菅野沖彦
ステレオサウンド 77号(1985年12月発行)
「日本的美学の開花」より
ぼくは、我とわが耳を疑った。今、聴こえている音はただものではない。音が鳴り出して数秒と経ってはいないが、すでに、そのスピーカーからは馥郁たる香りが感じられ、この後、展開するいかなるパッセージにも美しい対応をすることが確実に予測された。曲は、マーラーの、あのポピュラーな第4交響曲、演奏はハイティンク指揮のコンセルトヘボウ管弥楽団、フィリップスのCDである。第一楽章の開始に聴かれる鈴と木管の透明な響きが右寄りから中央に奥行きをもって聴こえ、その余韻は、繊細に、たなびくように、無限の彼方への空間を、あえやかに構成しながら消えていく……。
やがて左チャンネルに現われる第一主題を奏でる弦楽器群はしなやかで優美、流れ込むように右チャンネルの低弦のパッセ−ジへ引き継がれていく。豊かで、しかも、芯のしっかりしたコントラバスの楽音には、実在感が生き生きと感じられ、聴き手の心に弾みがつく……。そして、チェロの歌う第二主題は、第一主題に呼応して十分、明るく暖かく、のびのびと柔軟な質感の魅力をたたえている。
これは、目下のぼくの愛聴盤の一枚で、わが家のシステムをぼく流に調整して、いまや、その悦楽に浸りきれる音にしているものだった。この音が、わが家以外の場所で、しかも、全く異なるスピーカーシステムから、ほとんど違和感なく響いたことはない。それが、なんと、今、ここで、違和感なく響き始めたのである。しかも、新たなる魅力を感じさせながら……。つまり……、決してわが家とは同じ音ではないのだが、不思議になんの違和感もなく、わが家とはちがう新しい魅力を感じさせられたであった。
DS10000というダイヤトーンのスピーカーシステムがぼくの眼前にあった。そして、ここは、福島県郡山市にある三菱電機の郡山製作所の試聴室内である。何から何まで、わが家とは異なる雰囲気と条件であることはいうまでもない。これはたいへんなことだ! そういう驚きにぼくは囚われていた。
正直、率直にいって、ぼくは今まで、ダイヤトーンのスピーカーには常に違和感の感じ通しであったから、その驚きはひときわ大きなものであったのだ。これについては後でもっと詳しく述べるつもりである……。
そして、第四楽章では、ロバータ・アレクサンダーのソプラノを導入するフルートとヴァイオリンが、そして、ハープやトライアングルも、天上的なト長調の響きと、ゆれるような四分の四拍子の揺籃を、限りない透明感とやさしさをもって開始し、ぼくを魅了したのであった。ブルーノ・ワルターをして「ロマン主義者の雲の中の時鳥の故郷」といわしめた天国的悦楽感が、いやが上にもぼくの心を虜にするのに十分な美音であった。ソブラノは程よい距離感をもって管弦楽と溶け込みながら、かつ際立って明瞭に、「天国の楽しさ」を歌い上げるのであった。
ある意味では、ケチをつけるのもぼくの仕事であって、この日も、ダイヤトーンの新製品に建設的な意見を述べるべく、無論、その中に、「よさ」を発見し、製品を正しく認知する覚悟で、はるばる郡山まで呼ばれて釆たのであったが、このDS10000に関しては我を忘れて惚れ込んでしまうという「だらしなさ」であった。
かろうじて立ち直ったぼくは、このスピーカーを自宅で聴いてみるまで、最終的結論を保留したのである。その結果、後日、このスピーカーはわが家に持ち込まれ、第一印象と食い違わないものであることが確認をされたのであったが、それは、ほんの短時間での試聴であったため、今回、改めて本誌のM君を通じ、数日間借用し、ゆっくり、いろいろな音楽を聴いてみることにしたのである。前記のマーラーの他、アナログディスクの愛聴盤、ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団による同じくマーラーの交響曲第三番ニ短調、第六番イ短調、ぼくがずっと以前に録音したルドルフ・フィルクシュニーのピアノ・リサイタルのニューヨーク録音などのクラシックレコードと共に、カウント・ベイシーのやや古い録音『カウント・オン・ザ・コースト’58』、アート・ペッパー『ミート・ザ・リズム・セクション』、メル・トーメの『トップ・ドロワーズ』、ローズマリー・クルーニーなどのジャズやヴォーカルのディスク、そしてまた、CDによる数々の音楽をゆっくり試聴するほどに、このスピーカーの素晴らしさをますます強く認識するに至ったのであった。
特に、フィリップスのCDによる、アルフレッド・ブレンデルのピアノ・ソロの『ハイドン/ピアノ・ソナタ第34番他』の再生に聴かれるピアノ・サウンドの美しさは特筆に値いするもので、その立上りの明快さと、余韻の素晴らしさは、このディスクの理想的ともいえる直接音の明瞭度と、豊かなホールトーンのブレンドの妙を余すところなく再生するものであった。
多くのレコードを聴くうちに、このスピーカーの音の美しさについてぼくはあることを考えさせられ始めたのであった。それは、この音の美は、まぎれもなく欧米のスピーカーの魅力の要素とは異なるものであることだった。この美しさは、決して、強烈な個性をもったものではないし、激しさを感じるものではない。花に例えれば、大輪のダリヤなどとは異なるもので、まさに満開の桜の美しさである。.それも決して、重厚華麗な八重桜のそれぞれではなく染井吉野のもつそれである。いいかえれば、これは日本的美学の開花であるといってもよい。かつてぼくは、同じダイヤトーンの2S305について、これに共通した美しさを認識したことがある。この古いながら、名器といってよい傑作は、外国人にとっても、素晴らしく美しい音に感じられるらしく、ぼくの録音関係の友人達が、「日本製スピーカーで最も印象的なもの」として、この2S305をあげていたのを思い出す。その中の一人であるアメリカ人エンジニアのデヴィッド・ベイカーは、2S305の美しさは彼等にとってエキゾティシズムであることを指摘していたが、これはたいへん考えさせられる発言であると思う。美意識の中からエキゾティシズムを排除することは出来ないとぼくは思っている。ぼくたちが、外国の優れた魅力的スピーカーに感じる美の中にも、大いにエキゾティシズムが入っているのではなかろうか。異文化の香りへの強い憧れと、その吸収と昇華創造は、人の感性の洗練や情操にとって大切なものであるはずである。
もう、二十年も前の話だが、亡くなったピアニスト、ジュリアス・カッチェンの録音をした時に、カッチェン氏がヤマハのピアノに大いに魅せられ、横にあるスタインウェイを使わずに、ヤマハを使いたいといったのを思い出す。ぼくたち録音スタッフは、そこで弾きくらべられた二台のピアノを聴いてスタインウェイによる録音を強く希望したのだが、カッチェン氏は「こんな美しい音のピアノに接したことはない……」といってヤマハの音を愛でていた。そういえば、ぼくの外国の友人達で日本の女性を恋人、あるいは妻にした人が何人かいるが、そのほとんどの女性は、きわめて東洋的な造形の容貌の持主で、その顔は、早いえばば「おかめ」の類型に属する人達だ。眼が大きくて二重まぶたで、鼻の高い日本女性は、外人の眼にはエキゾティシズムが希薄なのだろう……。ぼくなんかは、そっちのほうに強い魅力を感じてならないのであるが……。しかし、今や、外国文化への憧れも落ち着いて、日本的な美への認識が高まり、誇りをもって日本文化に親しむようになったようにも思う。時代もそうなったし、ぼく自身も年令のせいか、年々、日本文化への強い執着と回帰を意識するようになっている。だから、一時のように、日本のスピーカーメーカーが、自ら『アメリカンサウンド』や『ヨーロピアンサウンド』などを標榜する浅はかさには腹が立ってしかたがなかった。
こんなわけで、日本のスピーカー技術が、世界的に高いレベルにあって、そのたゆまぬ努力のプロセスが、いつの日にかスピーカーの宿命である音の美と結びつかなければならない時にこそ、日本的『美学』を感じさせるようなスピーカーが誕生するはずだし、そうなって欲しいものと思い続けてきたのである。
ダイヤトーンというメーカーは、音の面だけからぼくの個人的な感想をいわせてもらうなら、2S305以来、これを越えるスピーカーを作ったことはなかったと思うのである。その技術力や、開発力、そして真面目さは、常々敬意を払うに値いするものだと思ってきたし、変換器テクノロジーとして、その正しい主張にも共感するところは大きかった。しかし、ぼくがいつもいうように、部分的改善と前進はバランスをくずすという危険性を承知の上で、あえてその危険を犯し続けてきたメーカーでもあったと思う。今から10年前、ハニカム構造の振動板を採用した時に、ぼくはその音の質感に大いに不満をもってメーカーに直言したものである。したたかな技術集団が、こんなことで後へ引かないことは十分承知していたが、かといって、その音を全面的に容認することは出来なかった。後へ引いては技術の進歩はないわけだろうが、かといって、進歩のプロセスでバランスを欠いた妙な音を、局所的に優れた技術的特徴で説得し、「美しい音ではないかもしれないが、これが正しい音なのだ」と強引にユーザーを説得をされてはたまらない。10年間の長い期間、ぼくはダイヤトーンのスピーカーの音の面からは批判し続けながら、その技術的努力を高く評価してきたのである。
こうした過程を経て遂に、音楽の愉悦感を感じることの出来るスピーカーシステムが誕生したのであるから、これはぼくにとっても大きな出来事であった。
ここ数年、ダイヤトーンが、剛性を強く主張する姿勢と共に、音楽を奏でるスピーカーにとって『美しき妥協』が必要なことを認識しているらしい姿勢は感じとることが出来るようになってはいた。特にエンクロージュアについての認識が、片方において冷徹なモーダル解析を行いながら、天然材のもつ神秘性を発見することによって高まってきたことが、ぼくにとって陰ながら喜びとするところであったのだ。『美しき妥協』と書いたが、これは『大人としての成長』というべきなのかもしれない。このスピーカーに限らず、ダイヤトーンの全てのスピーカーにはコストの制約こそあれ、一貫して見られる高剛性、軽量化の思想が、振動系、構造系の全てに見られる。もちろんこれはダイヤトーンに限らず、すべてのスピーカーメーカーが行っていることなのだが、ダイヤトーンはその旗頭である。
今年は、多くの日本のメーカーが、期せずして、優れたスピーカーを出し、実りの多い年であったが、これは、日本のスピーカー技術のレベルが一つの頂点に達し、その高い技術レベルを土台にして、技術と美学の接点に立って精一杯、音の錬磨をおこなった結果であろうと思われる。
音楽的感動を最終目的とするオーディオにあっては、この両面のバランスこそが優れた製品を生む必須条件であって、これこそが真の『オーディオ技術』というものだとぼくは信じている。だから、そこに人がクローズアップされざるを得ないのだ。つまり、技術はデータに置きかえられやすいし、保存も積み重ねも可能である。そして、グループの力が必要であり、時として他分野の協力も得なければならない。しかし、美学的領域に属する仕事はそうはいかない。多くの人の協力や、英知を集める協議はもちろん有益だが、絶対に中心人物の存在が必須である。よきにつけ、あしきにつけ、一人の人間、一つの個体を中心とするファミリー的構成がなければ、美の実現は不可能なものである。それが、プロデューサーとかディレクターと呼ばれる人人間の必要性だ。ダイヤトーンの場合、三菱電機という大メーカーの一部門であるから、プロデューサーは社長である。現実には、その意を帯びた部長ということになるのだろ。DS10000を試聴した時、ぼくの傍らで熱心に説明してくれた一人の青年技師がいたが、彼が、このスピーカーの担当ディレクターに違いない。矢島幹夫氏がその人だ。そして、ダイヤトーン・スピーカー技術部には佐伯多門氏という、大ベテランがおり、プロデューサーとして矢島氏を支えたと思われる。これはぼくの勝手な推測であって確かめたわけではないのだが、ほぼ間違いあるまい。もちろんこのような大会社では、さらに多くの周囲の人達の熱意がなければ動くまい……(ここが大会社とオーディオの本質とのギャップになるところなのだが……)と思われるし、この製品が、ダイヤトーン40周年記念モデルになったことをみても、社をあげての仕事といえるであろう。しかし、中心人物の並はずれた情熱と努力がなければ、こういう製品は生れるはずはないと思われるのである。そういえば、あのオンキョーのグランセプターGS1という作品も由井啓之氏という一人の熱烈な制作者がいてこそ生れたものだった。GS1が、ホーンシステムにおいて刮目に値する製品であるのに続いて、ダイヤトーンがこのDS10000で、ダイレクトラジエーターシステムによって、このレベルの製品を誕生させたことは、日本のスピーカー界にとって大きな意味をもっていると思うものである。
ところで少々話がスピーカーそのものからはずれてしまったが、もう少し、細部にわたって、このシステムを眺めてみることにしよう。また、詳細については、編集部が、別途取材したダイヤトーンのスタッフの談話があるので、併せて参考に供したいと思う。
DS10000は、27cm口径のウーファーをベースにした3ウェイシステムである。スコーカーは5cm口径のドーム型、トゥイーターは2・3cm口径の同じくドーム型である。
ウーファーの振動系はハニカムをアラミッド繊維でサンドイッチしたもので、カーヴドコーンである。アルミハニカムコアーとアラミッドスキン材との複合により、高い剛性と適度な内部損失をもち、このタイプのウーファーとして高い完成度に到達したと思われる。27cmという口径からくるバランスのよい中域への連続性と、質感の自然な、豊かでよく弾む低音を実現していて、ハニカムコーンの可能性を再認識させられた。
スコーカーの振動系はボロンのダイアフラムとボイスコイルボビンの一体型で、トゥイーターもこれに準ずるものだ。磁気回路とフレームを強固な一体型としているのは従釆からのダイヤトーンの特徴であり、振動系の振動を純粋化し、支点を明確化して、クリアーな再生を期しているのも、DS1000、DS3000以来の同社の主張にもとづくものである。
エンクロージュアはランバーコア構造材の強固なもので、バッフルと裏板の共振モードを分散させるべく、そのランバーコアの方向性を変えている。漆黒の美しい塗装はポリエステル樹脂塗装で、グランドピアノの塗装工場に委託して仕上げられているそうだ。好き嫌いは別として、この漆黒塗装仕上げによる美しい光沢をもつた外観は、このシステムにかける制作者達の情熱をよく表現していると思うし、わが家に置いて眺めていると、初期の軽い違和感はだんだん薄れ、その落着いたたたずまいと、高密度のファインフィニッシュのもつ風格が魅力的に映り出す。ユニットのバッフルへの固定ネジには一つ一つラバーキャップがとりつけられる入念さで、音への緻密な配慮と自己表現が感じられ好ましい。別売りだが、共通仕上げの台のつくりの高さも立派なもので、ブックシェルフスピーカーの最高峰として、まさに王者の気品に満ちている。
DS10000は 『クラヴィール』という名前がつけられており、これはピアノ塗装の仕上げイメージからの名称と思われるが、ぼく個人の好みからいうと、こんな名称はつけないほうがよかった。あらずもがな……である。
磨き抜かれた外観の光沢にふさわしい、このシステムの美しい音は、バランスの絶妙なことにもよる。アッテネーターはなく、固定式であるが、このシステムがアンバランスに鳴るとしたら、部屋か、置き方に問題があるといってもよい。ウーファーからスコーカーへのクロスオーバーがきわめてスムーズで、中域の明るい豊かな表現力が、これまでのダイヤトーン・スピーカーのレベルを大きく超えている。4ウェイ構成をとっていたDS5000、DS3000は別の可能性をもっているのかもしれないが、これを聴くと3ウェイのよさがより活きて、ユニットの数が少ない分、音はクリアーである。剛性の高いウーファーのため、低域の堂々たる支えが立派で、27cmという口径が、「いいことづくめ」で活きているように思われる。
現代スピーカーとして備えるべき条件をよく備え、曖昧さを排した忠実な変換器としての高度な能力が、かくも美しき質感と魅力的な雰囲気を可能にしたことがたいへん喜ばしい。これが、今後、どういう形で、他製品への影響として現われるか楽しみである。
こう書いてくると、いいことずくめで、まるで世界一のスピーカーのように思われるかもしれないが、スピーカーには世界一という評価を下すことは不可能であることを最後に記しておきたい。オーディオのうに、オブジェクティヴなサイドからだけの判断では成立しない世界においては、これは自明の理である。スピーカーに限らず全てのコンポーネントは、そう理解されなければならないが、特にスピーカーには、この問題が大きく存在する。要は、オブジェクティブなファクター、つまりは物理特性のレベルがどの水準にあって、その上に、いかにサヴジェクティヴな音の嗜好の世界が展かれるかが問題である。技術の進歩は、たしかに、このオブジェクティヴなレベルを向上させるものではありるが、そのプロセスにおいては時として、サブジェクティヴな美の世界を台無しにする危険もある。ダイヤトーンのDS10000は、オブジェクティヴなレベルが、ある高みでバランスしたからこそ生れたものであり、優れた変換器として讚辞を呈するものであるが、なお、嗜好の余地は広く残されているのである。だから、ぼくには、単純に世界一などというレッテルを貼る蛮勇はない。
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