黒田恭一
ステレオサウンド 63号(1982年6月発行)
「アコースタットIII(モデル・スリー)ついてのM君への手紙」より
M君、きみのお世話になってML7Lを買ってからちょうど一年がたちました。あっという間に一年がすぎてしまったという感じです。この一年間ML7Lは期待以上の働きをしてくれましたので、ぼくとしてはML7Lを選んだことに満足しています。
ML7L以後のぼくの再生装置での変化といえば、エクスクルーシヴのプレーヤーシステムP3のアームをオーディオクラフトのAC4000リミテッドにかえた程度です。ぼくのP三はそれまでのアームにちょっとした問題がありましたので、オーディオクラフトのAC4000リミテッドにかえることによって、音の安定感がずっとよくなりました。アームをとりかえた後の音はきみにもきいてもらたっことがあるので、ここであらためてくりかえすまでもないでしょう。
そしてもうひとつ、最近になってリンのアサックというカートリッジをつかいはじめたということも、ひとことつけ加えておくべきかもしれません。リンのアサックはとてもいいカートリッジだと思います。すくなくともぼくのとこでつかったかぎりではすばらしい効果を発揮します。どのようなところがすばらしいかといえば、ひびきの芯がしっかりしていてそれでいてきこえ方がごり押しにならないところです。そのために最近はほとんどリンのアサックだけをつかっています。
したがっていまは、リンのアサック、オーディオクラフトのAC4000リミテッド、マーク・レビンソンのML7L、スレッショルドの4000C、そしてJBLの4343という構成できいていることになります。さらにラスクのことも書いておくべきでしょうか。プレーヤーとスピーカーの下にラスクをおき、そしてスピーカーのまわりにラスクを立てているのはきみもご存知の通りです。そうそう、ラスクが運びこまれたときには、きみにも立会ってもらったので、ラスク使用前と使用後でどのようにちがったかは、きみの耳が確認済でしたね。
そういう構成の再生装置できいていて、ぼくは結構満足していました。ところが今年もまたぼくにとってのこの鬼門に季節に、きみが周到に準備した落とし穴に落ちてしまいました。
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落とし穴といってはきみの親切に対して失礼かもしれません。ぼくの意識としては落とし穴に落ちたという感じですが、落とし穴ではなくてカリキュラムといいなおすことにしましょう。きみがぼくのために考えてくれるカリキュラムにはいつもながらのことではありますが、感心しないではいられません。
今回の場合も例外ではありません。周到な配慮のもとに組みたてられたカリキュラムは、そこで教育されている人間に教育されているということを意識させません。きみがぼくのために組みたててくれたカリキュラムがとうでした。もう随分長いつきあいだから、きっときみはぼくのことがよくわかっているにちがいなく、ここでこういう音をきかせたらきっとあの男は好反応するであろうと読めているのでしょう。
しかも困ったことにぼくの方にもきみのつくった落とし穴にならよろこんで落ちようという気持があるものですから、太平の夢を破られることになります。なぜ太平の夢を破られるにもかかわらずきみのつくった落とし穴にならよろこんで落ちようかといえば、きみがぼくのために組んでくれたカリキュラム通りに行動してこれまでに一度も後悔したことがないからです。ML7Lの場合にもそうでした。
しかしそれにしてもきみの落とし穴のつくり方、おっといけない、きみのカリキュラムの組み方はなんと巧妙なことでしょう。あっぱれだと思います。いつだってこれはM君のつくったカリキュラムだぞと意識する前に、きみが用心深く準備した線路の上を走らされてしまいます。そしていいかげん走った後に、そうか、これはM君のカリキュラムかと気づくことになります。今回もまた例外ではありませんでした。
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いまにして思えば今回のきみの計画は、「ステレオサウンド」第62号の特集「日本の音・日本のスピーカー、その魅力を聴く」にぼくを参加させたところからはじまっていたようです。そこでぼくはパイオニアのS-F1カスタムに感激しました。S-F1カスタムに対してのきみの評価とぼくの評価はかならずしも一致しなかったわけですが、しかしそこでS-F1カスタムにゆさぶられたことによってぼくはきみの術中に陥ったようでした。S-F1カスタムはいい、すごくいいとぼそぼそつぶやいていたぼくをみて、きみはきっとグレートヒェンに心うばわれたファウストを目のあたりにしたメフィストフェレスのような気持でいたにちがいありません。
そこできみはこう耳うちしました。「ちょっときかせたいスピーカーがあるんだけれど……」。そのときそばにいらした岡さんがぼくの方をちらっとごらんになって、「またM君になにかきかされるの?」とおっしゃいました。その岡さんの言葉には気の毒にといった表情がこめられていました。そこでこれもまたM君のカリキュラムだなと気づいていれば、こういうことにはならなかったのでしょうが、後悔先に立たずのたとえ通りで、いまさら四の五のいってみてもはじまりません。
きみのいう「ちょっときかせたいスピーカー」はJBLの4344でした。自分の節操のなさが恥ずかしくなりますが、きみに4344をきかされて、そこでまたこれはすごいと感心してしまいました。4344については「ステレオサウンド」第62号に書いたので、ここでくりかえしません。ただそこで肝腎なのは、S-F1カスタムと4344によってぼくの尻尾に火がついてしまったということです。
ML7Lを買ってから後一応はいい気分でいられたのですが、平穏な航海はわずか一年しかつづかず、またまたM君によって嵐の海につき落とされたことになります。なお余談になりますが、「ステレオサウンド」第62号にぼくが書いた4344についての文章をあるところでヴェルテル的悩みと書かれ、それを読んだときに恥しさで顔が赤くなりました。
S-F1カスタムでゆさぶられ、4344で火をつけるところで終らないところがM君です。みごとなしつこさというべきでしょう。きみはほくそえみつつ次なるステップを準備していました。
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「ステレオサウンド」の別冊のための試聴でぼくははじめてアコースタットのモデル・スリーというスピーカーをききました。このスピーカーについては「ステレオサウンド」第62号の「話題の新製品を徹底解剖する」というページで紹介されていたので、一応のことはしっていました。ただそこでの「本機は、われぼざが従来抱いてきたセイデンがスピーカーの常識を超えたものであると同時に、これまで私が追い求めてきたサウンドが虚像だったと思わせてしまうほどの説得力を有していたのである」という小林貢氏の言葉を、不覚にもそのままは信じていませんでした。多少好奇心はそそられたものの自分にひきつけたところでそのスピーカーについて考えてみようとはしませんでした。
ところがアコースタットのモデル・スリーを実際にきいた後でまた小林貢氏の書いておいでになる文章を読みなおすと、「芯のしっかりしたナチュラルな中高域は、ボーカルやソロ学期を際立たせ、バックとの距離さえ適確に捉えることができる。また、エコー処理やビブラートなどのディテールを明確に示す解像力も備えている。なかでも空間を飛翔するシンセサイザーやショットの瞬間に四散するシンバルの鮮烈な響きが印象的であった」というあたりで、そうだそうだその通りだとひとりうなづかないではいられませんでした。ここでもまた百読は一聴にしかずという、オーディオについてしばしばいわれることを思いださずにいられませんでした。小林貢氏の文章は充分にアコースタットのモデル・スリーのよさをあきらかにしたものであったのですが、やっぱりほんとうにすばらしいんだと思うためにはどうしてもその音を自分の耳できいてみなければならない──というあたりに、オーディオの、あるいはオーディオについて考える上でのむずかしさと微妙さとがありそうです。
「このブランド・ニューともいえるモデル・スリーと出会いが、これほど劇的なものになるとは試聴前には予想し得なかった。本機と過ごした数時間は、モニュメンタルな出来事として長く記憶に留まるだろう。事実、試聴後のかなりの期間は、本機のサウンドが頭から離れなかった」という小林貢氏の結びの言葉にぼくはまったく同感でした。
もう少しこのスピーカーをきいてみたいものだと思ったぼくの気持をいちはやく察知して、きみはこういいました、「4344とききくらべをしてみましょうか?」なんともはやきみはできすぎたメフィストフェレスというべきです。その結果、ぼくはもう一度、4344とアコースタットのモデル・スリーをききくらべるために、ステレオサウンド社の試聴室に出かけました。
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あのときは午後の四時からききはじめて夜の九時まで食事もしないでききつづけていたのですからまるまる五時間きいていたことになります、その五時間にわかったことがいくつかあります。そのことを、見事なカリキュラムを組んでくれたきみへの感謝の気持をこめて、書いてみようと思います。
いや、ちがうんだと、カリキュラムを組んだ当のきみとしてはいうのかもしれません。ぼくはそんなことを教えようとしたんではないんだがとたとえきみがいったにしても、そんなことはぼくはしらない。ぼくとしてはぼくのききえた範囲でぼくにわかったことを書くよりほかに方法はありません。
アコースタットのモデル・スリーをきいているときにもくりかえしつぶやいてしまったので、すでにきみも気づいているはずですが、ぼくはこのスピーカーのきかせる音を「気持がわるい」と思います。とても「気持がわるい」と思いながら、しかしこのスピーカーのきかせる音の魅力に抵抗できず、やはりアコースタットのモデル・スリーを買おうと決心しました。
「気持がわるい」のになんで買うんだときみは思うかもしれません。きみが不思議に思うのは当然です。ぼくにもそこのところをうまく説明できるかどうかわかりません。居直ったようないい方になりますが、「気持がわるい」からこそぼくはこのスピーカーをほしいと思います。
むろんここでいう「気持がわるい」という言葉には含みがあります。ゲジゲジやナメクジをみたときに口にする「気持がわるい」とここでいう「気持がわるい」とでは微妙にちがいます。しかしながら「気持がわるい」ことにかわりはありません。ではどこがどのように「気持がわるい」かということになります。
アコースタットのモデル・スリーのきかせる音はなまなましさで特にきわだっていると思います。なかでも声、それにヴァイオリンとかチェロといった弦楽器、さらにはフルートとかオーボエといった木管楽器でそのなまなましさがきわだちます。本物以上に本物らしいという言葉がアコースタットのモデル・スリーのきかせるなまなましい音にはいえるようです。
このスピーカーの音を「気持がわるい」という理由のひとつにそのことが関係しているかもしれません。いくぶん誤解されそうないい方になりますが、アコースタットのモデル・スリーのきかせる音のなまなましさには、あの蝋人形の奇妙ななまなましさを思いださせるところがあります。どう考えてもこのスピーカーできく音には太陽がさんさんとふりそそぐところでひびいた音とは思えないところがあります。その意味でこの音は人工的といえばいえなくもないでしょう。まことにいわくいいがたい音です。
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アコースタットのモデル・スリーでさまざまなレコードをきいているうちに考えたことがあります。そのうちのひとつは、もしぼくがいま二十代の若者であったらこのスピーカーを買おうとは思わないであろう──ということです。活力の欠如といっては多分いいすぎになるでしょうが、もしぼくがいま二十代の若者であったら、アコースタットのモデル・スリーの音を美しいとは思いながらも、その美しさをスタティックにすぎると感じるかもしれません。
しかし幸か不幸かぼくはすでに二十代の若者ではありません。自分ではそうとは思っていなくとも、他人の目にうつるぼくは悲しむべきことに疲れた中年男のはずです。たしかに多少は疲れているようです。その意識せざる疲れがあるために、アコースタットのモデル・スリーのきかせるスタティックな美しさにみちた音に一種の安らぎを感じたりするのかもしれません。
そのことをぼくは素直に認めたいと思います。ききての側にも充分な活力が必要であるという持論をひるがえすつもりはありませんが、アコースタットのモデル・スリーのきかせる音に心安らぐ思いをしたということをかくす気持になれません。
そういうことでのこのスピーカーのぼくの感覚というより心情への歩みより方を「気持がわるい」と思いました。ぼく自身がことさら意識していたわけではない自分の疲れをスピーカーに感じられてしまったと考えたため、「気持がわるい」と思ったのかもしれません。いずれにしろアコースタットのモデル・スリーをきいていていわくいいがたい気持がしたのは、まぎれもない事実です。
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もうひとつあります。こっちのことをぼくにわからせようとしてきみは今回のカリキュラムを組んだのではないだろうかと勝手に勘ぐっているのですが、どうでしょうか。
今年は一九八二年です。あらためていうまでもありません。一九八二年にアコースタットのモデル・スリーの音をきいたということが、すくなくともぼくにとっては重要でした。かりにいまが一九六二年であったらどうだったろうなどと考えたりしました。つまりぼくがここでいいたいのは「時代の音」ということです。アコースタットのモデル・スリーの音は或る意味で徹底していまの音だと思います。無気味なほどいまを感じさせる音だといってもいいかもしれません。
一九六〇年代にこのましく思えたものがいまもなおこのましく思えるかというとそうではありません。たとえばきかれる音楽などにしても時代の推移とともにまさに地滑り的に変化していることはきみも気づいているはずです。ここには単に個人個人の好みの変化といっただけでは不充分な、時代感覚の反映とでもいうべきものが微妙にからんでいると思います。
S-F1カスタムから4344へ、そして433からアコースタットのモデル・スリーへの旅は、しなやかさをしなやかに表現するスピーカーを求めての旅であったような気がします。そのことに気づいたときにぼくは最近のぼくがかつてのようにはピアノのレコードをきかなくなっていることを思い出しました。むろん全然きかないということではありません。あいかわらずいいピアノのレコードが次々にでてきますので、ピアノのレコードをきかないですますことなどできません。
それでも仕事をはなれて、いわゆるアフター・アワーズにたのしみでレコードをきくときに、ピアノのレコードに手がのびる回数は、かつてとくらべると少なくなりました。理由はいろいろ考えられます。ぼくの年齢も関係しているでしょうし、自分では意識していない疲れも無関係とはいえないでしょう。ピアノのあのエネルギーにみちた音は疲れているときにはつらく感じることもあります。
それがぼくの個人的な好みの変化というだけならどうということもないのですが、かならずしもそうとはいいきれないところがありそうです。かつて若くてすぐれたピアニストがつぎつぎとデビュウした一時期がありました。そのころのピアノは時代の寵児として脚光をあびました。いまだってピアノの音はあいかわらず多くの人にこのまれています。ぼくにしてもピアノが嫌いになったというわけではありません。ただかつてのようにはあのピアノならではの強い音に愛着を感じなくなったということはいえそうです。そして、このように感じているのはぼくだけであろうかと、思ったりします。
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一九八二年といえばもう二十世紀も末です。二十世紀中葉にあったあの活力がさまざまな面で稀薄になりつつあるように感じます。強さより柔らかさを求める時代感覚があるとすれば、いまという時代の感覚がそうとはいえないでしょうか。
たしかにぼくはアコースタットのモデル・スリーの音を「気持がわるい」といいました。それはその音が「気持がわるい」ほど「いま」を感じさせたことも関係しています。このスピーカーはエレクトロスタティック型であるがゆえに必然的にというべきでしょうか、強さより柔らかさで本領を発揮するわけですが、その柔らかさの表現に独自のものがあると思いました。
ステレオサウンド社の試聴室でアコースタットのモデル・スリーをきいているぼくをそばでながめていたきみはぼくに対して、不思議なことに、ぼくがそのスピーカーの音に対してつかったのと同じ言葉をつかいました。おぼえていますか? きみはこういったんです、「気持がわるい」。レコードをきいている姿を第三者にみられて、その上「気持がわるい」といわれて、ぼくはむっとして尋ねました。「なにが気持がわるい?」そうしたらきみはこう答えた、「なんだかスピーカーと睦みあっているみたいで気持がわるい。」
なるほどと思いました。きみのいうことが納得できました。さもありなんと思いました。おそらくぼくは惚けたような顔をしてきいていたでしょう。たしかにききてをそういう顔にしてしまうところがアコースタットのモデル・スリーにはあります。
そのときもリンのアサックをつかわせてもらいました。そこでの印象をもとにいえば、リンのアサックはアコースタットのモデル・スリーにとてもよく合うと思います。もっともプレーヤーにしてもアンプにしても、さらにはアームまで、メフィストフェレスのきみはぼくが家でつかっているものとすべて同じにしてくれたので、ぼくとしては逃げ道をふさがれたかっこうになり、このスピーカーを買って自分の部屋におかざるをえなくなってしまいました。そしていまアコースタットのモデル・スリーのわが家への到着を待っているところです。
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ただそのように決心したためにぼくやむをえず宗旨がえをしなければなりませんでした。宗旨がえというのはいくぶん大仰ないい方ですが、つまりこれまでずっと自分の部屋に大型スピーカーを二種類おくということをしないでやってきたぼくとしては、今回はじめてJBLの4343とアコースタットのモデル・スリーという二種類のスピーカーを(まだどのようにおくかはきめていませんが)おくことになったわけで、このことについてはまだいささかのこだわりをすてきれないでいます。
二種類のスピーカーをつかっていくにはそれなりの煩雑さを覚悟しなければありません。ぼくはどちらかといえばスピーカーをつなぎかえたりカートリッジをとりかえたりすることですりへらす神経をも音楽をきくことにつかいたいと思うタイプの人間ですから、できることなら二種類のスピーカーを同時につかうということをしたくなかった。でも、こうなった以上、やむをえません。アコースタットのモデル・スリーの音をきいた以上、後にはひけないという気持です。
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ぼくがそのようにせざるをえなくなった理由は簡単です。アコースタットのモデル・スリーのきかせる音がいかにも独自で、その音できかなければならないレコードがあると思うからです(いかなるレコードがアコースタットのモデル・スリーできかなければならないレコードかは、いずれ機会があったら書くことにしましょう)。
そのように決心したいまでもなおアコースタットのモデル・スリーのきかせる音を「気持がわるい」と思っています。このスピーカーの音をききつづけていると、この時代の病気、つまり自閉症になってしまうのではないかと心配になったりします。そう思いながらも、抵抗しがたい魅力にひきずられていく自分が不思議です。
もしかするときみのカリキュラムの目的はほくにこのスピーカーを買わせることではなかったのかもしれません。しかしながらS-F1カスタムと4344でゆさぶられたぼくは、(おそらく)きみの意図に反してアコースタットのモデル・スリーに走ってしまいました。もっともS-F1カスタムと4344でゆさぶられていなかったらぼくとしてもアコースタットのモデル・スリーに走ったかどうかわかりません。
つまりきみのカリキュラムはこのところにきてピアノのレコードよりヴァイオリンのレコードに手がのびることが多くなりつつあったぼくに思いもかけぬ効果を発揮したようです。アコースタットのモデル・スリーに走ったことを自分でも驚いているところです。
アコースタットのモデル・スリーは先刻ご承知のように安いスピーカーではありません。にもかかわらずそれを敢て買ったというのは、とりもなおさずいまある4343ではきけないサムシングをそこに期待したということです。
そこに期待したものを声のなまなましさとかヴァイオリンの音のみずみずしさといっただけでは不充分です。スピーカーなりアンプなりカートリッジなりをあらたに買うのは、いい音楽をいい音でききたいからです。これは再生装置をつかって音楽をきくことが好きな人の気持に共通していることでしょう。このレコードはもっといい音できけるはずだと思えばこそ、わずかとはいえない出費をしてまでもスピーカーを買いかえたりアンプを買いかえたりします。
むろんアコースタットのモデル・スリーのきかせてくれる音もいい音です。でもそれを4343の音とくらべてどっちがいい音かといったようなことはいいにくい。ただこういういい方はできます、つまり、ぼくはレコードをきくことを仕事にしていますので、アコースタットのモデル・スリーだけでは仕事をしていく上でいささかの不都合を生じかねないということです。スピーカーのきかせる音とききてとの関係がきみのいうように「気持がわるい」ものになったところでは、仕事としてレコードをききにくいということがいえそうです。
それで4343も手ばせないわけです。もしできることなら4343をS-F1カスタムに、あるいは4344にとりかえてみたいとは思いますが、たとえそうしたところでアコースタットのモデル・スリーが不必要になるということではありません。
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美術館で絵をみているときにこういう経験をしたことがありませんか。古い時代の絵をかざってある部屋にいたときのそこでの作品の「観賞」のしかたと、近代ないし現代の絵がかざってある部屋に足をふみ入れたときのそこでの作品とのふれあい方とでちがっていることを意識したことがしりませんか。絵の「観賞」者としての自分の作品との接し方が、古い時代の絵をみているときと現代の絵をみているときとではまったくちがっているように思われることがあります。
アコースタットのモデル・スリーできいた一部のレコードはききてに強烈に「いま」を意識させます。4343ではそういうことはありません。その点でも4344の方が4343より上だと思いますが、アコースタットのモデル・スリーはさらに徹底しています。「気持がわるい」ほどなまなましいというのは、その辺のことも含んでのことと理解して下さい。
美術館で古典にふれているときのぼくは平静さをたもてます。冷静に「観賞」することさえできなくはありません。現代の絵の前に立ったときのぼくは、あきらかに古典にふれているときのぼくとちがいます。もう少しゆれ動いているにちがいありません。アコースタットのモデル・スリーはききてにその種のゆれ動きを経験させます。そういうゆれ動きを自分が感じていると意識するものですから、アコースタットのモデル・スリーのきかせる音を「気持がわるい」といってみたくなります。
スタティックな美しさを示すスピーカーはもともと懐古的な音をきかせますが、これはちがうと思います。ぼくは過去をふりかえるのが好きではありません。とりわけ音楽をノスタルジックにきくのが嫌いです。アコースタットのモデル・スリーのきかせる音は懐古的にきこうと思えばきけなくもないかもしれませんが、ぼくはこのスピーカーに「いま」をききました。
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考えてみて下さい。この時代を「気持がわるい」とは思いませんか。いや、これはこの時代にかぎってのことではないでしょう。現代はいつだってその同時代の人間にとっては程度の差こそあれ「気持がわるい」ものです。しかもいまは世紀末です。時代そのものが翳りつつあります。ぼくらはいまや残光の中で音楽をきこうとしているのかもしれません。
健康的であることが不健康に感じられるのがいまかもしれません。アコースタットのモデル・スリーはいまが「オー・ソレ・ミオ」をはればれとうたいにくい時代だということを、そのしなやかな音でさりげなく教えてくれているようです。
メフィストフェレスのきみのカリキュラムの真の目的はスピーカーの音でぼくに「いま」を教えることにあったのでしょうか。そうなるとアコースタットのモデル・スリーの音以上に「気持がわるい」のはメフィストフェレスのきみということになります。きみがぼくよりはるかに若いからといって侮っていたわけではありません。むしろオーディオの世界での先輩として充分に尊敬してきました。しかしそれにしてもよくぞここまでふりまわしてくれたと、感心しつつも、小癪な野郎めと思います。
近いうちにアコースタットのモデル・スリーがぼくの部屋にはこびこまれるはずですから、そうしたらその音をききながら、再生装置に「いま」をきくことの意味について、あれこれはなしあいたいと思います。
太ったメフィストフェレスに、中年のファウストの感謝をこめて──。
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