Category Archives: 瀬川冬樹 - Page 53

トリオ LS-400

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 前号でとりあげたLS300と、長所も弱点も共通の性格を持っている。まず低音域の量感が豊かだ。こういう量感は、最近のイギリスのスピーカーの一部に聴きとれるひとつの傾向で、一般に多くのスピーカーとは逆に置き方のくふうで低音を抑えないと、かえって低音の締りが悪く全域の音をふくらませることがあるので注意がいる。LS300のときも中音、高音のレベルセットがわりあい難しかったが、400のレベルコントロールもやや微妙な点があって、とくに中音域のレベルセットが難しい。言いかえれば、ウーファーの柔らかい鳴り方に対して中音域の特性又は音色に不連続の性質があるのか、中音を抑えると音がひっこんでしまうし上げすぎると出しゃばった圧迫感が出てくるのでこの辺がクリティカルだ。試聴では中音をわずかに抑え高音を逆に上げ気味に調整し、あとはトーンコントロールで補整するのがよかった。なおこの製品に限り量産に入ったものを追加試聴したが、生産途上で改良の手が加えられているらしく、中音域がかなり改善されていた。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆
プレゼンス:☆☆☆
魅力:☆☆☆

総合評価:☆☆☆

フォステクス GX-3000

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 あらゆる音を大づかみに、線を太く鳴らすスピーカーである。ことに中域から低域にかけてのエネルギーが強く感じられ、そういう特徴は国産の多くの高域に上ずりがちな傾向のなかではむしろ好ましいともいえるのだが、たとえばアン・バートンのような声を年増太りのように聴かせる。総じてヴォーカルは年をとる傾向になり、フィッシャー=ディスカウなどずいぶん老けて聴こえる。この傾向はことにピアノの場合、タッチを太く、音像を大きく太らせて、やや格調をそこなう。中低域のふくらんでいるのに対して高音域がどこまでも延びていくというタイプでなくむしろ聴感上は高域を丸めて落としてしまっているようにさえ感じるので、ややもすると反応の鈍さが耳につくが、そういう傾向にしては、弦合奏だのオーケストラなど、このスピーカーなりの音色で鳴るにしてもいちおうハーモニーのバランスをくずさない点、国産のなかでは低・中・高の各音域のつながりや質感がわりあいうまく統一されている方だと思う。骨太で肉づきがよいという音の中に、もう少しシャープさや爽やかさが加わるといっそう良い感じに仕上がると思う。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆
プレゼンス:☆☆
魅力:☆☆

総合評価:☆☆

セレッション Ditton 15

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 中程度以下の音量で、ことに小編成の曲やヴォーカルなどを鳴らすかぎり、ひとつひとつの楽器や音像をくっきりと彫琢するように、磨かれた艶を感じさせる彫りの深い音で鳴る。低音の量感はあまり豊かとは言えないがキャビネットの共鳴や中低域の濁りが注意深く除かれて透明で鋭敏な音を聴かせる。スキャンダイナのA25MkIIと比較してみたが、ディットンとくらべるとA25の方が聴感上は高域が延びたように聴きとれ弦合奏などで目の前が開けたようにひろがるが、音像は平面的。ディットンは音像が近接した感じで立体的に聴こえる。たとえばヴォーカルでは、妙な言い方だがA25は唇を横に開くように広がり、ディットンは唇をとがらしたように前に張り出すようにも聴こえる。ただ、ハイパワーには弱みをみせ、「第九」などトゥッティでは音がのびきらないしユニゾンの各声部がきれいに分離しなくなる。なお今回のものは従来何度もとりあげたものと外装が変わり、音のバランスも以前のタイプより穏やかになっている。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆☆
余韻:☆☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆☆

スキャンダイナ A-30MKII

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 A25がすばらしくよくまとまっているだけに、その上のクラスならさぞかし、と期待したのだが、必ずしもそうならないところがスピーカーの難しさでもありおもしろいところでもある。ひとまわり大きくなったためか鳴り方に余裕が感じられ、A25と並べて切りかえると聴感上の能率は相当に(3~4dB?)良いように感じられる。言いかえればA25の方が抑制が利いているともいえるし、逆に余裕のない鳴り方と聴こえなくはないが、たとえばピアノを例にとっても、A25の方が無駄な音が出ず澄んだ響きであるのに対し、A30は良くいえばふくよかだが総体にタッチを太く表現し、箱鳴りとまではいかないが音を締りなくさせてわずかに余分な響きをつけ加える傾向を示す。A30の方が楽天的な音ともいえる。しかしジャズのベースのソロなどでは、意外なことにA25の方がファンダメンタルの音階の動きがはっきりわかる。またオーケストラの強奏などではA30はハーモニーをわずかに乱す傾向がある。少しきびしい言い方をすればA30はニセのスケール感とも言える。ただし聴感能率の優れている点は、アンプのパワーの小さいときなどA25より有利だといえる。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆
魅力:☆☆☆

総合評価:☆☆☆★

ワーフェデール Melton2

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 中音域のよく張った音質で、この点がイギリスの製品にはめずらしい作り方だし、同じく高音もあまりしゃくれ上がった感じがしないし、低音も抑えぎみで、グリルを外してみると意外に大口径のユニットがついているにしては低音が豊かな支えになりにくい。従って音のバランスだけからいえば、ARやアドヴェントのタイプ、国産ならダイヤトーンのタイプとも思われそうだが、そこはやはりイギリスの伝統で、女性ヴォーカルなど声に適度の艶があって、よく張り出すがドライでなくきれいな響きを聴かせる。ただしベースの伴奏など少し弾みが足りなく思われ、トーンコントロールで低音を上げてみたがどうもそれでは確実な支えにならない。ウーファーのユニットのわりにはキャビネットの大きさに無理をしているような感じだが、それだけに音の締りが甘いようなことはなく、背面を固い壁に密接させたり本棚にはめ込むなどして低音を補う手段が効果的に利きそうだ。高域の延びがもうひと息欲しく思われ、その辺を強調するタイプのカートリッジやアンプと組み合わせればもっと評価が上がるだろうと感じた。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆
魅力:☆☆☆

総合評価:☆☆☆

アカイ ST-301

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 大柄のトールボーイ(背たかのっぽ)型だから低音もかなり豊かに弾むのではないかと思ったが、意外にそれほどではない。総体にやかましい音をよく取り除いてやわらかく耳あたりよくまとめた作り方だが、音の芯がやわらかすぎるというか、少しふかふかしすぎる鳴り方だから、どちらかといえばバックグラウンド的な聴き方を意図していると思われる。したがって、ブックシェルフ一般の使いこなしのように台の上に乗せるよりも、中~高域のバランスなどうるさいことを言わずに床の上に直接置くぐらいの方が、低音もよく出てくるのでバランスの良い音が聴ける。女性ヴォーカルやヴァイオリンのソロなどでは、中~高域も、(ややひっこんだ感じながら)けっこうやわらかく適度の艶も感じさせるし、オーケストラも小音量では一応きれいなハーモニーも聴かせるのだが、パワーに弱く、フォルテでは音が濁るし、低音も箱鳴りが相当に派手なためにいささか締りを欠く。いわゆるハイファイ・スピーカーとして評価したら欠点の方が多そうだが、ムード的に小音量で聴き流すという作り方のようにおもえるのでそういうつもりで評価した。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆
余韻:☆☆
プレゼンス:☆☆
魅力:☆☆

総合評価:☆☆★

クライスラー PERFECT-1MKII

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 このメーカーの音はモデルチェンジをするたびに振子の両極を行ったりきたりしているようなところがある。一時期ベストセラーで人気のあったCE1a、CE5aは柔らかく独特の繊細感があって、当時としては音楽のハーモニーを実に美しく鳴らした(中でもCE5aが最も優れていると今でも思う)。それがII型になると、中音域に妙な固有音をともなった硬い音に変わってしまった。次に出たパーフェクトI、IIは再び繊細で、やや弱さがあったもののふわっとひろがる耳あたりの良い音質を持っていた(CE1a、5aに次いでこの時期も良かったと思う)。そして再びMkII。CE1aが II型になったときのように、また中~高域に妙な硬さが出てきた。音量を絞った状態での静かなソロ・ヴォーカルや編成の小さな曲はいちおうソフトな耳あたりの良い音に聴こえるが、音量が上がるにつれて音のバランスが中~高域に片よって硬質の圧迫感が現われ、さらにハイパワーではウーファーの耐入力がともなわないらしく飽和したような濁りが出る。パワーには弱くとも旧型の方がウーファーとトゥイーターの違和感がずっと少なかったと思う。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆
プレゼンス:☆☆
魅力:☆☆☆

総合評価:☆☆★

ダイヤトーン DS-22BR

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 ダイヤトーン製品に共通の中音域のよく張った特徴を持っているにしても、その中では音のバランスに関するかぎり最もくせの少ない製品と聴きとれた。たとえば前号げてふれたDS26Bあたりの中域の張り出した音質は私には少々やりきれないほどやかましく感じられる場合があったが、22BRではそういうこともなく、すべてのプログラムを通じてあまり過不足を感じさせないうまいバランスを保っていた。ただしこれもダイヤトーン製品に共通の、高音域をある点からスパッと切る作り方は22BRでも同じらしく、少なくとも聴感上はハイがスッと延びているようには聴こえず、ステレオの音場の漂うような繊細感が感じられない。音の表情のしなやかさを出すというタイプでなく、生真面目に音をきちんと鳴らすという感じである。ことに弦の独奏や合奏では、音の芯の硬さがいまひと息とれてほしいように思う。パワーにはわりあい強いタイプで、ジャズの実況録音(”Live at Junk”)をかなりの音量で鳴らした場合も音がくずれたり濁ったりせずによく延びて、快適な音を聴かせてくれた。国産のローコスト型としては水準以上の立派な出来だと思う。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆
プレゼンス:☆☆☆
魅力:☆☆☆

総合評価:☆☆☆

KEF Cantor

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 後述の♯104と共に、KEFが従来作りあげてきた音質を、新しい魅力に磨きあげはじめたことの聴きとれる新製品である。清楚な美しい響きをすっきりと聴かせる点ではいままでの製品から受ついだ良さだが、以前の製品がややもすれば中域の引っこんだドンシャリ的な鳴り方すれすれに作られていたのにくらべると、中域もたっぷり鳴るし高域の強調感も以前ほどではない。音がこもったりことさらふくらんだりするようなことがなく、控えめでひっそりと鳴る。音の芯がやや柔らかすぎるようにも思われるし、ハイパワーに弱いのは欧州系のスピーカーに共通の弱点といえるが、あまり大きな音量出さずに音楽を楽しむ人にとっては、その余韻の美しさ,滑らかな艶の或る圧迫感のない響きの良さは一聴に値する。置き方の工夫で低音の量感を補った方がよいのはこの種の小型スピーカーに共通の使いこなしだが、それにトーンコントロールの補整をわずかに加えると、低音の土台も意外にしっかりする。音のスケール感の出にくいこと、総体にやや音離れのよくないところなど弱点のあるものの、この価格の製品ではスキャンダイナのA10と共に注目すべき新製品といえる。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆☆
解像力:☆☆☆
余韻:☆☆☆☆
プレゼンス:☆☆☆☆
魅力:☆☆☆☆

総合評価:☆☆☆☆

テクニクス SB-201

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 音の基本的な性格は前号(28号)でもとりあげたSB301、501とほとんど共通である。ひとつのポリシーを貫くという意味ではこれぐらい基本的な性質を統一できるという製造管理の技術を評価すべきかもしれないが、残念なカラこの共通の性格は前号にも書いたようにあまり好ましく思えない。そういう点をくりかえすのは心苦しいのでむしろ細かな話になるが、音域ごとに言えば、低音のおそらくあまり低くないf0(共振点)あたりに一ヵ所やや抑えの利かないブーミングが聴きとれ、中低音域では箱鳴り的な共鳴、中~高域では金属的な硬さがことに音量を上げると、やかましい圧迫感になり、またどのレコードでもヒス性のノイズを他のスピーカーよりも強調するところから中~高域のどこかに固有共振のあることが聴きとれる。以上の言い方は、価格を考えるとやや欠点を拡大しすぎたかもしれない。音量を絞りかげんにして、トゥイーター・レベルをマイナス2まで絞り、置き場所をくふうすると一見クリアーな鳴り方をするものの、本来の硬い無機的な鳴り方が音楽のしなやかな表情までをこわばらせてしまうように思える。

周波数レンジ:☆☆
質感:☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆
解像力:☆☆
余韻:☆
プレゼンス:☆
魅力:☆

総合評価:☆★

コーラル FLAT-8SD

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 明るい白木とまっ黒のネットのコントラストがすばらしく印象的で、国産品の中でも垢抜けたデザインが抜群といえる。そういう感じが音質にも現われてくれれば言うことはないのだが、長所の方から先に言えば、ステレオの音像定位が素晴らしく良い。たとえば、ソロ・ヴォーカルが中央にぴたりと定位し、音像が決して大きくならず、バックの伴奏の広がりとよく分離する。こういう定位の良さは、シングル・スピーカー独特の長所で、2ウェイ、3ウェイの製品にはなかなか少ない。しかしその長所をあげるには音質の上でのマイナス点がやや多すぎる。本来FLAT8のようなタイプのフルレインジ型のユニットを、こんな小さなキャビネット(といってもブックシェルフ型ではごく標準的だが)に収めれば低音がまるで出ないのが当然で、従って全体に音の表情が硬く厚みや豊かさのない、金属的で薄手の音になりやすい。背面に High Adjust というジョイントがあって高音を抑えてあるが、むしろそれは取り除いてアンプのトーンでハイを抑える方がまだ良かった。低音を増強したり、置き場所をいろいろ変えてみたりしたが、ほとんど床の上に直接置くぐらいでどうやらバランスがとれた。

周波数レンジ:☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆
解像力:☆☆
余韻:☆
プレゼンス:☆☆
魅力:☆☆

総合評価:☆☆

ビクター JS-6

瀬川冬樹

ステレオサウンド 29号(1973年12月発行)
特集・「最新ブックシェルフスピーカーのすべて(下)」より

 こせこせしない陽性の鳴り方。弦合奏のオーヴァートーンなどことににぎやかに聴こえ、総体に高音域の派手さが目立つ。トゥイーターのレベルを絞ってみると、ウーファーとの音のつながりがかえって悪くなるので、レベルセットは〝ノーマル〟(3時の位置)またはそれ以上に上げておいて、アンプのトーンコントロールでハイをおさえた方が結果がよかった。こういう小型・ローコストには低音の豊かさなど望むのが無理だから、背面を固い壁にぴったりつけたり、さらに、トーンコントロールのバスを補強するなど、低音の量感を補う使いこなしが必要だ。ローコストにしてはキャビネットの共振がよく抑えてあり、トーンコントロールで補整しても音がこもったりせずに低音増強が気持よく利くのは良い点だ。ウーファーとトゥイーターそれぞれの音色に違和感の少ないところも良い。価格を考えに入れなければあまり上質のクォリティとは言いにくいし、明けひろげの饒舌さが永く聴き込める音質とは言いにくいが、一万六千五百円の国産品の中では、という前提をつければ、なかなか良くできたスピーカである。

周波数レンジ:☆☆☆
質感:☆☆☆
ダイナミックレンジ:☆☆
解像力:☆☆
余韻:☆☆
プレゼンス:☆☆
魅力:☆☆

総合評価:☆☆☆

良い音とは、良いスピーカーとは?(5)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 27号(1973年6月発行)

高忠実度スピーカーの流れ
 いまさらこんなことを言い出すのは気が引けるが、この連載の最初の予定はこれほど長びかせるつもりではなかった。本誌22号のフロアータイプ・スピーカーの特集号で、編集長から《良いスピーカーの条件》について書くようにとの依頼を受けて、さて考えはじめてみると、どうも容易なことではなさそうに思われてきて、良いスピーカーの定義をするにはその前にまず《良い音》とは何かを考え直してみたくなり、そう考えてゆくとさらに良い音とはいわゆる《原音の再生》なのだろうかという考えにつき当って、それなら原音再生とは何だろうというところまで遡って、そこでこの拙文を書きはじめた。22号では原音再生の歴史の流れを考え、23号では原音再生という言葉の原点に立ちかえって、24号でそれをわたくしは《写実》であるべきだと考え、その項の終りから25号にかけて原音やその再生の前に立ちはだかる人間の錯覚について、ひとつの極端な場合を考えた。書いているうちにわたくし自身の考えのあいまいだったところが自分でもわかってきて、人さまに説明する以前に自分自身をまず納得させるような、いわば考えながら書き進めるような形をとらざるをえなくなって回りくどい話のくり返しになった点を、不勉強のためとは言え、改めてお詫びしなくてはならない。26号は別のテーマで一回休みを頂いたので、今回の話は25号からの続きになるが、右に書いた話の中で、再び24号のテーマであった原音再生の原点ともいうべき《写実》の問題に帰ってみる。
 それをもういちど整理して言うと、音の録音・再生のプロセスには人間の錯覚が入りこむ余地が多いにしても、少なくともそのためのメカニズム自体はそうした錯覚に甘えることなく、できるかぎり正確に音を伝達する性能を具えているべきだとわたくしは思うで、話をスピーカーに絞っても、良いスピーカーの条件のまず第一に、送り込まれた信号の忠実な再現という項目をあげたいと思う。だからスピーカー自体の弱点や欠点から生じる固有の音色をできるたぎり排除したいと、わたくしはいま考えている。メカニズムの不備から生じる固有の音色(カラーレイション)を、原音再生のプロセスに悪用してはならないと考えている。そのことはアンプについてあてはめてみると割合容易だが(別項「アンプテストを終えて」を参照頂きたい)、スピーカーのような音響変換系には、口で言うほど簡単には片づかないむずかしい問題が山積している。そのことをどうしたらうまく説明できるだろうか……。
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 わたくし自身の耳が本質的にナロウレンジ(狭帯域=音域がせまい)の音質を受けつけないらしいことは、ずいぶん以前から薄々は感じていた。スピーカーに限らずアンプでもカートリッジでも、ことに高音域の伸びていない音を本質的に拒絶してしまう。スピーカーでいえばその典型がアルテックで、その点はやや解説が必要になると思うが、アルテックのハイクラスの製品は、ふつう一般に考えられているほどワイドレンジではない。本誌22号の228ページに一例として「ヴァレンシア」システムの周波数特性が載っている。低音は80ヘルツ以下でスパッと切れ、高音は6キロヘルツあたりからすでに下降しはじめる。とうてい現代のハイフィデリティ・スピーカーとは言えないが、それでいてこのスピーカーはすばらしく充実した豊かな迫力でもって鳴る。わたくし耳はこのレンジの狭さを拒絶するが、ヴァレンシアの音質を好む人たちは決して少数ではなく、事実このスピーカーは定評ある高級スピーカーの代表機種のひとつである。ただ、わたくしがその音を好まないというだけの話なら、なにもこのことをくわしく書く必要はないが、以上の話が、これから書こうとすることのひとつの前提になる。
 アルテックのスピーカーが、アメリカ・ウェスターン・エレクトリックの、さらに遡っていえばベル・サウンド・ラボラトリーの設計を受けついでいることはすでにご承知のとおりで、そことはわたくしよりも池田圭先生に解説をお願いする方がよいのだが、たとえば代表機種のA7は the voice of theater と名づけられ、劇場やオーディトリアム用のいわゆるシアター・サプライとして広く使われており、もうひとつの代表機種604Eは世界中のレコード会主や録音スタジオでマスター・モニターとして採用されている例をみても、 アルテックの音が本質的にはシアター・サウンドでありプロフェッショナル・サウンドとして高く評価されていることは容易に理解できる。しかもA7も604Eも、現代の音響機器の水準からみて絶対にワイドレンジ・スピーカーとは言えない。たとえば604Eのカタログには高域のレンジが22キロヘルツなどと書いてあるが、測定してみれば、決して22キロヘルツまでが平坦に延びているという特性でないことは一目瞭然である。
 誤解しないで頂きたいが、わたくしはこう書くことでアルテックのスピーカーとカタログを誹謗しようなどとしているのでは決してない。この後の話の前提として、ナロウレンジのスピーカーが一方に厳然と存在し評価されていることをまず知っておいて頂きたいので、しかしアルテックのA7や604Eが世界じゅうのプロフェッショナルに認められもし、またオーディオ愛好家からも好まれるだけの立派な音を再生していることが確かな事実であると同時に、好き嫌いはともかくその周波数特性が決してワイドレンジでないことも、いまはまず頭にとめておいて頂きたいのである。
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 スピーカー設計の変遷をたどってゆくとそれだけで一冊の厚い歴史ができ上ってしまうが、いまこ狭いスペースではそのディテールを探ることをしない(この点について興味のある方は本誌第5号から11号まで連載された池田圭先生の名著「スピーカー変遷史」によられることをおすすめしたい)。
 ここでは、わたくし自身のきわめて主観的な分類によって、高忠実度スピーカーとして現存している著名製品の源流を大きな三つの流れに分けて話を進めてゆく。
 その第一が、前項で触れたベル研究所に端を発するシアター・スピーカーの流れであり、その第二はカーR以降に急速に普及し発展した家庭用小型スピーカー(いわゆるブックシェルフタイプ)であって、ふつうオーディオファンの話題にのぼるスピーカーシステムの大半が、この両者のいずれか、或いは両者の長所をそれぞれとり入れて作られている。しかしここ数年来急速に抬頭してきたヨーロッパ系の家庭用スピーカーについて調べてゆくうちに思い当った第三の源流に、イギリスのBBC放送局が独自に開発を進めた広帯域モニタースピーカーがあげられる。そのことについては従来はほとんど書かれたことがないし、わたくし自身がその音質にも考え方にもいま最も傾倒し共感しているので、この点に相当の重点を置いて解説したいと考えているが、その前にまず、第一のシアタータイプと第二の家庭用小型スピーカーの流れと変遷についてごく簡単にふれておく必要があるだろう。
 シアター・スピーカーとはその呼び名のとおり、広大な劇場やホールで、すみずみまで音声を伝達(サービス)しなくてはならない。ハイパワーで、しかも明瞭度の高い音を伝えるには、本質的にワイドレンジであってはならない。いわゆる胴間声を避けるためにも適度のローカットが必要になるし、モーターの回転音やハムその他の低域の唸りや雑音が耳につかなくするためにもあまり低音を伸ばしてはいけない。高音域も楽器の音色を識別するに必要な最少限の帯域でカットしてしまう方が、ヒス性のノイズを出さずにきれいで明瞭な音が聴ける。人間のラウドネス(聴感特性)を考えても、ハイパワーでのサービスにワイドレンジはかならずしも必要とはいえなくて、そうした点をわきまえ、音楽を伝達するに十分な最少限の帯域──言いかえれば低音も高音もこれ以上カットしたら耳に不満を感じる一歩手前のところまで帯域を狭めて、明快でよく通る音を作りあげたのが、アルテックのシアター・システムの音質だと言ってよいのではないか。
 こういう狭帯域のトーンは、一般の家庭に持ち込んだ場合に往々にしてデリカーの欠如した印象を与えるが、アルテックの場合はその狭い帯域の中での音質が永年に亘ってみがき上げられ、完成度の高い説得力に富んだ音色になっていて、ことに手巻き時代から蓄音機を聴き馴染んだレコードファンの耳には、むしろその狭い音域とともに好まれる傾向が多いのだとわたくしは解釈している。
 家庭での良い音の再現には本質的にワイドレンジが必要だということを直観して、アルテック・ランシングを飛び出して家庭用高級スピーカーの製作をはじめたのが、J・B・ランシングであった。言いかえればJBLは設立の当初からナロウレンジを拒否してできるかぎり広い帯域で忠実度を高めるという方向から出発した。そしてもうひとつ、アルテック──というよりウェストレックス=ベル研究所の原設計の種をイギリスという土壌に蒔いて実らせたが、ひとつはヴァイタヴォックス、もうひとつはタンノイだといえる。ヴァイタヴォックスのユニットはほとんどウェストレックスの設計のままとも言えるが、タンノイは、創始者であるガイ・R・フォンティーン Guy R. Fountaine が、アルテック604を原型としてモディファイしたユニットだと言われている。しかしヴァイタヴォックスもタンノイも、原設計にくらべてずっと広帯域に作られていることも知られているが、おそらくイギリス人の耳のデリカシーが、ナロウレンジを拒否したのだろうとわたくしは想像する。むろん帯域ばかりでなくもっと本質的な鳴り方そのものの問題でもあるが、そしてそれは音と風土や歴史の問題でもあるが、そのことはもっと後になってからくわしく論じよう。
 こまかく言えばこれ以外にもアメリカには、GEやジェンセンやRCAから源を発したコーン型スピーカーの流れがあり、それはヨーロッパに渡ってローラーやワーフェデールやグッドマンによって発展させられ、またドイツにはクラングフィルム→シーメンスと発展したベル系とはまた別のシアターサウンドがあるが、スピーカーの歴史をこまかく眺めるスペースがないので細部を飛ばして言うと、それらいわゆる戦前型のスピーカーの流れを大きく転換させるきっかけを作ったのが、エドガー・ヴィルチュアのARスピーカーであった。この点については本誌10号に岡俊雄氏の詳細をきわめた解説があってこの方面に不勉強なわたくしはせいぜいその引用ぐらいしかてきないが、要約すると、いわゆるアコースティック・サスペンション方式により超小型に作られた(少なくともAR出現当時=1954年の一般の高級スピーカーからみると、内容積1・7立方フィート=約45リッター強というキャビネットは超の字のつく小型に見えた)密閉箱は、考案者E・M・ヴィルチュアによれば名にも小さく作ることが目的だったのでなく、できるだけ低い周波数までひずみなく再生するにはどうしたらよいかというアプローチから生まれたものだそうだが、1958年以降のステレオの普及にともなってスピーカーが二台必要になって、一般家庭では外形が小さいということも大きな長所になり、その後世界中メーカーがこのタイプからさまざまの展開を試みて、今日の標準型ともいえるブックシェルフ・スピーカーの全盛期を迎えたというのが真相のようだ。
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 広いサービス・エリアと強大なパワー前提として発展をとげたシアター・スピーカー。それを原形としてさまざまのアレンジが試みられた過去の大型家庭用スピーカーシステム。そこに抵抗を挑み成功した小型ブックシェルフ・スピーカー。そしてその折衷型ともいえる中型の家庭用フロアータイプスピーカー。これら従来わたくしたちの目にふれてきた大半のスピーカーとほとんど無関係に、イギリスのBBC放送局の研究所では、著名な音響学者D・E・L・ショーターらを中心として新しいモニタースピーカーの開発が進められていた。そことが表面にあらわれたのは少なくとも1946年以前のことで、1946年といかば昭和21年、日本が大戦に敗れ国中がずたずたに疲れ果てていた年である。この年、BBCのクォータリーに、スピーカーの新しい分析法として過渡特性 transient response(最近は過渡応答と書く人が多いが同じこと)の測定法を考案し発表したのがショーターで、おそらく彼の頭の中にはそのときすでに新しいスピーカーシステムの構想が芽生えていたに違いない。或いはすでにスピーカーユニットの一部が開発されてさえいたのかもしれない。あの戦争のさ中に、ドイツから無人ロケットが飛んでくるロンドンで、スピーカーの音を考えていたという人間はいったいどんな顔をした男なんだろう!
 ショーターの過渡特性測定法にヒントを得てアメリカRCA研究所のマリントンとウッドの二人が、トーン・バーストによるトランジェント・レスポンス測定法を考案したことはよく知られていて、これが現在でも過渡特性を測定する効果的な手段のひとつとしてよく使われていることも周知の事実である。
 ともかく、BBC放送局が新しいモニタースピーカーの開発に本格的に着手したのは1950年頃からで、それに次のような条件がついていたらしい。
 第一に、来るべきFM時代の広帯域放送を監視(モニター)するためには、それまでの市販スピーカーでは帯域も狭く特性もでこぼこでいわゆる音の色づけ(カラーレイション)が強く、良いプログラムソースを作るための正確なモニターができないため、できるかぎり広い帯域をフラットに色づけ(カラーレイション)少なく再生することのできるモニタースピーカーが必要であること。
 第二にプログラムソースのダイナミックレンジに十分対応できるパワーハンドリング・キャパシティ(耐入力)を持っていること。
 第三に、ミクシングルームの狭いスペースで近接して聴くという条件、しかもスタジオ内の壁面その他の影響をできるかぎり受けにくいという条件を満たす構造であること。
 第四はスタンダードのサンプルに対して一台ごとの特性及び音色の偏差ができるかぎり少ないこと。そういう条件にあてはまるような生産性を持っていること。
 これ以外にも数多くの細目があったらしいが、数年間の試作を経て1955年頃にはすでに実用の段階にいたり、1960年頃にはほぼ現在の形が決定し、スタンダード・サンプルに対してキャリブレイト(較正)されBBCが認可した製品に対しては一部市販が許可されるようになった。これがLS5/1Aモニタースピーカーで、それまでにプロフェッショナル関係で使われていたRCAのLC1Aやアルテック604シリーズまたはヴォイス・オブ・シアター、あるいはタンノイのDC15モニターなどにくらべると、はるかに帯域が広く自然で色づけの少ない素直な音質を持っている。その外観は写真を、構造は図を参照して頂きたい。発表されている周波数特性もあわせて示す。このLS5/1Aは、イギリスのスピーカーメーカーKEFで製作されているが、どういう理由かトゥイーターはセレッションの特製品が使われ、ウーファーはメーカーが不明だが、例のKEF独特の楕円形でなく、ごく普通の15インチ・コーン型がついている。

良い音とは、良いスピーカーとは?(4)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 25号(1972年12月発行)

 スピーカーから出る音には、いかなる名文、百万言を尽しても結局、その音を聴かなくては理解できない、また一度でも聴けばそれですべてが氷解するような、そういう性質の音がある。百見一聞に如かず、とは誰がもじったのか、よくも言ったものだと思う。
 がしかし、ただ単に聴けば済むといった、そんな底の浅いものではない。
 オーディオ・メーカーの主催するレコード・コンサートが、近頃また盛んである。マニアの集いとか対話とかシンポジウムとか、いろいろな名目がついているにしても、つまりは自社の新製品の音を聴いてもらおう、という意図にほかならない。わたくし自身もまたその種の催しに、よく引き出されるが、それで困るのは、小さなホールとか会議室とか講堂などの場所で、おおぜいの人たちを相手にして、ほとんとうに良い音とまではゆかぬまでも、せめて、わたくしの意図するに近い音で鳴らすことが殆ど不可能であるという点である。
     *
 レコード・コンサートという形式がいつごろ生まれたのかは知らないが、LPレコード以降に話を限れば、昭和26年に雑誌『ディスク』(現在は廃刊)が主催した《ディスク・LPコンサート》がそのはしりといえようか。この年は国産のLPレコードが日本コロムビアから発売された年でもあるが、まだレパートリーも狭かったし、それにも増して盤質も録音も粗悪で、公開の場で鳴らすには貧弱すぎた。だからコンサートはすべて輸入盤に頼っていた。外貨の割当が制限されていた時代、しかも当時の一枚三千円から四千円近い価格は現在の感覚でいえば十倍ぐらいになるだろうか。誰もが入手できるというわけにはゆかず、したがってディスクのコンサートも、誌上で批評の対象になるレコードを実際に読者に聴かせたいという意図から出たのだろうと思う。いまではバロックの通俗名曲の代表になってしまったヴィヴァルディの「四季」を、ミュンヒンガーのロンドン盤で本邦初演したのが、このディスクの第二回のコンサート(読売ホール、昭和26年暮)であった。
 これを皮切りに、その後、ブリヂストン美術館の主催(松下秀雄氏=現在のオーディオテクニカ社長)による土曜コンサートや、日本楽器・銀座店によるヤマハLPコンサートが続々と名乗りを上げた。これらのコンサートは、輸入新譜の紹介の場であると同時に、それを再生する最新のオーディオ機器とその技術の発表の場でもあった。富田嘉和氏、岡山好直氏、高城重躬氏らが、それぞれに装置を競い合った時代である。
 やがて音楽喫茶ブームが来る。そこでは、上記のコンサートで使われるような、個人では所有できない最高の再生装置が常設され、毎日のプログラムのほかにリクェストに応じ、レコード・ファンのたまり場のような形で全国的に広まっていった。そうしたコンサートや音楽喫茶については、『レコード芸術』誌の3・4・5月号に小史の形ですでにくわしく書いたが、LPの再生装置が単に珍しかったり高価なだけでなく、高度の技術がともなわなくては、それを作ることもまして使いこなしてゆくことも難しかったこの時代に、コンサートと喫茶店の果した役割は大きい。
 LP装置も普及して個人で楽に所有できるようになってくると、コンサートの形態はやがてレコード会社が新譜紹介の場を兼ねたコンサート・キャラバンというふうに変ってゆく。しかし、すぐにFMの時代が来る。ステレオ放送がはじまり、FMが誰でも聴けるようになると、新譜を聴きにわざわざ遠い会場に集まる人は減ってしまう。コンサートという形が意味をなさなくなる。
 レコードの新譜はそうして放送でも聴けるようになるが、再生装置の音質は放送では聴けない。カートリッジの聴きくらべという番組は組めても、アンプやスピーカーの聴きくらべは放送電波には乗るわけがない。そこが、オーディオ・メーカーや販売店でコンサート開催する理由になっている。会場にはいろいろなスピーカーやアンプが置かれ、スイッチで切り換えたり接ぎかえたりして音を聴きくらべる。その場に居合わせた人たちは、確かに自分耳で音を比較したという安心感で帰途につくかもしれない。しかしわたしくは、そういう場所で聴きくらべた音、あるいはまた販売店やショールームの店頭で聴きくらべた音が、そパーツの音だと想うのは誤りだと言いたい。一歩譲っても、そういう場所で聴きくらべた音は、自宅で、最良の状態にセットしたときの音は殆ど別ものだと言いたい。それぐらいのことは、ほんの少しオーディオで道楽した人たちの常識かもしれないが、単に部屋の広さが違うとか音響特性が違うとか、部屋が変れば音が変るなどというよく知られた話をわさわざしたいのではなく、実はもう少し先のことを言いたいのである。
     *
 ラックスのオーディオ・サルーンという催しが、一部の愛好家のあいだで知られている。毎土曜日の午後と、それに毎月一回夜間に開催されるこのサルーンのメーカー色が全然無く、ラックスの悪口を平気で言え、またその悪口を平気で聞き入れてもらえる気安さがあるのでわたくしも楽しくつきあっているが、ここ二年あまり、ほとんど毎月一回ずつ担当している集まりで、いままで、自分のほんとうに気に入った音を鳴らした記憶が無い。もよう推しのほとんどはアルテックのA5で鳴らすのだが、そしてわたくしの担当のときはスピーカーのバランスをいじり配置を変えトーンコントロールを大幅に調整して、係のT氏に言わせればふだんのA5とは似ても似つかない音に変えてしまうのだそうだが、そこまで調整してみても所詮アルテックはアルテック、わたしの出したい音とは別の音でしか、鳴ってくれない。しかもここで鳴らすことのできる音は、ほかの多くの、おもに地方で開催されるオーディオの集いで聴いて頂くことのできる音よりは、それでもまだ別格といいたいくらい良い方、なのである。しかし本質的に自分の鳴らしたい音とは違う音を、せっかく集まってくださる愛好家に聴いて頂くというのは、なんともつらく、もどかしく、歯がゆいものなのだ。
 で、ついに意を決して、9月のある夜の集いに、自宅のJBL375と、パワーアンプ二台(SE400S、460)と、特注マルチアンプ用チャンネル・フィルターを持ち出して、オールJBLによるマルチ・ドライブを試みることにした。ちょうどその日、ラックスの試聴室に、知友I氏のJBL520と460、それにオリムパスがあったためでもある。つまりオリムパスのウーファーだけ流用して、その上に375(537-500ホーン)と075を乗せ、JBLの三台のパワーアンプで3チャンネルのマルチ・アンプを構成しようという意図だ。自宅でもこれに似た試みはほぼ一年前からやっているものの、トゥイーターだけはほかのアンプだから、オールJBLというのはこれが最初で、また、ふだんの自宅でのクロスオーバーやレベルセットに対して、広いリスニングルームではどう対処したらよいか、それを実験したいし、音はどういうふうに変るのか、それを知りたいという興味もあった。
 JBLが最近になって新たにプロフェッショナル・シリーズという一群の製品を発表したことはすでに知られているが、そのカタログの Acoustic Lenses Family の中で、比較的近距離(30フィート≒9メートル以内)でのサーヴィスに用いるタイプを限定している点に興味をそそられる。
 ……Where the length of throw does not exceed 30 feet.(30フィートを越える距離までは放射できません)
 model 2305(一般用の 1217-1290 に相当する。有名な LE175DLH 専用のホーン/レンズ)、および #2391(同じくHL91ホーン。オリムパスS7RやC50SMスタジオモニター等に採用されているLE85用のスラント・プレート・ホーン/レンズ)に、とくに上記の註がついている。
 もう20年近い昔のこと、池田圭氏から、ウェスターンのホーンのカタログの中に、それをならすリスニングルームの容積の指定があることを教えられたことがあったが、寡聞にして、ホーンのカタログにこうした使用条件を明確にしている例をほかに知らない。同じJBLでも、一般市販品のカタログにこの註がないのは、家庭用として使うかぎり、9メートル以上も離れて聴かれることは無いとかんがえているのだろうか。それにしても、537-500はすでに製造中止で、プロ用のカタログにも復活していないから、上記のどちらの設計に入るのかわからない。1217-1290と同系列の設計だとすれば同じく30フィート以内用とも思えるし、しかし同じ375用の──ほんらいはハーツフィールド用として設計された、そして現在も作られているセ線ン537-509ホーン/レンズ(プロ用の型番は♯2390)は、上記の指定がないところをみると、537-500の方も遠距離用かもしれないという気もしてくる。いずれ確かめてみたい。
 もうひとつの興味ある記述は、いまもふれた537-500ホーンが、一般用カタログでは500Hzクロスオーバー用とされているのに対し、プロ用では800Hz以上と指定され、しかもそこまで使うには18インチ角のバッフルにホーンをマウントせよと書いてある。もっとも、一般用のカタログでも、500Hzをクロスオーバーとしているのではなく、……JBL System crossing over at 500 cps. と含みのある表現で、JBLの指定ネットワークで分割した場合に、結果としてアコースティックな分岐点が500Hzになるというニュアンスに受けとれるが。そしてもうひとつのHL91ホーンに至っては、オリムパスでは500Hzのネットワークがついているのに、プロ用の♯2391では、800Hzからでも使えるが1200Hzの方が推奨できる、などと書いてある。
 むろんこれは家庭用より大きなパワーで鳴らされることを前提にしているにはちがいないが、だからといって、一般用を無理なクロスオーバーで使うというのも気分のよくない話だ。
 そこで白状すれば、わが家の375(537-500ホーン)は、ほぼ一年あまり前から、マルチ・アンプ・ドライブでのヒアリングの結果からクロスオーバーを700Hzに上げて、いちおう満足していた。500Hzではどうしてもホーン臭さを除ききれず、しかし700Hzより上げたのではウーファーの方が追従しきれないという、まあ妥協の結果ではあったが。
 ところでラックスのサルーンでの話に戻る。ふだん鳴らしている8畳にくらべると、広い試聴室だけにパワーも大きく入る。すると375が700Hz(12dBオクターブ)ではまだ苦しいことがわかり、クロスオーバーを1kHzまで上げた。しかしこうすると、ウーファー(LE15A)の中音域がどうしても物足りない。といってクロスオーバーを下げてホーン臭い音を少しでも感じるよりはまあましだ。075とのクロスオーバーは8kHz。これでどうやら、ホーン臭さの無い、耳を圧迫しない、やわらかくさわやかで繊細な、しかし底力のある迫力で鳴らすことに、一応は成功したと思う。まあ70点ぐらいは行ったつもりである。
 むろんこれは自宅で鳴っている音ともまた違う。けれど、わたくしがJBLの鳴らし方と指定とした音には近い鳴り方だし、言うまでもなくこれまでアルテックA5をなだめすかして鳴らした音とはバランスのとりかたから全然ちがう。ここ2年あまりのこの集まりの中で、いちばん楽しい夜だった。
 と、ここからやっと、ほんとうに言いたいことに話題を移すことができそうだ。
 このサルーンは人数も制限していて、ほとんどが常連。まあ気ごころしれた仲間うちのような人たちばかりが集まってきて、「例のあれ」で話が通じるような雰囲気ができ上っている。そうした人たちと二年顔を合わせていれば、わたくしの好みの音も、意図している音も、話の上で理解して頂いているつもりで、少なくともそう信じていた。ところが当夜JBLを鳴らした後で、常連のひとりの愛好家に、なるほどこの音を聴いてはじめてあなたの言いたいこと、出したい音がほんとうにわかった、と言われて、そこで改めて、その音を鳴らさないかぎり、いくら言葉を費やしても、結局話は通じないのだという事実に内心愕然としたのである。説明するときの言葉の足りなさ、口下手はこの際言ってもはじまらない。たとえばトゥイーター・レベルの3dBの変化、それにともなうトーン・コントロールの微調整、そして音量の設定、それらを、そのときのレコード、その場の雰囲気に合わせて微細に調整してゆくプロセスは、結局、その場で自分がコントロールし、その結果を聴いて頂けないかぎり、絶対に理解されない性質のものなのではないかという疑問が、それからあと、ずっと尾を引いて、しかもその後全国の各地で、その場で用意された装置で持参したレコードを鳴らしてみたときの、自分の解説と実際にその場で鳴る音との違和感との差は、ますます大きく感じられるのである。自分の部屋のいつも坐る場所でさえ、まだ理想の半分の音も出ていないのに、公開の場で鳴る音では、毎日自宅で聴くその音に似た音さえ出せないといういら立たしさ、いったいどうしたらいいのだろうか。音は結局聴かなくてはわからないし、しかしまた、どんな音でも聴かないよりはましなどとはとうてい思えない。むしろ鳴らない方がましだと思う音の方が多すぎる。
     *
 結局自分の部屋で鳴らしてみなくてはわからない。けれど、JBL375を、わたくしは鳴らしてみて購(もと)めたのではなかった。むろんその前に短い期間ではあったが175(LE175DLH)を鳴らして一応はたしかめている。しかし375を鳴らしてから購めたわけではない。
 ずっと昔、モノーラル時代には175の音を聴いている。たとえばヤマハのコンサート。あるいはまた、いまは無くなってしまった有楽町フードセンターのフジヤ・ミュージック・サロン。ここは当時、鈴木章治とリズムエース、藤家虹二クインテット、白木秀雄クインテットなどが、毎日ナマを聴かせていた。その演奏の合い間に、レコードやテープを鳴らす装置がJBLのスピーカーで、トゥイーターに、まだグレイ塗装の、JBLではなく Jim, Lansing と書いた〝LE〟のつかない175DLHが鳴っていた。しかしその音はどういうわけか──おそらくアンプかどこかが歪んでいたのだろうと思うが、およそ175本来の片鱗もない、ひどく歪みっぽい、じゃりじゃりした音で鳴っていた。片鱗も無いなどとは今だからそう言えるので、ちょうどその頃は、高価な品物が買えないひがみもあって、アメリカ製のスピーカーにはロクなものが無いなどというラジオ雑誌の記事を鵜呑みにしていたのだから、そういうひどい音を聴いたところでかえって国産愛用の念が強まればこそ、歪んだ音ぐらいでは少しも驚きはしない。ではヤマハのコンサートではどうだったのかといえば、そこではまさか歪んだ音など出してはいなかったが、外国製品は悪いと頭から信じて聴けば、良い音も悪く聴こえるものだし、良い音と信じて聴けば、鳴っていない音さえも鳴って聴こえる。
 ただの比喩ではない。実際にあった話だ。当時、外国製スピーカーは悪いという伝説を撒きちらしていたオーディオ・マニアのグループが、これこそは最高と信じていた国産のホーン・トゥイーターがあった。そのトゥイーターを、あるとき、レコード愛好家のS氏邸に持ちたんだのだそうだ。そうだ、というはそこにはわたくしは居合わせず後から伝え聞いた話なので、だからこの話には誇張があるのかもしれないが、ともかく、S氏のスピーカー・システムのトゥイーターをそのホーンに接ぎかえて、レコードをかけた。マニアのグループは期せずして素晴らしいと叫んだそうだ。本もののトゥイーターをつけると、ほら、こんなにハイが美しくなるんですよ。ハイを伸ばすと、高音がキンキンするというのは迷信です。本当に歪みなくよく伸びた高音は、こういうふうにおとなしいのです……。エンジニアがしたり顔で解説したそうだ。この説明はしかし全く正しい。
 ところでS氏は黙って聴いておられたが、やおらつかつかとスピーカー・システムのところに歩みより、トゥイーターに耳をつけて音を聴くことしばし。
「君、このスピーカー、鳴っとらんぞ」
 一同がどういう顔をしたのか、接続をし直して鳴った音をそれからどう説明したのか、そのあとの話は知らない。
 けれど、実はこの話をただの揶揄でここに書いたのではない。むしろ逆だ。信じて聴く耳は、鳴らない音さえ聴きとることを、この実話はみごとに物語っている。確かに一同の耳にはそのとき素晴らしい理想の音が鳴り響いていたに違いあるまい。この話は滑稽であるだけに、かえって悲しいほど美しくわたくしには思われる。わたくしにだってそれに似た体験が無いわけではない。

良い音とは、良いスピーカーとは?(3)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 24号(1972年9月発行)

     V
 原音を録音し再生するという一連のプロセス。仮にそれを、原音を写実することだ、として考えを進めてみよう。
 写実とは、素朴な意味では写すことであり倣うことである。広辞苑によれば「事物の実際のままをうつすこと」とあり、写実主義即ちリアリズムはハイ・フィデリティに通じる。
 しかしハイ・フィデリティ・リプロダクション──高忠実度再生──を表面的に解釈する態度は、この問題はひどく歪めてしまう。仮に原音に忠実な再生、と定義してみるとしても、では原音の何に忠実なのか、原音とは何か、と考えてゆくと、ことは意外にむずかしい。
 もういちど、ナマと再生音のすりかえ実験を思い起してみよう。
 ステージでは何十人かのオーケストラが、それぞれに、針金や馬の尻尾や川や木を、こっすたりたたいたりして演奏している。その演奏はあらかじめ2チャンネルのステレオでレコードに録音されていて、途中から再生音にスリかえるというのであり、すでに述べたように、大多数の聴衆は切り換えの箇所を明確に指摘できなかった。
 この事実は、原音が忠実に再生されたことを意味するのだろうか。少なくとも、物理的には答えは否である。だってそうだろう。ステージに並んだ演奏者と同じ数のスピーカーが使われたわけではないし、スピーカーの発音体は徹夜ジュラルミンの薄膜であって、楽器の発音体とは材料も形状も構造も著しく異なっている。物理的に、原音と全く異質の音が再生される筈がない。にもかかわらず、聴衆の耳にはナマと再生音の区別が明確にはつきかねた。
 すると、スピーカーからは必ずしもナマと等質の、物理的に=の音が再生されなくとも、人間の耳はけっこうゴマ化される、ということになるのか?
 事実ゴマ化された。しかし、人間の耳がエジソンの蓄音機からすでに《原音そっくり》の音を聴きとってきたことから想像がつくように、これはハイ・フィデリティの本質にかかわる問題であって、そう簡単な結論では片づかない。それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
 ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
 ホールでの実験は別として、我々に切実な問題は、レコードやテープをわが家で再生するときの、音質の良し悪しである。家庭での音楽再生、という問題になると、たとえば音量ひとつとっても、六畳から八畳、広くてもせいぜい二、三十畳という個人のリスニングルームには、オーケストラのスケールは物理的に収まりきらないし、六畳ではフル・コンサート・グランドさえおぼつかない。つまり一般家庭では、もとの楽器のアクチュアル・サイズ(原寸)で持ちこむことさえすでに不可能と言える。
 しかしそういう前提でも、小さな部屋で、「原音を聴いているような感覚」を生じさせることは十分に可能である。そしてそのときの再生音は、決して、物理的な意味で原音と等質(イコール)ではない。
 まず、ラウドネスの問題ひとつとりあげても明らかなように、人間の耳は、音量の大小に応じて聴感周波数特性が変化し、音量を絞るにつれて、低音と高音の聴取能力が劣ることはよく知られている。したがってボリュームを絞った場合には、低音や高音を適宜強調してやることが、結果として、よいバランスに聴こえる。いわばこれは錯覚にはちがいないが、人間の耳には現実にそう聴こえるので、物理的にはフラットでなくとも、耳にフラットに聴こえるという事実の方が重要だ。
 オリジナル(原音)に対して大きさ(尺度)自在に伸縮できるというのは、音の録音・再生に限らず、あらゆる複製メディアの特質とも言える。たとえば映画。シネラマのあの巨大な画面いっぱいに俳優の顔が大写しされても、慣習はそれをたいして不自然なことと感じていないどころか、あの白いスクリーンに、砂ほこりが舞えば思わず目をしばたたき、ジェットコースターが走れば胸の動悸が激しくなり、登場人物の悲しみには涙まで流す。言ってみればそれは、白いスクリーンに投影された束の間の幻影にすぎないのに、我々はそれを虚像と知りつつ、心の底から揺り動かされるほどの激しい感動を味わう。こうした感動は、レコードの音楽から味わうそれとはほとんど質的に同じものと言える。感動のしくみは、物理的なフィデリティとはほとんど無関係なのである。
 音像といい映像といい、それが空間に鳴りスクリーンに投影された状態を、われわれは虚像と呼ぶ。その虚像がしかし、なぜ、本もの以上に人の心を揺り動かすのか。映画には芝居とは別の魅力があり、再生音にはナマ演奏とは明らかに異質の魅力がある。レコードを聴くという行為には、わたくしたちは、ナマを聴くのと別の姿勢で──そう意識するとしないとを問わず──臨んでいる。なぜ、レコードを聴くことが楽しいのか。それは再生音というものに、ナマとは違った別の価値があるからにちがいない。再生音がナマ演奏の複製であるのなら、再生音にナマとは別の──ときとしてナマ以上の──感動をおぼえるという事実の説明がつかなくなる。
 言うまでもなく、レコードも映画も、それが作られた当初は、ナマのコピーという機能だけで使われた。しかしレコーといい映画といい、かりに対象を忠実に記録したものであっても、それをいく度もくりかえし再生するプロセスに、オリジナルを鑑賞するのとは別の魅力があることに人びとは気づくことになる。
 古代アルタミラの洞窟壁面には、いろいろの獣が描かれているが、それは決して単なる装飾ではなく、獣たちを捕獲し、且つ彼らの増殖を祈る呪術的行為であったとされている。古代人にとっては、描くことすなわち捕獲したことであった。それを古代人の未分化と笑う前に、現代人のわれわれにいったいそうした衝動が無いだろうかと考えてみる。
 第二次大戦のさ中、わたくしは集団疎開児童であった。疎開先のお寺の本堂で、より集まっては、シュークリームやチョコレートや、クリームパンや、おいしいものの絵をかわりばんこに誰かが描く。すると、どこからか、おいしいチョコレートやクリームの匂いがしてきて、子供たちは鼻をひくひくさせて、しばらくはおいしい匂いを腹いっぱいに吸い込むのだった。そんな体験はわたくしだけかと思っていたら、新聞や雑誌に戦時中の思い出ばなしが載るたびに、あるいは戦場で、あるいは防空壕の中で、同じような体験をした人たちが多勢いたことを知っておもしろく思った。
 わたくしなど、ことにこの幼児的傾向が強く、いまでもまだ、ほしくてたまらない品もの──たとえばスピーカーでもアンプでもカメラでも──があると、その品物が実際に手に入るまでは、ヒマさえあると原稿用紙の切れはしなどにその品ものの絵を描いて楽しむくせがある。対象物を描くことによってお腹をふくらませたりその品を手に入れたような気になるのは、なにも古代人ばかりではないようだ。つまり対象を模写するという行為は、対象物を主体の側に転位させる人間の根本的な発想だと言えるのではないだろうか。レコードを聴くという行為は、オリジナルの複製(コピー)のおすそ分けにあずかるのではなく、まさに音楽を自分のものとする行為にほかならないのだ。そうなったとき、《原音》は客体として存在しているのではなく、もはや自分の裡の主体として実在する。言いかえれば、自分のレコードは原音のコピーのひとつ、なのではなく、自分のレコード即原音、になるのである。
 レコードのこういう機能は、それが映画のように公衆(パブリック)の場でよりも個人(プライベイト)の場で鑑賞されるという性質上、より顕著である。映画が多くの場合、芝居と同じように特定の場所で複数で鑑賞されるのに対し、レコードは、より読書的な性格が強い(映画でもテレビで放送される場合、あるいはVTRの場合はまた別の見方ができるが、ここでは深入りしない)。
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
 人は往々にして、現実世界のできごとよりも虚構の世界のできごとから、より多くの感動を味わう。虚構の世界では、現実世界のわずらわしい日常的な小事件をきれいに洗い流し、事物の本質をえぐり出すことができるからである。映画や小説の中の人物は、往々にして実生活以上に深い生き方を教えてくれるし、レコードの演奏からはときとして実演以上のすばらしい感動を味わうことができる。そういうリアリティを描き出すことが、いわゆるリアリズムの芸術であり、そういう感覚を生じさせるために、オーディオの録音・再生のプロセスにハイ・フィデリティの介入を欠くことができないのである。
 虚構の世界では、ナマ以上の生々しい感動を伝えることができる。「ナマを聴いたと同じような感覚」を、視覚ぬきで伝達するためには、虚構の約束の中での取捨選択が行なわれる。それは物理的にはナマとは全く違っているかもしれないが、人間の感覚に、明らかに生々しい印象を与えることができれば、それは結局、観念の中の《原音》、抽象化されたイメージの中の原音を、正しく再現したことになる。そういうプロセスに、録音→再生の一連のシステムも、そのための演奏も、再生した音を受けとるリスナーの姿勢も、すべてが関わりを持っている。どこが欠けてもこの感動は盛り上らない。原音の再生は、物理的なアプローチだけでは決して完成しない。
 とはいうものの、以上の論旨を、原音の基準など何もないとか、物理的なフィデリティなど不要だというように受けとって頂いては困る。音楽の録音とその再生というプロセスにさまざまのメカニズムが介在する以上は、メカニズム自体に、以上のような人間の心理の微妙な関わりあいや意識の流れを妨げるような欠陥があることは不都合きわまりない。ハイ・フィデリティにつきまといやすい大きな誤解のひとつに、たとえばスピーカー固有の音色が、あたかもスピーカーの「表現能力」であるかのように思いこむ危険がある。そのことは次回以降でくわしく論じることになるが、いまここで明確にしておかなくてはならないことは、レコードの録音、再生のプロセスに介在するあらゆるメカニズムは、人間の感覚や意思に自由に従うことのできる柔軟性と、人間の要求に応じることのできる能力を備えていなくてはならない。くりかえすが、メカニズム自体の能力や個性を、録音→再生の美学や哲学の問題の中にまぎれこませてはならない。その点をいま少し明らかにするためには、人間自身の、事物に対する認識の限界を考えておく必要がありそうだ。

     VI
 頭上高く上った月よりも地平線近くの月の方が大きく見えることはすでに例にあげた。それは錯覚であるにはちがいないが、人間にとって、物理的に存在する空間などというものは無意味であって、人間が知覚できる空間こそ、ほんとうの空間の価値なのである。
 絵画の中に現代の遠近法がとり入れられたのは比較的新しいことで、たとえば日本の絵巻物などでは、建築物が手前も向うも同じような大きさで描かれている。当時の人たちは、そういう空間のあらわし方のほうを自然だと感じたのか、それとも何か別の感じかたをしていたのか、そこのところはよくわからないが、現代人の知覚には、一点透視の遠近法が最も自然に感じられる。しかし、同じ一点透視であるにもかかわらず、写真レンズの焦点距離を変えると、ものの遠近法が強調されたり逆に凝縮されたように感じる。これも一種の錯覚にはちがいないが、やはり人間にとって、そう見えるという事実の方が現実なのである。
 音のほうでも同じような現象はいろいろある。たとえば、さきに、例にあげたラウドネスの問題など、いまの遠近法の例に似ているかもしれない。また音階の分け方、音程(ピッチ)のとりかたでも、物理的にきんと割ったのでは正しい音に聴こえないことはよく知られている。
 これらは物理量と感覚量──言いかえれば客観的にそこに存在する量と、人間がそう感じる量とか必ずしも相関関係にないということの例証だが、もっと単純明快な例に、可聴周波数範囲をあげよう。
 ご承知のように人間の耳には16ないし20ヘルツから約20キロヘルツまでの音が聴こえるとされる。つまりそれを《音》と言っているが、たとえばイルカには150キロヘルツという高い音(人間の世界では「音」と言わず超音波または高周波と言う)が聴こえることが知られている。蛾もやはり150キロヘルツあたりまでを感じるし、コウモリも120キロヘルツあたりを感じる。犬でさえ50キロヘルツが聴こえる。また音の強さにしても、人間には、1キロヘルツで0ホン(0.0002μbar)いかの音は聴こえない。もしもハエが脚をこすり合せる音、アリが触覚をふれ合う音、が聴こえたらどうか……。
 要するに人間世界で《音》と定義しているものは、広く自然界に存在する空気の波動のうちのごくせまい一部分にすぎない。だからといって、聴こえないものを音を定義することは何の意味もない。人間にとって、そう聴こえる音、以外のものは存在していないと同じなのだから。
 このように、人間の感覚とはある限定された条件の中に存在し、そういう感覚で感じとった対象だけが、人間にとっての実在であるとすれば、純粋に物理的な意味で現象の存在そのものは人間にとって全く無価値であって、そのように見え、そのように聴こえ、そのように感じる、という知覚の範囲の世界こそ、現実そのものと考えることができる。物理的な存在に対する心理的または精神的現実(リアル)こそ、実在そのものである、と言ってよい。左右両隅のスピーカーが提示した音像が、スピーカーの無い中央の空間に浮かんで聴こえるというのは錯覚だが、そうだとすれば、錯覚こそ実在、と考えるべきではないだろうか。この定義は、人間の精神に訴えるあらゆる事物との関係を解き明かす重要な鍵になりそうだ。

良い音とは、良いスピーカーとは?(2)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 23号(1972年6月発行)

     III
 スピーカーが《原音》を鳴らすことができると思うのは、ひとつの大きな誤解である。
 エジソンやベルリーナの、今日からみればきわめて貧弱な特性の蓄音機から出る音に、当時の人たちが『原音そのまま』の音を聴きとったことは前号にもふれた。そういう音であっても人の耳は原音を聴いたように感じということは、裏返していえば、スピーカーからは必ずしも、物理的な意味での原音が再生される必要のないことを語っている。当時の人々の耳は幼稚だったなどとけなすのはすでに現代人の感覚でものを言っていることになるので、いつの時代の人でも、現に4チャンネルを体験しているわれわれでさえ、SPがLPになったとき、さらにそれがステレオになったとき、それぞれに、これで原音再生が可能になったと本気で信じたことがあったではないか。
 考えてみれば、ステレオの音の聴こえ方というのは実にふしぎなものだ。前方左右のスピーカーの中央に、たとえばソロ・ヴァイオリンがくっきりと浮かび上る。あるいは、左右のスピーカーのあいだいっぱいがオーケストラの音で埋まり、その音像は壁の向うまで奥行きを生じあるいはスピーカーのこちら側にせり出して聴こえてくる。
 現実にそう聴こえるというこれはわれわれの日常の体験であるが、そういう音を鳴らして聴かせるスピーカーは、左右両隅のいわば二つの点に置かれているだけが。にもかかわらず音はスピーカーの無い空間から確実に聴こえてくる。ヴァイオリンの独奏が、確かに二つのスピーカーの中央に浮かび、オーケストラはいっぱいに並ぶ。そう聴こえたからといって、その音が壁から鳴ってくるものではないことぐらい、誰にでもわかっている。ではどういうことなのかといえば、音はそこで鳴っているのではなく、正確にいえば聴き手(リスナー)の頭の中に、そういう音像が形成されるのである。二つの点から発する音波は、そういう音像(イマージュ)を形成するための単に材料であるにすぎないとさえ言ってよい。スピーカーは音の素材を提示(プレゼント)し、聴き手(リスナー)の頭の中に音像(プレゼンス)が形成される。そういうステレオの仕組みの結果、二つの点は、むしろその二点を結んだ《線》、あるいはさらに《面》のように、あるいはまた奥行きを伴った《立体》であるかのように聴こえ、ステレオ独特の雰囲気を漂わせる。漂うという言い方も、少しばかり理屈っぽく考えれば二つのスピーカーの空間を漂うのではなく、リスナーの頭の中を漂うのだが。
 なにも不思議がることはない。リスナー前方左右に等距離に置かれたスピーカーから、等音量、同位相かつ同じ音色の音が鳴れば、リスナーには音像は中央にあるように聴こえるし、左右各チャンネルの音量や位相や音質を操作することにより、音像は右、左、あるいは前方いっぱいに、さらには左右のスピーカーの外側にまで、拡がりあるいは定位させることができる──といったような答えは、ステレオの原理を知るものにとってはあたりまえすぎておもしろくない。要するにそれは一言でいえば錯覚なのだが、錯覚というもの、少しも悪いことではなく、考えてみれば人間の感覚にはずいぶん錯覚がある。よくひきあいにあげられるのは、中空高く上ったときより地平線近くの月のほうが大きくみえるという事実で、これもまた錯覚である。しかし大切なことだが、錯覚のしくみをいくら理づめに説明されたからといって、そういう感覚が人間から消え去ったりものの感じ方が少しでも変るようなことは無いので、それが人間の心理なのだとして素直に受け入れておけばよいのである。
 ステレオの左右のスピーカーが、原音をじかに鳴らすのではなくむしろ聴き手の頭の中に音像(プレゼンス)を惹起させる素材としての意味が強いのに対し、モノーラルのスピーカーは、実際にそこで原音を鳴らす必要があった。リスナーはスピーカーに面と向っていて、音は疑いもなくスピーカーそのものから出てくるのだから、モノーラルで《原音》を聴かせるには、スピーカー自体を恐ろしく大仕掛けにする必要があった。モノーラルのスピーカーは、ステレオ的な空気(プレゼンス)など初めから鳴らしはしないかわりに、楽器そのものを、リスナーの目の前にありありと現出させなくてはならなかった。ステレオ以前、モノーラルLPの後期、いわゆるハイ・フィデリティ時代の最盛期に生まれた数々のスピーカー・システムの名作は、その事実を如実に示している。たとえば、エレクトロヴォイスの旧型(クリプシュK型ホーン)の〝パトリシアン〟各型や、アルテックの〝820A〟システムや、JBLの〝ハーツフィールド〟や、ヴァイタヴォックスの〝クリプシュホーン・システム〟や……といったもろもろの大型スピーカーシステムは、すべてモノーラル時代の傑作で、それぞれ例外なくコーナー型のホーンシステムである。いわばこれらは、低音再生の限界への挑戦であった。15インチ(38センチ)の強力型ウーファーを一本、あるものは二本パラレルで使い、それにコーナー型ホーン・バッフルを組み合わせ、リスニングルームのコーナーの床と壁面をホーンの延長として低音再生を助けようという、いわば一種の狂気とさえ思える大がかりなものである。左右二ヶ所から空間に音像を浮かばせるというようなステレオ効果の期待できない時代に、低音を、ほんものの低音を確かに鳴り響かせるということが、いかに音像をしかと支える重要な土台になるかを、彼らは知っていた。何サイクルまで出るか出ないかといった〝量〟の問題ではなく、そうして出てきた低音の音の形が、つまり〝質〟がいかに優れているか、オルガンやバスドラムやダブルベースやコントラファゴットの低音の底力のある深い弾力を、何とかして再現し、それを再現することが、唯一最高の、真のスケール感の再現であることを彼らはおそらく知っていた。そういう低音を決して饒舌でなく、必要なとき以外はむしろウーファーが無いのではないかと思えるほど控え目であり、しかし一旦低音楽器が活躍しはじめるや、部屋の空気がたしかな手ごたえでゆり動かされ、からだ全体を音が包みこむ。そしてそういう真の低音に支えられた中音や高音はまた、如何に滑らかで柔らかくしかも輪郭のしっかりしていることか……。
 しかしまもなくステレオ時代がやってきた。経済的に、あるいはスペースの問題から、ステレオはそうした大じかけなスピーカー二台ペアで置くことをためらわせた。しかも、ステレオにすればなにも大型スピーカーでなくとも二台の小型スピーカーで、大型に優る効果が得られるという説が流布され、ARが主流の座にのし上がり、やがてブックシェルフ全盛期が訪れて、かつての大がかりなスピーカーは次第に忘れ去られ、メーカーもまたそういう手の込んだシステムを作り続けてゆくことが困難な時代になってゆく。
 ステレオ効果は、小型スピーカーでも十分に味わえるというのはたしかな事実だが、それは決して、良質の大型スピーカー二台よりも優っているわけではない。こうした明白な論理はつい忘れられる。
 このことは4チャンネル時代のいま再びむし返されてリア・スピーカーは安物でも結構といった俗説がまかり通っている。ここでは4チャンネルについて言及することは避けたいが、四ヶ所にありさえすれば小型スピーカーでもよいという意見を信じるのなら、仮にその四ヶ所にトランジスタのポケットラジオ程度のスピーカーを置くといった極端な形を想像してみれば明らかに鳴る。音源がたとえ2ヶ所から4ヶ所になり、あるいは将来8、10、12……とかりにチャンネルが増えていったとしても、一ヶ所あたりの音のクォリティを決定するのはスピーカー自体の良否であることぐらい、ちょっと考えてみれば馬鹿げて思えるほど簡単な公式なのに、ついわれわれは俗説に惑わされやすい。
 たしかに2チャンネルのステレオによって、モノーラルでは再現できなかった空気感、音が空間を漂う感じが出せるようになった。そういう雰囲気はスピーカーの大小にかかわりなくたしかに出せる。さらに、古くフレッチャー博士による「2チャンネルで50Hzから5kHzで再生されたステレオの音は、モノーラルの50Hzから15kHzの再生音のクォリティに匹敵する……」という説があり、むろんこれは一九三〇年代実験による結論であるにしても現在でもうなずける説であって、そこともステレオの──ひいては4チャンネルの、大型スピーカーの不要論の裏づけに引用されていることも確かである。しかしくりかえすが、だから大型が──というより大小を問わず良質のスピーカーが──不要であり小型ローコストの普及型でいいといった考え方は、全く粗末きわまる暴言なのである。
 しかしわたくしは、はじめに、原音はスピーカーが鳴らすのではないと書いた。だから出てくる音のクォリティがかりに貧弱なものであっても人の耳は原音の存在をありありと感じることができるとも書いた。そのことと、いま述べたこととは矛盾するようにみえるかもしれないが、そうではない。
 さきにも述べたように、ステレオの音像を感じるためには、単に二つのスピーカーがそこにありさえすればよい。ステレオの効果(エフェクト)だけに限っていえば、音像を形成するのはむしろ聴き手(リスナー)の側の心理のメカニズムなのだから、スピーカーはただそのきっかけを作ればよい。音を感じるのはこちらのイマジネーションなのだから、裏返していえば、イマジネーションの豊かな人間にとってはスピーカーからの音の貧弱であることはたいして苦にならないことだともいえる。
 しかし大多数の人々がそんな音から現実感を思い描くことのできたのは、やはり遠い昔の話であって、現代のハイ・フィデリティを一旦聴いてしまった耳には、古い蓄音機の音は昔の記憶を呼び起こす以上の何ものでもなくなってしまっている。機械文明というものの背負った宿命のようなものだ。《原音》を究極感じとり創り上げるのは人間の聴覚と心理の問題だが、現代の人間の耳はすでにぜいたくになってしまって、クォリティの低いプアな音ではもはやイマジネーションが浮かばない。だからスピーカーはどこまでも精巧な音を出すように作られてゆく。けれどどこまで行っても、スピーカーが鳴らす音が聴き手(リスナー)の耳に達して、頭の中に音像ができ上るというプロセスの変ろうはずはなく、その意味で、原音を鳴らすのはスピーカーではなく、それはリスナーの頭の──心理の問題だといいたいのである。スピーカーがいかに精妙な音で鳴ったとしても、聴き手の側にそれを受け入れる準備が無ければ、それはただの空気の振動にしか、騒音にしか、すぎないのではないか。一方ではスピーカーの音はどこまでもハイ・フィデリティになってゆき、しかしそれだけでは不十分で、聴き手側のイマジネーションが永久にかかわりを持つ。ここが音の録音・再生のメカニズムのおもしろいところだと思う。

     IV
 写真のメカニズムには、映像を記録し伝達する特性がある。写真ははじめこの記録性を自覚し、対象の精確な写実という特性のために肖像画や風景画の代用として使われ、画家たちはカメラの普及を怖れた。時が流れて、人びとは記録の持つリアリティがものを創造する力を持っていることに気がつき、やがて映像の美学が確立し、写真もまた、立派な創造芸術であることを知るに至る。こことについてはあとでもういちどふれることになるが、写真の歴史の流れの中にも、何度か曲りかどがあった。
 たとえば初期の不完全なレンズはさまざまの収差を除ききれず、あるものは独特の色彩を生じ、あるものは対象をソフトフォーカスで写し撮った。それらの色彩やボケもまた表現であり創造であるとする錯覚が、ひところの写真を絵画の代用という低い地位に陥しかけた。いわばレンズやメカニズムの不完全さが、美学の問題とすりかえられたのであった。しかし創造するのはメカニズムでなくメカニズムを扱う人間であり、メカニズムは単にそのための手段であることを思い至れば、レンズがその不完全さのために作る独特の《味》は、いわばまやかしであることがわかる。この場合メカニズム自体は冷酷なほど正確であるべきで、そういう正確さを駆使して、人間が思いどおりの映像を組み立てるべきなのだ。メカニズムはそのための手段である以上、どこまでも正確さに向かって完成の道を進むべきものだ。問題をレンズでなくスピーカーに置きかえてもこの道理は変らない。
 写真レンズがポートレート用とか風景用などと分類されていた時期があった。これは恰も現在のスピーカーをクラシック向きとジャズ無企図に分けるのに似ているといえなくない。かつて写真レンズには、テッサーの味、ゾナーの味、ヘリアーの味……といったものが存在し、その描写のクセは、でき上った印画からさえ容易に判定できた。いまはもう、印画を見てレンズのメーカーやタイプを言いあてることがほとんど不可能であるほど、レンズのクセは少なくなり、メーカーごとの個体差にもそれとわかるほどの大きな相違はなくなっている。そういうメカニズムを前提にして、ひとは表現し創造する。
 能舞には三つの段階があるのだそうである。第一に『基礎』。第二に『写実』。第三に『創作』。
 一の「基礎」は、写実のための条件──すなわち技術──が完備することをいい、「写実」とは字義どおりそうして完成した条件を生かして写実することであり、最後の段階では写実を越えて創作することだ、というのである。実に簡潔な定義だがこの言葉はたいへん深い問題を考えさせる。そしてまた、写真やオーディオの考え方とあまりにも似ていて驚かされる。
 技術やメカニズムが完成しなくては、写実さえできないし、しかしそれが完成すればやがてそれはものを創造する道に通じるというのは、すでに写真や映画の領域では多数の実例によって例証することができる。オーディオの場合もまた、この論理はそのままあてはめて考えることができる。
 いやオーディオでも、そんなものはもう実現していると反論されるかもしれない。たとえばアメリカで──日本でも──行われたナマ演奏と再生音のスリかえ実験を思い起こしてみる。ステージにはオーケストラが並び、オーケストラのあいだにスピーカーが適宜配置され、聴衆の面前でオーケストラは演奏をはじめる。
 その演奏はあらかじめ録音してあったレコード(又はテープ)の再生音に途中から切換えられる。アメリカでのそれはカーテンの向うで行なわれ、日本での実験はオーケストラが途中から身振りだけして音はスピーカーから出るという趣向で、いずれの場合も居合わせた聴衆の中でその切換を正確に指摘できた者は全体の数%以下であった。つまりいずれの場合にもナマと再生音のスリかえは成功し、音量音質から定位感まで含めて、原音を再生することができたと報告されている。
 これらの実験の成果には疑いの余地は全くなく、それぞれの場で原音の再現は確かに出来た。しかしこれをもってただちに、原音再生の技術が一般的に完成したかのように考えるのは正しくない。現に日本での実験を成功させた技術者自身の口からも、広いホールでなくもっと残響の少ない、要するに一般家庭のリスニングルームにより近い部屋でこうした実験が成功するのは、もう少し先のことだろうと聞いている。広い残響の多いホールでは原音再生が可能な程度の技術は完成しているが、ふつうの住宅での聴き方のような狭い部屋で──とうぜんスピーカーとリスナーの距離がうんと近く、残響時間の短い──こまかなアラの出やすい──状態での再生には、まだまだ難問が残されているという意味である。写実のための条件はまだ〈完成〉してはいないのである。むろんそんなことは、われわれユーザーとしてオーディオパーツを買って毎日聴いてみて、よい音を再生することのいかに困難かを身に沁みて知っているが、それであればなおさらのこと、われわれはもう一度ハイ・フィデリティの原点に立ちかえって、真の意味での写実から始めてみてはどうかと思うのである。

良い音とは、良いスピーカーとは?(1)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 22号(1972年3月発行)

「原音」とは何か、「原音再生」とは何か
     I
「昨日著名な俳優数人の声を録音したのにひきつづき、蓄音機は今朝カーリッシュ Paul Kalisch =レーマン Lilli Lehmann のコンビの歌を録音した。最初リリー・レーマン夫人が《ノルマ》のアリアを一曲歌った。夫人が歌っているとき、たまたまフランツ皇帝近衛歩兵隊がジーメンス・ハルスケ(※1)とおりを行進し、同軍楽隊のマーチ演奏がレコードのなかへ迷いこむ結果となった。そのあとレーマン夫人とカーリッシュ氏は、《フィデリオ》の二重唱を一曲歌った。(中略)正午に次官ヘルベルト・ビスマルク伯 Graf Herbert Bismarck が姿を現わし、まずヴァンゲマン氏(※2)から装置の説明をくわしくうけられた。御質問ぶりから伯爵が大西洋の彼方のこの不思議についてすでに御存知なことがうかがわれた。伯爵は蓄音機を親しくごらんになって、ひじょうに御満足そうであった。再生音の高低と遅速を随意に変えられることをお聞きになって、にっこり微笑まれ、カリカチュアにとくに威力があるだろう、といわれた。もっと大型の蓄音機も作られているかという伯爵の御質問に、ヴァンゲマン氏はエディソンが大型の装置を一台製作させているむねを申しあげた。伯爵は昨日俳優のクラウスネック Krausneck が録音したモノローグをお聞きになり、『不気味であると同時に滑稽に聞こえる』と感想をのべられた。つづいて音楽のレコードをお聞きになって、『目の見えない人ならさだめし楽団の実演と思うだろう』といわれた。……」
(一八八九年十月二日付《フォス新聞》クルト・リース著『レコードの文化史』佐藤牧夫訳・音楽之友社。傍点瀬川)
 エジソンの円筒蓄音機フォノグラーフが、はじめて海を渡って、ドイツ・ジーメンス社の社長フォンジーメンス邸で公開されたときのもようを報じた記事である。そしてもうひとつの記事。
「この平円盤(グラモフォン)レコード蓄音機は目下エディソンの円筒レコード(フォノグラーフ)蓄音機と地位を争っているが、じつに優秀な性能をもっている。発明者はすでにさらに改良に着手しているが、いまでもエディソンの装置より安価で安定した性能をもっているので、さらに改良されたあかつきにはフォノグラーフと激しい競争をくりひろげよう。グラモフォンは必ずしも雑音なしとしないが、人間の声でも書きの演奏でも、録音された音をりっぱに、忠実に再生する。グラモフォンがとくに成功したのは多声楽曲の再生で、個々の楽器や声の音色がほとんど申し分なく、忠実に再生される。……」
(同じ《フォス新聞》一八九〇年一月。前出書より)
     ※
「実演さながら」「原音を彷彿させる」「まるで目の前で演奏しているよう……」そうした形容は、蓄音機の発明以来ほとんど限りなく使われてきた。それは、新らしい音をはじめて耳にしたひとたちの素朴ななどろきの表現であったと同時に、ひとが録音とその再生というものに求める本質的な願望でもあったに相違ない。それからすでに80年あまりを経て、それはまさに《タンタロスの渇き》であることに人は気づきはじめたのだが、それでもなお、原音の再現というもっとも素朴なそれだけに根本的な欲求にも近いこの幻影を追うことを、おそらく私たちはやめはしないだろうと思う。
 しかしまた「原音再生」というスローガンくらい誤解をまねきやすい言葉もない。古い話は措くとしてLP以後あたりからふりかえってみても、一九四七年から五〇年ごろにかけて、英国のIEE(英国電気学会)とBSRA(英国録音協会)などによって、各方面の音響研究者やエンジニアたちが、活発な討議をくりかえした時期があった。(これら討論会の記録の要点は、昭和26年8月号の「ラジオ技術」および昭和32年発行の同誌増刊第14集などに、北野進氏──当時東京工大講師。現NF回路設計ブロック)によって紹介されている。このとき以来、高忠実度再生 High Fidelity Reproduction ──忠実な再生──に対して、グッドリプロダクション Good Reproduction ──良い音の再生とでもいうべきかという概念(言葉)が作られた。スクロギー M. G. Scroggie の定義によれば、ハイ・フィデリティーとは《原音を聴いたと同じ感覚をよび起すもの》であり、グッドリプロダクションとは《もっとも快い感覚を生ぜしめるもの》だとしている。このことは、《原音》がつねに快い感覚を生じさせるとはかぎらない、という意味でもあるが、これと同じ意味のことを、アメリカのヨゼフ・マーシャル Joseph Marshall は次のように言う。

「──完全な再生及び忠実度と、〝快く、柔らかい〟という形容詞との間に必然的なつながりはない(中略)。高忠実度再生に関連して起る混乱の多くは、音楽についての経験や知識をあまり、あるいは全く持たない人々が、〝気持の良い音がするか、しないか?〟という問いの形で再生の質を判断する傾向があることから生じている──」(J・マーシャル〈音質のよしあしをきめるには〉ラジオ・アンド・テレビジョン・ニューズ日本語版臨時増刊〈これからの電蓄と拡声装置〉昭和26年3月刊より)。
 マーシャルはこれに続けて、音楽はたいてい快いものだけれども、その中の音だけとりだしてみれば、明らかに不快というべき素材としての音はいくらもあり、そういう要素を美化することなく「単にそれを最大の忠実さで再現しようとしているのである」と述べる。もちろんそれは「高忠実度再生が不快なものでなければならぬということを意味するものではない」ので、不愉快きわまりない音のするいわゆる高忠実度再生というのが多くの場合、原音に忠実なためにそう聴こえるのではなく、人間の耳が我慢できる限界以上の多量の不快な要素──たとえば歪──を原音につけ加えているからにすぎない、といい、さらに、〝疲労率〟ということばを使って、
「諸君の音響装置で高忠実度プログラムを5時間か10時間、普通よりもすこし大きめの音量でぶっ続けにかけてみる。その間、諸君やご家族は平常の仕事をしているのである。これでもし諸君やご家族がイライラしたり頭が痛くなったりせずに何時間も休みなしに聴くことができれば、この点(疲労感や苦痛感をともなわないこと)に関しては合格と考えてよい。けれどもまさしく皆がイライラしたり頭痛がしたりするようだったら、また大分してからスイッチを切ってくれと頼むようだったら、さもなければあっさり家から逃げ出してしまうようだったら……それは彼らが人生の美なるものを解さない人間だからでなく、諸君の増幅器の歪が多すぎて、疲労率が高すぎるためである可能性が大きいのである。」(前出書)
 それから10年を経たいま、はたして10時間ぶっ続けに鳴らしても家族が逃げ出さない程度にまで、オーディオ機器の性能が改良されたかどうかについては、いまここではふれずにおく。それよりも大切なことは、当時、高忠実度再生という言葉が、スクロギーたちイギリスの音楽関係者のあいだでもマーシャルらのアメリカのオーディオ技術者のあいだでも、いまよりは比較的厳格に解釈され定義づけられているという点であろう。これはひとつには、これらの論議がもっぱらエンジニアや学者たちによって行なわれたために、しぜんに即物的な方向をとらざるをえなかったという理由によるものだろうし、またもうひとつ、大戦後のあの混乱した時代に、過去のきずなを断ち切って、あらゆる問題を理性的に整理しなおしてみたいと願った人びとのしぜんな欲求のあらわれではないかと思う。当時あらためてとりあげられ論議された、音楽での即物主義、写真や演劇界でのリアリズム論と、無縁のものとはわたくしには思えない。
 そうした開拓期でのある種の潔癖さが、高忠実度再生という目標を厳格に定めたにちがいないが、しかしさらに注目すべきことは、イギリス人は彼等特有の良識を発揮して《グッドリプロダクション》という安息の場を用意したに対し、日本人はあくまでもその潔癖さを押し通す。むろんイギリス人たちも、グッドリプロダクションの定義についてさらに論議をくりかえしたのだが、そこでとりあげられた問題の要点は、原音をことさらに美化したり歪ませたりする人工的手段が、どこまで許されるか、ということだった。これもまた、リアリズムや即物主義の定義やその限界に対する論議によく似ている。たとえば、北野進は前出の「ラ技増刊14集」《HiFiに関する12章》の中で、つぎのように言う。

「もし特性の悪いホールで行なわれた演奏や、ホールまたは伝送線、録音などの欠陥による雑音が混入している音が、理想的なホールで理想的な場所で聴いた音に近い感覚を起させるものになるならば、そのような人工的な変化は許してもよい(もちろん、これは高忠実度の再生ではない)。しかし原音にさらに改善(改悪?)を加え、理想的なホールで理想的な条件で聴いた音以上の快い感覚を生ぜしめるということには賛成できない。なぜなら、これは音響再生の問題でなく、新らしい電気楽器を作るということだからである。」
 むろんこの前提として、北野氏もまたスクロギーと同じ立場から、高忠実度再生について「原音を直接聴いた時と全く同じ感覚を人に与える音」であると定義している。著名な音響学者であるRCAのH・F・オルソンも、《オルソン・アンプ》を有名にした論文の冒頭に、「〝音の高忠実度の再生〟という言葉は、再生された音が実体性あるいは自然さをもっていることを希望しているということを意味している。音を再生するにあたり理想とするところは、もとの音を直接聴いているのと同じ感覚を人に与えるということであって、この理想を実現するためにはバイノーラルやステレオ再生方式のような方法をとることが必要であって……」云々と述べているように(前出RTN増刊)、当時各国の音響学者のあいだでほほ確立された定義と考えることができるのである。
 ともかく、こうした時代の背景の中で、日本人はその潔癖さ故に、人工的に美化した再生音、リアルでない再生音、というものに冷たい態度であった──というよりその方向についてことさらに言及する人のほとんど皆無であった時期に、作曲家黛敏郎の注目すべき発言がある(雑誌「電波とオーディオ」創刊号座談会──昭和30年5月)。
「……蓄音機が商品である以上、いまおっしゃったような線、いってみればリアリズムですね、これはくずせないかもしれない。しかしリアリズムではつまらないんじゃないか。蓄音機でなければできないことを、ねらう努力が、どうしても必要ではないかと思うんです」
 余談になるが、この座談会の司会をしているのが、若き菅野沖彦氏(当時同誌編集部員)らである。故座談会には、ほかにオーディオメーカーのエンジニア、オーディオ・アマチュアらが出席しているが、全体としてはだれもこの発言の重要性にはまだ気づいていない(むろんわたくし自身もそうだった)。黛はさらにいう。
「我々にはハイフィデリティという思想がつまらないですね。」
「蓄音機の発明は、ひとつの新しい楽器の出現である、というふうに考えられます。今迄は、蓄音機のような音を出せる楽器がなかった。だから、その楽器独特の機能を発揮させて今迄できなかった音を、この楽器で作り出してもいいのじゃないか。」
 この発言のなかに、彼が当時凝っていた電子音楽やそのための電子楽器と、蓄音機をわずかながら混同しかけているふしがみえないでもないが、ハイ・フィデリティをリアリズムであるとし、それだけでない方向があるのではないかとした発言は、いまふりかえってみて──当時の背景の中で──ことに興味深い。

     II
 しかし問題はここからである。ハイ・フィデリティの定義については、オルソンをはじめとする学者らの意見を一応受け入れておくとして、北野発言に代表される人工的な音、あるいは黛発言にみられる新らしい音、という方向が、いったいハイ・フィデリティに対してどこがどう異なり、どういう意味を持つのか、について考えてみたい。もういちど北野発言(これは北野個人の発言というよりも、当時の我国のオーディオ技術者や学者の考え方の代表、そして現在でも一部の音楽関係者が信じている意見の代表という意味で引用するのだが)の要点をくりかえすと、原音以上に快い音、原音を聴いた以上の快い感覚を人工的に作り出す、という点に賛成できないというわけである。
 故の考え方についての賛否は措いて、一歩譲って、ここで「原音を聴いたと同じ感覚」と、「原音を聴いた以上に快い感覚」というもののあいだに、考え方や理論上からでなく、実際の音を想定して、果して明確な一線が保てるのかどうかを、まず考えてみたい。
 たとえばピアノが鳴る。ナマのピアノなら、指が鍵盤に触れた音、キイが発するさまざまの打撃音、摩擦音、ペダルをふむ音、ペダルのきしみ、ペダルから離れた足音、椅子のきしみ、衣服の擦れあう音……そうしたさまざまの雑音が、ピアノ自体の音といっしょにきこえてくる。いや、ピアノ自体の音というが、ペダルやキイの発する雑音を取り除いた音がピアノの音、なのか、それらをともなった音がほんとうなのか、そんな定義は誰にもできまい。
 さて、ピアノが演奏される。その演奏されるホールかスタディオかの、広さ、音響特性など千差万別だが、そういう中野どれが「理想的な」ホールなのか。そのどこで聴けば「理想的な」場所なのか。残響の長いのがいいのか、短いのがいいのか……。
 次は録音された音。足音や譜をめくる音まで含めて一切の雑音を、そのまま収録するが仮にハイファイなのだとすれば、そうして雑音を取除き残響をつけ周波数特性を補整して音にみがきをかけ美しくすることが、人工的な方法なのだとすれば、さあいったい、どこまでが「ハイファイ」で、どこからが「人工」なのか。どこからが「原音を聴いた以上に美しい」のか。どこまでなら、その一線スレスレで「原音」なのか……。
 冗舌はもう止めよう。こんな問題は、さきにもたとえに引いた、演奏における即物的解釈、演劇や映画や写真の分野でそれぞれ論じられたリアリズムの問題で、つねにつまづく、最も初歩的な誤解と同質のものなのだ、というだけで十分だろう。要するに現実の世界には、理論や考え方やそれを言いあらわす用語や定義ほどには、明確な境界線というものはないのであって、少なくともそうした現象面から、ものの本質をながめようとすること自体、まちがっているといえるのである。再生音に於ける原音の定義は、もう少し別な角度から、あるいはもっと広い視野から考え、論じなくてはならない時期なのである。
(重ねてお断りしておくが、ずっと引用している北野氏の発言はいまから20年前のものであり、これが現在の時点での氏の御意見では決してないだろうこと。それよりもなお強調したいことは、以上の文は北野個人の発言に対する攻撃では絶対になく、さきにもふれたように、それが当時我国の多くの音響関係者たちの考えの代表であったという意味であり、しかもこうした考え方について、北野氏ほど具体的な発言が、ほかにはあまり見当らないという意味で引用させて頂いたので、当時からずっと北野氏に抱いている尊敬の念は、少しも変るものではないことは申し添えておく。)
 そこで黛発言について考えてみる。「蓄音機でなくては出せない音」という表現についても、二通りの解釈ができる。第一は、いまもふれたような、もともとの原音にみがきをかけ、美化してゆくという方向。たとえばナマより美しく、しかしピアノがピアノ以外の音ではありえないという意味での、素朴な意味での原音の「写し」を越えてはいても、広義では、もともとあるオリジナルを再現するという範囲内での、「蓄音機でなくては出せない」美しい音。第二波(おそらく氏がやや混同しているところの)電気楽器、新たな音の創造、いわば発音源、オシレーター──たとえばモーグのような──としての働き、という二通りの解釈である。
 この後者の、モーグ・サウンド的な、いわば全く新らしい音楽の創造、ということになると、これはもう再生装置の問題という枠の中ではなく、電子音楽と同様に、新らしいカテゴリーのものになるので、この小論では立入ることをしない。わたくしがいま考えたいことは、あくまでも再生装置というものを通して音楽を受けとる場合の、音の理想像を探し求めることであり、そのきっかけとして、原音を再生する、ということばの意味、その定義について、あらためて考え直してみることから始めようと思うのである。

※1ジーメンス・ハルスケ=ドイツの著名な電器メーカー。社長アルノルト・フォン・ジーメンスの夫人の父は、有名な音響学者ヘルムホルツ。最近、ジーメンス名作「クラングフィルム・スピーカー・システム」が入荷したが、これについては山中敬三氏の紹介が次号「海外製品試聴」にのる予定。
※2ヴァンゲマン=エジソンのヨーロッパの総代理人。

マッキントッシュ MR71

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 C22(プリアンプ)と同じく、上半分が漆黒のガラス、下半分が金色に分割されたマッキントッシュ独自の伝統的なパターンで、スイッチを入れると実効長約20センチのダイアルスケールがグリーンに美しく輝く。最近の製品でないだけに、目盛はリニアー(同感覚)でもないし、レタリングも少々古めかしいが、文字の輪郭が鮮明だし、指針もはっきりしているから、同調のとりやすさは格別である。同調ツマミの滑らかな感触は、それだけで高級感がある。こういう手触りが、どうしてもまだ国産品には求めることができないのは残念だ。
 音質については不思議な体験をした。同時に比較する他のチューナーと、メーターで出力レベルをぴったり揃えておくのに、マッキントッシュだけは音が引込んで、レンジもせまく音像が小さく感じられる。そこで念のため、こんどは聴感で音量を合わせて比較すると、あの典型的な──豊かでゴージャスな──マッキントッシュ・トーンを響かせるのだ。うまく作られた音だと、しゃくにさわりながらもつい聴かされてしまう。狡猾さを感じるほどのうまい音づくりである。

ルボックス FM-A76

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 FMオンリーのチューナーで、ダイアル目盛がパネルの下の方にあるというのが変っている。これは、同社の有名なテープデッキA77や、プリメイン・アンプA50とパネルのパターンを共通に統一したためであるが、光線の当り具合によってはひどく安っぽい光りかたをして、高級感を損ねるように思われ、個人的にはかなり抵抗を感じる。
 ダイアルスケールはやや短かく、有効長12センチ強の等間隔目盛。文字の書体や照明の色など、かなり大まかな印象。指針の位置がやや見えにくい。
 ランプによるマルチパス・インジケーターを内蔵しているのは大きな特徴で、反射の多い地域でアンテナの向きを調整するのに役立つことだろう。
 音質はたいへん素晴らしい。中低域に暖かみがあり、全体にツヤがある。音の躍動感がよく再現され、音像の定位がよい。なおこれもQUAD同様、受信バンドとイクォライザー特性を日本で変更・再調整したものである。価格も相当なものだが、輸入品の場合は、国産の同等品のほぼ二倍ていどの価格になっていると考えるべきで、性能を評価する場合にも、その点に留意しなくなはならない。

ソニー ST-5000F

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 改めていうまでもない国産最高クラスのチューナーで、大型のダイアル窓に、実効長23センチという長大なスケールが、完全に等間隔で目盛ってある。FM専用機である上に、余計な文字が全然書いてないから、ダイアル面が非常にすっきりしているし、書体もメーター目盛もシャープで格調が高く、いかにも高級感に溢れている。
 同調ツマミを素早くまわしてもゆっくり動かしても、メーターの針のふれの応答速度やダンピングが適当であるため、同調をとりやすいという点、高級品ならとうぜんのことながら、このフィーリングが、5300や5500にまで受けつがれているのはたいへんによいことだ。
 とくに5000Fの場合は、ダイアル目盛がかなり正確に合っている。高級チューナーの中にも、目盛の不正確な製品が少なくないが、目盛の正確さは内容の精度にも結びつく。ただし本機の場合ダイアル指針を控え目にしすぎて、やや暗いところではバックの黒に埋もれてしまう点は一考をわずらわせたい。また、このクラスの製品であれば、アンテナ端子にも同軸ケーブル用のコネクターを設けるよう望みたい。

マランツ Model 23J

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 大きさはトリオなどの製品とほぼ同等。ごく標準的といえるが、パネルの高さがやや大きく、ダイアル窓が左右に長く上下に細いパターンのために、よけいにこのプロポーションが強調されている。同調ツマミは、マランツ♯18以来の、大型フライホイールの摺動する独特のスタイル。窓の右半分をこの大型ツマミ、左半分を二個のメーターが占有している結果、ダイアルスケールの有効長は約12センチ弱と、このクラスのチューナーとしてはごく短かく、この狭いスペースにたくさんの表示を入れて繁雑になることを避けたためか、FM、AMとも周波数の明確な位置が刻まれていないので、ちょっと同調はとりにくいようだ。
 また、同調ツマミを廻す操作とチューニングメーターの針の応答速度がうまく合わないので、す早く同調をとりたいと思うとき、うまくゆかずにイライラしてしまう。メーター指針のふれの早さと針のダンピング(制動)に一考をわずらわせたい。
 音質はたいへんバランスがよく、おとなしくなめらかでありながら適度のツヤも躍動感もある。このあたり、さすがに価格だけのことはあると感心させられる。

ティアック AT-200S

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 日本で最初に直結回路を採用したプリメイン・アンプ200誌リースが最近マイナー・チェンジされたが、それにともなって新たに製作されたチューナーである。パネルの下半分、木目の化粧貼りを施した部分に、同調ツマミ以外のすべてのコントロール類を収容しているので、ふたをしめた状態ではたいへんすっきりした意匠である。
 ダイアルスケールは有効長約16センチ。本体の大きさにしてはやや短かい方だが、目盛は等間隔で簡潔に表示され、指針が赤く光るので指示は明確で、しかもダイアル目盛は、FMのスケールが上半分、AMのスケールは下半分にあって、使用中のバンドの文字だけが照明で浮き上がり、不要の帯域は消えているので、誤読がなく人間工学的に優れた設計である。また目盛の文字の明るさが明暗二段に切換えられる。
 バックパネルにもこの親切さは行きとどいて、75Ω同軸ケーブルをハンダづけせずに接続できるようになっていたり、別売のAZ200(スコープインジケーター=マルチパス等を観測できる)に接続するための専用のコネクターがあるなど、マニアにはうれしい製品である。ごく標準的な、バランスの良い中庸を保った音質であった。

ビクター MCT-105

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 これはなかなかユニークな意匠だ。ブラック・パネルの大きな部分をダイアル目盛板が、上半分をFMバンド、下半分をAMバンドと占有して、切換によって必要なバンドのみ文字とスケールが照明される。これはシャープのST503Jなどと同様のアイデアでおもしろい。ダイアルスケールの有効長は約15センチ。等間隔目盛ではない。FMバンドの左端にセンター指示のチューニングメーター、AMバンドの左端(つまりTメーターの下)にシグナルメーターがあり、FMの場合は二つのメーターが点灯し、AM手はTメーターの方は消えてしまう。どちらの場合も、ダイアル指針はオレンジ色に明るく光っている。AMとFMが完全に独立しているので、AM局とFM局をあらかじめ選局しておいてひとつ切換えることができるのは便利だ。簡単なアンプが組み込まれて、ヘッドフォンをじかに接続できる点も利用価値が多かろう。FMのアンテナ端子に、75Ω同軸ケーブル専用のM型シールドコネクターがついているのも本格的だ。
 音質はMCT104bと共通点があり、音域をうまく丸めておとなしく聴きやすい音に意識的に作られているように感じた。

QUAD FM II

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 同社のトランジスター・アンプ・シリーズ303、33とペアに設計されたFMチューナーで、たいそう小柄に作ってある。FM専用とはいうものの、同調ツマミ一個のほか、手をふれる部分がなにもないというさっぱりした外観で、電源のON-OFFもプリアンプの方に依存するという簡潔さだから、QUADのアンプと併用するのでなくては、かなり使いにくい面がある。それでいて、もしも性能が良かったらサブ・チューナーとして使ってみたいと思わせるチャーミングな雰囲気を持っているのはさすがだ。
 ダイアルスケールは有効長約14センチの等間隔目盛。上品で読みとりやすい。メーターはなく、同調をとると二個のネオンランプがシーソー式に点灯し、二個同時に同じ明るさに光った点が同地うょてんを示すというのも変っていておもしろい。ステレオ/モノの切換はオートマチックで、ネオンで表示される。かんじんの音質だが、意識的に(だろう)レンジをせまく作ってあり、それはよいとしても左右の音量バランスがよくないなど、ちょっと期待はずれの感があった。日本で受信バンドを変更した製品なので、これが本来のQUADの性能なのかどうかは断じ難いが。

トリオ KT-7000

瀬川冬樹

ステレオサウンド 18号(1971年3月発行)
特集・「FMチューナー最新33機種のテストリポート」より

 トリオとは商売敵のメーカーのある男に言わせると、トリオのアンプがよく売れるのは、アンプ自体の性能よりもKT7000の性能の良さに引きずられて売れる、のだそうだ。むろん私自身はそんなふうには考えていない。それどころか新製品のKA7002、5002あたりは実にすばらしいプリメインだと思っているが、裏がえしていえば、そういう「伝説」が生まれるくらいにKT7000の性能は高く評価されている、とみることができるだろう。つややかでのびのある美しい音質に特徴がある。この本質はゲーT5000、30000にも共通していえる。
 しかし操作上では、やはり本機にもいくつかの難点が見うけられる。第一に、ダイアル目盛の色の光りかたにどことなく安っぽさが残っていて、高級感を損なっている。メーターのスタイルや光の洩れもそれに輪をかけている。ダイアル面はシンメトリーにこだわりすぎたのか、同調メーターとシグナルメーターが左右両端に配置されているが、これを一ぺんに見ようとしたら、目はロンパリになる。指針がやや不明瞭。スケールは約20センチと長くてよいが、そろそろ目盛を等間隔に改善して欲しい……等々。