テクニクスのプリメインアンプSU3300、チューナーST3400の広告
(スイングジャーナル 1972年7月号掲載)
Monthly Archives: 6月 1972 - Page 3
テクニクス SU-3300, ST-3400
オンキョー U-3500, E-43A
ティアック A-210S, A-250
良い音とは、良いスピーカーとは?(2)
瀬川冬樹
ステレオサウンド 23号(1972年6月発行)
III
スピーカーが《原音》を鳴らすことができると思うのは、ひとつの大きな誤解である。
エジソンやベルリーナの、今日からみればきわめて貧弱な特性の蓄音機から出る音に、当時の人たちが『原音そのまま』の音を聴きとったことは前号にもふれた。そういう音であっても人の耳は原音を聴いたように感じということは、裏返していえば、スピーカーからは必ずしも、物理的な意味での原音が再生される必要のないことを語っている。当時の人々の耳は幼稚だったなどとけなすのはすでに現代人の感覚でものを言っていることになるので、いつの時代の人でも、現に4チャンネルを体験しているわれわれでさえ、SPがLPになったとき、さらにそれがステレオになったとき、それぞれに、これで原音再生が可能になったと本気で信じたことがあったではないか。
考えてみれば、ステレオの音の聴こえ方というのは実にふしぎなものだ。前方左右のスピーカーの中央に、たとえばソロ・ヴァイオリンがくっきりと浮かび上る。あるいは、左右のスピーカーのあいだいっぱいがオーケストラの音で埋まり、その音像は壁の向うまで奥行きを生じあるいはスピーカーのこちら側にせり出して聴こえてくる。
現実にそう聴こえるというこれはわれわれの日常の体験であるが、そういう音を鳴らして聴かせるスピーカーは、左右両隅のいわば二つの点に置かれているだけが。にもかかわらず音はスピーカーの無い空間から確実に聴こえてくる。ヴァイオリンの独奏が、確かに二つのスピーカーの中央に浮かび、オーケストラはいっぱいに並ぶ。そう聴こえたからといって、その音が壁から鳴ってくるものではないことぐらい、誰にでもわかっている。ではどういうことなのかといえば、音はそこで鳴っているのではなく、正確にいえば聴き手(リスナー)の頭の中に、そういう音像が形成されるのである。二つの点から発する音波は、そういう音像(イマージュ)を形成するための単に材料であるにすぎないとさえ言ってよい。スピーカーは音の素材を提示(プレゼント)し、聴き手(リスナー)の頭の中に音像(プレゼンス)が形成される。そういうステレオの仕組みの結果、二つの点は、むしろその二点を結んだ《線》、あるいはさらに《面》のように、あるいはまた奥行きを伴った《立体》であるかのように聴こえ、ステレオ独特の雰囲気を漂わせる。漂うという言い方も、少しばかり理屈っぽく考えれば二つのスピーカーの空間を漂うのではなく、リスナーの頭の中を漂うのだが。
なにも不思議がることはない。リスナー前方左右に等距離に置かれたスピーカーから、等音量、同位相かつ同じ音色の音が鳴れば、リスナーには音像は中央にあるように聴こえるし、左右各チャンネルの音量や位相や音質を操作することにより、音像は右、左、あるいは前方いっぱいに、さらには左右のスピーカーの外側にまで、拡がりあるいは定位させることができる──といったような答えは、ステレオの原理を知るものにとってはあたりまえすぎておもしろくない。要するにそれは一言でいえば錯覚なのだが、錯覚というもの、少しも悪いことではなく、考えてみれば人間の感覚にはずいぶん錯覚がある。よくひきあいにあげられるのは、中空高く上ったときより地平線近くの月のほうが大きくみえるという事実で、これもまた錯覚である。しかし大切なことだが、錯覚のしくみをいくら理づめに説明されたからといって、そういう感覚が人間から消え去ったりものの感じ方が少しでも変るようなことは無いので、それが人間の心理なのだとして素直に受け入れておけばよいのである。
ステレオの左右のスピーカーが、原音をじかに鳴らすのではなくむしろ聴き手の頭の中に音像(プレゼンス)を惹起させる素材としての意味が強いのに対し、モノーラルのスピーカーは、実際にそこで原音を鳴らす必要があった。リスナーはスピーカーに面と向っていて、音は疑いもなくスピーカーそのものから出てくるのだから、モノーラルで《原音》を聴かせるには、スピーカー自体を恐ろしく大仕掛けにする必要があった。モノーラルのスピーカーは、ステレオ的な空気(プレゼンス)など初めから鳴らしはしないかわりに、楽器そのものを、リスナーの目の前にありありと現出させなくてはならなかった。ステレオ以前、モノーラルLPの後期、いわゆるハイ・フィデリティ時代の最盛期に生まれた数々のスピーカー・システムの名作は、その事実を如実に示している。たとえば、エレクトロヴォイスの旧型(クリプシュK型ホーン)の〝パトリシアン〟各型や、アルテックの〝820A〟システムや、JBLの〝ハーツフィールド〟や、ヴァイタヴォックスの〝クリプシュホーン・システム〟や……といったもろもろの大型スピーカーシステムは、すべてモノーラル時代の傑作で、それぞれ例外なくコーナー型のホーンシステムである。いわばこれらは、低音再生の限界への挑戦であった。15インチ(38センチ)の強力型ウーファーを一本、あるものは二本パラレルで使い、それにコーナー型ホーン・バッフルを組み合わせ、リスニングルームのコーナーの床と壁面をホーンの延長として低音再生を助けようという、いわば一種の狂気とさえ思える大がかりなものである。左右二ヶ所から空間に音像を浮かばせるというようなステレオ効果の期待できない時代に、低音を、ほんものの低音を確かに鳴り響かせるということが、いかに音像をしかと支える重要な土台になるかを、彼らは知っていた。何サイクルまで出るか出ないかといった〝量〟の問題ではなく、そうして出てきた低音の音の形が、つまり〝質〟がいかに優れているか、オルガンやバスドラムやダブルベースやコントラファゴットの低音の底力のある深い弾力を、何とかして再現し、それを再現することが、唯一最高の、真のスケール感の再現であることを彼らはおそらく知っていた。そういう低音を決して饒舌でなく、必要なとき以外はむしろウーファーが無いのではないかと思えるほど控え目であり、しかし一旦低音楽器が活躍しはじめるや、部屋の空気がたしかな手ごたえでゆり動かされ、からだ全体を音が包みこむ。そしてそういう真の低音に支えられた中音や高音はまた、如何に滑らかで柔らかくしかも輪郭のしっかりしていることか……。
しかしまもなくステレオ時代がやってきた。経済的に、あるいはスペースの問題から、ステレオはそうした大じかけなスピーカー二台ペアで置くことをためらわせた。しかも、ステレオにすればなにも大型スピーカーでなくとも二台の小型スピーカーで、大型に優る効果が得られるという説が流布され、ARが主流の座にのし上がり、やがてブックシェルフ全盛期が訪れて、かつての大がかりなスピーカーは次第に忘れ去られ、メーカーもまたそういう手の込んだシステムを作り続けてゆくことが困難な時代になってゆく。
ステレオ効果は、小型スピーカーでも十分に味わえるというのはたしかな事実だが、それは決して、良質の大型スピーカー二台よりも優っているわけではない。こうした明白な論理はつい忘れられる。
このことは4チャンネル時代のいま再びむし返されてリア・スピーカーは安物でも結構といった俗説がまかり通っている。ここでは4チャンネルについて言及することは避けたいが、四ヶ所にありさえすれば小型スピーカーでもよいという意見を信じるのなら、仮にその四ヶ所にトランジスタのポケットラジオ程度のスピーカーを置くといった極端な形を想像してみれば明らかに鳴る。音源がたとえ2ヶ所から4ヶ所になり、あるいは将来8、10、12……とかりにチャンネルが増えていったとしても、一ヶ所あたりの音のクォリティを決定するのはスピーカー自体の良否であることぐらい、ちょっと考えてみれば馬鹿げて思えるほど簡単な公式なのに、ついわれわれは俗説に惑わされやすい。
たしかに2チャンネルのステレオによって、モノーラルでは再現できなかった空気感、音が空間を漂う感じが出せるようになった。そういう雰囲気はスピーカーの大小にかかわりなくたしかに出せる。さらに、古くフレッチャー博士による「2チャンネルで50Hzから5kHzで再生されたステレオの音は、モノーラルの50Hzから15kHzの再生音のクォリティに匹敵する……」という説があり、むろんこれは一九三〇年代実験による結論であるにしても現在でもうなずける説であって、そこともステレオの──ひいては4チャンネルの、大型スピーカーの不要論の裏づけに引用されていることも確かである。しかしくりかえすが、だから大型が──というより大小を問わず良質のスピーカーが──不要であり小型ローコストの普及型でいいといった考え方は、全く粗末きわまる暴言なのである。
しかしわたくしは、はじめに、原音はスピーカーが鳴らすのではないと書いた。だから出てくる音のクォリティがかりに貧弱なものであっても人の耳は原音の存在をありありと感じることができるとも書いた。そのことと、いま述べたこととは矛盾するようにみえるかもしれないが、そうではない。
さきにも述べたように、ステレオの音像を感じるためには、単に二つのスピーカーがそこにありさえすればよい。ステレオの効果(エフェクト)だけに限っていえば、音像を形成するのはむしろ聴き手(リスナー)の側の心理のメカニズムなのだから、スピーカーはただそのきっかけを作ればよい。音を感じるのはこちらのイマジネーションなのだから、裏返していえば、イマジネーションの豊かな人間にとってはスピーカーからの音の貧弱であることはたいして苦にならないことだともいえる。
しかし大多数の人々がそんな音から現実感を思い描くことのできたのは、やはり遠い昔の話であって、現代のハイ・フィデリティを一旦聴いてしまった耳には、古い蓄音機の音は昔の記憶を呼び起こす以上の何ものでもなくなってしまっている。機械文明というものの背負った宿命のようなものだ。《原音》を究極感じとり創り上げるのは人間の聴覚と心理の問題だが、現代の人間の耳はすでにぜいたくになってしまって、クォリティの低いプアな音ではもはやイマジネーションが浮かばない。だからスピーカーはどこまでも精巧な音を出すように作られてゆく。けれどどこまで行っても、スピーカーが鳴らす音が聴き手(リスナー)の耳に達して、頭の中に音像ができ上るというプロセスの変ろうはずはなく、その意味で、原音を鳴らすのはスピーカーではなく、それはリスナーの頭の──心理の問題だといいたいのである。スピーカーがいかに精妙な音で鳴ったとしても、聴き手の側にそれを受け入れる準備が無ければ、それはただの空気の振動にしか、騒音にしか、すぎないのではないか。一方ではスピーカーの音はどこまでもハイ・フィデリティになってゆき、しかしそれだけでは不十分で、聴き手側のイマジネーションが永久にかかわりを持つ。ここが音の録音・再生のメカニズムのおもしろいところだと思う。
IV
写真のメカニズムには、映像を記録し伝達する特性がある。写真ははじめこの記録性を自覚し、対象の精確な写実という特性のために肖像画や風景画の代用として使われ、画家たちはカメラの普及を怖れた。時が流れて、人びとは記録の持つリアリティがものを創造する力を持っていることに気がつき、やがて映像の美学が確立し、写真もまた、立派な創造芸術であることを知るに至る。こことについてはあとでもういちどふれることになるが、写真の歴史の流れの中にも、何度か曲りかどがあった。
たとえば初期の不完全なレンズはさまざまの収差を除ききれず、あるものは独特の色彩を生じ、あるものは対象をソフトフォーカスで写し撮った。それらの色彩やボケもまた表現であり創造であるとする錯覚が、ひところの写真を絵画の代用という低い地位に陥しかけた。いわばレンズやメカニズムの不完全さが、美学の問題とすりかえられたのであった。しかし創造するのはメカニズムでなくメカニズムを扱う人間であり、メカニズムは単にそのための手段であることを思い至れば、レンズがその不完全さのために作る独特の《味》は、いわばまやかしであることがわかる。この場合メカニズム自体は冷酷なほど正確であるべきで、そういう正確さを駆使して、人間が思いどおりの映像を組み立てるべきなのだ。メカニズムはそのための手段である以上、どこまでも正確さに向かって完成の道を進むべきものだ。問題をレンズでなくスピーカーに置きかえてもこの道理は変らない。
写真レンズがポートレート用とか風景用などと分類されていた時期があった。これは恰も現在のスピーカーをクラシック向きとジャズ無企図に分けるのに似ているといえなくない。かつて写真レンズには、テッサーの味、ゾナーの味、ヘリアーの味……といったものが存在し、その描写のクセは、でき上った印画からさえ容易に判定できた。いまはもう、印画を見てレンズのメーカーやタイプを言いあてることがほとんど不可能であるほど、レンズのクセは少なくなり、メーカーごとの個体差にもそれとわかるほどの大きな相違はなくなっている。そういうメカニズムを前提にして、ひとは表現し創造する。
能舞には三つの段階があるのだそうである。第一に『基礎』。第二に『写実』。第三に『創作』。
一の「基礎」は、写実のための条件──すなわち技術──が完備することをいい、「写実」とは字義どおりそうして完成した条件を生かして写実することであり、最後の段階では写実を越えて創作することだ、というのである。実に簡潔な定義だがこの言葉はたいへん深い問題を考えさせる。そしてまた、写真やオーディオの考え方とあまりにも似ていて驚かされる。
技術やメカニズムが完成しなくては、写実さえできないし、しかしそれが完成すればやがてそれはものを創造する道に通じるというのは、すでに写真や映画の領域では多数の実例によって例証することができる。オーディオの場合もまた、この論理はそのままあてはめて考えることができる。
いやオーディオでも、そんなものはもう実現していると反論されるかもしれない。たとえばアメリカで──日本でも──行われたナマ演奏と再生音のスリかえ実験を思い起こしてみる。ステージにはオーケストラが並び、オーケストラのあいだにスピーカーが適宜配置され、聴衆の面前でオーケストラは演奏をはじめる。
その演奏はあらかじめ録音してあったレコード(又はテープ)の再生音に途中から切換えられる。アメリカでのそれはカーテンの向うで行なわれ、日本での実験はオーケストラが途中から身振りだけして音はスピーカーから出るという趣向で、いずれの場合も居合わせた聴衆の中でその切換を正確に指摘できた者は全体の数%以下であった。つまりいずれの場合にもナマと再生音のスリかえは成功し、音量音質から定位感まで含めて、原音を再生することができたと報告されている。
これらの実験の成果には疑いの余地は全くなく、それぞれの場で原音の再現は確かに出来た。しかしこれをもってただちに、原音再生の技術が一般的に完成したかのように考えるのは正しくない。現に日本での実験を成功させた技術者自身の口からも、広いホールでなくもっと残響の少ない、要するに一般家庭のリスニングルームにより近い部屋でこうした実験が成功するのは、もう少し先のことだろうと聞いている。広い残響の多いホールでは原音再生が可能な程度の技術は完成しているが、ふつうの住宅での聴き方のような狭い部屋で──とうぜんスピーカーとリスナーの距離がうんと近く、残響時間の短い──こまかなアラの出やすい──状態での再生には、まだまだ難問が残されているという意味である。写実のための条件はまだ〈完成〉してはいないのである。むろんそんなことは、われわれユーザーとしてオーディオパーツを買って毎日聴いてみて、よい音を再生することのいかに困難かを身に沁みて知っているが、それであればなおさらのこと、われわれはもう一度ハイ・フィデリティの原点に立ちかえって、真の意味での写実から始めてみてはどうかと思うのである。
ケンソニック(現アキュフェーズ)創立
春日仲一、春日二郎、出原眞澄らにより、東京都大田区南雪谷(春日二郎氏の自宅)に、ケンソニック株式会社として創立。その後、横浜市緑区に移転。
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