Monthly Archives: 1月 2011

私のオンキョー観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・オンキョー」
「私のオンキョー観」より

 真っ先に思い出すのは、ツヤのある黒いエナメル塗装のフレーム。黒地に白抜きで ONKYOと書いた円形のネームプレート。
 例の「オンキョー・ノンプレスコーン・スピーカー」である。
 例の……などと書いても、最近の読者諸兄には殆どご縁がないと思うが、昭和二十年代のはじめからラジオを組み立てていた私たち(というのは、同じこの欄に書いている筈の菅野、井上各氏ら、同じ頃からラジオをいじりはじめた同世代の人たち)には、懐かしいデザインであり、あの時代を思い起こすシンボルのひとつとして、やはり大きな存在だったと思う。
 ……といっても、当時のオンキョーのスピーカーが、私のオーディオ・システムの中にとり入れられたことは一度もない。オンキョーの六吋半や八吋(わざと古い当時の言い方をするのは、この方が何となく実感があるという私の独りよがりだが)は、もっぱら知人や親せきを廻って注文をとっては、小遣いかせぎに組み立てるラジオ(当時流行りの5球、6球のスーパーヘテロダイン式ホームラジオ)や、ときたま依頼のある電蓄に使った。
 サンスイ号のこの欄ですでに書いたことと重複するが、オンキョーの黒塗りのフレームとサンスイの青いカヴァーのトランスは、当時のパーツの類の中では中の上といった格づけだったから、あまり安もののラジオには使うわけにはゆかない。予算のたっぷりあるときにかぎって使ったが、「低音のオンキョー」と定評のあったように、素人にわかりやすい重い低音が好まれた。また、当時のラジオは裏蓋に大きな通風孔のあいたベニヤ板だったから、裏を返せばスピーカーの背面も、真空管や電源トランスやIFTやバリコンや……要するに舞台裏がそっくり眺められ、街のラジオ屋さんがひと目みると、「ははあ、山水のトランスに大阪音響のスピーカーが使ってありますなあ。これはずいぶん良心的に組み立ててあります」ということになる。組立てを依頼する相手が素人だから、ピンからキリまでのパーツのどれを選ぶかでいくらでも誤魔化すことができて、中にはあくどいアルバイトもあったらしく、そういう意味でもオンキョーのスピーカーを使っておくことは、当方の信用にもなって具合がよかった。
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 オンキョーのスピーカーは、そんな次第で何となく高級ラジオ用パーツ、といった印象で私の頭の中にあったが、あれはオーディオフェアの第二回か第三回だったろうか。オンキョーから突如として、15インチの大型ウーファー(W15)と、ホーン・トゥイーター(TW5)が発表された。
 東京駅八重洲口近くの、呉服橋角にあった相互銀行ホールでのデモンストレーションには、W15をゆるくカーヴしたフロントホーンに収めたものがステージに載っていたと記憶しているが、鳴っていた音のほうは、もうおぼろげな印象のかなたに埋もれてしまっている。だがそれよりも、当時のオーディオパーツの中では、ウーファー、トゥイーターとも目立ってスマートな製品だったことが、強く焼きついている。その後のオンキョーのユニットの中でも、最も姿の良いパーツではなかったろうか。
 私同様に〝面喰い〟の山中敬三氏は、それからしばらくあとになってこのW15を購入し、自家用のシステムに使っていた。当時JBLの150-4Cや130Aの素晴らしいデザインにあこがれながらあまりにも高価で手が出ずに、形のよく似たW15を買ったのは、ライカが買えずにニッカやレオタックスであきらめていたカメラマニアの心理に似ているのかもしれない、などというと山中氏を怒らせるだろうか。
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 昭和三十年代の約十年間は、私の記憶の中でオンキョーの名は空白のままだ。ステレオサウンド誌の創刊された昭和41年の秋、「暮しの手帖」が小型卓上ステレオをとりあげたとき、オンキョーの名が突然のようにクローズアップされるまで、その空白は続いた。
 昭和42年になって、オンキョーが久々のハイファイスピーカーE154Aを完成させてオーディオ界に返り咲いたとき、全国を縦断するコンサートキャラバンの企画が持ち上がり、それに随行する解説者として、故岩崎千明氏と私とが名指しを受けた。いまふりかえってみると、ずいぶん珍道中があったが、私はおかげさまで日本じゅう、初めての土地をずいぶん楽しませて頂いた。どこのホールでだったか、アンケートの中に「きょうのアナウンサーは解説がへただ」などというお叱りがあったり、どこか学校の講堂を借りてのコンサートでは、開演中にステージの前で学生が鬼ごっこをはじめたり、ずいぶんふしぎなオーディオコンサートではあった。
 昭和43年に完成したブックシェルフ型のF500は、さすが! と唸る出来ばえだった。とても自然なバランスで、いつまで聴いても気になる音がしない。その後のシステムの中にも、こういう音は残念ながらみあたらない。あのまま残して小さな改良を続けながら生き永らえさせるべきではなかったかと、いまでも思う。
 インテグラ・シリーズのアンプが発売されたのは昭和44年だったろうか。当初の701以下のシリーズのすべて、とても手のかかった仕上げの美しいパネルと、いやみのないデザインは、いまでもその基本を変える必要のない意匠だったのにと思う。パネルのヘアラインに、光線の具合によって、熱帯魚の尻尾のような光芒が浮かぶのは、マランツ7以来、パネルの仕上げに手をかけた数少いアンプとして、こんにちでは珍しい。
 ただ、このアンプの音のほうは、どうにも無機的でおもしろみがなくて、そのことを言ったために設計のチーフの古賀さんからは、長いことうらまれていたらしい。
 その音質も、♯725を境にして、♯755でとてもナイーヴなタッチを聴かせはじめ、722MKIIでひとつの頂点に達した。たしかに音の力づよさ、あるいは切れ味の明快さ、といった面からは、いくぶん弱腰でウェットだという感じのあったものの、音の繊細さ、弦や女性ヴォーカルのでのなよやかな鳴り方は、722/IIでなくては聴けない味わいがあった。
 その後のプリメインアンプでは少々音の傾向を変えはじめて、722IIの味わいはむしろセパレートタイプのP303/M505の方に生かされはじめたと思う。ただ、303、505のデザインの、どことなく鈍い印象が、この意外に音の良いアンプのイメージをかなり損ねているようだ。
 最新型のP307、M507で、オンキョーのアンプはまたひとつ

私のソニー観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・ソニー」
「私のソニー観」より

 フェアチャイルド──といっても、もうそろそろ話が通じにくくなっているが、モノーラルLPの時代に、世界最高、と折紙のついていたのが、アメリカ・フェアチャイルドのムーヴィングコイル型カートリッジで、昭和30年(1955年)といえば、やがてステレオLPの誕生を迎えるモノフォニック再生のいわば爛熟期で、フェアチャイルドもすでに♯220型から♯225型を経て、モノーラル最後の名作♯230型になっていたかどうか……。古いことなので記憶が正確でないが、ともかくその、モノーラル時代最高のカートリッジと、ブラインドで一対一の聴きくらべをやろうというピックアップなら、相当の自信作であったろうことは想像に難くない。
 フェアチャイルドの♯200シリーズは、コイルの巻芯が磁性体で、発電効率は高いがいわゆる〝純粋〟のムーヴィングコイルではない。この点、ステレオ時代に入ってから名声を確立したオルトフォン・タイプの先鞭をつけた製品と言ってもいいだろう。ピュリストにとっては、鉄芯入りのムーヴィングコイルタイプなど、MCと呼んでさえ欲しくないということになるのだろうが、現実には、モノ時代のフェアチャイルド、そしてステレオ時代に入ってからのオルトフォンとそれを基本にしたこんにちの多くのヴァリエイション、それが四半世紀以上も生き永らえているという事実をみれば、やはり何らかの強力なメリットのあることが伺い知れる。
 このフェアチャイルドをほとんどそっくりイミテーションしたカートリッジが、かつて電音(いまのコロムビアでない三鷹の日本電気音響KK)が、放送局用に開発したPUC3シリーズだったが、そのことをくわしく書いていると本題から外れてしまうので、話をもとに戻していえば、このフェアチャイルドに対して、MI型のピカリング、それにVRタイプのGE、という〝御三家〟が、モノ時代のピックアップの強豪であった頃、アメリカにウェザースという小さなメーカーがあって、高調波変調・検波式のコンデンサー・ピックアップを作っていた。このメーカーの初期の製品のデザインをそっくりイミテーションしたのが昭和高音、のちのスタックスだ。デンオンもスタックスも、とをたどればこうしてイミティションからスタートし、次第に独自の創造を加えて今日に至ったものだが、これは〝戦後〟の日本の産業のすべてのたどった道でもあった。
 この、ウェザース=スタックスの高調波に対して、直流式のコンデンサー・ピックアップに挑んだのが、こんにちのSONY、当時の東京通信工業(東通工)だった。まだエレクトレットの開発以前のことで、電極には高圧をかけなくてはならず、絶縁材料をはじめとして素材の良いものも入手や開発の困難な時代には、相当に勇気の要ることだったはずだ。にもかかわらず、それを一応の製品に仕上げて、関係者を対象に発表したのが、不確かな記憶をたどってみると昭和30年の晩春か初夏の頃で、日本オーディオ協会(JAS)の例会の形で、品川の東通工本社の一室で公開試聴会が催された。そのとき、東通工が選んだのが、フェアチャイルドとのブラインドによる一対比較という、大胆な方法だった、という次第。
 日本のオーディオ界の、まだ黎明期のようやく明けて間もないこととて、中島健造氏(JAS会長)や、当時の東通工社長井深大氏も、おおぜいの会員と肩を並べて試聴に臨んでおられた。が、実のところどう記憶をたどってみても、私には、その夜の音をもはや思い起すことができない。というより、フェアチャイルドとくらべてどういうふうに音が違ったのか、全く記憶がない。ただ、カーテンを下ろした向うに試聴装置があって、赤と緑のランプによって、A、Bのピックアップが切り換わったことが示されて、あとで東通工が緑、フェアチャイルドが赤、と発表されたとき、全員のあいだで、緑よりも赤のほうが視覚的に歪を感じ、あるいは劣性な色であるから、視覚心理上は緑のほうが音が良く感じられるのではないか……などとおもしろい議論がたたかわされたのをおぼえている。そういうことを別にすれば、私個人の場合、その夜の試聴に限ったことでなく、おおぜいの集まる場所で、どんなふうに音を聴かされても、本当のところは良いも悪いも判別がつかない。公開の発表会や試聴会で、あてがいぶちの試聴室や装置や偶然坐った席や、先様まかせのプログラムソースや、人さまのきめた音量レヴェルなどでは、判定をしないことにしているのは、こんにちに至るまで全く変っていない。
 このコンデンサー・ピックアップは、私のオーディオ及び音楽の聴き方に多大な影響を与えてくださった大先輩である今西嶺三郎氏が、自家用に購入されたものを、あとからじっくり聴かせて頂いた。今西氏もすでにフェアチャイルドを愛用しておられたが、それとの比較では、私には、どうしてもフェアチャイルドのほうが聴きごたえがあった。東通工はたしかに歪が少なくトランジェントも良いようだったが、反面、レコードのほこりに弱く、湿度や温度などの環境にもひどく神経質で気まぐれだった。私自身がひどく気まぐれな性分なので、よけいに気まぐれな製品を嫌うという傾向もある。
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 そんなことはどうでもよいが、こんないきさつから、私にとっての東通工──ソニーのイメージは、まずピックアップからはじまった。そのことはさらに後になって、昭和40年当時、TTS3000というベルトドライブのサーボ・ターンテーブルを自家用にしばらく使った体験が、いっそう、ソニー=プレーヤー……という印象を強くさせる。
 ソニーといえば、東通工時代からテープレコーダー(東通工ではテープコーダーという商品名を創作して、これはずいあとまで、いわゆる文化人の類いまでが、「テープコーダー」としゃべったり書いたりしていた)をいち早く開発し、トランジスターポケットラジオや、同じくトランジスター式の超小型TVなどを積極的に開拓していたことは、いまさらいうまでもない。そして、東通工のごく初期のテープコーダーの意匠デザイン(知久篤氏の作品)などは、のちに工業意匠(インダストリアルデザイン)を勉強することになった私に、多くの刺激を与えてくれた。が、私のオーディオ歴の中に、ソニーの製品が入りこんでいたのは、いまも書いたTTS3000と、そして同じときに開発されたアーム(PUA237)だけではなかったか。いくら記憶の糸をたどってみても、これ以外のソニー製品が、私の身辺にあったこと
は、ついぞない。
 それがなぜか、ということを、もはや残り少ないスペースで言うことは、多少の誤解を招くかもしれないが、こんなことではないかと思う。
 ソニーの製品は、昔から一貫して、みごとな合理精神に貫かれている、と私は感じる。かつて直流型のコンデンサー・ピックアップを開発した頃から、その姿勢は同じだ、と思う。ソニー製品には無駄がなく、つねに理詰めで、それ故に潔癖性だ。一方の私という人間は、さっきも書いたように気まぐれで、ずぼらで、怠けて遊ぶことが大好きで、およそ勤勉の精神に欠けている。そういう私からみると、ソニーのオーディオ製品は、あまりにも襟を正していて、遊びやゆとりの心の入りこむ余地が、少なくとも私にはみつけられない。ソニー製品を愛用している人たちまでが、とても近寄り難い真面目人間にみえてしまう。マッキントッシュの豪華・豊麗、そしてアルテックの豪放磊落が私の趣味に合わないのと正反対の意味で、ソニーの折目正しいエリート社員ふうの雰囲気は、結局私のようなずぼらには入り込めない世界なのではないか、といささか拗ねている。

私のテクニクス観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・テクニクス」
「私のテクニクス観」より

 こんにちのテクニクスの母体になったのが、20センチのダブルコーン・フルレンジスピーカーユニット8PW1だと私は解釈している。そういういきさつはこの本の中に詳しく出ているのだろうから、正確な年代などはそちらにまかせることにして、その8PW1のプレス発表会は、いまならホテルの一室かショールームの展示室でということになるが、そこが昭和20年代後半の当時の感覚なのだろう、なんと大森の料亭の広い座敷でおこなわれた。雑誌関係者を対象の発表会に私が列席していたのは、そのころ「ラジオ技術」の編集部員だったからで、オーディオ担当の先輩T氏のお供をする形で出かけた。まだ駆け出しの若造がそんな高級料亭に連れてゆかれたのは、あとでわかったのだがT氏の謀略で、その夜たぶんオイストラフか誰かの演奏会があって、T氏自身はあいさつがすむと、そうした場所でのふるまいかたもよくわからない青二才を残して、そそくさと逃げ出してしまったという次第。場所柄もわきまえず、よれよれのジャンパーを着込んだ若ものは半ば途方に暮れて、他誌のヴェテラン編集者のあいだに挾って、ただおろおろしているだけだった。実際そんな大広間をみたのは初めてだったので、そこで鳴らされた8PW1の音も良いのか悪いのか見当さえつきかねた。それが日本で作られた広帯域スピーカーの中でも歴史に名を残す、世界に誇れるユニットであることを理解したのは、もっとはるかにあとのことだ。
 8PW1の設計者である阪本楢次氏のグループが開発したユニットの中で、しかし私が最も好きだったのは同軸型2ウェイの8PX1で、これは自分でも好んで聴いたし、友人たちにも勧め、知人に頼まれて組み立てる再生装置にも使って喜ばれた。
 やがてテクニクス1の登場となる。「ステレオサウンド」誌創刊号をとり出してみると、表紙をあけたところのカラー折込みの大きな広告がテクニクスで、そこにはすでにリニアトラッキング・プレーヤーの100Pと、管球式のプリアンプ10A、そしてOTLアンプ20Aが、テクニクス1と共に載っているが、私には右のようないきさつから、テクニクスはスピーカーから始まったという印象がとても強い。その同じ広告の欄外には、すでにスピーカーシステムはテクニクス2から5まで揃っていることが載っている。そのあとまもなくテクニクス6も発売されているが、そのいずれもが、当時の国産としてはかなりの水準のできばえで、中でもテクニクス4が個人的には最も好きなスピーカーだった。
 テクニクス6以降は、なぜか設計陣が変ったため、〝スピーカーの〟テクニクスはその後しばらくパッとしなかった。スピーカーシステムばかりでなく、ユニットの方も、どうも悪い方へ悪い方へと走ってしまうように思えて、私は失望した。一時期、SB500というブックシェルフでちょっと良いスピーカーが出たと思ったが、量産に入ってからの製品はあまり感心できなかった。
「テクニクス6」まででこのネイミングが一時中断されたのは、設計ポリシイが変ったというのが主な理由なのだろうが、しかしラッキーナンバーの〝7(セブン)〟を、SB7000まで使わずにいたということは、テクニクスのイメージのためには幸いしたと私は思う。8PW1や8PX1の「ナショナル」ブランド時代をテクニクスの胎動期とすれば、「テクニクス1」から「テクニクス6」までが第一世代で、その次の設計グループが変った時期を第二世代といえるだろう。私見を加えていえば私にとってテクニクスの第二世代の時期は、いまふりかえてみても失礼ながらずいぶん廻り道をしていたように思えてならない。そして再び、かつて阪本氏の下で5HH17うはじめとして、おもにトゥイーターに名作を残した石井伸一郎氏をリーダーとして、いちはやくリニアフェイズにとりくんで成功させたSB7000以降が、再び栄光の第三世代と考えてよいだろう。「テクニクス7」のラッキーナンバーを、第三世代まで使わずにいたことは、半ば偶然なのだろうが、祝福すべき結果を生んだことになる。
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 いまもふれた石井伸一郎氏には、最初はアンプの設計者として紹介された。テクニクス10Aなどの管球アンプも良かったが、それよりも私の印象に強く残っているのは、最初のトランジスター・プリメインアンプ50Aの音質の良さだ。テクニクス50Aの出現で、私の自家用のアンプにトランジスターをとり入れる気持になった。これ以前の国産のトランジスターアンプは、いわばソリッドステートの開拓期の製品であっただけに、いわゆる〝石くさい〟、硬質で、ローレベルで粗っぽい、まるで金属のブラシで耳もとを撫でられるような不快さがあって、当時の私のように狭いデッドな和室で、スピーカーから2メートルほどの至近距離で聴かざるをえないような環境では、とうてい音楽を楽しませてくれなかった。その点50Aは、さすがに管球アンプでベストを尽くした上で、それに負けない音を目ざした石井グループの快心作だけあって、滑らかで穏やかで自然な音の美しさで満足させてくれた。
 先日、思い出して数年ぶりに50Aをぴっぱり出して鳴らしてみた。ここ数年来、また一段と進歩したトランジスターアンプの優秀な製品を聴き馴染んだ耳に、50Aがどう聴こえるか、とても興味があったからだ。旧い製品はどんどん捨ててしまう私が、愛着を感じて捨てきれずにいる製品が、ほんの一握りだけあって50Aもその中に入っている。
 久々に耳にした50Aの音は、さすがにこんにちの耳にはいささか古めかしく聴こえたが、進歩の早いトランジスターアンプの世界で、10年前のアンプが一応の水準で鳴ったのだから、やはり当時としてはたいへん優れたアンプといえたわけだ。
 まもなく10000シリーズという超弩級のアンプが生まれたが、その試作品を、BBCモニターLS5/1Aに接続して鳴らしたときの驚きは今でも忘れない。持主の私が気づかずにいたLS5/1Aの底に秘めた実力の凄さをはじめて垣間見せてくれて、このアンプが、私のモニタースピーカーに対する考え方を根本的に変える本当のきっかけになったといえなくもない。
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 こうしてふりかえってみると、私のオーディオ歴の中にテクニクスというブランドは、抜きがたい深さで根を下ろしているということに今さらのように気がついて驚きを新たにしているような次第だ。
 ところで、松下電器という「家電」メーカーのイメージを逃れるためと、大型企業の中で手づくりの一品制作に近いクラフトマンシップの良さを生かすために生まれた「テクニクス」というブランドも、いまでは少々成長しすぎて、この部門だけでもしかするとかつての松下電器ぐらいの大企業にふくらんでしまったのではないかと思えるほどだが、あまり大きくなりすぎて、かつてテクニクス・ブランドを創設したときのように、もうひとつ新しい手づくりセクションのブランドを作らなくては、などという時代にだけは陥らないよう祈りたい。
 しかしSB10000といいA1やA2といい、ふつうならもっと小さい規模の企業体でしか手がけにくい、おそろしく手の込んだ製品を、常に開発しつづける姿勢をみているかぎり、そんな心配は老婆心にすぎないのだろうと思う。これほど大きな企業体で、こうした超高級品を作れるというのは、おそらくあまり例のないことだと思う。高級品、といういい方は誤解を招きそうなので言葉をかえれば、大きな組織の中では往々にして個人の存在が抹殺されて、その結果が製品に反映して、無味乾燥な、あるいは肌ざわりの冷たい機械的な音になりやすいが、テクニクスの製品には、たしかに大掴みには大企業らしい印象があるにもかかわらず、どこかにほんのわずかとはいえ人間くさい暖かみが残されていると、私には受けとれる。これほどメカニズムに囲まれながら、人間臭さを大切にしたいというのが、オーディオという趣味のおもしろいところだと思うが、そこのところ、大企業でありながら失わないのがテクニクスの良さだと私は考えているし、これからもそうあって欲しいと思っている。

私のラックス観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・ラックス」
「私のラックス観」より

 ラックスの社歴が50年という。私のオーディオ歴はせいぜいその半分を少し越えたばかりである。
 私がオーディオアンプを作りはじめたころ、ラックスのパーツは日本で一番高級品で通っていた。昭和二十年代半ばごろの日本の電子機器やパーツの性能は、世界的にみてもひどく貧弱なレベルにあった。割れたドブ板のあいだからメッキ工場の流す酸の匂いの洩れてくるような、うらぶれた町工場で作られたという感じが製品そのものにただよっているような、手にとっただけでアンプ作りの意欲を喪失させるような、いかにも安っぽい、メッキでピカピカ光らせていてもその実体は貧しく薄汚れているといったパーツばかりであった。そんなパーツがうそ寒くパラパラとならべられたウインドウの中に、ラックスの♯5432というパワートランスを眺めたときの驚きを、何と形容したらいいだろう。アメリカのアンプにさえ、こんなにきれいでモダーンなトランスは載っていなかった。
 完成品のアンプが売れるというようなマーケットはまだなくて、アンプが欲しければ自作するか作ってもらうか、海外から取り寄せるかしなくてはならなかった時代である。いまの秋葉原ラジオ街の前身、神田須田町を要として一方は神田駅寄りに、もう一方が小川町にかけて、八割以上が露天商で、残りの僅かがテンポをかまていた。その中でも数少ない高級品を扱う店に中島無線というのがあって、そのウインドウで初めて♯5432を見たのだった。よだれを流さんばかりの顔で、額をくっつけてみいっていた。ひどく高価だった。
 イギリス・フェランティのエンジニア、D・T・ウィリアムソンが、雑誌『ワイアレス・ワールド』に発表した広帯域パワーアンプが〝ウィリアムソン・アンプ〟の撫で話題になったころの話で、回路はそっくた真似ができても、パーツの性能、中でも、出力トランスの特性の良いのが入手できなくて、発振だの動作不安定で格闘していた時代に、ラックスはやがて〝Xシリーズ〟の名で素晴らしいアウトプットトランスを世に送った。トランス一個買うのに、当時の中堅サラリーマンの月給一ヵ月分が消えてしまうような高級品だった。これらのトランスと、真空管のソケットやスイッチ類がラックスの主力製品で、そのどれもが、ズバ抜けて高価なかわり性能も仕上げもよかった。昭和二十六〜二十七年以降、私はどれだけのラックス・パーツを使ってアンプを作ったことか。アンプの製作記事を書いては原稿料をかせぎ、その原稿料でまた新しいアンプを作る。それがまた原稿料を生む……。ラックスのトランスを思い起こしてみると、アンプ作りに血道をあげていたあの頃の想い出に耽って、ついペンを休めて時間を費やしてしまう。決してラックスのパーツばかりを使っていたわけではないのに、このメーカーの作るトランスやソケットは、妙に私の性に合ったのか、好んで使ったパーツの中でも印象が鮮明である。
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 昭和三十三年ごろ、つまりレコードがステレオ化した頃を境に、私はインダストリアルデザインを職業とするための勉強を始めたので、アンプを作る時間もなくなってしまったが、ちょうどその頃から、ラックスもまた、有名なSQ5B
きっかけに完成品のアンプを作るようになった。SQ5Bのデザインは、型破りというよりもそれまでの型に全くとらわれない新奇な発想で、しかも♯5423やXシリーズのトランスのデザインとは全く別種の流れに見えた。
 途中の印象を飛ばすと次に記憶に残っているのはSQ38である。本誌第三号(日本で最初の大がかりなアンプ総合テストを実施した)にSQ38DSが登場している。いま再びページを開いてみても当時の印象と変りはなく、写真で見るかぎりはプロポーションも非常に良く、ツマミのレイアウトも当時私が自分なりに人間工学的に整理を考えていた手法に一脈通じる面があってこのデザインには親近感さえ感じたのに、しかし実物をひと目見たとき、まず、その大づくりなこと、レタリングやマーキングの入れ方にいたるまですべてが大らかで、よく言えば天真らんまん。しかしそれにしては少々しまりがたりないのじゃないか、と言いたいような、あっけらかんとした処理にびっくりした。戦前の話は別として♯5423以来の、パーツメーカーとしてのラックスには、とてつもなくセンスの良いデザイナーがいると思っていたのに、SQ5BやSQ38を見ると、デザイナー不在というか、デザインに多少は趣味のあるエンジニア、いわばデザイン面ではしろうとがやった仕事、というふうにしか思えなかった。
 少なくともSQ505以前のラックスのアンプデザインは、素人っぽさが拭いきれず、しかも一機種ごとに全く違った意匠で、ひとつのファミリーとして統一を欠いていた。一機種ごとに暗中模索していた時期なのかもしれない。その一作ごとに生まれる新しい顔を見るたびに、どういうわけか、畜生、オレならこうするのになア、というような、何となく歯がゆい感じをおぼえていた。
 ほかのメーカーのアンプだって、そんなに良いデザインがあったわけではないのに、ラックスにかぎって、一見自分と全く異質のようなデザインを見たときでさえ、おせっかいにも手を出したくなる気持を味わったということは、いまになって考えてみると、このメーカーの根底に流れる体質の中にどこか自分と共通の何か、があるような、一種の親密感があったためではないかという気がする。
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 いろいろなメーカーとつ¥きあってみて少しずつわかりかけてきたことだが、このラックスというメーカー、音を聴い