瀬川冬樹
ステレオサウンド 24号(1972年9月発行)
V
原音を録音し再生するという一連のプロセス。仮にそれを、原音を写実することだ、として考えを進めてみよう。
写実とは、素朴な意味では写すことであり倣うことである。広辞苑によれば「事物の実際のままをうつすこと」とあり、写実主義即ちリアリズムはハイ・フィデリティに通じる。
しかしハイ・フィデリティ・リプロダクション──高忠実度再生──を表面的に解釈する態度は、この問題はひどく歪めてしまう。仮に原音に忠実な再生、と定義してみるとしても、では原音の何に忠実なのか、原音とは何か、と考えてゆくと、ことは意外にむずかしい。
もういちど、ナマと再生音のすりかえ実験を思い起してみよう。
ステージでは何十人かのオーケストラが、それぞれに、針金や馬の尻尾や川や木を、こっすたりたたいたりして演奏している。その演奏はあらかじめ2チャンネルのステレオでレコードに録音されていて、途中から再生音にスリかえるというのであり、すでに述べたように、大多数の聴衆は切り換えの箇所を明確に指摘できなかった。
この事実は、原音が忠実に再生されたことを意味するのだろうか。少なくとも、物理的には答えは否である。だってそうだろう。ステージに並んだ演奏者と同じ数のスピーカーが使われたわけではないし、スピーカーの発音体は徹夜ジュラルミンの薄膜であって、楽器の発音体とは材料も形状も構造も著しく異なっている。物理的に、原音と全く異質の音が再生される筈がない。にもかかわらず、聴衆の耳にはナマと再生音の区別が明確にはつきかねた。
すると、スピーカーからは必ずしもナマと等質の、物理的に=の音が再生されなくとも、人間の耳はけっこうゴマ化される、ということになるのか?
事実ゴマ化された。しかし、人間の耳がエジソンの蓄音機からすでに《原音そっくり》の音を聴きとってきたことから想像がつくように、これはハイ・フィデリティの本質にかかわる問題であって、そう簡単な結論では片づかない。それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
ホールでの実験は別として、我々に切実な問題は、レコードやテープをわが家で再生するときの、音質の良し悪しである。家庭での音楽再生、という問題になると、たとえば音量ひとつとっても、六畳から八畳、広くてもせいぜい二、三十畳という個人のリスニングルームには、オーケストラのスケールは物理的に収まりきらないし、六畳ではフル・コンサート・グランドさえおぼつかない。つまり一般家庭では、もとの楽器のアクチュアル・サイズ(原寸)で持ちこむことさえすでに不可能と言える。
しかしそういう前提でも、小さな部屋で、「原音を聴いているような感覚」を生じさせることは十分に可能である。そしてそのときの再生音は、決して、物理的な意味で原音と等質(イコール)ではない。
まず、ラウドネスの問題ひとつとりあげても明らかなように、人間の耳は、音量の大小に応じて聴感周波数特性が変化し、音量を絞るにつれて、低音と高音の聴取能力が劣ることはよく知られている。したがってボリュームを絞った場合には、低音や高音を適宜強調してやることが、結果として、よいバランスに聴こえる。いわばこれは錯覚にはちがいないが、人間の耳には現実にそう聴こえるので、物理的にはフラットでなくとも、耳にフラットに聴こえるという事実の方が重要だ。
オリジナル(原音)に対して大きさ(尺度)自在に伸縮できるというのは、音の録音・再生に限らず、あらゆる複製メディアの特質とも言える。たとえば映画。シネラマのあの巨大な画面いっぱいに俳優の顔が大写しされても、慣習はそれをたいして不自然なことと感じていないどころか、あの白いスクリーンに、砂ほこりが舞えば思わず目をしばたたき、ジェットコースターが走れば胸の動悸が激しくなり、登場人物の悲しみには涙まで流す。言ってみればそれは、白いスクリーンに投影された束の間の幻影にすぎないのに、我々はそれを虚像と知りつつ、心の底から揺り動かされるほどの激しい感動を味わう。こうした感動は、レコードの音楽から味わうそれとはほとんど質的に同じものと言える。感動のしくみは、物理的なフィデリティとはほとんど無関係なのである。
音像といい映像といい、それが空間に鳴りスクリーンに投影された状態を、われわれは虚像と呼ぶ。その虚像がしかし、なぜ、本もの以上に人の心を揺り動かすのか。映画には芝居とは別の魅力があり、再生音にはナマ演奏とは明らかに異質の魅力がある。レコードを聴くという行為には、わたくしたちは、ナマを聴くのと別の姿勢で──そう意識するとしないとを問わず──臨んでいる。なぜ、レコードを聴くことが楽しいのか。それは再生音というものに、ナマとは違った別の価値があるからにちがいない。再生音がナマ演奏の複製であるのなら、再生音にナマとは別の──ときとしてナマ以上の──感動をおぼえるという事実の説明がつかなくなる。
言うまでもなく、レコードも映画も、それが作られた当初は、ナマのコピーという機能だけで使われた。しかしレコーといい映画といい、かりに対象を忠実に記録したものであっても、それをいく度もくりかえし再生するプロセスに、オリジナルを鑑賞するのとは別の魅力があることに人びとは気づくことになる。
古代アルタミラの洞窟壁面には、いろいろの獣が描かれているが、それは決して単なる装飾ではなく、獣たちを捕獲し、且つ彼らの増殖を祈る呪術的行為であったとされている。古代人にとっては、描くことすなわち捕獲したことであった。それを古代人の未分化と笑う前に、現代人のわれわれにいったいそうした衝動が無いだろうかと考えてみる。
第二次大戦のさ中、わたくしは集団疎開児童であった。疎開先のお寺の本堂で、より集まっては、シュークリームやチョコレートや、クリームパンや、おいしいものの絵をかわりばんこに誰かが描く。すると、どこからか、おいしいチョコレートやクリームの匂いがしてきて、子供たちは鼻をひくひくさせて、しばらくはおいしい匂いを腹いっぱいに吸い込むのだった。そんな体験はわたくしだけかと思っていたら、新聞や雑誌に戦時中の思い出ばなしが載るたびに、あるいは戦場で、あるいは防空壕の中で、同じような体験をした人たちが多勢いたことを知っておもしろく思った。
わたくしなど、ことにこの幼児的傾向が強く、いまでもまだ、ほしくてたまらない品もの──たとえばスピーカーでもアンプでもカメラでも──があると、その品物が実際に手に入るまでは、ヒマさえあると原稿用紙の切れはしなどにその品ものの絵を描いて楽しむくせがある。対象物を描くことによってお腹をふくらませたりその品を手に入れたような気になるのは、なにも古代人ばかりではないようだ。つまり対象を模写するという行為は、対象物を主体の側に転位させる人間の根本的な発想だと言えるのではないだろうか。レコードを聴くという行為は、オリジナルの複製(コピー)のおすそ分けにあずかるのではなく、まさに音楽を自分のものとする行為にほかならないのだ。そうなったとき、《原音》は客体として存在しているのではなく、もはや自分の裡の主体として実在する。言いかえれば、自分のレコードは原音のコピーのひとつ、なのではなく、自分のレコード即原音、になるのである。
レコードのこういう機能は、それが映画のように公衆(パブリック)の場でよりも個人(プライベイト)の場で鑑賞されるという性質上、より顕著である。映画が多くの場合、芝居と同じように特定の場所で複数で鑑賞されるのに対し、レコードは、より読書的な性格が強い(映画でもテレビで放送される場合、あるいはVTRの場合はまた別の見方ができるが、ここでは深入りしない)。
レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
人は往々にして、現実世界のできごとよりも虚構の世界のできごとから、より多くの感動を味わう。虚構の世界では、現実世界のわずらわしい日常的な小事件をきれいに洗い流し、事物の本質をえぐり出すことができるからである。映画や小説の中の人物は、往々にして実生活以上に深い生き方を教えてくれるし、レコードの演奏からはときとして実演以上のすばらしい感動を味わうことができる。そういうリアリティを描き出すことが、いわゆるリアリズムの芸術であり、そういう感覚を生じさせるために、オーディオの録音・再生のプロセスにハイ・フィデリティの介入を欠くことができないのである。
虚構の世界では、ナマ以上の生々しい感動を伝えることができる。「ナマを聴いたと同じような感覚」を、視覚ぬきで伝達するためには、虚構の約束の中での取捨選択が行なわれる。それは物理的にはナマとは全く違っているかもしれないが、人間の感覚に、明らかに生々しい印象を与えることができれば、それは結局、観念の中の《原音》、抽象化されたイメージの中の原音を、正しく再現したことになる。そういうプロセスに、録音→再生の一連のシステムも、そのための演奏も、再生した音を受けとるリスナーの姿勢も、すべてが関わりを持っている。どこが欠けてもこの感動は盛り上らない。原音の再生は、物理的なアプローチだけでは決して完成しない。
とはいうものの、以上の論旨を、原音の基準など何もないとか、物理的なフィデリティなど不要だというように受けとって頂いては困る。音楽の録音とその再生というプロセスにさまざまのメカニズムが介在する以上は、メカニズム自体に、以上のような人間の心理の微妙な関わりあいや意識の流れを妨げるような欠陥があることは不都合きわまりない。ハイ・フィデリティにつきまといやすい大きな誤解のひとつに、たとえばスピーカー固有の音色が、あたかもスピーカーの「表現能力」であるかのように思いこむ危険がある。そのことは次回以降でくわしく論じることになるが、いまここで明確にしておかなくてはならないことは、レコードの録音、再生のプロセスに介在するあらゆるメカニズムは、人間の感覚や意思に自由に従うことのできる柔軟性と、人間の要求に応じることのできる能力を備えていなくてはならない。くりかえすが、メカニズム自体の能力や個性を、録音→再生の美学や哲学の問題の中にまぎれこませてはならない。その点をいま少し明らかにするためには、人間自身の、事物に対する認識の限界を考えておく必要がありそうだ。
VI
頭上高く上った月よりも地平線近くの月の方が大きく見えることはすでに例にあげた。それは錯覚であるにはちがいないが、人間にとって、物理的に存在する空間などというものは無意味であって、人間が知覚できる空間こそ、ほんとうの空間の価値なのである。
絵画の中に現代の遠近法がとり入れられたのは比較的新しいことで、たとえば日本の絵巻物などでは、建築物が手前も向うも同じような大きさで描かれている。当時の人たちは、そういう空間のあらわし方のほうを自然だと感じたのか、それとも何か別の感じかたをしていたのか、そこのところはよくわからないが、現代人の知覚には、一点透視の遠近法が最も自然に感じられる。しかし、同じ一点透視であるにもかかわらず、写真レンズの焦点距離を変えると、ものの遠近法が強調されたり逆に凝縮されたように感じる。これも一種の錯覚にはちがいないが、やはり人間にとって、そう見えるという事実の方が現実なのである。
音のほうでも同じような現象はいろいろある。たとえば、さきに、例にあげたラウドネスの問題など、いまの遠近法の例に似ているかもしれない。また音階の分け方、音程(ピッチ)のとりかたでも、物理的にきんと割ったのでは正しい音に聴こえないことはよく知られている。
これらは物理量と感覚量──言いかえれば客観的にそこに存在する量と、人間がそう感じる量とか必ずしも相関関係にないということの例証だが、もっと単純明快な例に、可聴周波数範囲をあげよう。
ご承知のように人間の耳には16ないし20ヘルツから約20キロヘルツまでの音が聴こえるとされる。つまりそれを《音》と言っているが、たとえばイルカには150キロヘルツという高い音(人間の世界では「音」と言わず超音波または高周波と言う)が聴こえることが知られている。蛾もやはり150キロヘルツあたりまでを感じるし、コウモリも120キロヘルツあたりを感じる。犬でさえ50キロヘルツが聴こえる。また音の強さにしても、人間には、1キロヘルツで0ホン(0.0002μbar)いかの音は聴こえない。もしもハエが脚をこすり合せる音、アリが触覚をふれ合う音、が聴こえたらどうか……。
要するに人間世界で《音》と定義しているものは、広く自然界に存在する空気の波動のうちのごくせまい一部分にすぎない。だからといって、聴こえないものを音を定義することは何の意味もない。人間にとって、そう聴こえる音、以外のものは存在していないと同じなのだから。
このように、人間の感覚とはある限定された条件の中に存在し、そういう感覚で感じとった対象だけが、人間にとっての実在であるとすれば、純粋に物理的な意味で現象の存在そのものは人間にとって全く無価値であって、そのように見え、そのように聴こえ、そのように感じる、という知覚の範囲の世界こそ、現実そのものと考えることができる。物理的な存在に対する心理的または精神的現実(リアル)こそ、実在そのものである、と言ってよい。左右両隅のスピーカーが提示した音像が、スピーカーの無い中央の空間に浮かんで聴こえるというのは錯覚だが、そうだとすれば、錯覚こそ実在、と考えるべきではないだろうか。この定義は、人間の精神に訴えるあらゆる事物との関係を解き明かす重要な鍵になりそうだ。
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