瀬川冬樹
ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」より
何度改良され、当分はこれ以上おそらく望めないだろう最高の性能。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」より
何度改良され、当分はこれ以上おそらく望めないだろう最高の性能。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」より
国産コントロールアンプの中で内容外観とも最もバランスがよい。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」より
外観や機能から信じ難い価格。C2の影が薄くなるほどの新鮮な音質。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「読者の質問に沿って目的別のベストバイを選ぶ」より
アンプに限らず多くの機械は、はじめ明確な目的を持って生まれた時点ではシンプルな形をしているが、すぐに枝葉が生え複雑化し、大きく重くマンモス化してゆく。やがてその中から再編成がおこなわれ、目的のはっきりした、明快でしかも進歩した単機能機が誕生しはじめる。カメラを例にあげれば、1908年にオスカー・バルナックの作った世界最初の35ミリカメラ「バルナックのカメラまたは原型ライカ」は、簡潔で明快で、きわめて美しい小型カメラだったが、一眼レフ化して以後は際限のない付属装置のために、実際必要なネガサイズにくらべると、いささかバカげてみえるほど大きく重く複雑化してしまった。その頂点での反動として、こんにちのコンパクト一眼レフが誕生したのだといってよい。
アンプに話を戻していえば、いままでは性能追求のあまり、いわばなりふりかまわず大型化、複雑化してきた中で、この春を境にようやく、トランジスター本来の特性のひとつである小型化可能という面を生かした、コンパクト化の動きがみえはじめた。実際に製品として手にとることができたのは、パイオニア、テクニクス、ダイヤトーンまでの三社だけだ。パイオニアはコンパクト化という意味ではまだ徹底していない。テクニクスは最もみごとに超小型化に成功している。ダイヤトーンはまだ一部未消化な部分がある。だが、いまという時点では、いち早くこの方向に目をつけたというメーカーの姿勢そのものを、まず評価したいと思う。といって、これが例によって表面的で単純な「ブーム」などになっては困る。今後のアンプのすべてが小型化の方向をたどるなどということはありえない。大きさも価格も無視して音質の限界を追求する態度が一方にあり、また一方に小型化があり、一方にレシーバータイプの総合アンプがあり、また……といような多様化こそ、望ましい製品のあり方だからだ。
ところで、従来までの製品の中から比較的コンパクトサイズにまとめられたもの、というように選択の枠をひろげるなら、たとえばラックスL10、スペンドールのD40等のプリメイン型、セパレートアンプではQUADの各種、そしてラックスC12とM12、ヤマハC2やDBシステムズDB1、などがあげられそうだ。そうなるとGASのサリアとグランドサンまたはスレッショルドのCAS1なども加えたくなるが、この辺からそろそろコンパクトの枠をはみ出してしまいそうだ。
黒田恭一
ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「’78ベストバイ・コンポーネント」より
再生装置を、自分の部屋にむかえ入れるときには、いささかの緊張がある。それがスピーカーだろうと、アンプだろうと、プレーヤーだろうと、同じことだ。逆の面からいえば、むかえ入れるにあたっていささか緊張するようなスピーカーやアンプやプレーヤーだからこそ、自分の部屋にはこびこもうと思ったといえなくもない。しかし、その緊張は、いずれにしろ、わるいものではない。それは、たまたまの機会に知りあい、意気投合した友人を、じっくりはなしあうために、自分の部屋にまねいたときと、似ていなくもない。
少しぐらい片づけたり、掃除したりしてどうなるわけでもない部屋だが、それでもやはり、せいいっぱいきれいにして、その到着を待つことになる。テクニクスの、プリアンプSU-C01、パワーアンプSE-C01、それにチューナーST-C01をむかえいれる前には、特に、その気持が強かった。あらかじめ、その瀟洒な姿は、みてしっていたので、ふんばっておよぶものでないことがわかっていても、一応、それらしい部屋にしておこうと思い、部屋のあちこちを片づけたりした。ここんとこ忙しくて、かれこれ一週間ぐらい風呂に入っていなんだ──というような、衿あしに垢をうかべたうすぎたない男(そのたぐいの友人が、なぜかぼくには多いのだが)と会うのだったら、こっちもたいして気にしなくてすむが、さもなければ、相手に失礼にならないように、それなりの努力をすることになる。今回は、そのような意味で、それなりの努力をしたことになる。
むかえ入れたのは、プリアンプとパワーアンプ、それにチューナーだから、当然、それだけでは、音がでない。とりあえず、スピーカーをつながなければ、音がきけない。それで、たまたま手元にあって、そのくっきりしたひびきが気にいっていたビクターのS-m3というスピーカーをつなぎ、やはりFMやAMだけではなく、レコードもききたいので、ベオグラム4000を、つないだ。それらを、ありあわせの、しかしそれらがうまい感じに配置できる、白い、キャスターのついた台に、のせた。
ベオグラム4000は、12キロほどあって、ちょっとした重さだが、スピーカーはふたつあわせて4・1キロ、SU-C01が3キロ、SE-C01が3・5キロ、それにST-C01が2・9キロだから、合計で約26キロということになる。キャスターのついた台にのっている26キロは、別にどうということもない。容易にあちこちに動かすことができる。しかもその台からげてているコードは、電源コードが一本だけだ。
そうすることがよかったのかどうかわからぬが、いずれにしろ、プリアンプ、パワーアンプ、それにチューナーのそれぞれが、297ミリ(幅)×49ミリ(高さ)という小ささゆえに、それに先にしるしたような軽さゆえに、そのような設置方法が考えられたということはできるだろう。奥行だけは、わずかばかりずつちがっていて、プリアンプ(241ミリ)、パワーアンプ(250ミリ)、チューナー(255ミリ)となっている。
ともかく、そのように、白いキャスターのついた台の上に、それらのものを、一応みばえも考えて、設置した。電源コードもつないだ。オーディオに対していささかの興味と関心を抱いている方ならわかっていただけると思う。たのしい、胸ときめく瞬間をほんの少しでもながびかせたいと、プリアンプのパワー・スイッチに一度はふれた手をはなして、あたりをみまわした。普段つかっている再生装置のあれこれが、妙にごろっとしているように感じられた。あたかも、運動選手のきりっとひきしまった身体と、運動などおよそしないで、ただぶくぶくと醜くふとった男の身体とを、みくらべたときに感じるようなへだたりがあった。なんでぼくは、このような大きなものを、毎日使っているのだろうと思ったりもした。
SU-C01のパワー・スイッチを入れた。プリアンプの、パワー・スイッチをの上の赤いあかりがつくのと同時に、パワーアンプのインジケーターの、星のまたたきを思わせるあかりが左から右へ走った。なるほどと思い、しばらくは、そのままの招待で、ながめていた。パワーアンプの窓の左はじには、小さなあかりが、じっと動かずに光っていた。チューナーの赤い針の両脇には、針の方向をむいて、二つの矢印がついていた。どこの放送局にも同調できていないことがわかった。チューナーからきこうか、それともレコードからきこうか、そのことでの迷いはなかった。まずレコードから──と、はじめから考えていたからだった。
それぞれの装置の呼ぶレコードがある。カートリッジをとりかえた、さて、どのレコードにしようかと、そのカートリッジで最初にきくレコードは、おそらく、そのカートリッジを選んだ人の、そこで選ばれたカートリッジに対しての期待を、無言のうちにものがたっていると考えていいだろう。スピーカーについても、アンプについても、同じことがいえる。ともかく、あのカートリッジを買ってきたら、このレコードをきこうと、あらかじめ考えていることもあり、カートリッジを買ってきてしまって、後から、レコードを考える場合もある。いずれにしろ、最初のレコードをターンテーブルにのせるときは、実にスリリングだ。
今回は、それらをむかえ入れる環境づくりにせいいっぱいで、レコードのことまで考えがおよばなかった。したがって、パワー・スイッチを押したまではよかったが、さて、なにをかけたものかと、そこで困ってしまった。しかし、そんなに長い時間をかけて考えるまでもなかった。そうだ、あれにしよう──と、かけるべきレコードは、すぐに思いついた。
その数日前、輸入レコード店で買ってきた、シンガーズ・アンリミテッドのレコードだった。それには、「フィーリング・フリー」というタイトルがついていた。フィーリング・フリーという言葉も、この場合、マッチしているように思った。シンガーズ・アンリミテッドのレコードは、好きで、大半のものはきいているはずたったが、ジャケット裏の説明によると、一九七五年の春に録音されたという、その「フィーリング・フリー」は、それまできいたことがなかった。ベオグラム4000のターンテーブルにのせたのは、ドイツMPS68・103というレコード番号のレコードだった。
A面の最初には、「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」という、スティービー・ワンダーのすてきな歌が、入っていた。音楽がはじまると、パワーアンプの、星のまたたきを思わせるあかりは、それぞれのチャンネルに二つか三つずつついて、右方向への動きを示した。
シンガーズ・アンリミテッドの声は、パット・ウィリアムス編曲・指揮によるビッグ・バンドのひびきと、よくとけあっていた。「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」は、アップ・テンポで、軽快に演奏されていた。しかし、そのレコードできける音楽がどのようなものかは、すでに、普段つかっている、より大型の装置できいていたので、しっていた。にもかかわらず、これがとても不思議だったのだが、JBL4343できいたときには、あのようにきこえたものが、ここではこうきこえるといったような、つまり両者を比較してどうのこうのいうような気持になれなかった。だからといって、あれはあれ、これはこれとわりきっていたわけでもなかった。どうやらぼくは、あきらかに別の体験をしていると、最初から思いこんでいたようだった。
もし敢て比較すれば、たしかに、クォリティの面で、JBL4343できいたときの方が、格段にすぐれていたというべきだろう。しかし、視点をかえて、JBL4343で、そのキャスターのついた白い台の上にのっていた装置できくようなきき方ができるかといえば、ノーといわざるをえない。
結局、そのキャスターのついた白い台の前で、5時間ほどすごした。当然、その間に、さまざまなレコードをきいた。最初は、シンガーズ・アンリミテッドだったが、それがイ・ムジチのモーツァルトにかわり、ベン・シドランにかわり、さらに最近気にいっているケイト・ブッシュのレコードにかわりといったように、まさに気ままに、いろんなレコードをきいた。実にたのしい5時間だった。夢中ですごしてしまった5時間で、気がついたら、あれっ、もうこんなに時間がたったのかといった感じだった。
したがって、これから書こうとしていることは、ききながら考えたことではなく、きき終って後に考えたことだ。なにぶんにも、きいているときは、夢中できいていたので、考える余裕など、まるでなかった。
そうなれば、なぜ、そのように夢中になったのかを、まず書いておくべきだろう。出口と入口、つまりスピーカーとカートリッジからおして(書きおとしていたが、そのとき、ベオグラム4000のアームには、MMC6000がついていた)、そこできこえた音は、おのずと推測が可能だろう。いかにアンプの性能がよくとも、その音は、ある限界内のものだった。
後に、プリアンプSU-C01+パワーアンプSE-C01を、JBL4343につなぎ、カートリッジをオルトフォンMC20にしてきいてみて、これらのアンプの質的高さを、あらためて確認することができた。が、ここでの質的高さについて、たちいってのべるつもりはない。理由は簡単だ。これだけの質的高さを誇るアンプは、他になくもないが、これだけのクォリティを確保しながら、それでいて、特にパワーアンプについていえば、297ミリ(幅)×46ミリ(高さ)×250ミリ(奥行)という大きさ、3・5キロという重量にとどめ、このような瀟洒な様子でまとめられているものが、ほかにみあたらないからだ。
だかといって、質的な面を軽視しているわけではない。むしろ、質的に充分な水準まで達しているという安心があればこそ、超小型スピーカーをドライブさせて、そこでつかうスピーカーの最良の点でつかうことができる。たしかに、ビクターのS-M3は、かつてそのスピーカーからきいたことがないような、きりっとした音をきかせた。たとえば、ふくよかなといったような言葉でいえる音の感じには、そこではききとりにくい。上質なフロア型スピーカーのきかせるたっぷりとしたひびきもまた、そこでは望むべくもない。そのようなものをそこで求めたとしたら、それはあきらかに、見当はずれのところで、ないものねだりをしたことになるだろう。
でも、ぼくは、それらをむかえ入れた日に、5時間、その前ですごした。実にたのしい、充実した5時間だった。その後も、折にふれて、そのキャスターのついた白い台の前で、すごした。
いかなる再生装置できく場合でも、誰もが、そのとききくレコードできける音楽の性格にあわせて、音量を調整する。もしブロックフレーテの音楽を、マーラーのシンフォニーをきくような音量できくような人がいたとすれば、その人の音楽的センスは疑われてもやむをえないだろう。音楽が求める音量がかならずある。それを無視して音楽をきくのはむずかしい。
ただ、多くの場合、リスニング・ポジションは、一定だ。ということは、スピーカーからききてまでの距離は、常にかわらないということだ。ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。すくなくともぼくは、かえないできいている。それはそれでいい。
ところが、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、そのときかけるレコードによって、耳からスピーカーまでの距離をさまざまにかえた。もっとも、それは、かえようとしてかえたのではなく、後から気がついたらそれぞれのレコードによって、台を、手前にひきつけたり、むこうにおしやったりしてきいていたのがわかった。むろん、そういうきき方は、普段のきき方と、少なからずちがっている。そのちがいを、言葉にするとすれば、スライドを、スクリーンにうつしてみるのと、ビューアーでみるのとのちがいといえるかもしれない。
それが可能だったことを、ここで重く考えたいと思う。若い世代の方はご存じないことかもしれぬが、ぼくは、子供のころ、ラジオに耳をこすりつけるようにして、きいた経験がある。そんなに近づかないとしても、ともかくラジオで可能な音量にはおのずと限度があったから、たとえば今のように、スピーカーからかなりはなれたところできくというようなことは、当時はしなかった。いや、したくとも、できなかった。そこで、せいいっぱい耳をそばだてて、その上に、耳を、ラジオの、ごく小さなスピーカーに近づけて、きいた。
当然、中波だったし、ラジオの性能とてしれたものだったから、いかに耳をすまそうと、ろくでもない音しかきけなかった。にもかかわらず、そこには、というのはラジオとききての間にはということだが、いとも緊密な関係があった──と、思う。そのためにきき方がぎごちなくなるというマイナス面もなきにしもあらずだったが、あの緊密な関係は、それなりに今もあるとしても、性格的に変質したといえなくもない。リスニング・ポジションを一定にして、音量をかえながら、レコードをきく──というのが、今の、一般的なきき方だとすれば、あのラジオのきき方は、もう少しちがっていた。
そういう、昔のラジオをきいていたときの、ラジオとききてとの間にあった緊密な関係を、キャスターのついた白い台の上にのった再生装置一式のきかせる音は、思いださせた。それは、気持の上で、レコードをきいているというより、本を読んでいるときのものに近かった。
ここに二冊の画集がある。一方は、17センチ×18センチの、いわゆるスキラバンの画集で、もう一方は、28センチ×32センチもある、かなりの大きさの画集だ。当然、それらをみるときの、それらをみる人の、画からの距離は、微妙にかわる。その場合には、そこに印刷されている画の性格、内容とも無関係ではないが、小さな画集のときには、どうしても目が近づいていくだろうし、大きな画集のときには、小さな画集をみるときよりはなれぎみになるにちがいない。ただ、いずれにしろ、ふたつの目と画との間にできる空間には、ある種の濃密な空気がただよう。その濃密な空気は、ラジオとききての間の空間にあったものと、似ていなくもない。
それなら、ふたつのフロア型スピーカーとききてとの間の空間にだってあるだろう──と、お考えかもしれない。たしかに、それは、ある。しかし、その空間は、画集の印刷された画と、それをみる人の間の空間と較べて、あまりにも大きいために、まったく同じ濃密さがあるとは、いいがたい。
5時間の間、キャスターのついた白い台を、むこうにおしやったり、手前にひいたりして、つまり、ラジオをきくようにきいたということになるのかもしれない。当然、音質的には、かつてぼくがきいていたラジオのそれなどとは較べものにならないほどの、すばらしいものだったが、再生された音と、それをきく人間の関係という、ごく基本的なところでは、すくなからぬ共通点があった。
そういうことで、キャスターのついた再生装置一式は、あらたな──というより、これまでとかく忘れがちだった、もうひとつのレコードのきき方に気づかせた。しかし、それだけのことならなにも、アンプが小さくなくてもいいだろう。小型スピーカーをキャスターのついた台の上にのせさえすれば、そんなことは可能なはずだ──と、お考えかもしれない。たしかにその通りだ。だが、それは、あくまでも、理屈でしかない。小さく、軽いからこそ、手もとにおいて音量の操作ができる。キャスターのついた台の上に一式がのってしまうからこそ、その台を画集のごとくに考えられるということを忘れるわけにはいかない。
小さいからこそ、そして軽いからこそ、そしてこれはいわずもがなのことながら、音質の点で充分に水準に達していればこそ、そういうきき方が可能だった。小さければいいたろう、軽ければいいだろう、粋なスタイルでまとめられていればいいだろう──ということではない。これは、JBL4343の方につないだときにわかったことだが、誇張や無理のない、SU-C01+SE-C01の音は、なかなかどうして、その小ささが信じられないほどのものだった。ひとことでいえば、すなおな音ということになるだろう。
ただ、このテクニクスのC01のシリーズが、プリアンプとパワーアンプと、それにチューナー(このチューナーがFM/AMなのはありがたい)だけで終ってしまうのだとしたら、残念だ。こちらとしては、やはりどうしても、この大きさのカセット・デッキがほしい。それに、これらのアンプやチューナーと大きさや性能の点で充分にフィットするプレーヤーも、できることならほしいものだ。なるほど、プレーヤーは、一般のレコードの直系が30センチあるということで、むずかしい点が多々あるのだろうが、使い手は勝手に、LP初期につかわれていた、あの小さなターンテーブルの、しごく簡単なプレーヤーのことなどを、思いだしたりしてしまう。今日の技術をもってすれば、みかけはあのようなものでも、かなりの水準のものがつくれるのではないか。そのような期待を抱かせずにおかないSU-C01であり、SE-C01であり、ST-C01だった。
チューナーのST-C01について、少しふれておけば、使い勝手は、大変にいい。小さいから、ダイヤルを読みにくいのではないかと思われかもしれないが、ぼくはほとんど不自由を感じなかった。先にもふれたように、どっちに動かせという指示が矢印で示されるので、それにしたがえば、なんなく同調させることができる。
コンパクトにできていることは、あらためていうまでもないが、コンパクトにしたために使い勝手の点で問題が生じているかというと、そうではない。おすもうさんのような大きな手の人だとどうかわからぬが、普通の手の人なら、それぞれのつまみの大きさなど、これで充分だ。しかも、スイッチ類にしても、カチッときまって、感触の上で、一種の高級感がある。こういうものは、その辺がいいかげんになると、小さいだけに、どうしてもおもちゃめいてくるが、そこから見事にのがれているのは、そのためだ。
小形装置・イコール・サブ装置──と考える考え方が強い。たしかに、ビクターS-M3のスピーカーをつないできくかぎり、大編成のオーケストラによって演奏されたものなどでは、幾分むずかしいところがある。そういう音楽を中心にききたいという人にはあるいはむかないかもしれない。第一、これらのアンプにつなぐスピーカーとして、ビクターS-M3がベストだったかどうかは、断言できない。それにむろん、プレーヤーやカートリッジについても、選択の余地があるはずだ。したがってここでは、あくまでも、スピーカーにビクターS-M3をつかい、プレーヤーにベオグラム4000をつかった場合のこととしていわせていただくが、もし小編成のグループによって演奏された、ことさらダイナミックな表現力を必要としない音楽をおもにきくという人なら、この一式をメインの装置としてつかえるにちがいない。
もっとも、SU-C01+SE-C01を、一般的な使い方で──ということは、フロア型スピーカーにつないで、ききてが一定のリスニング・ポジションできくという使い方のわけだが、そういう使い方でということなら、その限りではない。しかし、先にものべたように、これだけの小ささで、これだけ軽量だという、このアンプやチューナーの最大の美点をいかしてつかおうということになれば、これまでの一般的な使い方でとどまっていては、いかにもつまらないと思う。
真に新しい道具は、その使い手の考え方をもゆさぶることがある。このテクニクスの新しいアンプやチューナーには、それがあった。小さくて軽く、あつかいやすいなどという、音が眼目のオーディオ機器では副次的と思われやすいことで、その使い手は、音とのふれあい方という、これはごく基本的なところでゆさぶられたことになる。おそらくぼくは、このコンパクトなアンプやチューナーを手にしなければ、画集で画をみるように音楽をきくことを、あるいはかつてラジオをきいたときのように自分の耳をスピーカーの方によせていってレコードをきくことに、気づかなかったのかもしれない。
たしかに、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、マーラーのシンフォニーも、ハードなロックもきかなかった。結局、そういうレコードは、それらの装置が呼ばなかったからだろう。きいたレコードのうちの多くがきかせたのは、どこかにインティメイトな表情のある音楽だった。
まだつかいはじめたばかりで、断言することはできないが、これからも、ぼくは、そのキャスターのついた白い台の前で、少なからぬ時間をすごすにちがいない。仕事の関係で、マーラーのシンフォニーをきくことも、リヒャルト・シュトラウスの楽劇をきくこともあるから、そのときは、より大がかりな装置できくことになるのだろうが、レコードによっては、スピーカーとききての間に生じる濃密な空気を求めて、キャスターのついた白い台の一式できくことになるだろう。だからといって、その小形の装置を副次的に考えているわけではない。ただぼくは、そこで、レコード=音楽の求めにしたがい、そうしたことになる。つまり、今度は、そういうきき方もできるようなったので、そのようにきくということだ。
さて、これを書いてしまったら、オルネラ・ヴァノーニの歌を、スクリーンにうつすのではなく、ビューアーでみるように、キャスターのついた白い台の前で、きくことにしよう。いかにすてきにきこえるか、すでに先刻きいて、わかっているので、あのたのしみをもう一度、じっくりあじわうことにする。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
マランツ♯510Mとの組合せでは、SC77の場合よりも、聴感上で低域の量感が豊かになり、スケールの大きな音になる。バランス的には、ローエンドは抑え気味で、中域の薄さが感じられる。中高域あたりはかなりシャープで、音の分離が一段と向上した印象があるが、反面、少し硬質さが感じられる。おそらくこの部分は、♯510Mのキャラクターが出ていると思う。
内蔵のMC型カートリッジ用ヘッドアンプは、MC20ではスケール感が小さく、柔らかいが、伸び不足であり、103Sのほうが音のキャラクターもマッチし、かなり聴感上の帯域が広いスッキリと伸びた音になる。このアンプにはこの音がもっとも応わしい。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
マランツ♯510Mとの組合せでは、かなり聴感上の周波数レンジが広く、伸びたバランスであり、音の粒子の細やかさや、音の柔らかさ、伸びやかさでは、セパレート型アンプとして第一級のものがある。低域は、暖色系の柔らかい音であり、中域はM60の場合よりも、コントラストは薄くなるが、粒立ちは一段とナチュラルで細かい。
音像定位は、まず標準的で、音場感はスピーカーの奥に広がるタイプだ。
内蔵のMCカートリッジ用ヘッドアンプは、MC20よりも103Sのほうがマッチするようで、柔らかく、粒子の細やかな、かなりナチュラルで伸びきった音であり、音場感もスッキリと広がるタイプだ。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
マランツ♯510Mとの組合せでは、かなりスッキリとした、いわゆる細身のクリアーな音である。バランスとしては、少し低域が抑え気味で、音を整然と聴かせる傾向があるため、ストレートでソリッドな音という印象となる。
ステレオフォニックな音場感は、左右のスピーカー間の奥に広がり、音像は、かなりクリアーに定位をする。音楽に対しての働きかけは、少し表情を抑える傾向があり、いわゆるマジメ型のアンプである。
音をソリッドに、くっきりと聴かせる点がこのコントロールアンプの特長であり、基本的な音のクォリティでも、このクラスのセパレート型に応わしいものがある。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
滑らかで伸びやかな音をもつコントロールアンプである。
聴感上の周波数レンジは、ローエンドとハイエンドを少し抑えたナチュラルなバランスをもち、低域は豊かで柔らかいが、かなりソリッドな面をもち、中域は硬質なタイプだがやや密度が薄く、前に張り出してくるだけのエネルギー感がないようだ。トータルバランスは、低域から中低域にエネルギー感が集まるため、充分に安定感があるタイプだ。
音の表情はおだやかだが、適度の伸びやかさがあり、潜在的な力感がある。反応は標準的で、基本的なクォリティはかなり高い。音場感はナチュラルに広がり、音像はスピーカー間の少し奥に定位をする。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
ウォームトーン系の柔らかく豊かな音をもった、かなりオーソドックスな音をもつコントロールアンプである。
聴感上での周波数レンジは、ローエンドとハイエンドを少し抑えた印象はあるが、ナローレンジと感じるほどのものではない。
リファレンスパワーアンプ♯510Mとの組合せでは、全体に音が一段と引締り、音の鮮度が高くなる。低域は適度のエネルギー感があり、中域は粒子が少し粗いが、滑らかに磨かれており、中高域から高域は、410との組合せから予想するよりも、かなりスッキリしている。音場感は標準的に広がるが、空間の広がりがスッキリとは抜け切れず、やや濁る面がある。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
独特の厚みがあり、緻密で濃縮された味わいの濃い音をもつ、ユニークなコントロールアンプである。
聴感上での周波数レンジは、ローエンドとハイエンドを少し抑えた安定バランスであり、バランス的には中域にタップリとした量感をもち、音色はウォームトーン系の、豊かで密度が濃いタイプである。
表情はおおらかで伸びやかさがあり、細やかさもかなりあるが、細部にこだわらず、余裕タップリに音を出す性格は、かなり大陸的な印象である。ステレオフォニックな音場感はよく広がるが、モワーッと広がる感じで、ホールトーンは充分にあるが、爽やかな空間の広がりとはいえない。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
おおらかでスケール感の大きな音をもつコントロールアンプである。
聴感上での周波数レンジはややナローレンジ型で、ローエンドとハイエンドはかなり抑えているようだ。
リファレンスパワーアンプ♯510Mとの組合せでは、全体に音が一段と引き締り、反応の早さが感じられるようになるのは、♯510Mのキャラクターが出ていると思う。低域は柔らかく豊かであり、中域以上でも音の粒子は粗粒子型だが、滑らかに磨かれており、予想よりも高質さは感じられない。高域は少しラフな傾向があり、弦楽器がメタリックになるが、トータルとしては低域とバランスを保ち、ある水準を維持する。
井上卓也
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
初期のソリッドでタイトな音にくらべると、かなり音の粒子が細やかで、表情がナチュラルで、洗練された滑らかな音を持つようになった。聴感上での周波数レンジは、かなりワイドレンジ型で、バランス的には中域がやや薄く、音色は明るく滑らかなタイプである。
ステレオフォニックな音場感は、左右方向・前後方向のパースペクティブともに充分に広がり、スッキリとした広い空間の再現性がある。音像はかなり小さくまとまり、輪郭は細くシャープである。音像はスピーカー間のやや奥に定位をする。表情はナチュラルで活き活きとし、オーケストラのトゥッティでの音の分離は素晴らしい。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
静かな水面を覗き込む感じの、肌ざわりの冷たい透明感、とでも言ったらいいたろうか。非常に滑らかで緻密にぴしりと埋めつくされたようで粗さが少しもない。マッキントッシュC32のあの享楽的な鳴り方とは正反対の意味の、とても慎重な鳴り方をする。ぜい肉をおさえこむタイプで、素性はとてもいいがときとしてもう少しふっくらと開花したような色っぽさが欲しく思われたりする。また、音の余韻の繊細な響きが、空間のどこまでも広がって漂い消えてゆく感じまでは十全に鳴らし切れない感じなので、楽器のまわりに漂う雰囲気まで感じさせるというところまではゆかなかった。しかし質的にはきわめて高度で、清潔感のあるクールな音色が特色となっている。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
全体の構成やコントロールのしかたに、ふつう使いなれた一般的なコントロールアンプと考え方の異なる部分が多く多少とまどったが、コントロールのピントが合うと、たいへんクリアーで切れこみの良い、夾雑物のないディテールまで見通しの良い音が楽しめる。ただし、ボリュウムコントロールを時計の針で10時あたりの角度以上に上げたところで使わないとそういう明るく切れ味の良い音にはならない。フォノ・ゲインが30dBと40dBに切換えられるので、ゲインを30dBに下げてボリュウムを上げるようにした方がいい。絞った場合はやや反応が鈍く曇ってそれでいてどこか硬質の音になってしまう。極上とはいえないが輸入品としての価格を考えると一応の水準の製品か。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
寿命の長い製品だが、当初から良くできたコントロールアンプのひとつとして印象が良かった。どちらかといえばウェットな感じの音色だが、ふつう国産アンプの多くに不満を感じやすい重低音域の支えも十分にしっかりしていて、音に重量感もあるし、中域から高域にかけて適度にしなやかなので弦のニュアンスもよく出るし、ステレオの音像の空間へのひろがりもとてもいい。ただ、ハイエンドにいくらか強調感があって、それがプログラムソースによっては多少気になることがある。そのためもあってか音の密度がもうひと息欲しいという気もする。しかし以前の製品よりも一段とクォリティの高い音に仕上っていて、今の時点でも十分に優秀なコントロールアンプのひとつと感じた。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
音に抑揚がつくというか、どちらかといえば味の濃い、身ぶりの大きい、コントラストの強い音を聴かせる。「オテロ」の冒頭など、かなりドラマティックなおもむきに鳴る。ダイナミックな音の伸びがいい。切れこみもよく細部をあきらかに聴きとらせる。ただ、弦合奏では倍音がいくらか目タックになる傾向があり、少々表情過多というか、どこか説明過剰のような印象だ。ただ、組み合わせたマランツ510Mの音と性格的に一脈通じる部分があるのか相性は悪くなく、ひとつのカラーに徹底したおもしろさがあった。ヘッドアンプは内蔵していないが、ゲインをかなり高くできるのでフルゲインではデンオン103Sなら実用になり、音に適度の魅力をつけ加えて生かす。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
パワーアンプの405が発売されたあと、いずれ新型のコントロールアンプが発表されると誰もが思った。だがいつまでも出てこない。しびれを切らしてロス・ウォーカー(QUAD社長)に質問したら、「33でどこか不満か?」と聞き返された、という話は有名になっている。これに象徴されるように、33の音を最新のソリッドステートと比較すれば、不満はいくらも指摘できるが、反面、ボリュウムを上げてレコードから鳴ってくる音楽に耳を傾けるとき、この、たしかに音像は小造りだしひとを驚かす切れこみの良さも鮮度の高さもないが、聴くにつれて底に流れる暖かい響きの美しさとバランスの良さに気づけば、これはこれで完結したひとつの小世界なのだと納得せざるをえない。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
音の切れこみのよさ。シャープな表現。一聴していかにも解像力の高いという感じの音がする。バランス的にも低音域から中低音域にかけての支えがやや弱く中〜高音域にかけてキラキラした輝きがあるため、かなり硬質で金属的に聴こえる。したがって打楽器の切れ味の鋭さなどには特徴を出す反面、弦やヴォーカルは骨ばった冷たい音になる。もう少し音に暖かさや響きのしなやかさが欲しい。内蔵のヘッドアンプは、MC20では高域が鈍く音が細くなり情報量の減る感じになる。DL103Sでは専用のトランスよりは解像力が上るが中〜高域が張ってくる。ローフィルターやトーンコントロールをONにしたときの音質の変化はやや大きい。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
音のひと粒ひと粒が、一種豪華な味わいのブリリアントな力に支えられているという感じがする。旧マッキントッシュでは、音をおおづかみにとらえて細部にこだわらないこせこせしない良さの反面、ディテールをいくらか塗りつぶして不鮮明にする弱点があったが、C32はさすがにこんにちの最新のソリッドステートらしく、反応がシャープでディテールもよく再現する。いかにも血色の良い享楽的でゴージャスな音で、これを耳にした後ではマーク・レビンソンがどこか禁欲的で貧血症にすら聴こえかねない。ただ個人的にはこういう音を毎日の常用として身辺に置こうという気持にならない。あまりにも積極的に音を彩るので、おそらく飽食してしまいそうだから。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
弟分の1003のところでも書いたと同じように、相対的にはバランスのよくとれた音で、ことさらにこのコントロールアンプでなくてはという音の特徴もないかわりに目立った弱点もない製品で、その点が安心できるともいえるし、しかしこの価格になればもう少し何かプラス・アルファも欲しい気もする。1003との比較では、こちらの方が音の艶があり密度も増して、聴きごたえの出てくる反面、中〜高域で、表面はおとなしくコントロールされているようで気づきにくいが、プログラムソースによってはときとしてかなり張り出してくるエネルギーがある。それをもう少しおさえることと、ハイエンドではもう少し目の前が開けたような透明感も望みたくなる。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
LNP2が2Lと改称されたのは、新しく採用されたスイスLEMO社のコネクターの頭文字をとったのだそうだが、旧型とは別のアンプのように改良された音は、別にコネクターのせいではなく、まず別筐体の電源回路が強化されたことが第一。それに加えて2Lになる少し前から、増幅素子その他の回路素子、部分品類の小改良の積重ねが実って、最新型で聴くことのできるおそろしく透明で繊細で、緻密で優雅、そして音の奥行きとひろがりの素晴らしさを満喫させる音に仕上った。自宅でも常用しているが、できればオプション(別売)のバッファーアンプを回路に追加してもらう方が音質が向上する。本誌試聴機もそうなっている方を使っている。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
たいへんバランスのよく整った音で、こういう音は言葉で言い表そうとするとかえってむずかしい。要するにこれといった際立った特徴があるわけでなく、たとえば難しい「オテロ」冒頭のトゥッティでも音のつみ重なりや各声部の表情を、曲の内容をいちおう聴きとるに不足しない程度には鳴らし分ける。この価格ということを頭に置いて言えば、これはかなり出来の良いコントロールアンプといえる。ただ、価格を別とすれば、低音での支えがもうひと息欲しいし、また中〜高音域では、わずかながら表情に硬さもある。音の密度という点でも、もう少し充実感も欲しく思われる。コントロールアンプ単体として10万円以下のローコスト機という前提でのおすすめ品ということになる。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
アンプにとって難物のテストソースである「オテロ」冒頭のトゥッティの持続の部分でも、音の混濁するようなことがなく、いかにも歪の少ないことを感じさせる透明感の高い音を聴かせる。ただ、冒頭からのオルガンの低音の持続音が弱く、また〝SIDE BY SIDE 3〟でもベースの豊かさが出にくいことから、中低域から重低音域にかけてエネルギーが少々不足する傾向があるようだ。また同じソースでもピアノの丸みのある艶が出にくく、弦や声でも音がどうも素気なくなる傾向がある。総体に中〜高域重視のバランスだがトーンコントロール無しなので補正は不可能だ。物理特性的には良いのかもしれないが、音楽を音楽らしく味わいたい人間には必ずしも嬉しくない音だ。
瀬川冬樹
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)
「最新型94機種のテストリポート」より
以前のJC2と基本的には同じ製品だが、型番がML1Lと変る以前から、内容にはかなり大幅の改修が加えられて、音質は旧型と一変している。旧JC2の一聴していわゆるハイ・ディフィニション(明瞭度が高い=高解像力)という印象の音よりも、大づかみにはLNP2Lのおだやかな音質に近づいた。というより、音の深味あるいは奥行きの深さと幅の広さではLNPにほんの一息及ばないが、基本的な性格はLNPと紙一重というところにせまって、あくまでも透明ですっきりと品位の高い音質は、両者を比較しないかぎりその差に気がつきにくいだろうと思わせるほど完成度が上っている。ゲインが高いためDL103Sクラスはトランスなしで実用になる。
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