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白いキャンバスを求めて

黒田恭一

ステレオサウンド 92号(1989年9月発行)
「白いキャンバスを求めて」より

 感覚を真っ白いキャンバスにして音楽をきくといいよ、といわれても、どのようにしたら自分の感覚をまっ白にできるのか、それがわからなくてね。
 そのようにいって、困ったような表情をした男がいた。彼が律義な人間であることはわかっていたので、どのように相槌をうったらいいのかがわからず、そうだね、音楽をきくというのはなかなか微妙な作業だからね、というような意味のことをいってお茶をにごした。
 その数日後、ぼくは、別の友人と、たまたま一緒にみた映画のことを、オフィスビルの地下の、中途半端な時間だったために妙に寝ぼけたような雰囲気の喫茶店ではなしあっていた。そのときみたのは、特にドラマティックともいいかねる物語によった、しかしなかなか味わい深い内容の映画であった。今みたばかりの映画について語りながら、件の友人は、こんなことをいった。
 受け手であるこっちは、対象に対する充分な興味がありさえすれば、感覚をまっ白にできるからね……。
 彼は、言外に、受け手のキャンバスが汚れていたのでは、このような味わいのこまやかな映画は楽しみにくいかもしれない、といいたがっているようであった。ぼくも彼の感想に同感であった。おのれのキャンバスを汚れたままにしておいて、対象のいたらなさをあげつらうのは、いかにも高飛車な姿勢での感想に思え、フェアとはいえないようである。名画の前にたったときには眼鏡をふき、音楽に耳をすまそうとするときには綿棒で耳の掃除をする程度のことは、最低の礼儀として心得ておくべきであろう。
 しかし、そうはいっても、眼鏡をいつでもきれいにしておくのは、なかなか難しい。ちょうどブラウン管の表面が静電気のためにこまかい塵でおおわれてしまってもしばらくは気づきにくいように、音楽をきこうとしているときのききてのキャンバスの汚れもまた意識しにくい。キャンバスの汚れを意識しないまま音楽をきいてしまう危険は、特に再生装置をつかって音楽とむきあおうとするときに大きいようである。
 自分の部屋で再生装置できくということは、原則として、常に同じ音で音楽をきくということである。しりあったばかりのふたりであれば、そこでのなにげないことばのやりとりにも神経をつかう。したがって、ふたりの間には、好ましい緊張が支配する。しかしながら、十年も二十年も一緒に生活をしてきたふたりの間ともなれば、そうそう緊張してもいられないので、どうしたって弛緩する。安心と手をとりあった弛緩は眼鏡の汚れを呼ぶ。
 長いこと同じ再生装置をつかってきいていると、この部分がこのようにきこえるのであれば、あの部分はおそらくああであろう、と無意識のうちに考えてしまう。しかも、困ったことに、そのような予断は、おおむね的中する。
 長い期間つかってきた再生装置には座りなれた椅子のようなところがある。座りなれた椅子には、それなりの好ましさがある。しかし、再生装置を椅子と同じに考えるわけにはいかない。安楽さは、椅子にとっては美徳でも、再生装置にとってはかならずしも美徳とはいいがたい。安心が慢心につながるとすれば、つかいなれた再生装置のきかせてくれる心地よい音には、その心地よさゆえの危険がある。
 これまでつかってきたスピーカーで音楽をきいているかぎり、ぼくは、気心のしれた友だちとはなすときのような気持でいられた。しかし、同時に、そこに安住してしまう危険も感じていた。なんとなく、この頃は、きき方がおとなしくなりすぎているな、とすこし前から感じていた。ききてとしての攻撃性といっては大袈裟になりすぎるとしても、そのような一歩踏みこんだ音楽のきき方ができていないのではないか。そう思っていた。ディスクで音楽をきくときのぼくのキャンバスがまっ白になりきれていないようにも感じていた。
 ききてとしてのぼく自身にも問題があったにちがいなかったが、それだけではなく、きこえてくる音と馴染みすぎたためのようでもあった。それに、これまでつかっていたスピーカーの音のS/Nの面で、いささかのものたりなさも感じていた。これは、やはり、なんとかしないといけないな、と思いつつも、昨年から今年の夏にかけて海外に出る機会が多く、このことをおちおち考えている時間がなかった。
 しかし、ぼくには、ここであらためて、新しいスピーカーをどれにするかを考える必要はなかった。すでに以前から、一度、機会があったら、あれをつかってみたい、と思っていたスピーカーがあった。そのとき、ぼくは、漠然と、アポジーのスピーカーのうちで一番背の高いアポジーを考えていた。
 アポジーのアポジーも結構ですが、あのスピーカーは、バイアンプ駆動にしないと使えませんよ。そうなると、今つかっているパワーアンプのチェロをもう一組そろえないといけませんね。電話口でM1が笑いをこらえた声で、そういった。今の一組でさえ置く場所に苦労しているというのに、もう一組とはとんでもない。そういうことなら、ディーヴァにするよ。
 というような経過があって、ディーヴァにきめた。それと、かねてから懸案となっていたチェロのアンコール・プリアンプをM1に依頼しておいて、ぼくは旅にでた。ぼくはM1の耳と、M1のもたらす情報を信じている。それで、ぼくは勝手に、M1としては迷惑かもしれないが、M1のことをオーディオのつよい弟のように考え、これまでずっと、オーディオに関することはなにからなにまで相談してきた。今度もまた、そのようなM1に頼んだのであるからなんの心配もなく、安心しきって、家を後にした。
 ぼくは、スピーカーをあたらしくしようと思っているということを、第九十一号の「ステレオサウンド」に書いた。その結果、隠れオーディオ・ファントでもいうべき人が、思いもかけず多いことをしった。全然オーディオとは関係のない、別の用事で電話をしてきた人が、電話を切るときになって、ところで、新しいスピーカーはなににしたんですか? といった。第九十一号の「ステレオサウンド」が発売されてから今日までに、ぼくは、そのような質問を六人のひとからうけた。四人が電話で、二人が直接であった。六人のうち三人は、それ以前につきあいのない人であった。しかも、そのうちの四人までが、そうですか、やはり、アポジーですか、といって、ぼくを驚かせた。
 たしかに、アポジーのディーヴァは、一週間留守をした間にはこびこまれてあった。さすがにM1、することにてぬかりはないな、と部屋をのぞいて安心した。アンプをあたためてからきくことにしよう。そう思いつつ、再生装置のおいてある場所に近づいた。そのとき、そこに、思いもかけないものが置かれてあるのに気づいた。
 なんだ、これは! というまでもなく、それがスチューダーのCDプレーヤーA730であることは、すぐにわかった。A730の上に、M1の、M1の体躯を思い出させずにおかない丸い字で書いたメモがおかれてあった。「A730はアンコールのバランスに接続されています。ちょっと、きいてみて下さい!」
 スチューダーのA730については、第八十八号の「ステレオサウンド」に掲載されていた山中さんの記事を読んでいたので、おおよそのことはしっていた。しかし、そのときのぼくの関心はひたすらアポジーのディーヴァにむいていたので、若干の戸惑いをおぼえないではいられなかった。このときのぼくがおぼえた戸惑いは、写真をみた後にのぞんだお見合いの席で、目的のお嬢さんとはまた別の、それはまたそれでなかなか魅力にとんだお嬢さんに会ってしまったときにおぼえるような戸惑いであった。
 それから数日後に、「ステレオサウンド」の第九十一号が、とどいた。気になっていたので、まず「編集後記」を読んだ。「頼んだものだけが届くと思っているのだろうが、あまいあまい。なにせ怪盗M1だぞ、といっておこう」、という、M1が舌なめずりしながら書いたと思えることばが、そこにのっていた。
 困ったな、と思った。なにに困ったか、というと、ぼくのへぼな耳では、一気にいくつかの部分が変化してしまうと、その変化がどの部分によってもたらされたのか判断できなくなるからであった。しかし、いかに戸惑ったといえども、そこでいずれかのディスクをかけてみないでいられるはずもなかった。すぐにもきいてみたいと思う気持を必死でおさえ、そのときはパワーアンプのスイッチをいれるだけにして、しばらく眠ることにした。飛行機に長い時間ゆられてきた後では、ぼくの感覚のキャンバスはまっ白どころか、あちこちほころびているにちがいなかった。そのような状態できいて、最初の判断をまちがったりしたら、後でとりかえしがつかない、と思ったからであった。
 ぼくは、プレーヤーのそばに、愛聴盤といえるほどのものでもないが、そのとき気にいっているディスクを五十枚ほどおいてある。そのうちの一枚をとりだしてきいたのは、三時間ほど眠った後であった。風呂にもはいったし、そのときは、それなりに音楽をきける気分になっていた。
 複合変化をとげた後の再生装置でぼくが最初にきいたのは、カラヤンがベルリン・フィルハーモニーを指揮して一九七五年に録音した「ヴェルディ序曲・前奏曲集」(ポリドール/グラモフォン F35G20134)のうちのオペラ「群盗」の前奏曲であった。此のヴェルディの初期のオペラの前奏曲は、オーケストラによる総奏が冒頭としめくくりにおかれているものの、チェロの独奏曲のような様相をていしている。ここで独奏チェロによってうたわれるのは、初期のヴェルディならではの、燃える情熱を腰の強い旋律にふうじこめたような音楽である。
 これまでも非常にしばしばきいてきた、その「群盗」の前奏曲をきいただけですでに、ぼくは、スピーカーとプリアンプと、それにCDプレーヤーがかわった後のぼくの再生装置の音がどうなったかがわかった。なるほど、と思いつつ、目をあげたら、ふたつのスピーカーの間で、M1のほくそえんでいる顔をみえた。
 恐るべきはM1であった。奴は、それまでのぼくの再生装置のいたらないところをしっかり把握し、同時にぼくがどこに不満を感じていたのかもわかっていたのである。今の、スピーカーがアポジーのディーヴァに、プリアンプがチェロのアンコールに、そしてCDプレーヤーがスチューダーのA730にかわった状態では、かねがね気になっていたS/Nの点であるとか、ひびきの輪郭のもうひとつ鮮明になりきれないところであるとか、あるいは音がぐっと押し出されるべき部分でのいささかのものたりなさであるとか、そういうところが、ほぼ完璧にといっていいほど改善されていた。
 オペラ「群盗」の前奏曲をきいた後は、ぼくは、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」(アルファレコード/CYPREE 32XB123)をとりだして、そのディスクのうちの「すてきな青いレインコート」をきいた。この歌は好きな歌であり、また録音もとてもいいディスクであるが、ここで「すてきな青いレインコート」をきいたのには別の理由があった。「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」は、傅さんがリファレンスにつかわれているディスクであることをしっていたからであった。傅さんは、先刻ご存じのとおり、アポジーをつかっておいでである。つまり、ぼくとしては、ここで、どうしても、傅さんへの表敬試聴というのも妙なものであるが、ともかく先輩アポジアンの傅さんへの挨拶をかねて、傅さんの好きなディスクをききたかったのである。
 さらにぼくは、「夢のあとに~ヴィルトゥオーゾほチェロ/ウェルナー・トーマス」(日本フォノグラム/オルフェオ 32CD10106)のうちの「ジャクリーヌの涙」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」(EMI CDC7476772)のうちの「セビリャの理髪師」であるとか、あるいは「O/オルネッラ・ヴァノーニ」(CGD CDS6068)のうちの「カルメン」であるとか、いくぶん軽めの、しかし好きで、これまでもしばしばきいてきた曲をきいた。
 いずれの音楽も、これまでの装置できいていたとき以上に、S/Nの点で改善され、ひびきの輪郭がよりくっきりし、さらに音がぐっと押し出されるようになったのが関係してのことと思われるが、それぞれの音楽の特徴というか、音楽としての主張というか、そのようなものをきわだたせているように感じられた。ただし、その段階での音楽のきこえ方には、若い人が自分のいいたいことをいいつのるときにときおり感じられなくもない、あの独特の強引さとでもいうべきものがなくもなかった。
 これはこれでまことに新鮮ではあるが、このままの状態できいていくとなると、感覚の鋭い、それだけに興味深いことをいう友だちと旅をするようなもので、多少疲れるかもしれないな、と思ったりした。しかし、スピーカーがまだ充分にはこなれていないということもあるであろうし、しばらく様子をみてみよう。そのようなことを考えながら、それからの数日、さしせまっている仕事も放りだして、あれこれさまざまなディスクをききつづけた。
 ところできいてほしいものがあるですがね。M1の、いきなりの電話であった。いや、ちょっと待ってくれないか、ぼくは、まだ自分の再生装置の複合変化を充分に掌握できていないのだから、ともかく、それがすんでからにしてくれないか。と、一応は、ぼくも抵抗をこころみた。しかし、その程度のことでひっこむM1でないことは、これまでの彼とのつきあいからわかっていた。考えてみれば、ぼくはすでにM1の掌にのってしまっているのであるから、いまさらじたばたしてもはじまらなかった。その段階で、ぼくは、ほとんど、あの笞で打たれて快感をおぼえる人たちのような心境になっていたのかもしれず、M1のいうまま、裸の背中をM1の笞にゆだねた。
 M1がいそいそと持ちこんできたのは、ワディア2000という、わけのわからない代物だった。M1の説明では、ワディア2000はD/Aコンバーターである、ということであったが、この常軌を逸したD/Aコンバーターは、たかがD/Aコンバーターのくせに、本体と、本隊用電源部と、デジリンク30といわれる部分と、それにデジリンク30用電源部と四つの部分からできていた。つまり、M1は、スチューダーのA730のD/Aコンバーターの部分をつかわず、その部分の役割をワディア2000にうけもたせよう、と考えたようであった。
 ワディア2000をまったくマークしていなかったぼくは、そのときにまだ、不覚にも、第九十一号の「ステレオサウンド」にのっていた長島さんの書かれたワディア2000についての詳細なリポートを読んでいなかった。したがって、その段階で、ぼくはワディア2000についてなにひとつしらなかった。
 ぼくの部屋では、客がいれば、客が最良の席できくことになっている。むろん、客のいないときは、ぼくが長椅子の中央の、一応ベスト・リスニング・ポジションと考えられるところできく。ワディア2000を接続してから後は、M1がその最良の席できいていた。ぼくは横の椅子にいて、M1の顔をみつつ、またすこし太ったのではないか、などと考えていた。M1が帰った後で、ひとりになってからじっくりきけばいい、と思ったからであった。そのとき、M1がいかにも満足げに笑った。ぼくの席からきいても、きこえてくる音の様子がすっかりちがったのが、わかった。
 ぼくの気持をよんだようで、M1はすぐに席をたった。いかになんでも、M1の目の前で、嬉しそうな顔をするのは癪であった。M1もM1で、余裕たっぷりに、まあ、ゆっくりきいてみて下さい、などといいながら帰っていった。
 ワディア2000を接続する前と後での音の変化をいうべきことばとしては、あかぬけした、とか、洗練された、という以外になさそうであった。昨日までは泥まみれのじゃがいもとしかみえなかった女の子が、いつの間にか洗練された都会の女の子になっているのをみて驚く、あの驚きを、そのとき感じた。もっとも印象的だったのは、ひびきのきめの細かくなったことであった。餅のようにきめ細かで柔らかくなめらかな肌を餅肌といったりするが、この好色なじじいの好みそうなことばを思い出させずにはおかない、そこできこえたひびきであった。
 ぼくは、それから、夕食を食べるのも忘れて、カラヤンとベルリン・フィルハーモニーによる「ヴェルディ序曲・前奏曲集」であるとか、「レナード・コーエンを歌う/ジェニファー・ウォーンズ」であるとか、「夢のあと~ヴィルトゥオーゾ・チェロ/ウェルナー・トーマス」であるとか、「A TRIBUTE TO THE COMEDIAN HARMONISTS/キングズ・シンガーズ」であるとか、「O/オルネッラ・ヴァノーニ」であるとかを、ききなおしてみて、きこえてくる音に酔った。
 そこにいたってやっとのことで、そうだったのか、とM1の深謀遠慮に気づいた。ぼくが、アポジーのディーヴァとチェロのアンコールを依頼した段階で、M1には、スチューダーのA730+ワディア2000のプランができていたのである。ぼくの耳には、スチューダーのA730は必然としてワディア2000を求めているように感じられた。ぼくは、自分のところでの組合せ以外ではスチューダーのA730をきいていないので、断定的なことはいいかねるが、すくなくともぼくのところできいたかぎりでは、スチューダーのA730は、積極性にとみ、音楽の表現力というようなことがいえるのであれば、その点で傑出したものをそなえているものの、ひびきのきめの粗さで気になるところがなくもない。
 そのようなスチューダーのA730の、いわば泣きどころをワディア2000がもののみごとにおぎなっていた。ぼくはM1の準備した線路を走らされたにすぎなかった。くやしいことに、M1にはすべてお見通しだったのである。そういえば、ワディア2000を接続して帰るときのM1は、自信満々であった。
 どうします? その翌日、M1から電話があった。どうしますって、なにを? と尋ねかえした。なにをって、ワディア2000ですよ。どうするもこうするもないだろう。ぼくとしては、そういうよりなかった。お買い求めになるんですか? 安くはないんですよ。M1は思うぞんぶん笞をふりまわしているつもりのようであった。しかたがないだろう。ぼくもまた、ほとんど喧嘩ごしであった。それなら、いいんですが。そういってM1は電話を切った。
 それからしばらく、ぼくは、仕事の合間をぬって、再生装置のいずれかをとりかえた人がだれでもするように、すでにききなれているディスクをききまくった。そのようにしてきいているうちに、今度のぼくの、無意識に変革を求めた旅の目的がどこにあったか、それがわかってきた。おかしなことに、スピーカーをアポジーのディーヴァにしようとした時点では、このままではいけないのではないか、といった程度の認識にとどまり、目的がいくぶん曖昧であった。それが、ワディア2000をも組み込んで、今回の旅の一応の最終地点までいったところできこえてきた音をきいて、ああ、そうだったのか、ということになった。
 なんとも頼りない、素人っぽい感想になってしまい、お恥ずかしいかぎりであるが、あれをああすれば、ああなるであろう、といったような、前もっての推測は、ぼくにはなかった。今回の変革の旅は、これまで以上に徹底したM1の管理下にあったためもあり、ぼくとしては、行先もわからない汽車に飛び乗ったような心境で、結果としてここまできてしまった、というのが正直なところである。もっとも、このような無責任な旅も、M1という運転手を信じていたからこそ可能になったのであるが。
 複合変化をとげた再生装置のきかせてくれる音楽に耳をすませながら、ぼくは、ずいぶん前にきいたコンサートのことを思い出していた。そのコンサートでは、マゼールの指揮するクリーヴランド管弦楽団が、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とマーラーの交響曲第五番を演奏した。一九八二年二月のことである。会場は上野の東京文化会館であった。記憶に残っているコンサートの多くは感動した素晴らしいコンサートである。しかし、そのマゼールとクリーヴランド管弦楽団によるコンサートは、ちがった。ぼくにはそのときのコンサートが楽しめなかった。
 第五交響曲にかぎらずとも、マーラーの作品では、極端に小さい音と極端に大きい音が混在している。そのような作品を演奏して、ppがpになってしまったり、ffがfになってしまったりしたら、音楽の表現は矮小化する。
 実力のあるオーケストラにとって、大音響をとどろかせるのはさほど難しくない。肝腎なのは、弱音をどこまで小さくできるかである。指揮者が充分にオーケストラを追いこみきれていないと、ppがpになってしまう。
 一九八二年二月に、上野の東京文化会館できいたコンサートにおけるマゼールとクリーヴランド管弦楽団による演奏がそうであった。そこでは、ppがppになりきれていなかった。
 このことは、多分、再生装置の表現力についてもいえることである。ほんとうの弱音を弱音ならではの表現力をあきらかにしつつもたらそうとしたら、オーケストラも再生装置もとびきりのエネルギーが必要になる。今回の複合変化の結果、ぼくの再生装置の音がそこまでいったのかどうか、それはわからない。しかし、すくなくとも、そのようなことを考えられる程度のところまでは、いったのかもしれない。
 大切なことは小さな声で語られることが多い。しかし、その小さな声の背負っている思いまでききとろうとしたら、周囲はよほど静かでなければならない。キャンバスがまっ白だったときにかぎり、そこにポタッと落ちた一滴の血がなにかを語る。音楽でききたいのは、そこである。マゼールとクリーヴランド管弦楽団による、ppがpになってしまっていた演奏では、したたり落ちた血の語ることがききとれなかった。
 当然、ぼくがとりかえたのは再生装置の一部だけで、部屋はもとのままであった。にもかかわらず、比較的頻繁に訪ねてくる友だちのひとりが、何枚かのディスクをきき終えた後に、検分するような目つきで周囲をみまわして、こういった。やけに静かだけれど、部屋もどこかいじったの?
 再生装置の音が白さをました分だけ、たしかに周囲が静かになったように感じられても不思議はなかった。スピーカーがアポジーになったことでもっともかわったのは低音のおしだされ方であったが、彼がそのことをいわずに、再生装置の音が白さをましたことを指摘したのに、ぼくは大いに驚かされ、またうれしくもあった。
 ぼくにとっての再生装置は、仕事のための道具のひとつであり、同時に楽しみの糧でもある。つまり、ぼくのしていることは、昼間はタクシーをやって稼いでいた同じ自動車で、夜はどこかの山道にでかけるようなものである。昼間、仕事をしているときは、おそらく眉間に八の字などよせて、スコアを目でおいつつ、スピーカーからきこえてくる音に耳をすませているはずであるが、夜、仕事から解放されたときは、アクセルを思いきり踏みこみ、これといった脈絡もなくききたいディスクをききまくる。
 そのようにしてきいているときに、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えることがある。不思議なことに、そのように考えるのは、いつもきまって、いい状態で音楽がきけているときである。ああ、ちょっと此の点が、といったように、再生装置のきかせる音のどこかに不満があったりすると、そのようなことは考えない。人間というものは、自分で解答のみつけられそうな状況でしか疑問をいだかない、ということかどうか、ともかく、複合変化をとげた後の再生装置のきかせる音に耳をすませながら、何度となく、なぜ、ぼくは、音楽をきくのが好きなのであろう、と考えた。
 すぐれた文学作品を読んだり、素晴らしい絵画をみたりして味わう感動がある。当然のことに、いい音楽をきいたときにも、感動する。しかし、自分のことにかぎっていえば、いい音楽をいい状態できいたときには、単に感動するだけではなく、まるで心があらわれたような気持になる。そのときの気持には、感動というようないくぶんあらたまったことばではいいきれないところがあり、もうすこしはかなく、しかも心の根っこのところにふれるような性格がある。
 今回の複合変化の前にも、ぼくは、けっこうしあわせな状態で音楽をきいていたのであるが、今は、その一歩先で、ディスクからきこえる音楽に心をあらわれている。心をあらわれたように感じるのが、なぜ、心地いいのかはわからないが、このところしばらく、夜毎、ぼくは、翌日の予定を気にしながら、まるでA級ライセンスをとったばかりの少年がサーキットにでかけたときのような気分で、もう三十分、あと十五分、とディスクをききつづけては、夜更かしをしている。
 そういえば、スピーカーをとりかえたら真先にきこうと考えていたのに、機会をのがしてききそびれていたセラフィンの指揮したヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」のディスク(音楽之友社/グラモフォン ORG1009~10)のことを思い出したのは、ワディア2000がはいってから三日ほどたってからであった。この一九六二年にスカラ座で収録されたディスクは、特にきわだって録音がいいといえるようなものではなかった。しかし、この大好きなオペラの大好きなディスクが、どのようにきこえるか、ぼくには大いに興味があった。
 いや、ここは、もうすこし正直に書かないといけない。ぼくはこのセラフィンの「トロヴァトーレ」のことを忘れていたわけではなかった。にもかかわらず、きくのが、ちょっとこわかった。このディスクは、残響のほとんどない、硬い音で録音されている。それだけにひとつまちがうと、声や楽器の音が金属的になりかねない。スピーカーがアポジーのディーヴァになり、さらにCDプレーヤーがスチューダーのA730になったことで、音の輪郭と音を押し出す力がました。そこできいてどのようになるのか、若干不安であった。
 まず、ルーナ伯爵とレオノーラの二重唱から、きいた。不安は一気にふきとんだ。オペラ「トロヴァトーレ」の体内に流れる血潮がみえるようにきこえた。
 くやしいけれど、このようにきけるようになったのである、ぼくは、いさぎよく、頭をさげ、こういうよりない、M1! どうもありがとう!

ハフラー XL600

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 かつてのダイナコの創始者でもあるD・ハフラーによって設立された同社は、アリゾナ州テンペに本拠を置く。
 これまでにも、海外製品としては比較的リーズナブルな価格の単体コントロールアンプDH110やパワーアンプDH200といった、トラディショナルでオーソドックスの内容をもった製品があった。
1987年には、同社独自のエクサリニア理論を採用したXLシリーズ、XL280パーアンプが登場したが、今回これに続く最新型パワーアンプXL600が発表された。
 エクセリニア理論は、激しい負荷変動に追従することを目的とし、低フェイズシフトを回路の特徴としている。
 ちなみに、4Ω負荷で片チャンネル450Wの出力を維持し、20Hz〜20kHzの帯域内で、25度以内にフェイズシフトを抑制しているという。
 このニア・ゼロ・フェイズシフトサーキットは、初段をダブルディファレンシャルJ-FETのカスコード接続プッシュプル動作とし、次段はカレントミラー構成、終段は16個の縦型MOSーFETを使用している。温度感応型の空冷ファンを装備しているが、実際の使用ではファンノイズは気にならなかった。
 試してはみなかったが、スイッチ切替でBTL接続も可能で、この場合片チャンネル900Wのモノーラルアンプとなる。
 貧血気味のあっさりしたナイーヴの響きや、分析的で神経な響きが多くなった昨今、こうした血の気が多く、脂肪分の多い音はむしろ貴重な個性である。取り澄ましたような厭味は全くなく実に開放的だ。響きの輪郭は、ゆったりと太く、弾力性に富む。音場は暖炉の火が揺らめくような暖かい空気にみたされ、独特の匂いを感じさせるような陰影感がある。
 さすがに現代のアンプだけに、音像がふやけて肥大したり、どろどろになにもかもが混ざりあってしまうようなことはない。けして素朴の一言で片づいてしまうほど、ぼんやりとはしていない。
 野趣に富んだ響きをもつ古いタイプのスピーカーやピーキーで刺激的な音を出しているオールホーンタイプのスピーカー、あるいは、か細く貧血気味のマルチウェイ・ダイレクトラジエーションタイプのスピーカーから、熱い響きを捻り出すには適役ではないだろうか。
 こうした個性をもった製品は、国内では見出し難いだけに、たとえば国産Aクラスアンプの透明な響きの対極的存在として、セカンドアンプとして所有しても楽しめるだろう。DH110との組合せでは、よりポリシーの明確な響きとなった。

オーディオクラフト PE-5000

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 ゲイン36dBと、MCダイレクトはやはり厳しく、ウエスギU・BROS5L (ローインピーダンス用)を用いてステップアップした。このトランスをもつ音色や繊細感をきちっと表現しつつ、オルトフォンMC70の個性も出してくるあたり、入力系に対する反応にも鈍さがないと聴けた。
 色彩変化のグラデーションに偏りや過不足も少なく、陰影感も自然で、眩しさや曇りもない。一度に多くの音響要素が重なりあう瞬間での分離はほどほどで、強い音がのってくると音場感の揺れがまだ残る点もやや気になる。しかし、音場の広がりは下位機種に比し、さらに拡大され、前へ向かってくる響きのエネルギー感、奥へ奥へと広がっていく響きや余韻の出方にも、らしさが感じられた。スピード感を要求する音楽への対応も、カートリッジの能力を踏まえた上で充分なものと思う。外来ノイズ対策に充分留意して使いたい。

新藤ラボラトリー 7A

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 2段PーK帰還NF型、管球式イコライザーアンプ。入力3系統で、各入力抵抗は50kΩ、100kΩ、150kΩに設定。出力レベルコントロール付き。使用真空管は12AX7×2、6350×2、整流管6CA4×1となっている。往年の銘機マランツ#7管球式プリアンプのフォノ部をベースにしているが、出力にトランスを用いている点が特色。デール、アーレンブラッドレーといった高精度パーツを使用、現代的なアンプにリファインしている。

SME SPA-1HL

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 管球式とは、にわかに信じ難いような鮮度が高く、反応の速い音をもち、予想外に物理的な特性の良さが感じられた。情報量も多くディティールも明確。しかし、ちまちまと細部にこだわるような内向性は微塵もなく、淀みなく大胆に削り出される立体的で骨格の確かな、逞しい音像が重量感のある安定した平衡を保ちつつ屹立する。
 音場は広く、前後左右、上下とも充分。確信に満ちた陰影感の表現、明確な色彩感をもつ。クライマックスで盛り上がる情感、熱をもった分厚い響きは、最新のテクノロジーで料理された管球ならでは良さだろうか。しかし、女性的な繊細感やひ弱なやさしさを響きに求める向きには不適。内蔵のアッテネーターを通すと、こういった性格は、やや影をひそめ、もうすこし穏やかな響きになるが、基本的な変化はない。
 カートリッジの変化にも敏感に反応し、使いこなしの楽しみは大きい。

マイクロ EQ-M1 + PS-M1

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 本体5万円、とりあえずAC電源を使用すると8万円で、今回テストした製品の中では驚くほど割安感がある。ゲインを考えるとこれはMM用と考えるべきで、MCの使用では何らかの昇圧手段が必要だ。
 ということも含め、オプションとして電源にバッテリーが用意されていたり、接続はバランス、アンバラの両方対応できる点など、使いこなしの楽しみも多くあって、CDからオーディオに入り込んで、さらなる一歩をアナログに求めてみようかという人には、これはよい製品ではないかと思う。とくにメーカーも推奨しているように、バッテリー駆動、バランス接続としたときの、情報量の増加、S/Nの改善による透明感の向上などをまのあたりにすると、やはりAC電源、アンバラ接続には戻したくなくなる。基本的には生真面目でやや暗い性格のある響きだが、妙な個性がないだけに安心して使えるホビーツールだろう。

スタックス PS-3 + EMC-1

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 これは強烈な個性をもった製品だ。いい意味で、このソフトな響きは柔らかさを求める人にとっては貴重な存在となり得る。とにかく硬い芯というものが存在しない。まるで圧力釜で長時間煮込んで、骨まで柔らかくしたような響き。蜃気楼のような音場。音像は霞のようにたなびき、あたりの空気まで希薄になったようだ。硬質なメリハリ強調型のカートリッジも、エネルギーが吸い取られ、形骸化するように耳あたりが良くなる。
 そういう点で、たとえば音の骨格、響きの立体的構築性をたっとんだ音楽には不向きな存在かもしれない。
 あくまでも、この漂うような脆弱な繊細感をもった雰囲気たっぷりの響きを活かしたい。脂っぽい感触はなく、むしろ植物的な響きなので、長時間聴いても消化不良をおこすことはまずないだろうが、音楽的空腹感がやや残るかもしれない。

スタックス PS-3 + EMC-1

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 PS3はA級プッシュプル回路をもつ電源部の型番であり、ここにMC用(EMC1)、MM用(EMM1)、コンデンサー型カートリッジ用(ECC1)の3種のイコライザー基板を選択し、組み込んで使用する。非磁性体シャーシの中には、欧米高級機に好んで使用される西独ERO製のケミコンなど、厳選されたパーツが使われ、配線剤はLCーOFC材を採用している。ゲインは64dBと55dBの切替え化。入力インピーダンスは10、30、100Ω切替え化。

ウエスギ UTY-6

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 ウエスギアンプ中、限定生産品を意味するUTYシリーズに属する製品で、200台の製造が予定されている。
 ECC83/12AX7の計4本の真空管を用い、3段NF型イコライザーを構成しているが、一般的な3段KーK/NF型を採らず、2段PーK/NF型を発展させた設計としている。入力は3系統。パワーアンプダイレクト接続が考慮された左右独立レベルコントロールをもち、電源部は独立型としている。

AR ES-1 + SME 3010-R

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「アナログプレーヤー徹底試聴 アナログ再生を楽しむプレーヤー4機種を自在に使いこなす」より

 ハイテクなデジタル世界にはおよそ縁のない、素朴な雰囲気。まるで、均質化に向かうハイテクの冷たい軽さをさりげなくかわしているようなその風貌。ユルユルと回るディスクに、そっと針を落とす。懐かしいサーフェイスノイズはソフト。響きには、とろっとした、あぶらの乗った落着きがある。角を立てない中高域、ウォームグレイなニュアンスのある中低域。アルゲリッチも、リラックスした響きになる。クレーメルさえも、クールな佇まいをひっこめて、穏和なあたたかみを見せている。フィッシャー=ディスカウの力のこもった声も妙にりきんだり、硬くなったりしない。
 リファレンスプレーヤーのマイクロSX8000IIが描き出す、目前に演奏者が生々しく見えるようなリアリティとは違った落ち着いた雰囲気がある。クールでお上品な透明感を第一義とする向きには不満と苛立ちを残すかもしれない。オーディオライフにおける過酷な過去を、時が過ぎれば、楽しい思い出にしてしまえる練れた人だけではなく、音楽に安らぎをもとめる人にも、これはいい。物理的性能のみに固執するウブな人には、はっきりいって向かないパートナーといえる。

マークレビンソン No.25L + PLS-226L

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 C280Lのラインアンプと響きの内面性において確執する部分があるように聴けた。物理的には申し分のない情報量、解像力をもち、音場の広がりはプリアンプの限界内を完全に埋めつくしている。SMEのような粗削りな彫刻的な感じはないが、音像の輪郭は繊細でディティールの表現は緻密な精度感がある。きわだった音色感がないため、リファレンスプリの性格を反映する鏡のような面が顔を出す点が興味深い。ここまでくるともうラインアンプ、パワーアンプのテストをしている錯覚に陥る始末だ。JBL4344もモニター調の鳴り方となり、ソースの個性、録音の質的要素を遠慮なく剥き出しにしようとする。それだけに、隠れていた良さも確実に拾い出ししてくれはするのだろうが、その可能性を活かすには、入力系を含め組合せのバランスを確保することが前提となろう。じっくり追い込んで使うべき存在だ。

リン LP12 + Ittok LVII

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「アナログプレーヤー徹底試聴 アナログ再生を楽しむプレーヤー4機種を自在に使いこなす」より

 よんどころない事情で、あるいは、ついうっかり魔がさして、大艦巨砲型プレーヤーを手放してしまった貴方。押し流されるようにしてCDにいれこんでいる貴方。そろそろオーディオって何だっけ、という素朴な疑問を抱き始めているのではないか。こんな時代だからこそ、このなにげない風体のLP12が、妙に懐かしく、眠っていたオーディオ的帰巣本能が目を覚ます。時代の泡と消えた多くの製品たちに「アデュー」と、そっと呟きながら、流行り廃りの逆風をうけてたつ「リン」の一連の製品。頑固ともいえる個性の一貫性。合理性と執念の見事なバランス。
『謝肉祭』を聴くと、このレコードのプロデューサーの意図が少しずつ見え始める。つまりここでの人選の妙、音色の対比が、なるほど、と納得させられる。
 サーフェイスノイズはややドライでマットなイメージで、刺激性の、ピッチのたかい成分はすくないようだ。音場は適当に拡がり、見通しもいいほうだ。こってりした、まとわりつくような情緒性はなく、むしろ淡白で上品な表現。しかし、アルゲリッチの鋭いタッチでの音の伸びも過不足なく呈示されている。フィッシャー=ディスカウの声もテンションが上がり、色彩感も豊かさを増す。にもかかわらず、けして「過剰」に陥ることがない。時にやや一本調子な響きになることがあるのは、ヤマハ製ラックとの相性に問題があるのかもしれない。ディティールの表現も、樹をみて森を見ず、といった偏向がない。『シエスタ』は予期したほどクールに研ぎ澄まされた感じにはならず、アンプ系のキャラクターとのミスマッチを思わせた。
 以前、リンのワンブランドシステムで聴けた、とびっきり清潔で、まるで鼓膜までもが透明になってしまいそうなほど澄み切った、清冽な響きは、残念ながら今日は聴けなかった。ここがまたアナログの難しさ、面白さでもある。

ラックスマン E-06

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 ラックス新シリーズ中、アナログファンにはその中核をなすともいえる製品。伝統のCRイコライザーは1段、2段ともフラットアンプを採用し、かつ入出力アンプに独立した定電圧電源を投入している。新設計のMCトランスはPCーOCC材を巻線に採用。 MC用入力端子は、ピンターミナルのまま切替えでバランス受けも可能としている。ダイレクト出力端子の他、音質を重視した32ポイント固定抵抗型アッテネーターをL/R独立で採用している。

ウエスギ UTY-6

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 中高域のやわらかなふくらみと細身で緩やかに減衰するハイエンド、軽く控え目な低域の表現、濃厚な色彩表現と縁のないつつましい響き、などがこの製品の個性を形成している。
 アキュフェーズC280Lとは明らかにミスマッチの印象で、ぎりぎりのところで、UTY6が内にもった淡い個性が擦過され傷つけられているように思えた。これは、 U・BROS10と組み合わせて使うべきものなのだろう。とはいえ、鋭い立ち上がりを要求する響きにまったく追従しないということはなく、単に積極性に欠ける傾向があるということだろう。ある種の管球アンプが聴かせるような、長閑な響きが行き過ぎて間延びするようなところはなく、穏やかだが一応芯のある響きを聴かせてくれた。組合せに充分注意し、カートリッジを厳選することによって、このアンプがもつ傷つきやすい長所は、もっと活かされるはずだ。

ヘイブロック TT2 + High Performance

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「アナログプレーヤー徹底試聴 アナログ再生を楽しむプレーヤー4機種を自在に使いこなす」より

 ヘイブロックには、今様の希薄な倫理観が生み出すような、表層の刺激をなぞるだけの「刹那的」響きはまるでない。新参者だけに、貴種のおごりもまたない。不器用なほど真面目に作られ、いわば英国流アマチュアイズムにあふれているともいえる。リファレンスプレーヤー、マイクロのような疾風怒濤的パワー感はなく、全体にくすんだ渋さのある内向的な響きで、音場の拡がりは標準的。ハイエンドは軽くロールオフしているように聴け、色彩感や明暗のコントラストも穏やかな表現となる。空気感はあるが、曇り空を想起させる抑制の効いた、沈黙黙考型である。透けてみえるような透明感より、充実感をたっとんだ響き。
 低域の表現力はけっこうあって、重心の低い安定感に身を任せることができる。これが『シエスタ』では曲趣とマッチし、仄暗い哀愁を漂わせるあたり、かなりウェットな性格を持つ。ひとつ間違えるととめどない退屈と紙一重の、鈍い響きになるかもしれず、使いこなしで一つキラリと光る輝きをつけてあげることにより、ナイーヴな暗さを活かして使いたい。音楽を聴く時間をリッチにしたいあなたには不向きだが、ストイックに浸りこみたい人には、静かに、そして長く付き合える製品だろう。オーディオに飽きたふりをして、そっとのめり込みたい人に。

ヤマハ HX-10000

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 同社創業100年を記念する10000番シリーズの製品。入力2系統。各入力にはL/R独立のヘッドアンプと専用イコライザーアンプを持つ。イコライザーは、初段がデュアルFET差動入力・カスコードブートストラップ回路、終段にはパワーMOSーFETを用いたコンプリメンタリー・プッシュプル回路構成としている。MCハイ/およびMMに、独立して2種、計6ポジションのカートリッジロードセレクターを装備している。

ゴールドムンド Mimesis 2

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「BEST PRODUCTS 話題の新製品を徹底試聴する」より

 ゴールドムンド社は、1975年頃、ミッシェル・レバションによって設立され、超弩級アナログプレーヤー、リファレンスを筆頭にスタジオ、スタジエッタなどのアナログプレーヤーや、T5型リニアトラッキング方式トーンアームを世に送り出していた。かつてはフランスに本拠を置いていたが、高い精度を維持すべく、精密加工技術のアベレージレベルや技術者の質が高いスイスのジュネーブに、5年ほど前に移転している。また、フランス人であるレバション自身もスイス国籍になっているという。
 同社は、スイスにおいて、現地のアンプメーカーのスイスフィジックス、およびテープレコーダーメーカーとして歴史を誇るステラボックス社を吸収合併させ、本格的にアンプメーカーとしても活動を開始した。
 今回発表されたコントロールアンプ、ミメイシス2はすっきりとした薄型デザインで、比較的奥行きの深いプロポーションをもつ。細部の仕上げはさすがにスイス製だけあって精密機器的な雰囲気が濃厚だ。
 機能は、入力5系統、ステレオモード切替、テープコピー、アブソリュートフェイズ切替を装備。また、リアパネルには電源のフェイズを反転できるスイッチがあり、動作中に切り替えを行なっても、全くノイズレスで音のチェックが可能だった。
 スイッチの感触はすこぶるよい。回路の詳細は不明だが、内部は整然として美しく、高級パーツが厳選して使用されている印象だ。5系統の入力間の音の差は少なく、むしろその微妙な差を使いこなしの一部として楽しめた。回路設計はスイスフィジックスのエンジニア、デル・ノビレが担当している。ミッシェル・レバション自身はエンジニアではなく、マーク・レビンソン同様、優秀なエンジニアをその得意分野で使い分けるコンダクター的な存在であり、音決めを自らのポリシーに基づき行なっている。ちなみに、別売のイコライザーアンプ(アナログプレーヤーのリファレンス組込み用)は、かのジョン・カールの設計である。
 基本的には微粒子型のさらっとした質感をもち、端正で上品な柔らかさを感じる。音像の輪郭をミクロ的に見ると、角が穏やかに丸く硬質感をともなわない。その結果、繊細に切れこむ感じがありながら、刺すような刺激感は全くない。
 無垢な痛々しささえ感じる慎ましい甘さ、清潔感のある色香、艶が響きにひっそりと浸透しているのがわかる。これは、コントロールアンプ遍歴を重ねた、錯綜した願望をも満たす情緒的な響きだ。ライバル、マークレビンソンNo.26Lは音の輪郭線の張りがもうすこし強く硬質だが、線そのものは、もっと細く男性的な潔さがある。チェロ・アンコールは、さらにウェットな色香が強い。

組合せ/使いこなし如何で、単体イコライザーならではの真価を発揮

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 アナログディスクの入手が日々困難になりつつある昨今、あえてアナログにこだわる意味を考え直すきっかけとなった試聴だった。
 目の敵にしていたCDも、アナログ同様、追い込んでいくと何をしても音は変るし、良い方向へもっていくこともできることがわかり、また相当に聴きごたえのする製品もぽつりぽつりと出始めた今、高価なアナログ機器の存在価値はどこにあるのだろうかと考えている読者の方も多いと思う。
 アナログを究めるためには不断の努力と、ばかにならない投資を覚悟しなければならないという暗黙の了解があり、時代の趨勢はデジタルに収斂つつある。友人の多くは、CDオンリーとなり、アナログと訣別した。「CDなんぞに負けられぬ」と意気まいてみても、今やアナログにこだわるということは、オーディオ的バランス感覚を自ら再考せねばならない状況になりつつある。
 しかし、やはり音溝を直接カートリッジがトレースしていくダイレクトかつ連続性のある響きは、光による空虚なコンタクトと、響きの連続性を絶たれたデジタルの世界には、望みえない自然な香りがいまだに濃厚に漂っていて、ほっとさせられたのは紛れもない事実である。
 今回、12機種のイコライザーアンプを試聴した。カートリッジからの微弱な信号を、RIAAカーブという特定の周波数特性に基づき大きなゲインで増幅するイコライザーアンプは、アンプ設計者の技量が最も問われるものの最右翼ではなかろうか。
 時代の要請からフォノイコライザーアンプは、コントロールアンプという鳥カゴから脱出して、電気的環境はよくなったわけだが、一方ではデジタル機器の氾濫をはじめとするノイズスモッグが増加している今日、外乱ノイズ対策が機器の作り手、そして使い手側にも強く要求されているという実感を新たにする。
 いかに無共振、高剛性設計がなされていても、振動しやすい場所や周辺機器のフラックスをまともにかぶるような設置方法では、単体イコライザーの真価は発揮できない。
 プレーヤーからのフォノケーブルがACコードとクロスしていたりしていれば、全てが水泡と帰すであろう。アースの取り方もケースバイケースで工夫が必要であり、画一的、常識的使いこなしのみでは好結果は得られないと思っていたほうが安全だ。
 情報量の多い製品になればなるほど、周辺機器の影響やノイズの影響が音に及ぼす陰りが濃くなってくるようで、組合せの如何では、高価な製品ほどその進化を発揮することなく終る可能性が高いと感じた。
 本誌試聴室での結果を踏まえ、個人的に興味を覚えた製品を独断と偏見で選び、組合せや接続方法を替え(バランス/アンバランスなど)、ノイズカットチョークなどを適宜使用して響きを再確認し、万全を期した。
 本試聴で予想外に結果の悪かったH&Sのエグザクトを、まずマークレビンソンNo.26Lで受けてみる。パワーアンプはマークレビンソンNo.20Lとする。カートリッジはオルトフォンMC30スーパーとビクターのMCーL1000を新たに用意。アームはSMEシリーズVのみとし、サブアームは取り外す。
 冷徹なまでの静寂感の中に、ややひんやりとした質感でビシッと定位してゆるがぬ音像が並び、4344のウーファー領域も緩みがなくタイトになる。全帯域のスピード感に整合性がつき、低域がリズムに遅れる気配はない。カートリッジの物理的な差や響きの内的な違いを、見事に描き分けた。鋭くエネルギーが凝縮したリムショットなど物凄い立上りを示し、しかもうるさくオーバーシュートすることは皆無だった。常に冷静な、どこか醒めたような精度感も露骨にならず、しかし、冷たく沸騰しているとでもいいたくなるような、聴き手を求心的に高揚する響きがあった。
 響きの合間の透明な空気感は圧倒的で、その深度はまず他では得られそうにない。これは、かつてマークレビンソンML6BLで聴けた記憶があるのみである。
プリをゴールドムンドの新作、ミメイシス2に替えてみると、響きの輪郭が柔らかくなり、独特の艶の乗った上品な色彩感覚が加わる。理知的でややクールな、細身の女性を思わせる響きとなった。
 再びプリをNo.26Lとし、イコライザーをマークレビンソンNo.25Lとする。
H&Sの冷徹に比べ、もう少し線が太く、磊落な印象がわずかにつく。低域も幾分ふくらむ。色彩感の表現はやや油絵調で、色合いにある種の重さ、暗さが乗る。原色の眩しさは皆無。バロック系の音楽なども、繊細に切れ込む解像力の高さで、弦も柔らかさが出た。試みにパッシヴのチェロ・エチュードを使用してみる。エチュードからの出力ケーブルは極力短くして、パワーアンプとのアースを確実に取る。
 一聴して音のエネルギー感、隈取りのたくましさは減退するものの、パッシヴならではの良さが出て、響きの鮮度がや音場の空気感が一層透明度を増したように聴ける。チェンバロの響きなど、柔らかさとある種の硬質感とのバランスが見事だ。
 この状態で再びエグザクトにしてみると、響きの輪郭が一層細かくなり、麻薬的な、脆弱な優雅さととでもいうべき、チェロの癖がのったオーディオ的魅力に富んだ響きとなった。温度感はやはり下がり、空調が完璧な空間にいるような印象。
 SMEのSPA1HLを、マークレビンソンNo.26Lと組み合わせてみる。プリ〜パワー間をアンバランス接続ではやや響きの鮮度感に不満を残したが、バランス接続に変更すると、そうしたイライラはただちに解消される。聴き手の感受性に一斉蜂起するような響きの勢いにまず圧倒される。場はいっそうの伸長をみせ、立体的な音像をとりまく空気は透明感を増した。音楽のもつ引力のようなものが演奏者の視線に近い感覚で聴き手をのみこむ。JBL4344の、4ウェイならではの密度のある響きに、ホーンユニット特有の音像の明快さがより生きてくる。響きにエネルギー感、引き締まった立体感がつき、管球であることのノスタルジーはまるで感じさせなかった。
 No.26Lのゲインコントロールで最適ポイントを探し追い込むと、スケール感がありつつ、密度を失わない有機的なつながりのある濃密な響きとなった。
 ヴェンデッタリサーチの脂の乗った柔らかさと、繊細感のバランス感覚は、聴きごたえがあり、多様な組合せにもその良さを維持した。日頃JBLでてこずってる方に薦めたい製品だ。新藤ラボの7Aの世界もよかった。国産ではラックスマンの良E06が、個人的に欲しくなったくらい、魅力的な響きをもっていた。

続・「懲りない」アナログプレーヤー──さらに4台 夢と懐疑の先へ続く道

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「アナログプレーヤー徹底試聴 アナログ再生を楽しむプレーヤー4機種を自在に使いこなす」より

 時代の激流にあらわれつつ、しかし、そこに存在し続ける──、それは並大抵のことではない。目の前に並んだ4台のアナログプレーヤーたち、それは手垢にまみれた「アナログ」世界から淘汰され生き残った古くて新しい存在。デジャ・ヴュの混沌の中からヌッと顔を出したような、お馴染みの面々。いずれも、トラディショナルなスタイルをキープして、したたかに時空を浮遊するトラッド派の代表たち。ここには、オラクルとエアータンジェント(87号参照)が醸し出していたシュールな雰囲気はない。目新しい時代の先端をいくハイテク技術や「芸」など望むべくもない。それどころか、回転精度、といった、物理的性能において、厳格な管理下にあるCDが当り前になってしまった昨今、電源スイッチを入れる直前、ふと不安がよぎる。「ストロボスコープ」という、懐かしくもシンプルな原始的アクセサリーが「回転精度」なる魔物に素朴で自然に寄り添うことを可能にしてくれる。デジタルテクノロジーがみせる、いわば整然とした響きと表裏一体の殺伐とした気配、孤独な大都会のランドスケープのイメージ──、も好きだが、一方でこの単純にして複雑怪奇なるアナログの、ゆらゆら、曖昧にも全てが感性のループで有機的に結ばれた世界を忘れることはできない。

「台」抜きでは考えられないアナログプレーヤーの性格づけ

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「アナログプレーヤー徹底試聴 アナログ再生を楽しむプレーヤー4機種を自在に使いこなす」より

 ひとつの結論めくが、繊細微妙な音の入り口たるアナログプレーヤーは、その置き台込みで音を考えたほうがよさそうだ。
 まだ想像の域を出ないが、置き大とプレーヤーの質量の関係に一つのポイントがありそうで、それは、スピーカーユニットにおける振動板とフレームの関係、あるいは、カートリッジとシェルの関係にも似たことが言えると思う。妙な例えだが、重量級プレーヤーと重量級ラックの組合せは、がっしりとしたダイキャスト製のフレームと、重く、質量のある、Qの高いハイテク振動板を組み合わせたユニットの響きに共通したものを感じることがある。
 いずれにせよ、床を含めたひとつのクローズドループのなかで、はじめて振動モードが規定される以上、使い手の工夫、アクセサリー類の併用によるカットアンドトライが、システム全体の響きの内面性、性格づけに必須の要件となるだろう。そうしたチューニングのピントがあってくると、いまだにCDでは聴き得ない、ハーモニー豊かな、自然な響き、立体的な音場に遊ぶことができるのだ。
 けして、ここでデジタル否定の隠れた主張をやんわり押しつけようというのではない。たしかに、アナログに怨みはいくらでもあるだろう。裏切られ、逃げ込むようにCDに走った人も大勢いるに違いない。そんな痛切な経験とCD体験を経て、今の時代を生き抜いてるアナログシステムに、もういちどつき合って、一からやり直してみてはどうだろう。今さら、初恋のアナログにたち戻って、純愛路線なんて……、と思うかもしれないが、危なっかしく積み上げてきた思いの向こうにこそ、夢と懐疑の先へ続く道が見えるのかもしれず、「失われし時」をみつめなおす過程で、すくなくともぼくにとっては、これはどうしても必要な作業なのだ。

マークレビンソン No.25L + PLS-226L

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 コントロールアンプ、No.26Lのツインモノ構成のイコライザーを独立させ、単体化したもの。電源はNo.26L用電源PLS226Lを共有するが、一般のコントロールアンプとの併用ではPLS226L(28万円)を用意する必要がある。フォノ付No.26Lのフォノカードを外してNo.25Lのフォノカードなしのモデルに移植して使用することも可。フォノカードはゲイン58dB/64dB切替え可能なMC用と、38dB/44dB切替えのMM用がある。

SME SPA-1HL

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 昇圧トランス部、増幅部、電源部をそれぞれ独立した非磁性体シャーシに収めた3ブロック構成をとる。トランスにはT2000に用いたものをベースに、1次側巻線にセンタータップを設けバランス受けとして使用している。増幅部はECC83、ECC88を計4本使用、ハンドワイアリングにより組み上げられている。ロー/ハイおよびトランスを通らないスルーの3つの入力をもつ。出力レベルコントロール、L/R独立ゲインコントロール付。

ヤマハ HX-10000

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 端正に引き締まった、あいまいさのない響きは涼しげな空気感、透明感があっていい。じめじめしたウェットな暗さのない、明るい音場には、健康的でクリーンな雰囲気がある。演奏家のコンセントレーションがさらに高まって求心力もついてくる。時に、やや硬質な輝きがつくこともあるが、たとえばMC70のセラミックボディのくせをそれとなく聴かせてしまうあたり、情報処理能力の高さを物語るものだろう。
 パルシヴな響きに付随する余韻の爆風のようなエネルギー感もかなりのもの。しかも、その飛散する響きの方向性を正確に再現し、かつ強い音が重なっても音像の崩れや音場の揺れがないのは立派。強力な電源、不要共振を排除した大袈裟ともいえる凝ったコンストラクションが功を奏しているのだろう。しかし、このチカンカラー、ゴールド、木目の配色や大仰なデザインは個人的にはやや違和感を覚える。

ラックスマン E-06

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 音が出た瞬間、おやっと思わず身をのりだし、音楽を聴く心のテンションが高くなってくる、あるいは音楽そのものに、うっかり聴き惚れてしまう──、そんな響きが、ここにはたしかにあった。ディティール再現の高い精度が、楽器のアコースティックな響きを明確かつ自然に鳴らしわける。特定帯域につっぱりやたるみがなく、つながりが自然。倍音成分が素直な余韻を引きながら、音場の隅々まで自然にひろがる。音楽の立体構築がようやくみえはじめた。パルシヴな響きは凝縮されたエネルギー感をもち、透明な空間に飛散する様がスリリングだ。響きの行間に潜む闇の深さ、沈黙の意味を語りうる数少ない製品の一つといえる。ぎらつきがちな響きさえ、ややくすんだ上品な陰影感でまぶしさを巧みに抑えてくれる良さがあり、厳格なアナログディスク派のみならず、アナログ回帰を考慮中のあなた、これは必聴です。

オーディオクラフト PE-5000

早瀬文雄

ステレオサウンド 90号(1989年3月発行)
「スーパーアナログコンポーネントの魅力をさぐる フォノイコライザーアンプ12機種の徹底試聴テスト」より

 独特の外観をもつ同社製ラインアンプPL1000とシリーズをなす製品で、それとの併用が推奨されている。シンプルな抵抗負荷2段差動NF型イコライザーで、初段はデュアルFET構成カスコード接続としている。
ゲイン36dBという数字からもわかるように、入力はMM用端子1系統のみ。一切のセレクター類およびレベルコントロールを省き、回路を単純化することによって、音楽信号の劣化を防いでいる。