Monthly Archives: 7月 1971 - Page 3

ジムテック KING OF KING, QUEEN OF QUEEN, JACK OF JACK

ジムテックのスピーカーシステムKING OF KING、QUEEN OF QUEEN、JACK OF JACKの広告
(スイングジャーナル 1971年8月号掲載)

JIMTEC

アカイ GX-220D

アカイのオープンリールデッキGX220Dの広告
(スイングジャーナル 1971年8月号掲載)

Akai

Lo-D HS-500

菅野沖彦

スイングジャーナル別冊「最新ステレオ・プラン ’71」(1971年夏発行)
「Lo-D in jazz」より

 ジャズのサウンドの特質ということについて、ずい分多くの機会にいろいろな人の語るのを聞くことがある。私自身も人からよく聴かれることだ。そうした時に、パルス波形の連続であるとか、直接音成分のパーセンテージが大きいとかいった物理的な観点からの意見や、個性の調和と炸裂、リズムの躍動と低音部の一貫したテンションといった音楽的な見方など様々である。そのどれもがジャズの特質を物語っていて面白いし、人間の複雑な感情表現のあるパターンを連想させる。つまり、それらの言葉から受ける一連の印象はきわめてアクティヴでダイナミックである。たしかに、ジャズにはそうしたポジティヴな面が大きいが、同時に、きわめて静的な面があることも事実である。その音楽的技法も従来の素朴さから脱してはるかに高度なものとなっているし、感覚性や精神性も高く飛翔するアーティスト達が現われている。したがってジャズの再生に要求される音響機器も、質より量といった古い概念では通用しなくなり、高いクォリティと絶対の量が結びつかなければならなくなった。量のない質はジャズには無縁のものであることだけはたしかである。ジャズ・ファンが音響機器に対してもつ関心は日増しに強く、従来、ジャズ向きという言葉が、歪の多い、周波数キャラクターの暴れた機器に多く使われていたのがうそのような時代になった。もともと、きわめて個性的な主張に共感を示すジャズ・フアンの間では、再生装置のもつ個性的なメカニズムの魅力に惹かれる要素をもった人が多いのも事実だろう。カメラ、オーディオ、車といった、人の心とのコミュニケーションのあるメカニズムから得られる我々の喜びは実に大きい。それだけに、マニアの目は厳しく、生半可なものでは満足しない。多くの専業メーカーから、そうした要求に応えるオーディオ・コンポーネントが発売されているが、最近は、日立、東芝、松下、サンヨーといった大電機メーカーが、このキメの細かいオーディオ分野に示す情熱は大変なもので、レベルの高いユーザーの数の増加を示すものとして大変興味深いし、質の高いサウンドでジャズを聴けるのは嬉しい。
 Lo-Dという言葉は、日立の製品のポリシーであり、シリ-ズ名でもある。低歪率というといかめしいが、音響機器の追求目的として歪を少しでも減らすということは多くの技術者の生甲斐ともいえるのだ。それは勿論、我々ユーザーにとっても、いい音を聴く可能性に繋るものだろう。しかしながらこの歪というものを音響技術の立場から離れて、純粋に感覚の世界から眺めてみると、ずい分、様子が違っていることに気がつくのである。歪は録音再生の交換プロセスや伝送プロセスで発生する波形、あるいは、波形の変化といってもよかろう。つまり、単純に考えても、もとの波形が忠実に伝わらないわけだから、録音機や再生機の敵である。とはいえ、その歪の原因や種類はきわめて多岐にわたっていて、その全てを解析することは不可能に近く歪の概念を広げていくと録音再生というプロセスが存在する限り、その存在自体が歪であるということにもなってしまう。そして、録音再生というメカニズムの面白さは別として、もし、そのプロセスの中に、よい音のするアンプや、スピーカーが存在するということは即、歪が存在するということにもなり、すべてのオーディオ・マニアは歪好きという事にもなるのである。存在は即、歪であるということになれば有害な歪と無害、否、有益な歪という概念を持たなければ、音響機器と取組む勇気がなくなってしまいそうである。さて、こうして、有益な歪という概念が生れ、この有害か有益かという大きな別れ道は美学の領域になり、感覚が大きな力をもってくるのである。
 先日も、ゲイリー・バートンとロイ・エアーズのジョイント・コンサートの実況録音を厚生年金ホールでおこなったが、まきに歪の大洪水であった。そのうちのほとんどは、拙劣な音響機器やその取扱いによる不本意なる歪の発生と思われたが、明らかに音楽的意図から創り出されたと思われる強烈な歪も聞けた。この歪を愛する音楽家と聴衆! それを有害と受け取る人は、今の時代感覚から置き去りにされた、あわれな老人といえるのかもしれないが、私などには、何とも不快な音であった。
 美しい音という概念はそのシチュエインョンで大きく変る。つまり当節の演奏は、歪を有害と感じさせるシチュエインョンがなかった。つまり演奏が空虚だったということだ。話はやや脱線するが、以前、本田宗一郎さんが、「ゴハンツブってえのは、茶碗の中にある時は美しくうまそうだが、あれが便所にあってごらんせぇ! あんなにきたねぇものはねぇ」といっていたのを聞いた覚えがある。この時の本田さんの意味は、人は適在適所でなければ能力を発揮し得ないのだという例え話だったのだが、この話はむしろ、美とそのシチュエインョンの例え話としたほうがぴったりくる。音楽の場合の美しい音というものは、いかなる音でも、それが必然的に美しい、あるいは快よいと感じる聴き手のシチュエインョンが肝心なのであって、歪を歪と感じさせるうちは、その演奏が聴き手の中にそれだけのシチュエインョンを創り出していないということになる。と同時に、音楽の聴き手というものは、いつも、心の中に音楽によって生れるシチュエイションが自由に存在する感受性を持っていなければならないということだろう。
 音響機器というものは、エネルギーの変換、増加・伝達という科学的プロセスを扱うメカニズムであって、それは徹底した理論解析とデータの集積、製造技術によって生み出されるのが本質であることはうたがう余地がない。ここがおろそかになっていては、人間に例えてみれば、完全な機能をもった肉体を持たないようなものだ。とはいうものの、健康だけで中味は空っぽというのでは淋しい限りである。つまり、音響機器も、その目的が音楽を聴くという人間行為の中では、きわめて次元の高い精神行為であるために、その存在を無視するという方向ではなく、そこに美を発見するという方向で眺められるようになってきたことは当然だ。その存在を無視する人は、音響機器などは単なる道具であって、相変らず代用品音楽を提供するきわめていい加減な玩具的機械であるぐらいにしか思わないだろう。その存在を認める人は、その存在のあり方を求める。それは独自の機能であり、形の美しさであり、滲み出る味わいである。音である。それは何によってつくられるか。つくった人の、人々の、人となりによってである。人となり、それは性格であり、趣味であろうし、教養であり、情操であろう。人がなにかをつくって、その人が出ないわけがない。会社が何かをつくって、その社風が出ないわけがない。
 日立はLo-Dという技術目的をそのシリーズ名にして、ハイ・ファイ・コンポーネントを発売しているが、その中でも代表的な存在がHS500スピーカー・システムだ。ぜいたくな素材を使い、高度な基礎研究による開発がそこにある。当然、価格も高い。20cmウーハーをベースにした2ウェイ・ブックシェルフ型という商品性からみれば65、000円という価格は無謀とさえ思われるかもしれない。しかし、それをあえて実行する力と、気位の高さを買いたい。その精神が、趣味という大無駄に大きな意味を感じ、生甲斐を見出している人に通じないわけがないのである。

Lo-D IA-600

岩崎千明

スイングジャーナル別冊「最新ステレオ・プラン ’71」(1971年夏発行)
「Lo-D in jazz」より

 最近、オーディオの新製品が各社から多数発売されているが、全体を通して強く印象に残ったことは、日立、ナショナルなど家電メーカーといわれる大企業の、ステレオ・パーツの著しい向上ぶりだ。向上というよりは脱皮というべきか、誕生というべき、そのハイ・グレードぶりなのである。
 日立がステレオで注目されたのは、HS500というブックシェルフ・スピーカー・システムの誕生以来だ。まだ4年になるまい。
 このシステムを、目白の奥まった西洋館然とした日立別館での発表会で接したとき、AR3風の底力ある重低音が評判の高いARよりもさわやかだったのに不思議な面持ちであった。
 ずっとあとになって、このスピーカーのために、日立中央研究所の技術陣グループが多数動員され、工学博士級が各ユニットおよびエンクロージュアを、それぞれ担当したと伝え聞いた。そのグループはHS500の開発終了後、カラーテレビ新設計に携わり、いまふたたびスピーカーにもどったとか……世界の大企業と肩をならべる大メーカーにふさわしい技術的シンク・タンクの巧妙な使い分け。「技術の日立」とよくいわれるその技術陣の厚さ、その活用のうまさが端的に示されている。世界に類をみないHS500のユニーク・ポイントの数々は、「日立」でなければ創り得ないであろう。
 さて、こうした製品の中で、日立のアンプをじっくりとながめ、音を聴くという付き合いも、ここ最近のことであった。スイングジャーナルの試聴室で、数あるアンプの中に置かれた日立のアンプに視線が流れたとき、そこで止まることはなかった。たぶん、ぼくだけではなく、初めて接する方は誰でもそうであろうと思う。
 それくらいに地味な、飾り気のないパネル・デザインである。味もそっ気もないということばがぴったりのシンプルなパネルだ。つまみが上段一列、下段の右半分にスイッチが-列。これでもステレオ・アンプか、と思うほどツマミも少ない。昔、見馴れたモノーラル時代のアンプを、スッキリさせて並べたという感じである。
 今日のステレオ・アンプには、ツマミやスイッチ類がことさらに数多く、並べられているのとは好対照なこの端正なデザイン。日立のアンプ類はこのシンプルなデザインにすべてがよく表われている。
 特長とか、眼をひくようなポイントは何ひとつない。それこそが日立のアンプの特長なのだ。それはそのサウンドにも表われているし、このアンプの性格を決定しているのだ。それはまた日立の製品に対する姿勢を意味しているのではないだろうか。ステレオにおけるアンプの価値が低歪率、信号対雑音比、f特、ダイナミック・レンジ……と技術が進歩するにつれて、その要求される技術的な性能がますます高められているには違いない。しかし、なににも優って優先させなければならないのは信頼性とか、寿命とかであろう。つまり、故障しては困るという要求、いくらよい特性を備えていても何にもならない。鳴らないアンプでは何もないよりもまし……というより広くもない棚に大きな荷物が陣どっているのでは、無い方がましなくらいだ。
 多くのアクセサリー回路や、アイディアを盛り込んだ回路は、逆にいえば部品の数も増えようし、それだけ故障率が増えることにもつながる。だから必要な最少だけにしぼって、その主要品は十分に意を払って、ガッチリと手をかける日立のやり方はアメリカ合理性ということができるかも知れない。いかにも技術重視的ないき方ともとれる。しかしこれこそ、本当の需要者のための商品ということではないだろうか。
 端正なそのたたずまいをそのままに日立のアンプは、特にスッキリした、爽やかな飾り気も無い音だ。まるで冷たいまでにソッ気ないのも、パネルの印象と同じだ。というと、メカニカルな感じ、金属的なサウンドというようなイメージを持たれてしまうのだが、メカニックといういい方がもし悪い意味でなければ、そういえるし、金属的というのが冷徹という意味ならそういい得よう。作るべくして作ったのでなく、技術的な性能追求がこのサウンドに達したのだろうと思う。
 これは、市場に出ているアンプの中で、ひときわ高級品とされ、ハイグレードと誰もが認めるソニーのアンプにおけるそれとよく似たケースともいえる。ソフトとかウォームとかいう意識的につけ加えたサウンドがないという点がはっきり認識されるのだ。試みに録音のよいジャズ・レコードをかけてみよう。ぼくのもっとも好きな「ブラック・ホークのシェリー・マン」(米コンテンポラリー)の4枚組だ。音がボケやすいライヴ・レコーディングの中でもっとも鮮かなサウンドと、生々しい楽器のプレゼンス、加えてクラブの雰囲気がよく捉えられた名演名録音盤である。決っしてスタープレーヤーを集めたわけでもないのに、この名演ぶりはマンのドラミングと、曲の引きしめ方がうまいためだろう。このアルバムはオン・マイクの楽器のサウンド、特にドラムを筆頭に、ピアノ、アルト、ペットと鮮明度の高いサウンドにあるのだが、このアタックを期待以上に再現するのが日立のIA600であったのだ。クリアーな、パンチあるサウンドのクォリティーは特にローレベルでも実に見事なのである。
 ぼくはこのローレベルの、特にピアノの澄んだタッチに惣れた。日立のアンプにもまったく難点がないわけではない。中音域から高音域の鮮明さにくらべ、このアンプのサウンドは特にジャズに対して低音の力が物足りないのだ。ベースの床をはう響きはジャズだけのものだが、こういうエネルギーがちっとも出てこない。ステップ式の低音のコントロールを上げる。このトーンコントロールは効き方もはっきりし途端に力強い低音のパワーが、試聴室のJBL・C40のホーンから床に伝わり、椅子を揺るがす。試みにエアリーズに切り換える。ごく低い重低音が充分ゆったりした感じになるが、ボリュームと共にトーンコントロールはもうワンステップ上昇だ。この低音の大振幅の場合にも、ローレベルと同じような爽やかさに驚かされる。フラットの状態にくらべ低音は6段以上持ち上げられているから、パワーは4倍になっているはずだ。規格値を越えるハイ・パワーぶりなのではないかと思うほど……。しかし、これはデータに正直な日立のこと。いわゆるカタログ特性だけよいというのではない、ということが認められたわけであった。
 それにしてもローレベルの音の澄んでいること。マンの押え気味のタッチ、ドラミングの特長はこのローレベルの冴えで、ひときわ輝きを増す。カタログを見る。なるほど、日立の技術が、このアンプに光っている。「定電流ドライブ出力回路」これだ。やさしくいうと、小さい音のとき荒れやすいトランジスタ・アンプの音を、透明にするための技術だ。トランジスタの動作を理想的にするため負荷としてトランジスタを使っている新回路だ。これなら出力トランジスタは傷まないし、一石二鳥。ヤルネェ。なかなか……。
 実は4チャンネルにそなえて、このところ国産アンプの厳選したお気に入りを何台か買い込んだのだが、そのいずれとくらべても、互角か、それ以上のジャズ・サウンド。その秘密はやはりこの日立の技術にあったのだ。もうひとつ付け加えておくと、このときのアンプの中で、もっとも安いのが日立。ぼくはあまり好きなことばじゃないがコスト・パフォーマンスという点からいうと、ベストに選べそうだ。
 だけど、キミ。このアンプでジャズを楽しみ出したら、よいサウンドが判ってしまうことは確かだ。それがオーディオの泥沼の始まりになったとしても、当局はいっさい関知しない。