瀬川冬樹
ステレオサウンド 46号(1978年3月発行)
特集・「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」より
44号(219ページ)でも触れたが、BCIIIを何回か試聴した中で、たった一度だけ、かなりよく鳴らし込まれた製品の音をとても良いと思ったことがあった。今月のサンプルは、44号のときよりもさらに鳴らし込まれたものらしく生硬さのないよくこなれた音に仕上っていた。
とはいっても基本的には44号に書いたことと同じで、本質的にかなりまじめな作り方。言いかえれば、どんな音を鳴らしても決してわめいたり取り乱したりしない端正な音で、いかにもイギリス紳士ふうといえようか。たとえばブラームスのP協No.1の冒頭のオーケストラのトゥッティも、決して露に〝爆発〟しない。渋いバランスを保って、情熱を抑えた鳴り方だ。ラヴェルの「シェラザーデ」のあのオーケストラの音を散りばめたような色彩感も、ひかえめに端正に少しの派手さもなく表現する。音を練り固めるタイプでなく、その意味で強引なところは少しもない。コンセルヴァトワルの音を、ごく注意深く散りばめ、音の光沢をややおさえながら、色あいのちがいは確かに鳴らし分ける。出しゃばりもせずしかし鳴らすべき音は確かに鳴らす。ロス=アンヘレスの声の定位もすばらしく見事だ。のめり込んでゆくタイプの音でなく、一種枯淡の境地を思わせる。ただ、表面はひっそりと静かであっても内に秘めたふつふつとたぎるような情熱を感じとりたいという私のようなまだ血の気の多い人間には、この枯淡の境地まで達観することができない。ときにもう少しハメを外し、唱い、弾み、色気も艶も露にするスピーカーの方に、より多くの魅力を感じてしまう。少なくともスペンドールBCIIIを聴くうちに、自分の求める音の方向が、そういう形で明確に意識させられる。音楽に殉ずるよりもまだまだ音の享楽者でありたい。だがこんなことを考えさせるスピーカーというのは、やはりたいした音なのだろうと、妙なところで感心させられる。
つまりBCIIIは、どんなプログラムソースでも端正に、可及的に正確にしかしスピーカーが出しゃばるのでなくひかえめに、いわば客観的にプレゼンテイションする音、といえようか。そのことはおそらく、オーディオの再生の中で確かにひとつの正しい方向であるにちがいない。が、そう言い切ってしまうには、私自身の個人的な嗜好や欲求を別としても、「何か」が足りない。もうひとつ聴き手の心を弾ませ、聴き手の心にしみじみと訴えかけてくる何か、が不足していて、どこかつき放したような感じが否めない。この鳴り方がスピーカーとして本当なのだと言い切ることは私にはできない。なぜといって、レコードに刻まれる前のもとの音楽の演奏には、色気も艶も弾みもあると思うからだ。それが鳴ってこないということは、このスピーカーに何かが欠けているのでなければ、録音・再生系のどこかに欠落があるからだ。どこに問題があるのか。それはここで論じるには難しすぎるテーマだ。
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