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ソニー HA-50

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 同社のMC型カートリッジXL44との組合せ用として発売されたヘッドアンプ。人力インピーダンスは100Ω、利得は26dBである。MC20は、フラットに伸びた広帯域型のレスポンスとソリッドで引締まったシャープでクッキリとした音である。音色は明るく、程よくパワー感があり、各プログラムソースを明快に整然とこなす力量は見事だ。
 305になるとMC20とは逆に音の粒子が細かく繊細でスムーズな音に変わる。音場感はスピーカーの奥に拡がり、音像も小さく少し距離感がある。基本的クォリティが高く、長時間聴いても疲れない音である。
 試みにXL55PROとFR66Sを使う。重量級の低域ベースの力強い押出しの良い音で、力強いMC型を代表する立派な音だ。

フィリップス EG 1000

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 AC電源100V使用、入力インピーダンス135Ωのヘッドアンプで入出力は逆相の反転アンプである。
 帯域バランスはヘッドアンプとしては必要以上にワイドレンジ化を狙ったタイプではなくナチュラルでスムーズに伸びたレスポンスをもつ。全体に音はソフトで滑らかであり、音の粒子は細かく抑えた光沢がある。
 MC20は暖色系の響きが豊かな低域と少し線を太く聴かせる中域から高域に特徴があり、デッサン的に音を聴かせる。305では、滑らかで適度にシャープさがあう、フワッと包み込まれるような独特のプレゼンスがあり、表情も豊かでそれなりにリラックスして楽しめる音だ。925にするとスケールが大きく、低域は豊かで芯があり、艶やかでプレゼンスに優れる。

フィリップス EG 9000

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 筐体上部の3系統のアーム切替とパスを含み3Ωと40Ωに切替えるダ円形のバーチカル型スイッチに特徴がある昇圧トランス。
 聴感上の帯域バランスは、ナチュラルに伸びたトランスとしてはワイドレンジ志向型で、柔らかな低域と軽快さがあり、反応が速いフレッシュな中高域から高域が特徴である。音の粒子は細かく滑らかでスッキリと粒立ち、細身で爽やかな印象は独特の魅力がある。
 MC20は、オルトフォンSTA6600Lを軽快にしたサウンドとなる。305はこのトランスとマッチングが良く、スムーズに伸びたワイドレンジ感と、適度に反応が速く、フレッシュでスッキリとした美しい音を聴かせる。音場感の拡がり、音像定位もシャープで小気味のよい音だ

トリオ KHA-50

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 セパレート型電源方式を採用した独自のハイスピード設計によるヘッドアンプ。′
 帯域バランスは、アンプとしてはワイドレンジ型ではなく、ナチュラルに伸びたレスポンスだ。音色はニュートラルでキャラクターは少なく、表情は少し抑え気味だが、素直さが特徴。
 MC20は、ややハイエンドを抑えたバランスと穏やかで落着いた表情が特徴。音場は距離をおいて拡がるタイプで音像は少し大きい。
 305は、素直に高域が伸びた適度に軽快でスムーズな音だ。音の分離も水準以上でMC20の鉄芯入りとの差を一応聴かせる。ドボルザークは少し難しいが、他の3曲はそれなりに楽しめる。
 ヤマハMC5にすると少し高域は穏やかだが低域の独特味は明瞭に聴かれる。

フィリップス EG 8000

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 EG9000の実用モデルとして開発された昇圧トランスで、スピーカーの音圧でトランスが振動しない重量級設計の筐体、ノイズレスリッツ線の出力コード付。入力インピーダンスは3Ωと40Ωの2段切替型だ。
 帯域バランスは、量的には豊かだが、少し重さのある低域をベースに、輝きのある中域とナチュラルな高域が、やや低域に偏ったバランスをつくる。
 MC20は中低域の響きが豊かで中高域に独特のキャラクターのあるキレイな音になり、305は、柔らかい雰囲気と中高域の華やかな輝きが音に加わる。
 G925XSにすると、柔らかいが重い低域と明るくシャープな高域がバランスし、フワッと明るい個性的な中域が独特のサウンドキャラクターをつくる。

トーレンス PRA 990

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 トーレンスのMC型カートリッジ付アーム用に開発されたヘッドアンプで、ゲインは、2Ω用と22Ω用の2段切替スイッチ付。
 帯域バランスは誇張感がないナチュラルなタイプで、音色は柔らかく暖かく、音を滑らかに、細かく美しい雰囲気のなかに聴かせるタイプで、ハイフィデリティ志向型の多い国内のヘッドアンプとは異なったキャラクターをもつ。
 MC20は、適度に間接音を含んだ響きの美しい音で、しなやかでキレイな音だ。音の表情はナチュラルで少し真面目なタイプだ。
 XSD15にするとスケールが大きく穏やかで、余裕があり、安定感のある音になる。独特のシャープで鋭角的なパワー感はなくなるが、このおおらかなEMTの音もなかなか良い。

スペックス SDT-1000

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 SDX1000MC型カートリッジの性能を最大に発揮させる目的で開発された低インピーダンス専用トランスで、1対100の高い昇圧比と入出力が逆相の反転トランスが特徴である。
 聴怒上ではトランスとしてはワイドレンジ型でスケール感も充分あり、寒色系のソリッドで引締まった低域をベースにクッキリとコントラストをつける密度感のある中域、スッキリと伸びた高域が、シャープなレスポンスを示す。
 MC20は、タイトな低域とクッキリと粒立つ中高域が特徴で、ロッシーニの明るく華やかな色彩感や、峰純子の少し大きいがシャープな音像定位、クリアーに抜けるピアノ、ベースの豊かさはトランス独特の魅力的なキャラクターだ。個性派のユニークなトランス。

スペックス SDT-77

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 スイッチ切替なしに2〜50Ωのカートリッジが使える昇圧トランスで、昇圧比は1対30。入出力が逆相の反転トランスである。
 帯域バランスは低域を抑え気味とし、やや硬質でコントラストをクッキリつける中高域、ハイエンドを抑えた高域が特徴である。
 MC20はクッキリとシャープな音で、明快さはあるがバランスが高いパートに偏り、音場感がナチュラルに拡がらず独特の中低域の豊かさが出難い。
 305は、やや硬質ではあるがバランスもスッキリとし、スケールはまだ小さいがロッシーニの軽快さ、華やかさを聴かせる。ドボルザークは予想よりもスケール感がなく小柄にまとまり、峰純子はリアリティは相当にあり音像もクリアーだが、プレゼンス不足だ。

パイオニア H-Z1

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「MCカートリッジ用トランス/ヘッドアンプ総テスト──(下)」より

 超高性能部品を最大限に投入し、独自のMC用スーパーリニアサーキット採用の無帰還ヘッドアンプ。ゲインは2段切替、負荷抵抗切替は4段切替の汎用型。
 帯域バランスはナチュラルだがトランスとは一線を画したレスポンスだ。音色はやや暖色系に思われるが、明るく反応の速いタイプである。このアンプの最大の特徴は繊細さとダイレクトなストレートさを両立させた点で、情報量が多く、トランス独特の力強く分離のよい低域から中域と、爽やかに伸びたディフィニッションの優れた高域が聴かれる。
 カートリッジの対応の幅は広く、それぞれの特徴を素直に出すが専用コードでは全体に美化しすぎるようだ。最適のコードを選べばさらに好結果が期待できる。

タンノイ GRF Memory

菅野沖彦

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「現代に甦るタンノイ・スピリット〝GRF MEMORY〟登場」より

現代に甦るタンノイ・スピリット〝GRF MEMORY〟登場

 イギリスのタンノイ社から新製品が届いた。新しいモデルの名は、〝ガイ・R・ファウンテン・メモリー〟と呼ばれ、いかにも伝統に輝くタンノイ社の製品にふさわしい風格と緻密なつくりを見せている。ガイ・R・ファウンテンとは、いうまでもなく、タンノイ社の創設者の名前で、オートグラフという同社のトップモデルやGRFシリーズを通して、タンノイファンには親しみ深い人である。そして、今は亡きこのファウンテン氏を偲ぶモデル名がこの製品につけられているわけだが、これが単にネイミングに止まらず、製品の総合的なつくりに、その雰囲気が溢れていることは誰の眼にも明らかであろう。
 クラシックなたたずまいを見せる〝ガイ・R・ファウンテン・メモリー〟とはどんなスピーカーシステムか? 三つ折り頁の「ビッグサウンド」のグラフィックと共に、立体的に、その全貌をお伝えしようというのが、今号の〝タンノイ研究〟のテーマである。
 内容積220ℓのエンクロージュアは、高さが1メートル10センチ、幅が80センチ、奥行きは48センチという大型フロアーシステムで、バスレフレックス方式を採用している。このサイズは、受注生産のオートグラフ・レプリカを除けば、現在のタンノイのシステムの中で最も大きく、GRFモデルを一廻り小さくしたディメンションである。ただし内容積だけに限れば、スーパーレッドモニターやクラシックモニターの230ℓより10ℓ小さくなっている。
 内蔵ユニットは、クラシックモニターに使われているK3838のスペシャル・ヴァージョンで、38センチ口径のデュアル・コンセントリック(同軸型2ウェイ)であるが、ネットワークは新設計のものだという。いうならば、最新のタンノイのテクノロジーを、伝統的な雰囲気とつくりをもった意匠で包んだもので、タンノイ社の力を十二分に発揮した入念の作品といえそうだし、その重厚な姿態と緻密で周到な細部のつくりには、今時のスピーカーらしからぬ風格を感じさせるものがある。あえて、今時のスピーカーらしからぬと書いたけれど、これは重要な問題であり、このシステムの価値の重さを語るのに触れぬわけにはいかない要素だと考える。
 大型フロアーシステムの数は決して少なくないけれど、新しい製品に一様に感じられる淋しさは、そのデザインとつくりに、往年のそれらの製品に見られたような家具としての美しさや風格が感じられなくがなったことである。高級機である以上、音に、非常に大きな影響力をもつエンクロージュアに、音響的、あるいは剛性などの点では充分な考慮がなされているとはいえ、それを超える工芸的な美を感じさせてくれる新しい製品が少ないことは万人の認めるところではないだろうか。高度な音楽芸術鑑賞のための道具である高級スピーカーシステムに、家具調度としての高い仕上げと風格を要求することは決して本質からはずれたことではなく、むしろ当然な要求だと私は思っている。それにもかかわらず、現代の合理的な産業システムは、これらの要求を満たす能力を失いつつあり、できたとしても、いたずらにコストアップを理由に、本気になって工芸的仕事に取組もうとはしなくなってしまった。もちろん、これは、オーディオ機器に関してだけの話ではなく、私たちの身の廻りのすべてにいえることだろう。現代人の美意識は一体どうなってしまったのだろうとうたがわざるを得ないのである。新しいものは味気がないなどの一言で、あきらめてよいはずはない。
 余談だが、私は、日本が世界に誇る、あの新幹線の駅を見るたびに、なんともやりきれない気特にさせられる。あのペラペラの倉庫のような建造物には美も文化も全く感じられない。コストを抑えて、必要な機能と安全性を考慮すれば、ああならざるを得ないというようなことは承知であるが、あれほど大きな建造物は、周囲の景色を大きく色付けるに充分な存在で、大げさにいえば、その国の文化を象徴せざるを得ない重要な建造物であるはずだ。もし、あれをニューデザインだというのなら、なにをかいわんやである。金属とガラスでできた現代のバラックではないか。どう見ても仮設駅含程度にしか私の眼には映らない。
 古い建物が機能的に不備で、安全性にも欠けていることはよくわかる。しかし、少なくとも、美と風格の点では比較にならないほど立派なものが沢山あった。東京駅の丸の内側の駅舎と、八重洲口側駅舎を比べても、それは歴然としている。オランダのアムステルダム駅をモデルとしたといわれる、あの古い駅舎も、国鉄が大赤字をかかえていなければ、とっくに建て直されていたことだろう……。ヨーロッパの古い教会や駅も同じ運命にあるけれど、100年後、200年後の人々への遺産として、今のような建造物を残して平然としていられるのだろうか。20世紀後半に、当時の人間達は、それまでの文化を受け継がず、全て破壊し堕落させたと後世の歴史に書かれることだろう。そして、それと引き換えに、人類を危機に陥れる機械文明を手に入れたことが、果して、どれほど評価してもらえるだろうか? 〝古きを尋ねて、新しきを識る〟などという格言は、今の世の中には通用しないのであろうか。
 古いものがよいといっているのではない。新しいものの全てが悪いというつもりもない。歴史は連綿と繋げなければいけないといいたいのである。知的な革命は決して破壊であってはいけないのである。それが誤ちであることは、中国の文化大革命が証明している。国家社会の下部構造としての政治経済が、上部構造の文化文明を脅かしては、本末転倒である。
 少々、話しが横道にそれでしまったが、現代社会への不安は、オーディオ機器のあり方にも読みとれるものだということをいいたかったのである。高級スピーカーシステムに話しを戻そう。
 現在、手に入れることのできる(お金があればの話しだが)大型高級システムの中で、こうした不満を感じないですむものがどれほどあるだろうか? 好き嫌いは別としても、その数はしれたものだ。そして、それらのほとんどは旧製品のロングランとして作り続けられているもので、中には、要望によって限定再生産(たいていの場合、質は大きく低下している)されたものである。これらの中でのベスト・ワンを挙げろといわれれば、私は躊躇なく、JBLのパラゴンをとる。あのパラゴンの独創性、美しい姿、立派な風格は、多くのスピーカーシステムの傑作の中でも水際立っている。あれは、新しさも古さも超越したデザインと見事な作りであり、驚くべきことに、どんな環現においても、環境負けすることがない。クラシックなインテリアの中でも、モダーンな部屋にあってもだ。大抵の場合、我々の部屋の方が負けてしまう。負けるどころか、置くスペースが確保できない場合が多い。スペースがあれば、これを置くだけで、部屋の中は立派に見える。部屋がかえってみすぼらしく見える場合もないではないが、オーディオが好きならば、そうはならない。逆に、金がかかっていても、趣味の悪い装飾調度品が多い場合に、とんちんかんになる場合が多いだろう。むしろ、他に何にもないほうがよいくらいだ。
 他に、これに匹敵するものといえば、かつての見事な蓄音器たちを除けば、同じJBLのハーツフィールド、昔のエレクトロボイスのパトリシアン・オリジナル、パトリシアン600、タンノイのオートグラフ、GRF、現在買えるものなら、パトリシアン800の再生産モデル、ヴァイタヴォックスCN191コーナーホーン、クリプシュホーンK-B-WOぐらいまでが、どうやら許容できるものといったところだろう。
 モダーンデザインなら、JBLの各システムをはじめ、むしろ国産につくりのよいものがあるが、この辺になると風格といった領域にはほど遠い。私が現在夢中になっているマッキントッシュのXRT20などは、大変よくできたエンクロージュアだが、なんとも夢のない雰囲気で、家具としての美しさは薬にしたくともないといえる。機能本位のさっばりしたところが、うまく部屋に合えば消極的で厭味がないといった程度である。
 こんなわけで、大金を投じて買った高級スピーカーシステムにふさわしい、所有の充足感とでもいった気分を満してくれるものは今後、ますます少なくなりそうな気配である。こうした背景の中で登場した今回の〝ガイ・R・ファウンテン・メモリー〟は、たしかに目を引く存在感のあるシステムだと思う。かといって、芸術的な工芸品と呼ぶには、いささか、プロポーション、仕上げ感覚に注文をつけたい点もあるし、やや不自然ともいえる意識の出過ぎに、わざとらしさも感じられる。本物はもっと、巧まざる自然の姿勢から生まれなければいけないとは思うのだが、それにしても、現時点でこれだけのものを作り上げたタンイの情熱と力には敬意を表したい。
 SRMシリーズやバッキンガムがスタジオモニターとして作られたのに対し、このGRFメモリーは純粋にホームユースの高級システムとして作られたものであることは明白である。しかし、モニターとはいいながら、SRMやバッキンガムのエンクロージュアのつくりも、間違いなく現代第一級のレベルにあることを認めるし、このGRFメモリーには現代版としては、特級の折紙をつけざるを得ない。これだけ手のこんだエンクロージュアは、条件つきとはいえ、その美しさと風格を含めれば、少なくとも80年代の新製品では他にはないものだから。
 では、このGRFメモリーについて、少し詳しく述べることにしよう。横幅も充分にある縦型プロポーションのシステムの仕上げはオイルフィニッシュのウォルナットであり、背面などの構造材には25ミリ厚の硬質パーティクルボードが使われている。トップボードがひさしのように張り出しているのが大きな特長といえるが、私の個人的なバランス感覚では、やや出っ張り過ぎのように感じてならない。機械加工かもしれないが、エッジの随所はテーパー状に仕上げられた手のこみようで、細部の接合は留めに決めているところなどは、感心させられる。
 後面からバッフル前面にかけて、左右対称にしぼりこまれた梯形は、オートグラフ、GRFシステムのフロント・イメージと共通のものだ。したがって、バッフル面は、全横幅よりかなり狭くなっていて、このシステムの形状に立体感をもたせている。ディフラクションを避けるために左右を後方斜めに切り落とした恰好だ。この斜めにそがれた部分にバスレフのポートが設けられているが、表面はバッフル面と同一のサラングリルで被われている。
 フロントグリルは鍵つきのロックで固定されている。オーナーには、ゴールドに輝く鍵が渡されるわけだが、これをリリースして、サランのグリルをはずすと、そこにはまた美しい光景が展開する。38センチ口径の堂々たるユニットのコーン紙にはガイ・R・ファウンテンのオートグラフ(自署)が金色にプリントされ、ユニットの取付けられたバッフル面はコルクで貼りつめられているのである。見た目にも大変美しいしユニークであるが、コルクの音響材としての効果も無視できないのではなかろうか。このバッフル前面、左右の斜面は共に美しくフレーミングされていて高い精度の木工技術がうかがわれる。また、フロントグリルには、あのガイ・R・ファウンテンのオートグラフがエングレイヴされたバッジが、それも木製の台座を介して取付けられているという手のかかり具合である。内部は、バッフルボードと背板が井桁状の角材で補強され、高い剛性を誇っている。
 隅々まで周到に仕上げられたこのシステムには、タンノイ社の情熱と執念のようなものさえ感じさせられるし、あの経済的に決して好況とはいえない英国で、よく、これだけのものを作ったものだと感心させられるのである。確定的な価格は、本稿執筆の時点では発表されてはいないが、60方円前後だということだ。もしそうならば、これは決して高い買物ではないだろう。仮に、この大きさと、この手の込んだ細工のサイドボードを買えば、そのぐらいの値段はする。否、輸入品となれば、この値段では買えまい。そう、そう、忘れていたが、ネットワークによるロールオフとエナジーのコントロールのツマミまでが、ムクの木の削り出しだった。とにかく徹底的なのである。関係者の熱意には脱帽である。
 ところで、そろそろ、肝心の音ついて記さねばならないが、今回も従来のこのタンノイ研究シリーズと同じように、具体的に数種のアンプを使っての試聴を行った。以下、ドキュメントという形でリポートさせていただくことにしよう。
 8月中旬、一組のサンプルが本誌の試聴室にセットされたということで試聴に出かけた。写真を見せられただけのGRFメモリーである。どんな音が、あの優雅な姿態から流れ出ることかと、いささか興奮気味であった。
 タンノイのほとんどのシステムを聴いている私にとって、この新製品に寄せる期待は大きいものがあった。すべて、デュアル・コンセントリックのユニットを使いながら、システム毎に微妙にちがう表情の豊かなタンノイの鳴り方は、全製品に一貫して聴かれる、あの充実のサウンド故に、まことに興味深いものがある。オートグラフ、GRF、 コーナーヨーク、 レクタンギュラーヨーク、IIILZ、アーデン、バークレイ……、そして、バッキンガムモニター、スーパーレッドモニター、クラシックモニター、SRM15X、12X、12B、10Bと、ずい分沢山のタンノイたちを聴いた。そのいずれもが紛れもないタンノイでありながら、それぞれの響きをもって鳴った。鳴っている場所でも、がらがら鳴り方が変った。アンプやカートリッジによっても豹変した。それだけではない。私はもっと不思議な体験もしている。話しが艮くなって申し訳ないが、これは是非、お話ししておきたいことだから、この機会に書くことにする。
 あれは、今年の5月14日のことであった。束京のオーディオ販売店Dの主催するタンノイ・オートグラフの試聴と講演での出来事である。話しを正確にするため、ダイナミックオーディオの主催する第4回マラソン試聴会でのことだといい変えよう。会場は、赤坂のホテル・ニュー・ジャパンであった。私の受け持ったオートグラフの講演と試聴会は、夕方5時からだったが、その直別まで他の催しがあって、セッティングには全く立会えなかった。
 開演5分所に会場の席についたときには、大きな宴会場の正面にオートグラフが据えられ、プレーヤー、アンプ類(私の指定のもの)も既に結線されていた。熱心なファンも50名ぐらい、もう備についていた。スタート直前、係の一人が、「こんな会場なもので、どうも、いい音は出ませんが……、ええ、かなり厳しいようで……」と、口ごもりながら私に耳打ちしてくれた。どう厳しいのか判然としなかったけれど、決して良い意味にとれなかった。こういう催しの常である。そのスピーカーの能力の60%から70%発揮されれば最高といってよいだろう。しかし、この感じだと50%にもいかないなと私は直感した。そりゃ、当り前だ。コーナータイプのオートグラフは、部屋の壁面をホーンの延長として使うように設計されている。ところが、その場のオートグラフときたら、コーナーはおろか、左右、後方に数メートルの距離のある状態。しかも宴会場は薄手のペニアの間じきりで、どこを見ても、いかにもボコン、ポコンといった感じであるから、とてもとても、まともな音など期待するほうが無理というものだろう。実は、この会場で、前年にもタンノイの講演をしたのだが、その時鳴らしたのは、スーパーレッドモニターだった。これはオートグラフとちがって、よりコンベンショナルなバスレフ・エンクロージュアだから、まだなんとかなったものだったが、今度は最悪だ。
 こういう催しで、精一杯話した後で出した音が、話しとは似ても似つかぬ音だった時には、穴があったら入りたくなるほどつらいものなのである。何をいっても言い訳にしかならないだろうから、じっとこらえて、苦々しく音を聴いている他はない。寿命が縮む思いである。レコードは余裕をもって選んではあるが大幅にカバーするわけにはいかない。私は覚悟を決めてし講演を始めた。いっそのこと2時間しゃべり続けてしまおうかとさえ思ったほどだ。さあ、もうこうなったら念じるより他はない。あのカートリッジで、あのアンプで、本当ならあの音がするはずなのに……と、もう、半ベソの有様。心で泣いても顔では何とやら、つとめて冷静に、快活に、ずるずると40分ほど話し続けた。もう駄目だ。そろそろ鳴らさなければ……。前列の熱心なファンの表情も、そろそろ音に飢えてきた様子。「伝統に輝くオートグラフの音は……」という私の言葉に、生ツバをゴクンとのんでいるではないか。隣りの青年は、早く鳴らせといわんばかりにノビをして、眼鏡越しに私の顔をチラリ! 絶体絶命である。オートグラフよ頼む! 鳴ってくれ! お前のあの音を出してくれ! カートリッジにも、アンプにも、私は同じ願いをこめてレコードをターンテーブルに載せたのであった。リハーサルがないから、音量からしてボリュウムの位置では見当がつかない。日頃のカンを働かせ決めた。古い録音からスタート。ピエール・モントゥ一指拝ウィーン・フィルのハイドンの交響曲「時計」である。
 おおっー、いい。いいではないか。しなやかな弦。ウィーン・フィルらしい艶。豊かな中~低音の響き。これなら、ひかえ目にいっても70点。次に小編成で、ヤニグロとソリスティ・ディ・ザグレブの演奏。これもなかなかの鳴りっぶり。気をよくした私の話しも、一段と熟っぼく滑らかに進みだす。お客の眼も輝きだした。盛んにうなづいてくれる人もいる。時たま首をかしげる奴もいたけれど(気になるもんですよ、そういう人)……、そして遂にラストナンバー。比較的新しい録音の一枚として、ミケランジェリのピアノ、ジュリーニの指揮するウィーン・シンフォニーの演奏でベートーヴェンのピアノ協奉曲第1番をかけた。堂々たるオーケストラのソノリティ、輝かしいピアノが圧倒的な盛り上りを演じたのだった。
 私も、ファンの人達も、スピーカーと一体となって熟っぽく燃えているのがよくわかった。終るやいなや、数人のファンから歓声が上った。「よかった!」と大声で叫んだ人もいた。その場の人々が全員、満足し、感動したことは、確かな実感として私に伝わった。口々に礼をいって去っていくファンの人たちの表情にもそれがあった。そして、係のスタッフたちが、まるで孤につままれたような表情で「先生、何をしたのですか?」と私に聞くのだった。「信じられないなあ……。直前まで様にならないひどい音だったのに……」。そして、ファンからも同じ言葉が述べられた。また、この催しの前の催しを担当していた他メーカーの人の驚きようはもっと凄かった。「アンプが暖まったなんていうもんじゃないですよ、あの変りようは! 装置をそっくり入れ替えたようだった」というのである。
 理由は、私にも判らない。しかし、このような劇的なハプニングとまでいかなくても、これに類した体験はいくらでもある。
 実をいうと、ガイ・R・ファウンテン・メモリーに関しても、これに近い体験をさせられたのであった。
 本誌の試聴室でのガイ・R・ファウンテン・メモリーとの初対面は、不幸にして、決して素晴らしいものではなかった。
 試聴には、エクスクルーシヴのP3プレーヤーシステム、カートリッジはオルトフォンのMC20/II、コントロールアンプはマッキントッシュのC29、パワーアンプは同MC2500という組合せで、まず音を出した。聴き馴染んだハイドンのシンフォニー「軍隊」(ネヴィル・マリナ一指揮)の第1楽章の序奏を聴いただけで「驚愕」とまでいかずとも、愕然とした。鋭く硬く、とげとげしい弦の音。ステレオフォニックに、ふくよかに拡がるはずの空間のプレゼンスは、2チャンネルに二分され、音が左右のスピーカーの位置にへばりついたままではないか? こんなはずはない。だいたい本誌の試聴室は、きかに製品テスト用の試聴にふさわしく、すべてのスピーカーが楽しく聴けるというよりは、アバタもエクボもさらけ出す傾向にあるのだが、それにしてもひどい。タンノイ研究のシリーズだって、第1回は別として(ティアックの試聴室)、その後はずっと、ここで聴いてきたのである。SRMもクラシックモニターも、アーデンも、かなり楽しく聴けたのである。
 なんとかならないものかと、まずカートリッジを交換してみた。ゴールドバグのブライヤーをつけた。このカートリッジのしなやかな高域と豊かな中低域によって、かなり聴きよい音にはなったものの、とても、期待にそうものではない。アンプを変えた。前回までのこのシリーズの実験の結果、タンノイのスピーカーとのベスト・マッチングとして私が推薦したコントロールアンプのウエスギU・BROS1とパワーアンプのオースチンTVA1を試みた。さらに一段と向上はしたが、まだ、私のタンノイのイメージからは、ほど遠い。そこでパワーアンプもコントロールアンプと同じく上杉研究所のU・BROS3を2台、パラレル接統にして使ってみた。この方が、また一段と音がまとまってきたが、それでも決してかつてSRMやクラシックモニターから得られた音の水準には至らなかった。
 私のコンディションのせいかと、自らを疑ってもみたが、立会いの編集部のM君もS君も同じょうに浮かぬ顔つきである。これは困ったことになったと一同呆然。置き方やレベルコントロールもさわってみたが効果なし。バランスだけではなく、音の質感が悪いのである。歪みっぽくさえあるのだ。なんだかんだと数時間を費したけれど、うまくいかないので、日を変えようということになったのである。そこで翌週、再度挑戦ということで当日は終了ということにした。
 さて、週は変り、再度挑戦である。今度は場所をティアックの試聴室に移した。用意した機材は、プレーヤーはローディのTTU1000にフィデリティリサーチFR64fxトーンアーム。カートリッジはゴールドバグ・ブライヤー、トランスはアントレーET100、コントロールアンプはマッキントッシュのC29とウエスギU・BROS1、パワーアンプはマッキントッシュのMC2255、ウエスギU・BROS3、マイケルリン&オースチンのTVA1というラインナップである。
 結果は、まさに、ドラマティックな変貌であった。到底、部屋と多少の機材の変更からは想像のつかない変りようだったのりだ。
 前回の条件に近づけるため、まず、トランジスターアンプで試聴した。マッキントッシュC29とMC2255である。ハイドンの「軍隊」交響曲のイントロダクションが流れた途端、それは先週聴いた同じスピーカーとは全く違った響きであった。弦のしなやかさ、空間のプレゼンスが、このレコードの鳴るべき音で鳴ったのである。アレグロの第1主題におけるヴァイオリンが、かつての粗さが出ず、すっきりとした響きの中に芯の通ったリアルなものであった。木管の輝きと柔軟さも、適度な距離感をもって聴こえるのだった。
 これは確かにタンノイの音だ。それも、かなり上質の豊かな響きである。フィッシャー=ディスカウがバレンポイムの伴奏で新録音したシューベルトの〝冬の旅〟も、ピアノのきりっと締った響きといい、バリトンのまろやかな声といい、まず申し分のないものと感じた。続いて、ジャズをかけてみたが、これがまた大変よく弾む。タンノイの旧製品のように低音が重くないし、SRMシリーズに共通の張りのある明快さと力強さを兼ね備えている。初めの試聴時にはパワーアンプがMC2500であったが、この違いは、そんなものではない。第一、MC2500とMC2255は、パワーこそ500Wと250Wの差があるが、音質的にはきわめて近いものであることは確認ずみなのだ。プレーヤーはエクスクルーシヴのP3から、ローディのTU1000+FR64fxの組合せに変っているが、たしかにこの組合せは、たいへん滑らかで透明な音であることは、私の自宅で使って強く印象づけられている。しかし、それにしても、この音の変化の大きさには驚かされる。ゴールドバグのブライヤーは初試聴の時にも使ったことは既に述べたとおり。このガイ・R・ファウンテン・メモリーにはたいへんよくマッチするカートリッジで、その柔軟で豊潤な音が生きてくるようだ。パイプの材料として有名なブライヤーの根を削り出してボディを作ったこのカートリッジのもつ手工芸の味わいは、GRFメモリー・システムの持味ともぴったりで、趣味性豊かなオーディオ・ライフを感じさせてくれる。
 これで、GRFメモリーの真価は充分発揮されたように感じたが、さらに次の5種類の組合せで試聴してみた。
①U・BROS1+TVA1
②U・BROS1+U・BROS3×2
③C29+U・BROS3×2
④C29+TVA1
⑤U・BROS1+MC2255
 用意したアンプの相互組合せをやってみたわけで、これらのアンプは、タンノイにベスト・マッチと思われるものばかりである。プレーヤーはTU1000+FR64fx+ゴールドバグ・ブライヤーが成功したので、これを今回のリファレンスとした。結果として整理すると、次の3種の組合せにしぼってよいだろう。
①マッキントッシュC29+MC2255
②ウエスギU・BROS1+オースチンTVA1
③ウエスギU・BROS1+U・BROS3×2
 つまり、試聴した計6種の組合せで、この3種以外は、参考までに試聴したわけで、もし、飛び抜けた組合せが発見されればと思ったわけだが、そうはいかなかった。というより、あえて、トランジスターと管球式のハイブリッドを試みる必然性はなく、バランス上、同種の組合せのほうが完成度が高かったというべきだと思う。
 既に、この研究シリーズで、タンノイを鳴らすゴールデン・カップリングとして、②のU・BROS1+TVA1を推薦してきたが、今回はこれに、パワーアンプも上杉研究所のU・BROS3を、それも2台用意し、各々をパラレル接続にしてモノで使う組合せを加えた。こうすることにより、U・BROS3の控え目なパワー50Wを90Wに上げられるし、音質的にも、やや淡白であったものが、ぐんと力と艶がのってくるように感じられたのである。オースチンのTVA1の熱っぽい音とはちがうが、品のよさ、滑らかさ、透明感といったこのアンプの特質は格別の魅力のあるものだ。ぜいたくな使い方だが、2台をパラレル接続で使うと力の点での弱点をカバーできて、ある意味では従来のゴールデン・カップリングを凌ぐといってよい。エモーショナルにはオースチンのTVA1がもつ充実のサウンドに軍配が上るが、メンタルには、U・BROS3のほうが端正で透明なのだ。この二種の組合せには甲乙つけ難いのが正直なところである。情熱的な音を嗜好されるならTVA1を、洗練度の高さを求められるならU・BROS3になるだろう。
 これら二種の管球アンプの組合せは、たしかに、トランジスターアンプのマッキントッシュの組合せとは音の質感や発音性に違いがある。しかし、これも、どちらが勝っているとはいい難いのである。緻密な情報量ではマッキントッシュのほうが優れているように感じられるが、音の流動感と立体感では一味、管球アンプの組合せに魅力がある。ハードなジャズやロック、フュージョンまで鳴らすことを考えると、マッキントッシュの組合せのほうが力を発揮すると思うが、ポピュラー・ヴォーカル、あるいは、スイング・ジャズぐらいまでなら、そして、クラシックからセンスのよいソフトなポピュラーという範囲でなら、U・BROS1+U・BROS3×2の品位の高い音の魅力が生きるはずである。いずれにしても、この3種の組合せは、タンノイの新しい魅力的なシステム、ガイ・R・ファウンテン・メモリーの可能性を100パーセント発揮させてくれることだろう。
 故ガイ・R・ファウンテン氏と創立時代より共に仕事をしてきたロナルド・H・ラッカム氏が、ファウンテン氏のメモリー(追憶)というモデル名のこの製品に情熱を燃やしたことが今回の試聴でよく判った。紛れもないタンノイ・サウンドが保持されながら、新しい録音に対応できる、よりヴァーサタイルな性格をもつことは、同時に参考試聴したオートグラフとの比較で明らかであった。クラシックモニターとの差も勿論あったが、概して共通のキャラクターといってよさそうだ。それよりも、部屋や、そこへのセッティング、使い手との関係による音の変化のほうがよほど大きいので、あまり機械自体の特質を重箱の隅をつつくような見方は控えたい。しかし、この新しく古い丹精なエンクロージュアと対面して音楽を聴けば、モダンなデザインのSRMシリーズ(クラシックモニターも共通のデザインだ)とは趣きも雰囲気も違った音が聴こえて当然だろう。視覚によって、音の印象が変化しないような鈍感な人間は、もともとオーディオの世界とは縁なき衆生ではなかろうか。

ナカミチ 1000ZXL Limited

井上卓也

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
「Pick Up 注目の新製品ピックアップ」より

 ナカミチの1000ZXLは、並はずれた驚異的な音質とコンピューター制御の多機能さで、現時点でのカセットデッキの究極の姿を示す、スーパーカセットデッキとして、まさにカセットデッキの王者の位置づけに君臨する製品である。今回、この1000ZXLをベースとして、ゴールドパネルに代表される外観のみならず、内部機構及びエレクトロニクス系を厳しく追求しブラッシュアップした新製品、1000ZXLリミテッドが限定、受注生産で発売されることになった。
 主な改良点は、テープ走行系メカニズムでは、フライホイールを1000ZXLの鉄製からより比重の大きい黄銅棒材削り出しとし、フライホイール効果を増大させ走行性の安定化とフラッターの抑制を向上させるとともに、回転系支持アルミシャーシの表面にブラックアルマイト処理を施し振動吸収効果を高めている。また、ヘッドは独自のクリスタロイヘッドの特別選別品を採用し、シールドケースには外来雑音の除去と相互干渉をなくする目的で金メッキ処理が施されている。また、メインシャーシもブラッククロメイト処理で、耐蝕性を向上している点も見逃せない。
 エレクトロニクス系は、電源ブロックのヒートシンクが銅板金メッキ処理となり、接触抵抗、熟抵抗、電気抵抗を低減しリップルを抑えるとともに電源効率を高めている。また、回路接続用コネクター類はすべて金メッキ処理で、性能向上と長期間にわたる安定度を保証している。
 なお、本機にはドルピーCタイプノイズリダクションユニットNR100が標準付属だが、これはブラックパネルの一般モデルである。
 1000ZXLとの一対比較試聴での結果は、リミテッドのテープヒスの量が一段と少なく、質的にもピーク成分が抑えられているのが明瞭な両者の差だ。音の粒子は一段と細かく、滑らかに磨かれており、低域から中低域のまろやかで豊かな印象と中高域から高域のナチュラルでありながら分解能の高さは、1000ZXLの音がやや線が太く、硬質のメリハリ型のサウンドに感じられるほどである。このクラスの重量級デッキでは、設置する置き台を強固なものにしないと本来の緻密な高クォリティの特長が出ないため、注意が必要である。

マッキントッシュ MC2500

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 500W+500Wのパワーをもつステレオアンプで、これは最低保証値。実際は600Wオーバーの実力をもつマッキントッシュ・アンプ・シリーズの旗艦である。その内容からすると、これでも最もコンパクトである。MC3500以来の伝統的デザインイメージを保ち、自他ともに王者の貫禄を示す。高度な技術(開発生産両面)と長いキャリアをもつ同社にして可能な内容価値と風格をもつものだろう。ピークホールド機能をもつ大型メーターつき。

音質の絶対評価:10

マッキントッシュ MC2205

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 マッキントッシュのアンプ代表機種で、200W+200Wのパワーが、パワーガード・サーキットで安定して供給され、サチュレーション・フリーである。400Wモノーラルアンプとしても使える。あのブルー・メーター、グラス・イルミネーションの美しさは、古い新しいを超越した美しいものであるばかりでなく、ガラスを割らない限り、その美しさは半永久的に持続する。現在最も信頼性と完成度の高いパワーアンプの一つだろう。

音質の絶対評価:9

マッキントッシュ MC502

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 マッキントッシュとしては異例の薄型のプロポーションを採用したアンプで、50W+50Wのステレオアンプ。グラス・イルミネーションは全く同じで、金文字がパワー・オンでグリーンに美しく変色する。ブルー・メーターはないが、明らかにマッキントッシュのアンプであることは一目瞭然。パワーガードが威力を発揮し、まずクリップ音は出てこない。モノ接続で150Wアンプとなる。伝統のアウトプットランスは持たないAB級。

音質の絶対評価:8.5

マッキントッシュ C32

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 同社のプリアンプの最高峰がこの製品だ。はっきりいって、エキスパンダーは余計なもので、このアンプを使う人たちの音への要求と、この機能はちぐはぐだと思う。これは日本人とは異なる発想としか思えない。しかしこれをスイッチ・オフして使わないとしても、このアンプの魅力は、いささかも損なわれない。C29とはひと味違った楽音のニュアンスが、ここには聴ける。29同様、大人の風格と、王者の貫禄をもったプリアンプ。

音質の絶対評価:10

アキュフェーズ C-200X

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 アキュフェーズのオリジナル・デビュー製品、C200のマイナーェンジのパネルデザインだが、中味は、メイジャーチェンジで生れ変ったもの。アキュフェーズらしい堅実だが、少々野暮な顔つきが特徴。しかし癖や嫌味がなく、仕上げのクォリティが高いので、長年使って、あきないはずだ。内容にほれ込めば、あばたもえくぼとなるだろう。価値ある製品だ。操作性も向上して、内容の充実にふさわしい質の高さだ。

音質の絶対評価:9

アキュフェーズ C-230

菅野沖彦
’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 ブッシュボタン式の使いやすいパネルレイアウトは、上級機C240と共通のイメージだが、私は、あまりこのパネルは好きではない。決してセンスがよいとは思えないし、高級感があるわけでもない。もちろん、アキュフェーズらしい美しい作りだし、仕上げの質も高いのだが、魅力が感じられないのだ。機能性とオリジナリティは認めた上で好みの問題だ。操作性、感触は質が高く、緻密なクォリティを感じさせるものだ。

音質の絶対評価:7.5

「いま、いい音のアンプがほしい」

瀬川冬樹

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「いま、いい音のアンプがほしい」より

 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
 そこに思い当ったとき、記憶は一度に遡って、私の耳には突然、JBL・SA600の初めて鳴ったあの音が聴こえてくる。それまでにも決して短いとはいえなかったオーディオ遍歴の中でも、真の意味で自分の探し求めていた音の方向に、はっきりした針路を発見させてくれた、あの記念すべきアンプの音が──。
 JBLのプリメイン型アンプSA600が発表さたのは、記憶が少し怪しいがたぶん1966年で、それより少し前の1963年には名作SG520(プリアンプ)が発表されていた。パワーアンプは、最初、ゲルマニウムトランジスター、入力トランス結合のSE401として発表されたが、1966年には、PNP、NPNの対称型シリコントランジスターによって、全段直結、±二電源、差動回路付のSE400型が、?JBL・Tサーキット?の名で華々しく登場した。このパワーアンプに、SG520をぐんと簡易化したプリアンプを組合わせて一体(インテグレイテッド)型にしたのがSA600である。この、SE400の回路こそ、こんにちのトランジスターパワーアンプの基礎を築いたと言ってよく、その意味ではまさに時代を先取りしていた。
 私たちを驚かせたのは、むろん回路構成もであったにしても、それにもまさる鳴ってくる音の凄さ、であった。アンプのトランジスター化がまだ始まったばかりの時代で、回路構成も音質もまた安定度の面からも、不完全なトランジスターアンプがはびこっていて、真の音楽愛好家の大半が、アンプのトランジスター化に疑問を抱いていた頃のことだ。それ以前は、アメリカでは最高級の名声を確立していたマランツ、マッキントッシュの両者ともトランジスター化を試みていたにもかかわらず、旧型の管球式の名作をそれぞれに越えることができずにいた時期に、そのマランツ、マッキントッシュの管球式のよさと比較してもなお少しも遜色のないばかりか、おそらくトランジスターでなくては鳴らすことのできない新しい時代を象徴する鮮度の高いみずみずしい、そしてディテールのどこまでも見渡せる解像力の高さでおよそ前例のないフレッシュな音を、JBLのアンプは聴かせ、私はすっかり魅了された。
 この音の鮮度の高さは、全く類がなかった。何度くりかえして聴いたかわからない愛聴盤が、信じ難い新鮮な音で聴こえてくる。一旦この音を聴いてしまったが最後、それ以前に、悪くないと思って聴いていたアンプの大半が、スピーカーの前にスモッグの煙幕でも張っているかのように聴こえてしまう。JBLの音は、それぐらいカラリと晴れ渡る。とうぜんの結果として、それまで見えなかった音のディテールが、隅々まではっきりと見えてくる。こんなに細やかな音が、このレコードに入っていたのか。そして、その音の聴こえてきたことによって、これまで気付かなかった演奏者の細かな配慮を知って、演奏の、さらにはその演奏をとらえた録音の、新たな側面が見えはじめる。こんにちでは、そういう音の聴こえかたはむしろ当り前になっているが、少なくとも1960年代半ばには、これは驚嘆すべきできごとだった。
 ディテールのどこまでも明晰に聴こえることの快さを教えてくれたアンプがJBLであれば、スピーカーは私にとってイギリス・グッドマンのアキシオム80だったかもしれない。そして、これは非常に大切なことだがその両者とも、ディテールをここまで繊細に再現しておきながら、全体の構築が確かであった。それだからこそ、細かな音を鳴らしながら音楽全体の姿を歪めるようなことなくまたそれだからこそ、細かな音のどこまでも鮮明に聴こえることが快かったのだと思う。細かな音を鳴らす、というだけのことであれば、これら以外にも、そしてこれら以前にも、さまざまなオーディオ機器はあった。けれど、全景を確かに形造っておいた上で、その中にどこまでも細やかさを求めてゆく、という鳴らし方をするオーディオパーツは、決して多くはない。そして、そういう形でディテールの再現される快さを一旦体験してしまうと、もう後に戻る気持には容易になれないものである。
 8×10(エイトバイテン)のカラー密着印画の実物を見るという機会は、なかなか体験しにくいかもしれないが、8×10とは、プロ写真家の使う8インチ×10インチ(約20×25センチ)という大サイズのフィルムで、大型カメラでそれに映像を直接結ばせたものを、密着で印画にする。キリキリと絞り込んで、隅から隅までキッカリとピントの合った印画を、手にとって眺めてみる。見えるものすべてにピントの合った映像というものが、全く新しい世界として目の前に姿を現わしてくる。それをさらに、ルーペで部分拡大して見る。それはまさに、双眼鏡で眺めた風景に似て、超現実の別世界である。
 写真に集中的に凝っていたころ、さまざまのカメラやレンズの名品を、一度は道楽のつもりで手もとに置いた時期があった。しかし、たとえばタンバールやヘクトールなどの、幻ともいわれる名レンズといえども、いわゆるソフトフォーカスタイプのレンズは、どうにも私の好みには合わないことを、道楽の途中で気づかされた。私は常に、ピントの十分に合った写真が好きなのだった。たとえば長焦点レンズの絞りを開放近くに開いて、立体を撮影すれば、ピントの合った前後はもちろんボケる。仮にそういう写真であればあったで、ともかく、甘い描写は嫌いで、キリリと引締った鋭く切れ込む描写をして欲しい。といって、ピントが鋭ければすべてよいというわけではない。髪の毛を、まるで針金のような質感に写すレンズがある。逆に、ピントの外れた部分を綿帽子のようにもやもやに描写するレンズがある。どちらも私は認めない。髪の毛の質感と、バックにボケて写り込んでいる石垣の質感とが、それぞれにそれらしく感じとれないレンズはダメだ。その上で、極力鋭いピントを結ぶレンズ……。こうなると、使えるタマは非常に限られてしまう。
 そうした好みが、即ち再現された音への好みと全く共通であることは、もう言うまでもなくさらにはそれが、食べものの味の好み、色彩やものの形、そして異性のタイプの好みにまで、ひとりの人間の趣味というものは知らず知らずに映し出される。それだから、アンプを作る人間の好みがそれぞれのアンプの鳴らす音の味わいに微妙に映し出され、アンプを買う側の人間がそれを嗅ぎ分け選び分ける。自分の鳴らしたい音の世界を、どのアンプなら垣間見せてでもくれるだろうか。さまざまのアンプを聴き分け、選ぶ楽しさは、まさにその一点にある。
 どこまでも細かく切れ込んでゆく解像力の高さ、いわばピントの鋭さ。澄み切った秋空のような一点の曇りもない透明感。そして、一音一音をゆるがせにしない厳格さ。それでありながら、おとのひと粒ひと粒が、生き生きと躍動するような,血の通った生命感……。そうした音が、かつてのJBLの持っていた魅力であり、個性でもあった。一聴すると細い感じの音でありながら、低音の音域は十分に低いところまで──当時の管球の高級機の鳴らす低音よりもさらに1オクターヴも低い音まで鳴らし切るかのように──聴こえる。そのためか、音の支えがいかにも確としてゆるぎがない。細いかと思っていると案外に肉づきがしっかりしている。それは恰も、欧米人の女声が、一見細いようなのに、意外に肉づきが豊かでびっくりさせられるというのに似ている。要するにJBLの音は、欧米人の体格という枠の中で比較的に細い、のである。
 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような?一見……?ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
 JBLとマッキントッシュを、互いに対立する両方の極とすれば、その中間に位置するのがマランツだ。マランツの作るアンプは、常に、どちらに片寄ることなく、いわば?黄金の中庸精神?で一貫していた。だが、そのほんとうの意味が私に理解できたのは、もっとずっとあとになってのことだった。アンプの自作をやめて、最初に身銭をはたいて購入したのが、マランツ♯7だった。自作のアンプにくらべてあまりにも良い音がして序ッ区を受けた話はもう何度も書いてしまったが、そのときには、まだ、マランツというアンプの中庸の性格など、聴きとれる筈がない。アンプの音の性格というものは、常に「それ以外の、そしてそれと同格でありながら傾向を異にする」音、を聴いたときに、はじめて、理解できるものだ。一台のアンプの音だけ聴いて、そのアンプの音の傾向あるいは音色が、わかる、などということは、決してありえない。それは当然なので、アンプの音を聴くには、そのアンプにスピーカーを接続し、何らかのプログラムソースを入れてやって、そこで音がきこえる。そうして鳴ってきた音が、果して、どこまでそのアンプ自体の音、なのか、もしかしたら、それはスピーカーの音色なのか、あるいはまた、カートリッジやアームやターンテーブルや、それらを包括したプレーヤーシステムの音色、なのか、それともプログラムソース側で作られた音色なのか、さらにまた、微妙な部分でいえば接続コードその他の何らかの影響であるのかどうか──。そうしたあらゆる要因によるそれぞれに固有の音色をすべて差し引いた上で、これがこのアンプの固有の音色だ、このアンプの個性だ、と言い切るには、くりかえしになるが、そのアンプと同格の別のアンプを、少なくとも一台、できれば二〜三台、アンプ以外の他の条件をすべて揃えて聴きくらべてからでなくては、「このアンプの音色は……」などと誰にも言えない筈だ。
 そうした道理で、マッキントッシュの豊潤さ、JBLの明晰さ、を両つ(ふたつ)の極として、その中間にマランツが位置する、と理解できたのは、つまりそういう比較をできる機会にたまたま恵まれたからであった。それが、本誌創刊第三号、昭和42年の初夏のことであった。
 このときすでに、JBLのSG520とSE400の組合せが、私の装置で鳴っていた。スピーカーもJBLで、しかしまだ、こんにちのスタジオモニターシリーズのような完成度の高いスピーカーシステムが作られていなかったし、あこがれていた「ハーツフィールド」は、入手のめどがつかず、「オリムパス」は二〜三気になるところがあって買いたいというほどの決心がつかなかったので、ユニットを買い集めて自作した3ウェイが鳴っていた。そのシステムをドライヴするアンプは、ほんの少し前まで、マランツの♯7プリに、QUADII型のパワーアンプや、その他の国産品、半自作品など、いろいろとりかえてみて、どれも一長一短という気がしていた。というより、その当時の私は、アンプよりもスピーカーシステムにあれこれと浮気しているまっ最中で、アンプにはそれほど重点を置いていなかった。
 昭和41年の暮に本誌第一号が創刊され、そのほんの少しあとに、前記のプリメインSA600を、サンスイの新宿ショールーム(伊勢丹の裏、いまダイナミックオーディオの店になっている)の当時の所長だった伊藤瞭介氏のご厚意で、たぶん一週間足らず、自宅に借りたのだった。そのときの驚きは、本誌第9号にも書いたが、なにしろ、聴き馴れたレコードの世界がオーバーに言えば一変して、いままで聴こえたことのなかったこまかな音のひと粒ひと粒が、くっきりと、確かにしかし繊細に、浮かび上り、しかもそれが、はじめのところにも書いたようにおそろしく鮮度の高い感じで蘇り息づいて、ぐいぐいと引込まれるような感じで私は昂奮の極に投げ込まれた。全く誇張でなしに、三日三晩というもの、仕事を放り出し、寝食も切りつめて、思いつくレコードを片端から聴き耽った。マランツ♯7にはじめて驚かされたときでも、これほど夢中にレコードを聴きはしなかったし、それからあと、すでに十五年を経たこんにちまで、およそあれほど無我の境地でレコードを続けざまに聴かせてくれたオーディオ機器は、ほかに思い浮かばない。今になってそのことに思い当ってみると、いままで気がつかなかったが、どうやら私にとって最大のオーディオ体験は、意外なことに、JBLのSA600ということになるのかもしれない。
 たしかに、永い時間をかけて、じわりと本ものに接した満足感を味わったという実感を与えてくれた製品は、ほかにもっとあるし、本ものという意味では、たとえばJBLのスピーカーは言うに及ばず、BBCのモニタースピーカーや、EMTのプレーヤーシステムなどのほうが、本格派であるだろう。そして、SA600に遭遇したが、たまたまオーディオに火がついたまっ最中であったために、印象が強かったのかもしれないが、少なくとも、そのときまでスピーカー第一義で来た私のオーディオ体験の中で、アンプにもまたここまでスピーカーに働きかける力のあることを驚きと共に教えてくれたのが、SA600であったということになる。
 結局、SA600ではなく、セパレートのSG520+SE400Sが、私の家に収まることになり、さすがにセパレートだけのことはあって、プリメインよりも一段と音の深みと味わいに優れていたが、反面、SA600には、回路が簡潔であるための音の良さもあったように、今になって思う。
 ……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
 だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
 そうした体験にくらべると、最初に手にしたにもかかわらず、マランツのアンプの音は、私の記憶の中で、具体的なレコードや曲名と、何ひとつ結びついた形で浮かんでこないのは、いったいどういうわけなのだろうか。確かに、その「音」にびっくりした。そして、ずいぶん長い期間、手もとに置いて鳴らしていた。それなのに、JBLの音、マッキントッシュの音、というような形では、マランツの音というものを説明しにくいのである。なぜなのだろう。
 JBLにせよマッキントッシュにせよ、明らかに「こう……」と説明できる個性、悪くいえばクセを持っている。マランツには、そういう明らかなクセがない。だから、こういう音、という説明がしにくいのだろうか。
 それはたしかにある。だが、それだけではなさそうだ。
 もしかすると私という人間は、この、「中庸」というのがニガ手なのだろうか。そうかもしれないが、しかし、音のバランス、再生される音の低・中・高音のバランスのよしあしは、とても気になる。その意味でなら、JBLよりもマッキントッシュよりも、マランツは最も音のバランスがいい。それなのに、JBLやマッキントッシュのようには、私を惹きつけない。私には、マランツの音は、JBLやマッキントッシュほどには、魅力が感じられない。
 そうなのだ。マランツの音は、あまりにもまっとうすぎるのだ。立派すぎるのだ。明らかに片寄った音のクセや弱点を嫌って、正攻法で、キチッと仕上げた音。欠点の少ない音。整いすぎていて、だから何となくとり澄ましたようで、少しよそよそしくて、従ってどことなく冷たくて、とりつきにくい。それが、私の感じるマランツの音だと言えば、マランツの熱烈な支持者からは叱られるかもしれないが、そういう次第で私にはマランツの音が、親身に感じられない。魅力がない。惹きつけられない。たから引きずりこまれない……。
 また、こうも言える。マランツのアンプの音は、常に、その時点その時点での技術の粋をきわめながら、音のバランス、周波数レインジ、ひずみ、S/N比……その他のあらゆる特性を、ベストに整えることを目指しているように私には思える。だが見方を変えれば、その方向には永久に前進あるのみで、終点がない。いや、おそらくマランツ自身は、ひとつの完成を目ざしたにちがいない。そのことは、皮肉にも彼のアンプの「音」ではなく、デザインに実っている。モデル7(セブン)のあの抜きさしならないパネルデザイン。十年間、毎日眺めていたのに、たとえツマミ1個でも、もうこれ以上動かしようのないと思わせるほどまでよく練り上げられたレイアウト。アンプのパネルデザインの古典として、永く残るであろう見事な出来栄えについてはほとんど異論がない筈だ。
 なぜ、このパネルがこれほど見事に完成し、安定した感じを人に与えるのだろうか。答えは簡単だ。殆どパーフェクトに近いシンメトリーであるかにみせながら、その完璧に近いバランスを、わざとほんのちょっと崩している。厳密にいえば決して「ほんの少し」ではないのだが、そう思わせるほど、このバランスの崩しかたは絶妙で、これ以上でもこれ以下でもいけない。ギリギリに煮つめ、整えた形を、ほんのちょっとだけ崩す。これは、あらゆる芸術の奥義で、そこに無限の味わいが醸し出される。整えた形を崩した、などという意識を人に抱かせないほど、それは一見完璧に整った印象を与える。だが、もしも完全なシンメトリーであれば、味わいは極端に薄れ、永く見るに耐えられない。といって、崩しすぎたのではなおさらだ。絶妙。これしかない。マランツ♯7のパネルは、その絶妙の崩し方のひとつの良いサンプルだ。
 パネルのデザインの完成度の高さにくらべると、その音は、崩し方が少し足りない。いや、音に関するかぎり、マランツの頭の中には、出来上がったバランスを崩す、などという意識はおよそ入りこむ余地がなかったに違いない。彼はただひたすら、音を整えることに、全力を投入したに違いあるまい。もしも何か欠けた部分があるとすれば、それはただ、その時点での技術の限界だけであった、そういう音の整え方を、マランツはした。
 むろん以上は私の独断だが、バランスはちょっと崩したところにこそ魅力を感じさせるのであれば、マランツの音は立派ではあったが魅力に欠けるという理由はこれで説明がつく。そしてもうひとつ、これこそ最も皮肉な事実だが、その時点での最高の技術を極めた音であれば、とうぜんの結果として、技術が進歩すればそれは必ず古くなる。言いかえれば、より一層進んだ技術をとり入れ、完成を目ざしたアンプに、遠からず追い越される。
 ところが、マッキントッシュのように、ひとつの個性を究め、独特の音色を作り上げた音は、それ自体ひとつの完成であり、他の音が出現してもそれに追い越されるのでなく単にもうひとつ別の個性が出現したというに止まる。良い悪いではなく、それぞれが別個の個性として、互いに魅力を競い合うだけのことだ。その意味では、JBLのかつての音は、いくぶんきわどいところに位置づけられる。それはひとつの見事な個性の完成でありながら、しかし、トランジスターの(当時の)最新の技術をとり入れていただけに、こんにち聴くと、たとえば歪が少し耳についたり、S/N比がよくなかったり、などの多少の弱点が目につくからだ。もっとも、それらの点でいえばマッキントッシュとて例外とはなりえないので、やはりJBLのアンプの音は、いま聴き直してみても類のないひとつの魅力を保ち続けていると、私には思える。あるいは惚れた人間のひいき目かもしれないが。
 マランツ、マッキントッシュ、JBLのあと、アメリカには、聴くべきアンプが見当らない時期が長く続いた。前二社はトランジスター化に転身をはかり、それぞれに一応の成果をみたし、マッキントッシュのMC2105などかなりの出来栄えではあったにしても、私自身は、JBLで満足していた。アメリカ・クラウン(日本でのブランドはアムクロン)のDC300が、DCアンプという回路と、150ワット×2という当時としては驚異的なハイパワーで私たちを驚かせたのも、もうずいぶん古い話になってしまったほどで、アメリカでは永いあいだ、良いアンプが生れなかった。その理由はいまさらいうまでもないが、ソ連との宇宙開発競争でケタ外れの金をつぎ込んだところへ、ヴェトナム戦争の泥沼化で、アメリカは平和産業どころではなかったのだ。
 こうして、1970年代に入ると、日本のアンプメーカーが次第に力をつけ始め、プリメインアンプではその時代時代に、いくつかの名作を生んだ。そうした積み重ねがいわばダイビングボードになって、たとえばパイオニア・エクスクルーシヴM4(ピュアAクラス・パワーアンプ)や、ヤマハBI(タテ型FET仕様のBクラス・パワーアンプ)などの話題作が誕生しはじめた。ことにヤマハは、古くモノーラル初期に高級オーディオ機器に手を染めて以後、長らく鳴りをひそめていた同社が、おそらく一拠に名誉挽回を計ったのだろう全力投球の力作で、発売後しばらくは高い評価を得たが、反面、ちょうどこの時期に国内の各社は力をつけていたために、かえってこれが引き金となったのか、これ以後、続々とセパレートタイプの高級アンプが世に問われる形になった。ただしもう少し正確を期した言い方をするなら、パイオニアやヤマハよりずっと早い時期に作られたテクニクスの10000番のプリとメインこそ、国産の高級セパレートアンプの皮切りであると思う。そしてこのアンプは当時としては、音も仕上げも非常に優れた出来栄えだった。しかし価格のほうも相当なもので、それであまり広く普及しなかったのだろう。
 パイオニアM4はAクラスだから別として、テクニクスもヤマハも、ともに100ワット×2の出力で、これは1970年代半ば頃としては、最高のハイパワーであった。
 テクニクスもパイオニアもヤマハも、それぞれにプリアンプを用意していたが、そのいずれも、パワーアンプにもう一歩及ばなかった。というより、全世界的にみて、マランツ♯7、マッキントッシュC22、そしてJBL・SG520という三大名作プリアンプのあと、これらを凌ぐプリアンプは、まるでプッツリと糸が切れたように生れてこなかった。数だけはいくつも作られたにしても、見た目の風格ひとつとっても、これら三者の見事な出来栄えの、およそ足もとにも及ばなかった。あるいはそれは私自身の性向をふまえての見方であるのかもしれない。自分で最初に購入したのが、くり返すようにマランツ♯7と、パワーアンプはQUADIIで我慢したように、はじめからプリアンプ指向だった。JBLも、ふりかえってみるとプリアンプ重視の作り方が気に入ったのかもしれない。そう思ってみると、私をしびれさせたマッキントッシュのMC275は、たいしたパワーアンプだということになるのかもしれない。マッキントッシュのプリアンプは、どの時期の製品をとっても、必ずしも私の好みに十分に応えたわけではなかったのだから。
 それにしてもプリアンプの良いのが出ないねと、友人たちと話し合ったりしていたところに登場したのが、マーク・レヴィンソンだった。
 最初の一台のサンプル(LNP2)は、本誌の編集部で初めて目にした。その外観や出来栄えは、マランツやJBLを使い馴れた私には、殆どアピールしなかった。たまたま居合わせた山中敬三氏が、新製品紹介での試聴を終えた直後で、彼はこのLNP2を「プロ用まがいの作り方で、しかもプロ用に徹しているわけでもない……」と酷評していた。キャノンプラグとRCAプラグを併べてとりつけたどっちつかずの作り方が、おそらく山中氏の気に入らなかったのだろうし、私もそれには同感だった。
 ところで音はどうなんだ? という私の問いに、山中氏はまるで気のない様子で、近ごろ流行りのトランジスターの無機的な音さ、と、一言のもとにしりぞけた。それを私は信用して、それ以上、この高価なプリアンプに興味を持つことをやめにした。
 あとで考えると、大きなチャンスを逃したことになった。この第一号機は、いまのRFエンタープライゼスではなく、シュリロ貿易が試みに輸入したもので、結局このサンプルの評価が芳しくなく、もて余していたのを、岡俊雄氏が聴いて気に入られ、引きとられた。つまり、LNP2を日本で最初に個人で購入されたのは、岡俊雄氏ということになる。
 しばらくして、輸入元がRFに代わり、同社から、一度聴いてみないかと連絡のあったときも、最初私は全く気乗りしなかった。家に借りて、接続を終えて音が鳴った瞬間に、びっくりした。何ていい音だ。久しぶりに味わう満足感だった。早く聴かなかったことを後悔した。それからレヴィンソンとのつきあいが始まった。1974年のことだった。
 レヴィンソンがLNP2を発表したのは1973年で、JBLのSG520からちょうど十年の歳月が流れている。そして、彼がピュアAクラスのML2Lを完成するのは、もっとずっとあとのことだから、彼もまた偶然に、プリアンプ型の設計者ということがいえ、そこのところでおそらく私も共感できたのだろうと思う。
 LNP2で、新しいトランジスターの時代がひとつの完成をみたことを直観した。SG520にくらべて、はるかに歪が少なく、S/N比が格段によく、音が滑らかだった。無機的などではない。音がちゃんと生きていた。
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
 そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれなず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
 レヴィンソンのいまの音を、もう少し色っぽく艶っぽく、そしてほんのわずか豊かにしたような、そんな音のアンプを、果して今後、いつになったら聴くことができるのだろうか。

スタックス DA-100M

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 100WのA級モノーラルアンプで、AB級でもパワーは同じに抑えられている。AB級動作では、その分、省エネにつながるはずだ。放熱はヒートシンクを使わず、ヒートパイプによる。いかにもスタックスらしいユニークさをもっている。デザインや仕上げは取り立てていうほどのこともなく、むしろメーカー製らしい魅力のないところを平然と打ち出すあたり、アメリカの新生小メーカーと共通の野暮と驕りが感じられる。

音質の絶対評価:8.5

スタックス CA-X

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 スタックスはユニークな技術をもったグループで、いかにも専門メーカーらしいアイデアと執念で独善的に製品をまとめ上げる。このプリアンプもパワーサプライが左右独立して、さらに左右独立のイコライザー、コントローラーとも上下にセパレートという潔癖ぶりで、デザインも、それがそのまま現われたというそっけなさ。夢もセンスもない、ただひたすら機械としての必然性に徹するのがスタックスの魅力というべきだろう。

音質の絶対評価:7

パイオニア M-Z1

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 あらゆる点でユニークなパワーアンプである。独自の回路により、NFBを避けて音の鮮度を図った発想だ。60Wのモノーラルアンプで、そのボディは、プリアンプ、プリプリアンプと共通のタテ長のプロポーションでシステムイメージをもたせている。プリアンプでは不自然さを指摘したそのプロポーションも、パワーアンプでは問題するに当るまい。ガラス越しに見えるピークインジケーター、トランスも面白い。

音質の絶対評価:9

マッキントッシュ C29

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 現在アメリカのオーディオメーカーの中で最もメーカーらしい信頼性と安定性で製品の高性能・高品質を保っているのはマッキントッシュだと思う。この製品にもそれが現われていて、バランスのとれた感覚と設計技術がうかがえる。部分的には決してマニアックではないし、流血革命派のような気負いもない。しかし、ここにはメーカーとしてのキャリアが、最新技術と伝統をバランスよく製品に生かした高品位の大人の風格がある。

音質の絶対評価:10 

マッキントッシュ C504

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 同社として初の薄型のプロポーションをもったプリアンプだ。伝統あるガラスパネル・イルミネーションを踏襲しているので一目瞭然、同社の製品であることがわかる。エモーショナル・レスポンス・フォー・ミュージックを大切にする同社の考え方は、このグラス・イルミネーションに現われている。比較的手頃な価格でマッキントッシュ・フィーリングを所有出来るアンプで、パワーアンプMC502とのバランスが大変よい。

音質の絶対評価:8.5

パイオニア C-Z1

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 Zシリーズとして登場した、ノンNFBアンプのプリアンプ。パワーアンプM−Z1と共通のプロポーションにまとめたシステム・デザインだが、必ずしも、これが使いやすさにつながるともいえないようだ。ガラス越しにブロックダイアグラムが見え、これにダイオードが点灯するというマニア好みの味つけは楽しいし、好ましい。ヘアライン・ブラックフィニッシュが、少々緻密感とデリカシーを損なっているのが惜しい。

音質の絶対評価:8.5

マークレビンソン ML-2L

菅野沖彦

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」より

 Aクラス動作で25Wのモノーラルアンプがこの大きさ! いかにもMLらしい大胆な製品である。やりたいこと、やるべきことをやるとこうなるのだ、といわんばかりの主張の強さがいい。そして2Ω負荷100Wを保証していることからしても、アンプとしての自信の程が推察できるというものだ。パネルはML3に準じるが、ヒートシンクが非常に大きく、上からの星形のパターンが目をひく。2台BTL接続端子がついている。

音質の絶対評価:9