マークレビンソン ML-7L

黒田恭一

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
「いま私のいちばん気になるコンポーネント ML7についてのM君への手紙」より

 M君、先日は、雨の中を、ありがとう。おかげで、まことに刺激的な時間を、すごすことができました。
 いくつかいいコントロールアンプがあるのできいてみますか?──というきみの声を、ローレライの声をきく舟人のような気持で、ききました。大変に誘惑的な、抵抗したくともできない、きみの申し出でした。きかせてくれるというのなら、ご親切に甘えてきかせてもらってもいいであろうと、ぼくはぼくなりに納得し、でも、きみのいう「いいコントロールアンプ」がいかなるものか並々ならぬ興味を感じ準備万端おこたりなく、きみの到着を待ちました。
 しかし、まさかきみがきかせてくれるコントロールアンプの中に、マーク・レヴィンソンのML7が入っていようとは、考えてもみませんでした。ぼくは、きみも知っての通り、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプに対して、批判的などとおこがましいことはいいませんが、肌があわないとでもいいましょうか、値段のことは別にしても、これはぼくのつかうコントロールアンプではないなと思っていました。ひとに音の点で、そのきわだった美しさはわかっても、ぼくにはなじみにくいところがあったからにほかなりません。
 なんといったらいいのでしょう。すくなくともぼくがきいた範囲でいうと、これまでマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせた音は、適度にナルシスト的に感じられました。自分がいい声だとわかっていて、そのことを意識しているアナウンサーの声に感じる嫌味のような藻が、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせる音にはあるように思われました。針小棒大ないい方をしたらそういうことになるということでしかないのですが。
 アメリカの歴史学者クリストファー・ラッシュによれば、現代はナルシシズムの時代だそうですから、そうなると、マーク・レヴィンソンのアンプは、まさに時代の産物ということになるのかもしれません。
 それはともかく、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプをぼくがよそよそしく感じていたことは、きみもしっての通りです。にもかかわらず、きみは、雨の中をわざわざもってきてくれたいくつかのコントロールアンプの中に、ML7Lをまぜていた。なぜですか? きみには読心術の心得があるとはしりませんでした。なぜきみが、ぼくのML7Lに対する興味を察知したのか、いまもってわかりません。そのことについてそれまでに誰にもいっていないのですから、理解に苦しみます。
 たしかに、ぼくは、君のご推察の通り、ML7Lに対して、並々ならぬ興味を抱いていました。ぼくがML7Lのことを気になりだしたのは、例によって、いたって単純な理由によります。本56号の三九八ページから次のページにかけて山中さんが欠いておられた文章を読んだからです。
 山中さんは、このように書いていました──「新しいML7は、そうした従来のモジュールシステムにいっさいとらわれず、モジュール基板からまったく新しい発想で開発された点が最大の特長であり、現在のMLASのチーフ・エンジニアであるT・コランジェロのオリジナルな設計に基づいている。したがって配線レイアウトが新しいポリシーで統一され、現在のMLASスタッフの目指す理念が具体化した意味で、第二世代の……という表現がもっともふさわしいと思うのである。」
 この文章の中でもっともしびれたのは、「第二世代の……」というところです。それを読んで、そうかこれはあのマーク・レヴィンソンではないんだなと思いました。そして、山中さんのその文章でのしめくくりの言葉、「恐るべきコントロールアンプの登場といえよう」で、ぼくの好奇心は炎と化したようでした。
 さらにもうひとつ、山中さんの文章には、気になることがありました。「T・コランジェロ」という、MLASのチーフエンジニアの名前です。コランジェロというのは、どう考えても、イタリア系の名前です。ぼくには悪い癖があって、ジュゼッペ・ヴェルディの国の人間、あるいはその国の血をひく人間は、ことごとくすぐれていると思いたがるところがあります。そのために失敗することもありますが、「T・コランジェロ」という名前を目にして、これはあのヴェルディの国の人間のつくったものかと、炎と化した好奇心に油をそそぐ結果になりました。
 そうこうしているうちに、本誌58号では、このML7Lが、いちはやくというべきでしょうか、「ザ・ステート・オブ・ジ・アート」にえらばれました。その時点では、まだML7Lの音をきいていなかったのですが、自分でも理解できないことながら、さもありなんと思ったりしました。
 そのような経過があって、ML7Lに対する好奇心がまさに頂点に達したところに、きみがぼくにきかせるためにそのコントロールアンプを持ってきてくれたことになります。これはちょうど、かねて噂をきいて一度は会ってみたいと思っていた美女に、思いもかけぬところで紹介されたようなものでした。「ほう、あなたが噂にきこえたML7Lさんでしたか。はじめまして……」などと、どぎまぎしてしまいました。
 ML7Lは、写真から想像していたより、はるかに小さく感じられました。幅は、48・3センチですから、LNP2Lなどと同じなのに、とても小さく感じられました。なにぶんにもコントロールアンプですから、大きい必要はないわけで、ML7Lが小さく感じられたということは、ぼくにとってこのましいことでした。
 人間には、大きさに憧れるタイプと、小ささに憧れるタイプのふたつがあるようです。ぼくはどちらかというと、後者のタイプのようです。ぼくの一応の愛用カメラは、技術不足のためにこれまでに一度としてまともにとれたことがないのですが、ミノックスです。そして、SLの走るのを写真でとったり録音したりするより、メルクリンを走らさせる方をこのみます。実用的価値などあるはずもないと思いながら、あいかわらず、宝クジにでもあたったら(もっとも、宝クジは、買わなければ、あたりっこないのだけれど)、まっさきに怪体と思いつづけているのがあの手のひらにのるオープンリールデッキ、ナグラのSNNです。
 そういうことがありますので、ML7Lを小さく感じたということは、ぼくにはよろこばしいことでした。いかにも頭脳明晰という印象でした。ぼく自身が大男とはいいがたい身体つきなために、大男総身に知恵が回りかねという俗説を、どうやら胸の底で信じているようです。そういえば、好きな音楽家も、どちらかといえば小柄な人が多いようです。とはいっても、その人が小柄だからその人の音楽が好きになったというわけではいないのですが。
 しかし、むろん、コントロールアンプですから、みため、あるいはスタイルは、二の次です。やはり肝腎なのは音です。
 あれでかれこれ二時間近くもML7Lをきかせていただいたことでしょうか。なんともいいがたい、ひとことでいうとすれば、まさに満足すべき音でした。うっとりとききほれました。M君は「色っぽい音」と表現されましたが、なるほどと思いました。そのとき、実際に音をきかせてもらって、それまで晴れた空でときおり太陽をかくす雲のように気になっていたかすかな不安が、消しとびました。そのかすかな不安というのは、本誌58号一七六〜七ページで瀬川さんがお書きになった文章によって、ぼくの胸のうちに芽ばえたものでした。
 瀬川さんは、このように書いていらっしゃいました──「ML7を、同じ氏レビンソンのML2L(モノーラル・パワーアンプ)と組合せると、まったく見事な音が鳴ってくるが、パワーアンプ単体としては、これまた現代の最尖端をゆくひとつと思われるスレッショルドの『ステイシス1』と組合せると(少なくとも私個人の聴き方によれば)何となく互いに個性を殺し合うように聴こえる。」
 ぼくのところのパワーアンプは、ごぞんじの通り、いまではもう『現代の最尖端をゆく」とはいいがたい、しかしステイシス1と同じメーカーの、4000Aです。これは置き場所にも困るまさしく大男ですが、総身に知恵がまわりかねているとは思えません。勝手なものですね。結局は、自分がいいと思えれば、どっちでもいいということなのかもしれません。なんとも節操のないことです。
 ぼくのパワーアンプは、スレッショルドでも、ステイシス1ではなくて4000Aであるからと思いながらも、瀬川さんの言葉は気になっていました。しかし、音をきいて、そかすかな不安は、消しとびました。なにぶんにもぼくはML7LをML2Lとつないだ音をきいていませんから、それとこれとの比較はできませんが、ML7L+スレッショルド4000Aの音に、ぼくは満足しました。
 ぼくがどのように満足したか、それを、あのときも、いたらぬ言葉で、あれこれおはなししましたが、ここにもう一度、整理して書いておくことにしましょう。
 満足というのは、おそらく、きき方にかかわります。そして、きき方とは、音楽への、,ひいては音へのこだわり方であろうと、ぼくは考えます。なにゆえにこだわるかとんいえば、対象、つまり音楽、あるいは音への、ひとことでいうと愛があるからでしょう。このところは、こうではなく、もう少し美しくきこえるはずであるがと思ったときに、いま現在きこえている音に対しての不満が生れます。ドン・ジョヴァンニの栄光も不幸も、女性を愛しすぎたことに起因していると考えるべきでしょう。音楽を、ないしは音を愛していなければ、まあこんなものさといってすましていられるでしょう。
 こうではなく──と思うのは、困ったことに、新しくていいレコードをきいたときに多いようです。一方ではいいレコードだなと思い、もう一方で、こうではなく、もっとよくきこえるはずであるがと思うと、胸の中の不満の種がすっくりと芽をだします。あの、きみがML7Lをもってきてくれた雨の日に、ぼくは胸の中の不満の種をなだめるのに手をやいていました。
 きっとおぼえていてくれていると思いますが、あの日、ぼくは、「パルシファル」の新しいレコードを、かけさせてもらいました。カラヤンの指揮したレコードです。かけさせてもらったのは、ディジタル録音のドイツ・グラモフォン盤でしたが、あのレコードに、ぼくは、このところしばらく、こだわりつづけていました。あのレコードできける演奏は、最近のカラヤンのレコードできける演奏の中でも、とびぬけてすばらしいものだと思います。一九〇八年生れのカラヤンがいまになってやっと可能な演奏ということもできるでしょうが、ともかく演奏録音の両面でとびぬけたレコードだと思います。
 つまり、そのレコードにすくなからぬこだわりを感じていたものですから、いわゆる一種のテストレコードとして、あのときにかけさせてもらったというわけです。そのほかにもいくつかのレコードをかけさせてもらいましたが、実はほかのレコードはどうでもよかった。なにぶんにも、カートリッジからスピーカーまでのラインで、そのときちがっていたのは、コントロールアンプだけでしたから、「パルシファル」のきこえ方のちがいで、あれはああであろう、これはこうであろうと、ほかのレコードに対しても一応の推測が可能で、その確認をしただけでしたから。はたせるかな、ほかのレコードでも考えた通りの音でした。
 そして、肝腎の「パルシファル」ですが、きかせていただいたのは、前奏曲の部分でした。「パルシファル」の前奏曲というのは、なんともはやすばらしい音楽で、静けさそのものが音楽になったとでもいうより表現のしようのない音楽です。
 かつてぼくは、ノイシュヴァンシュタインという城をみるために、フュッセンという小さな村に泊ったことがあります。朝、目をさましてみたら、丘の中腹にあった宿の庭から雲海がひろがっていて、雲海のむこうにノイシュヴァンシュタインの城がみえました。まことに感動的なながめでしたが、「パルシファル」の前奏曲をきくと、いつでも、そのときみた雲海を思いだします。太陽が昇るにしたがって、雲海は、微妙に色調を変化させました。むろん、ノイシュヴァンシュタインの城を建てたのがワーグナーとゆかりのあるあのバイエルンの狂王であったということもイメージとしてつながっているのでしょうが、「パルシファル」の前奏曲には、そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりないひき兆の変化があります。
 カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニーを指揮して、そういうところを、みごとにあきらかにしています。こだわったのは、そこです。ほんのちょっとでもぎすぎすしたら、せっかくのカラヤンのとびきりの演奏を充分にあじわえないことになる。そして、いまつかっているコントロールアンプできいているかぎり、どうしても、こうではなくと思ってしまうわけです。こうではなくと思うのは、音楽にこだわり、音にこだわるかぎり、不幸なことです。
 ML7Lをきかせてもらっていたときのぼくは、傷の痛みに悩んでいるアムフォルタスが麻酔薬をうたれたようなものでした。束の間、痛みを忘れ、そうなんだ、こうでなくては、とつぶやきつづけていました。
 ML7Lの音には、ぼくが「マーク・レヴィンソンの音」と思いこんでいた、あの、自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配が、まるで感じられません。ひとことでいえば、すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音でした。それでいて、ひびきの微妙な色調の変化に対応できるしなやかさがありました。そのために、こだわりが解消され、満足を味ったということになります。
 しかし、たとえそのとき満足しても、それでよかったよかったということではありません。アムフォルタスに麻酔薬がきいていたのは、なんといってもほんの二時間です。後をどうしてくれるんだと、きみにからんでもはじまりません。あのフュッセンの雲海をみつづけるためには、ぼくにとって少額とはいいかねる出費を覚悟しなければなりません。それにしてもML7Lの値段は、お金持にとってはなんでもないのかもしれないけれど、ぼくのような、金持でもなく、ほしいものばかりやたらにある人間にとっては、感動的です。涙がでます。
「どうしますか?」と、きみは、にやにや笑ってたずねました。どうするもこうするもない、ぼくはいま、一ヵ月ほどのヨーロッパ旅行を前にして、それでなくとも金がないのだから、買いたくとも買えるはずがないわけです。
そして、あの日、きみには、ひとまずML7Lを持って帰ってもらいました。そのあとのぼくがいかにもんもんとしたかは、ご想像にまかせます。そして、あれから一週間ほどして、きみは電話をくれました。この電話が決定的でした。きみとしてはジャブのつもりでだした一打だったのでしょうが、そのジャブがぼくの顎の下をみごとにとらえました。ぼくとひとたまりもなくひっくりかえってしまいました。「やっぱり買うよ、俺、ML7Lを」と、電話口で、ぼそぼそといってしまったのです。
 もしかするときみは、ぼくになにをいったのか、おぼえてさえいないのかもしれません。念のために、ここに、書いておきます。きみは、こういったんです──「田中一光先生がML7Lをお買いになるんだそうですよ」。このひとことはききました。そうか、田中一光氏がかうのか──と思いました。
 ぼくは、光栄なことにぼくの本の装幀を田中一光氏にしていただいて、仲間たちから、なかみはどうということもないけれど装幀がすばらしいといわれて、それでもなおうれしくなるほどの田中一光ファンですが、まだ一度もお目にかかったことがありません。でも、直接お目にかかっているかどうかは、さしあたって関係のないことで、その作品やお書きになったものから、ぼくの中には、厳然と田中一光像があって、その田中一光氏がML7Lを使うとなれば、よし、ぼくもがんばってということになります。このとののぼくの気持は、アラン・ドロンが着ているからという理由で、その洋服を着てみようとするできそこないのプレイボーイの気持に似ていなくもありませんでした。
 いずれにしろ、決心のきっかけなんて、他愛のないものです。よし、ぼくもML7Lを買おうと決心した、つまり、清水の舞台からぼくをつき落としたのは、きみのひとこと「田中一光先生がML7Lをお買いになにんだそうですよ」だったということになります。
 そのあとで、きみは、さらに追いうちをかけました。「MCカートリッジ用のL3ハイゲイン・フォノアンプはどうしますか?」と、心優しいきみはいいました。ごぞんじの通り、ぼくはまだ、MCカートリッジ用のL3ハイゲイン・フォノアンプの音をきいていません。それをつけることによって、それでなくとも高価なML7Lがさらに高価になることはわかっていますが、最近は、MCカートリッジしか使わないので、L3ハイゲイン・フォノアンプをつけてもらおうと思いました。ひとたび清水の舞台からつきおとされたのであるから、どこまでだってとびおりてやる──というのは上段で、コントロールアンプの音があのようであるのなら、一種の信頼が、未聴であるにもかかわらず、L3ハイゲイン・フォノアンプをくみこんだかたちでつかおうと、ぼくに思わせたにちがいありません。
 人に対しても、ものに対しても、疑うというのは、ぼくのこのむところではありません。それに、ML7Lの音があまりにも見事であったので、L3ハイゲイン・フォノアンプに対しても、未聴であるにもかかわらず、信用したということのようです。もし期待通りの音でなかったら、自分の不覚を恥じるよりありませんが、まさかそんなことはないであろうと、いまは思っています。
 明後日、ぼくは、ヨーロッパにでかけます。おかげで、すっからかんの財布をポケットに出かけなければなりませんが、やむをえません。一ヵ月後に帰ったころには、ハイゲイン・L3フォノアンプのくみこまれたML7Lがとどいていることでしょう。おちおちヨーロッパを歩きまわってもいられない気持ですが、予定したことなので、でかけます。
 帰ったら、一度、ML7Lの音をききにきて下さい。したたかなきみに、これぞ世界一の音といわせるような音をきかせますから。

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