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マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

音[オーディオ]の世紀(ステレオサウンド別冊・2000年秋発行)
「心に残るオーディオコンポーネント」より

 マッキントッシュXRT20は1980年以来、僕が愛用するスピーカーシステムである。したがって、もう20年も愛用し続けていることになる。現在は、XRT26というモデルナンバーの製品にリファインされているが、基本設計に変りはない。このXRTシリーズは、マッキントッシュのユニークなアイデンティティに満ちあふれるスピーカーシステムで、他の凡百なスピーカーシステムとは画然と異なる着想から生まれた傑作だと思うのである。
 このスピーカーシステムに出会ったのは’79年9月、チェコ出身の名ピアニスト、故ルドルフ・フィルクシュニーの録音のためにニューヨークを訪れたときであった。
 マンハッタンにあるホーリー・トリニティ・チャーチという教会で、数日間にわたる予定の録音だったのだが、2日目の録音が終わったところで、翌日からの録音予定が2日間延引されてしまったのである。なんでも、その教会の長老が急に亡くなり葬儀を行なうことになったとやらで、録音予定を変更してほしいという教会側からの急な申し入れであった。もともと、無理に頼んで礼拝堂を録音に使わせてもらったわけだから、だまってしたがうほかはない。われわれは予定を2日間延ばすことになったのである。
 僕にとって、ニューヨークへ行ったら連絡を入れないわけにはいかない友人が何人かいるが、その一人が、マッキントッシュ社の社長ゴードン・ガウ氏であった。通常日本を発つ前に連絡するのだが、このときは、1週間の録音だけでトンボ帰りの予定だったので、連絡をすればマッキントッシュ社のあるビンガムトンからマンハッタンに来ると言うだろうから、かえって迷惑をかけるのもどうかと思い、前もって連絡を入れていなかったのである。しかし、2日間空いたとなると、そうもいかない。早速、電話して事情を伝える。案の定、「明日の朝、ホテルにクルマを迎えにやるからニュージャージーからチャーター機でビンガムトンに来てくれないか? 前から話していた例のエキサイティングなスピーカーシステムが、20年かけてようやく完成したんだ! ぜひ聴いてほしい。夕方には一緒にマンハッタンにもどって食事とナイトライフを楽しもう」と言う。この録音にはピアニストの山根美代子さん(フィルクシュニー門下生で後年、大ヴァイオリニスト、シモン・ゴールドベルグ氏と結婚、いまはゴールドベルグ未亡人となられた)がプロデューサーとして日本から同行していた。その旨を告げると、「そのピアニストにもぜひ聴いてもらいたい。よければ一緒に来てくれないか?」ということだったので、われわれは彼の言葉通りに翌日の朝、ビンガムトンに飛んだのである。
 マッキントッシュ社の試聴室で聴いたXRT20には完全にまいった! その音の質感の自然さはどうだ? オーケストラの弦合奏をこのような感触で再生するスピーカーシステムを、僕は、かつて聴いたことはなかった! また、リスニングポジションに関わりなく展開するステレオフォニックな立体感の豊かさと定位の安定感、いままで聴いたことのないスピーカーシステムの特質の数々が、このスピーカーシステムから聴けたのであった。多くの音楽家、とくに女流音楽家の例に漏れず、オーディオにはとくに造詣が深いとは言えない山根女史も、この再生音には、非常に強い印象を持ったようで、現在もXRT18をマッキントッシュのアンプともども、自宅で愛用しておられる。
 翌1980年、XRT20は発売されたが、1958年の45/45ステレオレコードの発売を契機として、当時の、たんにモノーラルスピーカーシステムを2台並べてステレオを聴く状況にたいする、疑問と不満を発想の原点として開発がスタートして以来、じつに、20年かけたステレオフォニックスピーカーシステムの完成であった。
 僕の愛用システムは、「375+537−500」の項で書いたように、1968年以来、JBLのホーンドライバーを中心としたマルチアンプシステムで、時折、他のスピーカーシステムを使ってみても、永く居座る製品はこのXRT20以外にはなかった。それが、すでに20年以上の歳月をメインシステムと共存する状態が続いているというわけである。XRT20の詳細は過去に「ステレオサウンド」本誌でも詳しく書いたし、いまはここにあらためて書く字数の余裕はない。しかし、現在も、その技術的な多くの特徴はまったく色褪せるものではないし、僕にとっては、その後、この音を超えるメーカー製システムは、現われていない。

マッキントッシュ XRT20, JBL

菅野沖彦

ステレオサウンド 72号(1984年9月発行)
特集・「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」より

 正確には記憶していないが、多分、1967年ぐらいから、ぼくのメインシステムとしてJBLの375ドライバー十537−500(ホーン/レンズ)を中心としたスピーカーを使い始めた。当初から、3ウェイのマルチアンプシステムとして使い始めたもので、ぼくにとってこのスピーカーは、まさに妻のようなものであった。何故なら、ぼくがこれを使い始めた頃、ぼくの気持ちの中では、一生、このスピーカーとつきあおうと思っていたし、また、そうなりそうな予感もあったからである。トゥイーターは075、ウーファーは初めのうちはワーフェデールのW12RS・PST、そして後に目まぐるしく変り、結局、JBL2205に落着いて現在に至っている。もっとも、075は、その後、ぼく流に改造しているし、375ドライバーも2445Jに変ってはいるが、これは妻を変えたようなものではなく、女房教育をしたようなものである。つまり、通称〝蜂の巣ホーン〟を中心としたJBLのユニットによる3ウェイのマルチシステムという基本は、この17年間変ってないのである。もちろん、その間にも、いろいろなスピーカーに出会って、浮気心を起こしたこともあるし、そのうちの何人かは、本妻と一時的に同居させたこともあった。しかしいつも、せいぜい3〜6ヵ月で、妾のほうは追出されてしまうのが常だった。まさに浮気のようなもので、本妻と並べてみると、改めて、妻の美点がクローズアップされ、一時期血迷った自分を反省するのであった。時には妻にはない魅力を垣間見せる妾もいたが、総合的にはいつも妻のほうが上であった。それに気がついてしまうと、とても妻と妾を同居させている気がせず、妾のほうにはお引取り願うということになるのであった。
 そんなぼくとスピーカーとの関わり合いに、かつてない大事件が起きたのが、今から3年前、1982年の春である。
 その2年前、ぼくは録音の仕事でアメリカへ行き、ニューヨークで二週間ほど仕事をしたが、その間に、マッキントッシュのXRT20というシステムに出会ったのである。ぼくの浮気の虫は、にわかに鎌首を持上げ、この熟女の魅力の虜になってしまった。しかし、この時は、かろうじで理性が勝って旅先での出来事にとどめることが出来たのである。しかし日本に帰って、久しぶりにわが家で妻の歓迎を受けながらも、XRT20の妻にはない魅力が想起され、妻には悪いと思いながらも、妻との営みの最中にXRT20を空想したり、妻にXRT20の魅力を求め無理強いしたりという一年がつづいていた。しかし、再び、妻との生活に馴れ、いつしか、XRT20の記憶も薄れていったのだった。もとの落着いた心境で、夜な夜なベートーヴェンやハイドンを、バッハやモーツァルトを、そして、マーラーやブルックナーを招いて楽しい一時を過していたし、時にはソニー・ロリンズやアート・ペッパーを、また、大好きなメル・トーメやジョニー・ハートマンを招くこともあった。ジャズメンを招いた時の妻の喜々とした表情は、ことのほか魅力的で、とても15年連れそった古女房とは思えない若返りようであったものだ。
 が、忘れもしない1982年の春、日本でXRT20に再会してしまったのである
 XRT20が来日した! と聞いた時からぼくの胸は高鳴り、ニューヨークで味わった興奮が、まるで昨日のことのように甦ったのである。もう、居ても立ってもいられない。ぼくは後先顧みず、XRT20をわが家へ連れ込んでしまったのだった。彼女のために部屋を片づけ、レコード棚の一つは廊下へ出し、なんとかXRT20のために居心地のよいスペースを確保した。
 それからの数十日は、ぼくは平常心を失っていたように思う。朝な夕な、夜更けまで、ぼくはXRT20に狂っていた。柔らかく優美な肌、しなやかでいて強勒な、その肉体にのめり込んでいった。気性は妻よりややおとなしいように見えたが、どうしてどうして芯は強い。若いだけあって柔軟性に富んでいて、クラシック畑の人ともジャズ細の人とも、分け隔てなく馴染んでくれた。ぼく流の教育にも従順で、驚くほどの適応性を見せるのだった。
 この間、妻は無言であった。そしてある夜、ふと沈黙の妻の存在に気づき、久し振りにぼくは妻との語らいの一時をもった。そしてぼくはまたまた、妻の能力を再再発見したのである。妻はいった。
「私はXRT20とは違うのよ。でも、私は長年、あなたによって教育され、大人になったと思うの。それだけに新鮮味はないかもしれないけれど、XRT20とは違った心地よさをあなたに与えてあげられる自信があるの。この前、あなたの親しい瀬川冬樹さんが来られて、あなたとお話ししていらしゃっるのを聞いたわ。瀬川さんはさかんに私との離婚をあなたにすすめられていたわね。でも……私、嬉しかった。あなた絶対に首を縦に振らなかったもの。ありがとう。」
 ぼくはこの時から、長年の主義を破って妻を二人持つことに決めたのである。辛いオーディオ国の法律では重婚は禁じられていないようである。そして、新しいXRT20に、長年JBLに注ぎ込んだ情熱的教育に匹敵する努力を集中的に一年間傾注したのである。来ては去った多くの妾達とはXRT20は違っていた。他人からみるとXRT20がぼくの正妻のように見えるかもしれない。しかし、今や、堂々と、それでいて、ひかえ目に存在するJBLとは馴染んだ年輪が違う。どちらも、ぼくのとっておきの音である。
 この二人の妻と、いつまで続くかはぼくにもわからない……。

マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

ステレオサウンド 66号(1983年3月発行)
「道具はすべて、使い手に寄り添ってくれる。」より

 XRT20を入れたとき、ぼくは、JBLユニットとの15年の成果も、これには敵わないと思った。一月ほどは、JBLのほうをかえりみなかった。ふとある日、電源を入れてみて、音の出方、音場感にこそ大きな違いはあったが、楽音の色合いや、全体のエネルギーバランスが大変似ているのに驚かされた。なるほど、ぼくがXRT20に、なんの抵抗もなく魅せられたのは、15年もかかって追いこんできたぼくの音のバランス感覚に近い音をこのスピーカーが持っていたからだと気がついたのである。その後の1年半にわたるXRT20との格闘と、JBLシステムの改良をへて、この二つのシステムの音のバランスの差がますます縮っていくにつれ、二つの微妙な差は、こよなくぼくを楽しませてくれる。

 先程から、何回、この小さなマイクロフォンの長いコードを巻き直したことか。仕事柄、コード巻きは慣れているから苦にはならないけれど……それにしても……どうせ、巻いた後、すぐにほぐして、再びマイクを使うのなら、いちいち巻いて片付けることもないだろうに……と自分で自分を嘲笑いながら……。
 このマイクロフォンは、フレケンシーアナライザーの測定マイク。ぼくのリスニングルームのアコースティックを測っているのである。この日は、朝の9時頃から始めて、すでに夜の10時を過ぎている。そう……この間に、このマイクロフォンと測定器を、もう5度も片付けた。逆にいえば、5度、引っ張り出していることになる。これがぼくの性分で、測定器をそのままにしておいて、他のことをすることが不可能なのである。ながら族のように器用にはいかないのだ。この性分は、もう、子供の頃からのもの、いまさらどうしようもない。昔、アンプなどを自作していた頃、ぼくは周囲を全部片付けてからでないと音楽が聴けなかった。どうせ、すぐに引っ張り出さなければならないことはわかっていても、アンプを所定のケースの中に入れ、その辺に散らばった線材や半田ゴテなども片付けてからでないと、音楽が聴けなかった。オーディオ仲間の大部分は、アンプを垂直に立てたまま(つまり電圧を測る状態のまま)仮にプレーヤーやスピーカーをつないでレコードを聴いていた。まるで小工場の中にいる雰囲気で、それはそれでたいへん魅力的な、楽しい雰囲気なのだが、ぼくはこれでは、音楽を聴く、音を聴き分ける、聴き込む……といった集中力を生む心境にはなれなかった。
 ところで、この日、5度目の測定と調整を終えたのが11時過ぎ、例によって、周囲を元通りにしてから、ぼくは聴き馴れたレコードを聴いてみた。駄目だ。全然バランスがくずれてしまった。この日は、やればやるほど悪くなり、遂に、全く、ぼくの意図する方向とは反対の、客観的に聴いても、決して正しいとは聴こえぬバランスに陥ってしまった。もう、くたくたに疲れている。神経も、肉体も、正常な状態とは思えない。音を聴くことについては、録音や機器の試聴という仕事を通して、相当鍛えた自信もあるぼくだが、さすがに、13~14時間となるとまいる。今日はもう駄目だ。風呂に入って寝るとしよう。しかし……明日は仕事で出かけなければならないな……もう一度やってみようか……と未練がましく、なかば放心状態で、スピーカーから流れるモーツァルトのピアノ協奏曲に空虚な耳を晒している始末であった。もう、こんなことを何回やっているだろう。期間にすれば、一年半にはなるだろう。このマッキントッシュのXRT20というスピーカーを設置して以来だ。
 このスピーカーを鳴らし始めた時、その素晴らしさに感動し、夢中になった。MQ104というエンバイロンメタル・イクォライザーを一通り調整し、部屋におけるピーク・ディップを補正して聴き始めるのに、半日ぐらいを費やしただろうか。そこで鳴り始めた音の素晴らしさは、その立体感といい、質感といい、これぞぼくの求めていた音だと思ったものだ。新旧、あらゆるレコードを引っ張り出して、むさぼり聴いた。自分の録音したレコードも、ほとんどを聴き直した。一ヵ月ほどは、全く不満を感じなかった。多くの人が、わが家を訪れ、異句同音に、このスピーカーの素晴らしさを讃美した。中には、これはXRT20の素晴らしさもさることながら、菅野さんの音になっている……などと、過分の讃辞もいただいた。正直、ぼくも非常にいい気特になっていて、まるで、恋人のことをのろけるような気持で、このスピーカーをほめたたえた。
 一ヵ月を過ぎた頃から、よせばいいのに欲を出し始めた。アンプを取替えたり、コード類をいじったり……。さらには、イクォライザーMQ104の調整をゼロから始めることになった。
 MQ104は、左右、それぞれ4ポイントの周波数を選んで、ピーク・ディップを補正し、低域をコンペンセイトする音場補正機である。20ヘルツから20キロヘルツまでのバンドを1/3オクターヴバンドのピンクノイズ・ジェネレーターを使って測定し、最も有効と思われる4ポイントを選ぶわけだ。簡単にいえば、大きな順に4つのピーク・ディップを選ぶわけだが、これがそう簡単にはいかない。増減カーヴのQの設定とともにらみ合わせ、測定マイクロフォンの位置との関連も充分に考慮に入れて、左右の特性をそろえる最適ポイントの決定は、やればやるほど難しい。ここで、技術的なことを細かく書くつもりはないけれど、この作業は、ルームアコースティックを含めたオーディオ全般の知識理解と、忍耐力と、カンの鋭さを要求される大仕事であることを知った。特性をフラットに近づけるなどという単純な表現で済む仕事ではないのである。「一度調整したら、これを耳で聴きながらいじるべからず!」とマニュアルには書いてある。確かに、測定値を明確に読んで調整した後で、カンに頼っていいじりまわしたのでは何にもならないから、この注意書きは正しい。
 しかし、この測定値なるものが、そう簡単に信頼出来るものではないのである。単純に、リスニングポジションにマイクを置いて(原則的にはこれがベストだとは思うが……)計測した値をフラットにすることが、バランスのよい音楽の再生につながるとはいえないのである。たとえ、定在波の出にくいワーブルトーンを用いても、部屋の反射波や定在波などの複雑な影響はカット・アンド・トライの入念な積み重ねによって、聴感と、理想値特性とのバランスを求める努力を要求することになるのである。そしてまた、いくら、理屈にかなった特性だからといって、聴き手に違和感のある音を、我慢して聴くのもどうかと思う。たとえば、 リスニングポジションにおいて、スピーカーの音圧周波数特性をフラットに近く整えれば整えるほど、音は死に、リズムの躍動は止り、音色はモノトーン化するという現象がおこることも珍しくない。これには大きく二つの要因がある。一つは、リスニングポジションが、反射波・定在波の影響をきわめて受け易いポイントにあって、スピーカーからの直接放射の周波数特性とはほど遠い特性を示し、これを無理に電気的にフラットにした場合であり、他は、プログラムソースのエネルギー分布が習慣的に聴いているホール等のアコースティックとは大幅に異なるものが多いという理由によるとぼくは考えている。この他にも、細かい要因は考えられるが、この二つが最も注意すべきポイントだと思う。
 これ以上、具体的なことを書くのはここでの目的ではないが、とにかく、このルームアコースティックを含めた調整(ヴォイシング)は、とても一筋繩でいく単純なものではないのである。しかし、かといって、ルームアコースティックのなるがままという使い方では左右の特性のバラつき(音響的な)や、大きなピーク・ディップによる音色や音場感の変化などが必ず生じ、良質な再生音を得ることは難しい。むろん、部屋の特性を音響的にコントロールすることが正統的な方法だとは十分心得ているけれど、これは、さらに難しく途方もない出費につながる大仕事となること必定である。
 一度、このヴォイシングの仕事にこり始めると、たった4ポイントの組合せと、レベルの変化によってさえ、無限ともいえるバランスの再生結果が生じることを知らされるのである。因みに、部屋の中の数ポイントの測定値の平均均をとるなどという方法は乱暴きわまるもので、一つの尺度としてならともかく、最終的に、これをリスニングバランスとするのは危険きわまりないことであることもわかった。結局、測定を細かくおこなって、大きく把握判断し、これを尺度として、耳による細部の調整をすることが、唯一の方法であるという結論に達した。そして、同じバランスにしても、アンプがちがえば全く違った音となり、また、そのアンプで調整のやり直しの必要があるという、当り前のオーディオの現実を再々認識させられるのであった。
 明日は仕事で出かけなければならない。それに気がついた途端、ぼくは、風呂に入って寝ることを断念した。そして再び、測定器を引張り出すのであった。疲れている時には、ろくなことにならないことは解り切ってはいたが、こんな状態で、ぼくの装置を、たとえ数日間といえども放置することを考えると、その苦痛のほうがたまらない。なにをしていても、これが気にかかってしかたがないという、ぼくの性格的欠陥を誰よりもぼく自身がしっている。なんとかして、せめてその日の朝の状態に戻したい。記録を見ながら、周波数ポイントとレベル位置を元に戻す。そこで確認の測定。また、かなり大幅に異なった測定値を示す。道具を片付ける。音を聴く。駄目だ。もう一度。今度は発想を変えてみよう。夜も更けた。測定レベルをスケールダウンする。
 遂に、外が白み始めた。ガチガチと牛乳配達の音。朝である。約20時間を費やした。結果を音楽により判定する能力はもうなくなっていた。電源を切り、ベッドへもぐり込む。わかっていながら、もっとも無駄なことをやったという想い。しかし、これも、紙一重の音のよさを実現するための、しなければならない努力であり、必ず、なにか得るものがあったはず……という自らの慰めが交互する。神経ばかりが冴えて、体は疲れ切っているのに眠れない。3~4時間、夢うつつ。ピンクノイズやワーブルトーンに、グラフの数値、マイクロフォンを移動するにつれてフワーフワーと動くレベルメーターの指針の動きが眠っているはずの頭の中を去来する。あの時の、デ・ワールトとロッテルダム・フィルのデ・ドーレンに響きわたった木管と弦合奏の、あのテクスチェアー、カシミアのように軽く暖かく、柔らかい、あの質感が、いつ戻ってくるのか? こんなことなら、何も手をつけるべきではなかった。この馬鹿者が! いや、やってみせるぞ。そして、あの時のチェロとコントラバスのピツィカートの濁りをとって、より明確な音程の把握とを両立させてみせるぞという意気込みが交錯する夢と、現実の間を往ったり来たりという体たらくであった。
 それから4日目に、ようやく、一つの満足点を見つけ出すことに成功した。やった、やった。XRT20の可能性を信じてよかった。なんと、あのサン=サーンスの第3交響曲の第一楽章、第二部のボコ・アダージョ(デ・ワールト指揮ロッテルダム・フィル)の気になっていた数個所が、見事に解決したのである。弦合奏のカシミアタッチがカムバックしたし、ヴァイオリン群のしなやかさが、より美しく、そして、低弦のブーミーな響きがとれながら、オルガンのペダルは荘重に鳴り響いた。どうしてもヒステリックに鳴ったジュリーニ/シカゴ響のドヴォルザークの八番のシンフォニーのグラモフォン盤も、ずっと滑らかな高弦の響きに変り、低域の改善のためか、リズムが一段と力強く脈動するようになった。フィルクスニーのピアノの、あの独特のペダリングによる響きのニュアンスも、ぼくが録音で意図した音に近づいた。ダイアローグという、やはりぼくが録音したジャズのレコードのバスドラムの音も明らかに改善され、豊かなハーモニクスと、力強いファンダメンタルとが、ほどよいバランスの音色にまとまった。ローズマリー・クルーニーもよく歌うようになった。ややハスキーで太目の彼女の年増の魅力が、前よりずっと現実的になった。〝恋人と別れる50の方法〟を、わけ知りの彼女なら、こういうニュアンスで歌わなければいけない。
 ぼくは、レコード音楽の醍醐味に酔いしれていた。何という幸せであろう。この音で聴けるのなら、もうぼくは、周囲にわずらわされるコンサートなど、くそくらえだと思う。グレン・グールドではないけれど、コンサート・ドロップアウトである。そこには、もはや、スピーカーの存在はない。音楽の場が存在するだけだ。リスニングルームの壁は、いつの問にか取り払われて、その向うに、すっと空間が開け始める。苦しみの多かった分、そっくり、それは喜びと幸せに変ってくれる。オーディオはこれだからやめられない!
 こうして、ぼくの部屋のマッキントッシュXRT20は、一年半の格闘の末、ようやくぼくが、このスピーカーの可能性を引き出したと納得出来る鳴り方で鳴り始めたのであった。
 しかし、実をいうと、ぼくには、すでに17年ものつき合いをしている、もう一組のスピーカーシステムがあった。JBLのユニットで構成した、3ウェイのマルチチャネルシステムである。XRT20を入れた時、ぼくは、明らかに、JBLユニットとの15年の成果も、これにはかなわないと思った。亡くなった瀬川冬樹君は、XRT20を置いてひと月日ぐらいの頃にわが家を訪れ、その音が、XRT20もさることながら、これは菅野サウンドだよと評してくれた一人である。そして彼は、もうJBLは外へ出してしまうべきだと主張したものである。たしかに、この大きなJBLのシステムを外へ出すことによって、XRT20にとっては、より理想的な音響条件が得られることは事実で、ぼくも、時折、そうした衝動にかられることがあったものだ。だいたいこのJBLのシステムは、17年ほど前に、瀬川君と時を同じくして使い始めたもので、その後、彼のほうはKEFや同じJBLの4341、4343と、幾世代もの変遷を経たにもかかわらず、ぼくのほうは一貫して基本的には大きな変更をせずに、リファインすることに努力を傾注し続けて釆たものだった。075トゥイーター、375+537-500ドライバー/ホーン、そしてウーファーはエンクロージュアを含めて、何回も変っているが、当初からぼくはマルチアンプシステムでこれを鳴らしてきた。例のこだわりのしつっこさで、XRT20がくるまでの15年、これが、メインシステムとして、ぼくのオーディオの触手のようになっていたものである。
 XRT20を入れてひと月ほどは、これに夢中になって、JBLのほうをかえりみなかった。瀬川君に出してしまえといわれて、ぼくは気がついたように、ある日久し振りに、その3チャンネルマルチシステムの電源を入れたのである。ぼくは、この3チャンネル・マルチシステムをXRT20と比較試聴するる気はなく、ひと月ほどXRT20に馴染んだ耳には、きっと異質に聴こえるだろうという気持で鳴らしたものだ。ところが自分でもびっくり、その音に違和感はなかった。この二つのスピーカーは、片やドーム型トゥイーターとコーン型スコーカー、そして一方は、ホーン型トゥイーターと同じくホーン型スコーカーである。ユニットの性格は全くちがう。しかも、御存知のように、XRT20というスピーカーシステムは、24個ものトゥイーターを縦長のアレイに組み込み、ウーファー/スコーカー・セクションと分離した、きわめて特殊なシステムだ。
 だいたい、ぼくの経験では、二台のスピーカーを並べて聴くと、少なくとも色のちがいを認識するのと同じ程度、音はちがって聴こえるものである。それも、同じような構成のシステムでさえ明らかにちがう。別々に聴いて似ているような二組でも、切り換えて聴くと、色でいえば、赤とピンクほどのちがいが出るのが普通である。ノイズを聴いても、片方がサーなら、もう一方はカー、片方がザーなら、もう一方はガー、もっとひどい場合は、シーとガーほどちがう。その体験からすると、ひと月の間XRT20に馴れた耳にJBLは、さぞかし硬く鋭い音がするだろうと自分で思い込んでいたのである。ところが結果は、音の出方、音場感にこそ大きな違いはあったが、楽音の色合いや全体のエネルギーバランスはたいへん似ていたのである。これには、われながら驚いた。そして、なるほど、ぼくがXRT20に何の抵抗もなく魅せられたのは、15年もかかって追い込んできたぼくの音のバランス感覚に近い音を、このスピーカーがもっていたからだと気がついた。
 もちろん、これだけちがうユニットだから、よく聴くと音の輪郭や質感にちがいはある。JBLを、やさしく、柔らかく、暖かく、馴らしてきたつもりであったけれど、XRT20のもつ、しなやかさ、柔軟さとはやはりちがって、よりクリアーでシャープな解像力をJBLはもっていた。音場は、XRT20が、スピーカーの後面に奥行きとして拡がるのに対し、JBLはスピーカー面から前に出る傾向をもつ。しかし、この点でも、ぼくのJBLはセッティングの苦労の結果、一般的なJBLよりずっと奥行き再現が可能ではあるが……。
 こうした本質的なちがいは残しながらも、その音の全体像が、大きくちがわないことに驚かされたぼくは、当時XRT20に使っていたマッキントッシュのコントロールアンプC32の出力を、片やXRT20をドライブするMC2500に直結したMQ104エンバイロンメンタル・イクォライザ一に、そしてもう一方を、JBLを3チャンネルでドライブしているアキュフェーズM60(低域用)テクニクスSE-A5(中域用)エクスクルーシヴM4a(高域用)に帯域分割をおこなっているチャンネルデバイダーのエスプリTA-D900に分岐した。C32は、パネル前面で2系統の出力を瞬時にノイズレスで切り換えられるので、きわめて便利である。こうして、両者のレベルを大ざっばに合わせて切り換え試聴をしてみて二度びっくり。ほんとうによく似ていたのである。時には、今どちらが鳴っているかわからないぐらいの似かたであった。新鮮さのなくなった古女房にあきて、浮気の相手をつくったはよいが、よりによって、女房とそっくりの女性だったという、よくある話のようなものだろう。あの人、どうせ恋人をつくるのなら、奥さんとちがったタイプの女性のほうが楽しいだろうに……と、よく人はいう。ぼくの友人にも、そういうのがいる。本人の好みというのはそういうものなのだろうと思っていたが、ぼく自身、恋人のほうはともかく、オーディオで、これと同じことをやっているのにわれながら驚き、苦笑した。
 なんということだ、これは。いや、しかし、面白いことになったぞ。これは、ますます、JBLも手離せないぞ……ということになってきた。よく聴き込むと、微妙な差が、なんともいえず互いの魅力をひき立てて、互いに互いを手本にして鳴らし込んでいくことに新たな興味が湧いてきた。XRT20にはピアノやパルシヴなジャズで調教をほどこし、JBLには、豊かなソノリティとプレゼンスをもった弦やオーケストラで調教をほどこすというアイデアが浮んできたのである。
 先に書いたXRT20のヴォイシングのあい間には、JBLのほうも、あれこれと調整をやっていったのである。この経過がまた、多くの点でぼくにとって勉強になった。この二つのスピーカーの指向性パターンや波状の違いも明確に把みとることが出来、JBLのユニットのセッティングポジションにも多くのヒントが得られた。JBLには、XRT20のように、全帯域のヴォイシングはおこなっていない。ウーファーの受持領域である、500Hzまでに、テクニクスのSH8075を挿入して、ピーク・ディップを補正するに止め、500Hz以上の中・高域は、デバイダーの出力にパワーアンプを直結している。したがって、500Hz以上のf特は、375ドライバー、075トゥイーター(これは、やや改造されているが……)の特性のままなので、XRT20の500Hz以上とはずい分違う。にもかかわらず、実際には、そんなに大きな違いは音楽再生で感じられない。これは、少なくとも、7、8人の人が、両方を聴いて驚かれているから、決してぼくの錯覚ではないと思う。。
 JBLシステムは、その後、遂に、中域のドライバーを375から2445Jに変更した。17年使い込んだ375にはエイジングの点からも、愛着からも、惜別の思いであったが、2445Jのもつ、より優れた特性、とりわけ中高域にたるみのないエネルギー、フラットな特性と、歪の少ない、自然な音質に強く魅せられてしまった。17年使い込んだ375に比べても、まるで、長年エイジングをほどこしたような柔軟でしなやかな鳴り方である。昨年の12月、サンスイJBL課の好意で試聴させてもらったが、もう、即座に「これ買うよ」ということに相成ってしまった。そしてまたもや、JBLシステムの調整が始まった。しかし、これは、それほど苦労はしなかった。といっても、12月13日に新しいドライバーに変って以来、時間さえあればリスニングルームに入りっぱなし、暮から正月にかけては、やや体の調子をくずしてしまうほど、あれこれとやっていた。その結果、この一月の中頃から、ようやく納得できる音になったが、XRT20との音のバランスの差はますます縮まり、音質の違いをこよなく楽しんでいる。そして、この二つのシステムならば、ぼくの聴きたい音楽のすべてをカバーしてくれるという満足度を、今のところ持っている。この二つのスピーカーにはまだ可能性があるはずだ。なければ、ないでいい。ぼくにとっては、スピーカーをいじること自体が目的ではないし、スピーカーそのものが目的でもない。自分の欲する音で、音楽を聴くのが目的だ。スピーカーの優秀性というのは、ぼくがいつも思うように、可能性であって、結果は使い手の腕と努力次第だ。世間のほとんどのスピーカーは、その能力の50%からせいぜい70%止りのところで鳴っている場合が多い。ぼくのオーディオの楽しみは、これをなんとか100%に近くもっていくところにある。17年かかっても、JBLのユニットが100%能力を発揮しなかったのは事実だ。マッキントッシュのXRT20だって、ぼくが今満足しているからといっても、100%能力を引き出しているとはいえないだろう。そしてまた、これが大切なところであるが、道具はすべて、使い手に寄り添ってくれるという性格のフレキシビリティをもっていることだ。ろくすっぱ使い込まないで、あれこれと道具を取りかえるのは愚かなことである。それが、信頼出来る機器として認められ、かつ、自分が選んだものであるならば、とことん努力をしてみるべきだろう。道具を過信し、道具に寄りかかっている人の場合、不満が出ると、すぐ道具のせいにする。そして他の道具に、ころりと初対面で目移りがしてしまうのではないか。道具は手段、結果は自分であることを認識すべきだしぼくは思うのだ。
 この3年間ほど、ぼくは本当にオーディオを楽しんだ。そして、これからも、楽しみたい。コンパクトディスクという新しいプログラムソースが出てきたからには、また、新しい楽しみの世界が用意されるにちがいない。現に、ぼくは、コンパクトディスクのあのグレン・グールドのゴールトベルク変奏曲で近来にない興奮の時を過している。一日一回は、あのコンパクトディスクを聴かないとおさまらない。時間がない時には、アリアと第一変奏だけでも聴く。ぼくに、これだけの音楽的満足感を与えてくれるのだったら、アナログレコードだろうとテープだろうとコンパクトディスクだろうと、レーザーディスクだろうと関係ないが、ぼくはグールドという演奏家が死の間際にデジタルレコーディングを残し、しかも、あのゴールトベルク変奏曲のような素晴らしい成果を記録したことに大きなオーディオ的意義と喜びを感じている。コンサート・ドロップアウトを宣言し、レコード録音に音楽家の生命をかけた、この孤高の天才にとって、このコンパクトディスクの成果は正当な報酬といえるであろう。新旧二つのグールドのゴールトベルク変奏曲を聴く時に、その演奏の違いと、録音の差に限りない興味を抱くものである。もし、この演奏が、レコードやテープでは発売されず、コンパクトディスクでしか聴けないとしたら、ぼくは、この一枚だけのために、二十万円を投じてCDプレーヤーを買っても悔いないであろう。そして、このコンパクトディスクを、ぼくの知識と体験と、感性の全力を注いで、よりよい音、より好ましい音で聴く努力を惜しまないであろう。惜しむどころか、それがぼくのオーディオの楽しみである。ぼくのXRT20とJBLシステムの今の段階のように、ある程度の満足をしている状態はあったとしても、決して、これでレコードの情報のすべてを聴いたと確信できるわけではないし、また、その機器の能力を100%発揮させたと自信をもっていえるはずもない。全部を聴きたい、100%発揮させたいという願望を、生命ある限り持ち続けるということである。だから、ぼくのオーディオの楽しみは、これから先、ずっとつきることはあるまいと思う。ぼくは、いつも、音に対してハングリーなのである。満腹は一時の満足に過ぎない。

マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
特集・「’81最新2403機種から選ぶ価格帯別ベストバイ・コンポーネント518選」より

 24個のトゥイーター・アレイをもつ、3ウェイ27ユニット構成というユニークなシステム。緻密な計算と周到な測定技術によって開発された抜群の指向特性によるステレオフォニックな音場再現、驚異的なリニアリティによるDレンジの大きなハイパワードライブ、広帯域の平坦な周波数特性など、物理特性でも最高水準のものだが、その音の品位の高さ、自然な楽器の質感や色彩感の再生は群を抜く、実に高貴な音だ。

マッキントッシュ XRT20

菅野沖彦

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」より

 マッキントッシュといえばアンプメーカーの名門として知られ、その製品の高性能と信頼性、そして美しい仕上げ、デザインの風格はファンの憧れの的である。しかし、同社がもう8年も前からスピーカーシステムを製造し、発売していることはあまり知られていない。ここに御紹介するXRT20という製品は、同社の最新最高のシステムであるが、すでに昨1980年1月には商品として発売さていたものなのだ。したがって、いまさら新製品というには1年以上経た旧聞に属することになるのだが、不思議なことに日本には今まで紹介されていなかったのである。1年以上も日本の輸入元で寝かされていたというのだから驚き呆れる。
 私は、このXRT20のプロトタイプを、一昨年──1979年の秋──ニューヨークへ録音の仕事で行った時、同州・ビンガムトンのマッキントッシュ本社で聴くことができた。その時の音の素晴らしさは、ちょっと信じられないほどだったが、続いて今年の1月、同社の社長であるゴードン・J・ガウ氏の自宅で、じっくり聴く機会を得て再度確認。今は我家に設置して日夜、狂ったようにレコードコレクションの聴き直しに没頭している状態である。私の長年のオーディオ生活で、こんなに興奮し、改めてオーディオへの情熱を喚起され、レコードを聴く幸せを今さらながら味わいなおしたのは初めての経験である。
 このスピーカーシステムは、今までのシステムが決して出せなかった音を出す。その音には自然の音、生の楽器のみに聴き得た感触がある。音場のプレゼンスの豊かさはこのシステムの一大特長で、オーケストラがまさに眼前に展開するようだ。拡がり、奥行き、細部のディフィニションと全体の調和の見事さは、解きとして我耳を疑うほどで、スピーカーから音楽を聴いているという意識が失なわれてしまうことがある。
 マッキントッシュというメーカーは、常にその時代における最大パワーを誇るアンプを、最高のクォリティで提供してきたメーカーであることは御承知の通りである。したがって、マッキントッシュのスピーカー・ラインアップの最高の位置にあるこのXRT20は、それにマッチした強力なものであるはずだし、事実、ジャズやロック系の音楽を鳴らしてみると、こことがはっきり証明される。底力のあるベースを土台に圧倒的なハイレベルで轟くのだ。
 しかし、このようなヘヴィ・デューティのタフなスピーカーシステムというものは、ガンガン鳴らすと圧倒的な迫力は得られても、小入力で繊細なニュアンスを大切にする音楽には向かないというのが、我々の常識であった。そして、反対に、そうした繊細なニュアンスをキメ細かく再現するスピーカーシステムというものは、まず、大音量でパルシヴな波形を主体とするジャズやロックは無理というのが普通である。たとえば、エレクトロスタティック・スピーカーがそうだ。並のスピーカーでは絶対出せない透明繊細な弦楽器などのニュアンスは出してくれるのだが、大振幅がとれないために、打楽器の迫力などは到底望めないのである。
 このXRT20は、私が初めて出会った、その両面を高い次元で満たすことのできるスピーカーシステムであった。小音量で弦やチェンバロを聴いている時には、その透明繊細な、しなやかな音からは、とてもジャズやロックなどの大音量再生が可能とは想像できない音である。ところが、一度、ボリュウムを上げ出すと、パワーアンプに余裕さえあれば、どこまで上げても音くずれがなく、力感に溢れたエキサイティングな再生音を楽しむことができる。しかも、この時でさえ持ち前の音透明度、繊細感を失わないのは不思議とも感じられるほどで、そのリニアリティの高さは信じられないほどだ。20Hz〜20kHzに及ぶ帯域を均等なエネルギー分布でカバーしながら、決してワイドレンジを感じさせる誇張的鳴り方はしない。いわば物理特性が裸で感じられるような鳴り方ではないのである。
 一般に、物理特性だけを追求し、技術的な能書きの多いスピーカーほど優れた測定データは示しても、感覚的、情緒的に満されないものが多いものだ。つまり、音楽的魅力が感じられないのである。ただ物理特性だけを追求して、即、聴いてよいスピーカーができるとは限らないことは、今さらいうまでもないことだろう。現時点で解っている技術的問題点はあくまで追求すべきであるが、全体の姿を見誤ると、必ずどこかにアンバランスをきたし、音が無機的になるものだ。
 このXRT20の音は決してそのような無味乾燥な、つまらないものではないのは、大きな喜びであり驚きでもある。ある人がこの音を聴いて、〝本物です!! これは本物の弦楽器です!!〟と飛び上ったし、また、ある人は〝この音は、生の音を識り、ありとあらゆるスピーカー遍歴をした人ほど正しく評価するでしょう〟ともいった。つまり、強烈な毒性や、人工的な色彩感のない音でありながら、決して非情緒的な音ではないのだ。レコーディングされた楽器の音の個性的質感や味わいをちゃんと出すからである。
 優れた録音と演奏のオーケストラを聴くと、従来のスピーカーが鳴らすことのできなかったあの弦の合奏のヴェルヴェットのようなテクスチュアが、輝くばかりのブラスの色彩感が、そして、腹にこたえるようなグラン・カッサの響きが、実にリアルに美しく再現されるのだ。楽器の音色の忠実な再現だけにとどまらず、その音楽表現のこまかなニュアンスまで、他のスピーカーでは聴き得なかった微妙さと豊かさで鳴らし分けるのには感嘆せざるを得ない。弦のプルトが、ふうっとテンダーに、ソットヴォーチェするところなど、その気配さえ感じられる。フィリップス・レーベルの最近とみに快調な優秀録音によるネヴィル・マリナーやコーリン・デイヴィスのハイドンの交響曲シリーズ、そしてまた、同じくデイヴィスのディジタルレコーディングによる?展覧会の絵?など、あるいは、小沢征爾の?春の祭典?等々……があたかも録音時のモニターの向う側へ行ったように自然で美しく響く。その瑞々しい音体験、音楽体験に身体中がゾクゾクするほど至福の思いをさせられる。転じて、SJの最優秀録音賞に選出されたアリスタ・レーベルのスコット・ジャレットの?ウィズアウト・ライム・オア・リーズン?や、私の録音したトリオ・レーベルの?マイ・リトル・スウェード・シューズ?など一連のジャズを聴くと、とても同じスピーカーとは思えぬ表情で圧倒的大音量のパルシヴな再生を身体中で浴びることも出来るのだった。このスピーカーシステムは、明らかにレコード音楽の表現の忠実度と可能性を、一歩も二歩も前へ進めてくれるものといえるであろう。
 具体的な例を書き連ねていたらきりがないから、この辺で止めるが、これらの劇的ともいえる音の体験と、素敵な演奏をありのまま所有し得る実感は、私自身を夢中にさせずにおかないのだ。そして、この一月余りの間に我家を訪れた私のオーディオ仲間やメーカーの人達、ジャーナリスト達のすべてからも異口同音に感動の言葉が聞かれた。中でも、オーディオ体験が豊かで真摯な人ほど、感動の度合いが大きく感じられたのも興味深いことであった。解る人には解る音なのだ。
 XRT20は、写真で見られるように、実にユニークな形態をもったシステムで、ウーファーとスコーカーを収めたエンクロージュアと、トゥイーターを収めたアレイに分れている。30cmウーファーが2基に20cmスコーカーが1基、そして2・5cmトゥイーターが実に24基という構成の3ウェイシステムだ。ウーファー、スコーカーセクションは、約1mの高さ、65cmの幅、32cmの奥行きのエンクロージュアで、バッフルボードの両サイドが斜めにカットされディフラクションフリーのシェイプをとる。トゥイーターセクションは約2m(195・9cm)の高さ、27cmの幅、4・6cmの厚さのフラットなアレイで、これは、壁へ取付ける方式と、オプションのステーによりウーファーのエンクロージュアに取り付ける一体式との両方が選べるようになっている。壁取付がベストだと思うが、壁面の形状で不可能な場合や、壁にネジを切り込むのが嫌な人は一体式で十分な効果が得られる。ウーファー、スコーカーはコーン型、トゥイーターはドーム型である。
 このXRT20の発想は、今から20年以上も前にゴードン・ガウ氏の頭にあった。当時から氏はハーバード大学の研究室との共同研究で、現在のXRT20の原形ともいえる2m長のリボントゥイーター・アレイの試作をしているのである。リスニングルーム内に高域のエネルギーを最小の歪で均等に分布させること、音質に癖のない振動系を使い、かつ大パワー入力に耐えさせること、これが彼の、トゥイーター設計の目標であったという。そして、低域は20Hzまでを理想とし、少なくとも25Hzは保証すること。適正なレベル差と位相差を保つため、ユニット構成に加えてレスポンス・タイム・ネットワークを設計することによって多々しい立体音場の再生を可能にすることなどの設計ポイントが定められ、同社のスピーカーエンジニア、ロジャー・ラッセル氏の献身的協力を得て完成されたのがこのXRT20なのだ。音の波状と位相特性の研究に関する一大成果である一方、このシステムのパワーハンドリングは、RMSサインウェイヴで300Wという強力さである。クロスオーバーは250Hzと1・5kHzとなっているから、このトゥイーター・コラムは1・5kHz以上の連続信号を300W入力しても大丈夫ということだ。事実、私は同社の500W+500Wアンプをフルパワーで鳴らしてみたがビクともしない。付属のパワーインディケーターが2つあり、黄色が全帯域、赤が高域なのだが、ごくたまに黄色が点灯する程度だった。ミュージックパワーならMC2500の実質パワー、650Wオーバーのフルドライヴに充分耐えることだろう。もちろん入力オーバーに対してはヒューズで守られている。これは、マッキントッシュ社が最も大切にしている製品の信頼性に基づくものであり、充分な許容入力をもたせ、かつオーバードライヴによりスピーカーが破損することに万全の対策を施したものだろう。スピーカーを破損させるようなアンプは絶対に作らないという同社の体質がここにも形を変えて現われている。
 24個のドームトゥイーターによるアレイは視覚的にも内容的にも、個のシステムの一大特徴といえる。これは、すでに述べたように高域のハイパワードライヴと低歪を達成する意味と同時に、もう一つ重要な意味がかくされているとマッキントッシュはいう。それが、真のステレオフォニック、つまり、3ディメンション・サウンドスペースを伝送することなのだ。選択され、特性のそろったユニットを、このように配置することと適切な位相補整回路を組み合わせ、タイムアライメントをとることにより、システムから放射される音の波状は、きれいに位相のそろった円筒状の波となり、きわめて良好な指向特性と平均したエネルギー分布が得られる。20Hz〜20kHzまでの帯域エネルギーが床から天井まで均等に拡散されることの効果は大きい。したがって、このスピーカーシステムのエネルギー密度は、距離の自乗に反比例して減少するのではなく、ただ距離に反比例するようになっている。こういうスピーカーは、それほど音量を上げなくても充分な音量感が得られることになるわけで、事実、正しいステレオフォニック録音のプログラムソースでは、馬鹿でかい音量にして聴かなくとも、豊かな空間感で満足させられるものなのだ。特にこのシステムの場合、1・5kHzという低いクロスオーバーを採用していることが注目に価する。2・5cm口径のドームトゥイーターに1・5kHz以上を受け持たせたところが(マルチユニットでこそ可能)ユニークである。マルチユニットというは、大抵の場合位相を乱し、定位の悪いシステムになりがちなのだが、これは例外的成功例といえるだろう。同一平面、同一垂直軸上に並べたところが成功の鍵といえそうだし、さらにこのトゥイーター・アレイに対するウーファーセクションの構成とタイムアライメントが実にうまくいっているようだ。また、IM歪の少なさは、まるでマルチ・アンプ駆動のようでこれだけ重厚な低音域でかぶり感がまったくないのが不思議なぐらいである。
 このようなシステムであるから、これは、販売店の店頭などで手軽に聴けるはずもない。その手のスピーカーとは生れも育ちも違う。価格もそれなりに高価だし、これこそ質の高い技術サービスの受けられる専門店の存在を必要とするし、質の高い愛好家によって真価を発揮するスピーカーシステムだといえるだろう。
 XRT20を完全に調整するのはそう簡単ではない。まず、設置は背面に壁がほしい。そして、コーナーにぴったり置かないことだ。幅が充分あれば、トゥイーター・アレイ2本を、それぞれ横幅の1/3の所にくるように設置し、その外側にウーファー・エンクロージュアを置く。こうすることにより、トゥイーター・アレイで3分割された壁面にステレオフォニックな空間が左の面、中央の面、右の面と拡がり、かつ、奥行きをもって再現されることになる。オペラのステージの立体感の再現など、まさに劇的といって誇張ではない素晴らしいものだ。もし横幅が充分でなければ、トゥイーター・アレイを外側にウーファー・エンクロージュアを内側に置いてもよい。別売りのMQ104というイクォライザーにより、部屋とその設置場所によるピーク・ディップを調整することは是非必要であり、おすすめしたい。この仕事は、1/3オクターヴバンドのピンクノイズ・ジェネレーターとキャリブレイトされたマイクロフォンとメーターで測定しながら行なうもので、専門家のサービスを要する。もちろん、自信のある方は御自分で試みられるのも面白かろうが、この仕事はかなりの経験と才能を要するだろう。下手に調整を行なうと台無しにする恐れもあり、そんな事なら、何もしないほうがよい場合もある。
 久々に素晴らしいスピーカーに接することができた。仕上げその他にマッキントッシュのアンプの次元と比較すると不満の残る点も少なくないが、この音を聴けば我慢しようという気にもなってくるから不思議なものだ。マッキントッシュの実力に脱帽である。

マッキントッシュ XRT20

マッキントッシュのスピーカーシステムXRT20の広告(輸入元:ヤマギワ貿易)
(オーディオアクセサリー 21号掲載)

XRT20