早瀬文雄
ステレオサウンド 93号(1989年12月発行)
「オブジェとしてのミュージックシステム」より
どれほど長い時間聴き続けても、演奏が終わったとたん、それがどんな音だったのか、うまく思い出せないようなオーディオ装置というものがある。
ぼくがその夜、久しぶりに聴いた彼の音がそうだった。まずいことは何もないはずなのに、あきらめきったように淡白な響きで演奏そのものまでが平面的になっているように感じられた。それは、ちょっとした気のせいだったのかもしれないが、それにしても彼の中で何かが変わりつつあることはたしかなようだった。
リスニングルームからダイニングルームへ移ると、調光器で柔らかく照らされた空間にコーヒーのいい香りが漂っていた。
キッチンから彼の細君が細い腕で重たそうにコーヒーポットを抱えて出てきた。彼女のことはぼくも学生時代からよく知っていた。ほっそりと背の高い、個性的な美人だ。二人は結婚してから、そろそろ一年になるはずだった。背後ではバッハの無伴奏チェロ組曲がとても小さな音でなっていた。不思議に部屋の隅々までよく広がる、古典的で素朴な響きだった。美味しいコーヒーが味覚を手厚くもてなしてくれてはいたが、ぼくの意識はすでに音楽そのものに奪われていた。それはあまりにも懐かしい演奏だったのだ。
サイドテーブルの横にあった棚の中に、ぼんやり紫色の光を発する円盤状の奇妙な物体が置いてあった。彼女は立ち上がると、その物体についていた小さなつまみをほっそりとした指でそっと触れた。
その瞬間、音楽がやんだ。
そんな風にして、ぼくはその物体がアンプであることを知った。
なつかしさが現実感を喪失させ、感情がゆっくりと逆転していくと、そのアンプの奇妙な形態は、まるで小さなタイムカプセルのように見えはじめた。
どんなスピーカーが鳴っているのかな、とふと思った。音が鳴りやんでも静かに記憶に残るような懐かしい響きだった。
「おもちゃさ」と彼がいった。そして、「彼女がみつけてきたんだ」、そういって、薄く笑った。
彼女はコーヒーのおかわりをついだ後、アンプのつまみに触れた。ジョン・レノンの「イマジン」がそっと鳴り始めた。その瞬間、ぼくの中で心が軋む音がして、わずかな痛みがあとに残るのがわかった。
彼女はぼくがここへやって来た本当の理由を知っていたのかもしれない。そう思って振り返ると、棚の上に小さなガラスの球体が二つ、適当な距離をおいて並んでいるのが見えた。スピーカーだった。
それは何かを伝えようとしている。透明な瞳のオブジェのように見えた。
ぼくはそのことの意味をぼんやりと考えながら、暗い夜道、遠い家路についた。
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