裏づけられた氏自身の音にほかならなかったわけだが、しかしグッドマンとアルテックの混合編成で、マルチアンプで、そこまでよくこなれた音に仕上げられた氏の技術の確かさにも、私は舌を巻いた。その少し前、会社から氏の運転される車に乗せて頂いたときも、お宅の前の狭い路地を、バックのままものすごいスピードで、ハンドルの切りかえもせずにグァーッとカーブを切って門の中にすべりこませたそれまで見たことのなかった見事な運転に、しばし唖然としたのだが、音を聴いてその驚きをもうひとつ重ねた形になった。
 使い手も素晴らしかったが、アルテックもそれに勝とも劣らず、見事に応えていた。以前聴いたクレデンザのあの響きが、より高忠実度で蘇っていた。最上の御馳走を堪能した気持で帰途についた。
     *
 ステレオ時代に入り、初期のデモンストレーションばかりの実験期も過ぎて、名演奏がレコードで聴けるようになったころ、当時は三日にあげず行き来していた山中敬三氏が、アルテックの802Dドライバーと511Bホーンをひと組入手された。彼も同じ「ラジオ技術」の愛読者として、海外製品に悪い先入観を植えつけられて、それまでは国産のホーンスピーカーを鳴らしていたが、私が話した味生邸での体験談も彼をアルテックに踏み切らせるきっかけのひとつであったようだ。そして確かに山中邸のステレオスピーカーは、それまでの国産とは別ものの本格的な音を鳴らしはじめた。国産の大型中音ホーンのためにぶち抜いた壁の穴が、その後長いこと、左右のスピーカーの中央に名残りを刻んでいた。
     *
 そうしてアルテックの良さを体験しながら、私自身はアルテックを買わなかった。欲しい、と思ったことはいく度かあったが、当時の私には手の出せる金額ではなかったし、そうこうするうち山中氏に先を越されてしまって、後塵を拝するのも何となく癪だったということもある。ししそれよりも、当時のアルテックのあのメタリック・グリーンの塗装の色や、ホーンの接ぎ目の溶接の跡もそのままのラフな仕上げが、どうしても自分の感覚にもうひとつしっくりこなかったということもある。昭和41年から約5年間ほど、604Eをオリジナルの612Aエンクロージュアごと(あの銀色のメタリックハンマートーン塗装は素敵だ)入手して聴いていたこともあるが、私にはアルテックの決して広いとはいえない周波数レンジや、独特の力と張りのある音質などが、とうも体質に合わなかったと思う。私の昔からのワイドレンジ指向と、どちらかといえばスリムでクールな音が好きな体質が、アルテックのファットでウォームなナロウレンジを次第に嫌うようになってしまった。
 しかし最近、モデル19を相当長時間聴く機会があって、周波数レンジが私としてもどうやら許容できる範囲まで広がってきたことを感じたが、それよりも、久々に聴く音の中に、暖かさに充ちた聴き手にやすらぎをおぼえさせるやさしさを聴きとって、あ、俺の音にはいつのまにかこの暖かさが薄れていたのだな、と気がついた。確信に満ちた暖かさというのか、角を矯めるのでない厳しさの中の優しさ。そういう音から、私はほんの少し遠のいていて、しかしそこが私のいまとても欲しい音でもある。おもしろいことにJBLが4343になってから、そういう感じを少しずつ鳴らしはじめた。私が、4341よりも4343の方を好ましく思いはじめたのも、たぶんそのためだろう。もっと齢をとったらもしかして私もアルテックの懐に飛び込めるのだろうか。それともやはり、私はいつまでも新しい音を追ってゆくのだろうか。

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