瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
型番のうしろ三桁に300のつくシリーズが最もオーソドックスなのに対して、100番のつくのは若いポップス愛好家向きで、メーターつきはメカマニア向きとというような作り分けをしているのではないか、というのは私の勝手なかんぐりだが、ともかく7100Dは、調味料をかなり利かせたメリハリの強い、5万円台の製品の中で独特の個性を聴かせる。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
型番のうしろ三桁に300のつくシリーズが最もオーソドックスなのに対して、100番のつくのは若いポップス愛好家向きで、メーターつきはメカマニア向きとというような作り分けをしているのではないか、というのは私の勝手なかんぐりだが、ともかく7100Dは、調味料をかなり利かせたメリハリの強い、5万円台の製品の中で独特の個性を聴かせる。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
設計がアメリカ・マランツで製造が日本。いわばハーフだが、そのせいか、純国産のアンプとはひと味違った、バイタリティに富んだ積極的な鳴り方をする。明るく輝きのある音が独特だが、質的によく練り上げられているために、上すべりしないで良い意味の華やかな音として聴き手に満足を与える。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
音楽の実在感を生き生きと聴き手に伝えるという意味で、なかなかの出来栄えだと思う。いくらか硬目の音で、自己主張の強いところがあるから、そこが好き嫌いの分れ目になるが、音の鳴り終えたあとの余韻が空間に美しく響きながら消えてゆく感じの再現力からも、優れたプリメインであることがわかる。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
音楽の表情を生かすためにアンプが積極的に働きかける、といった感じがトリオの新しい一連のシリーズに共通した印象。その中でも、型番の下三桁に300のつくシリーズがクラシックまで含む広い適応性を持っているのに対して、それ以外のモデルは、ややハード型の方向で音をまとめているように思える。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
パワーその他のスペック面でも音質の面でも、価格以上の水準で絶妙のバランスを保っているし、機能の意外に豊富でありながら、処理のたくみさでデザイン的にも不消化のところがない。あまりにも過不足なく仕上がっているために、かって目立ちにくくて損をしているような、妙なアンプだ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
42号にも書いたように、5万円から6万円のあいだでは、デンオン701やトリオ7100DやオンキョーA5等がそれぞれに特徴のある音を鳴らすが、反面それぞれに弱点も持っているということで、8800IIのように特徴は言いにくいかわりに弱点もあまりないという音は、目立ちにくいが実は大したことなのだ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
この価格のアンプの音に、本格的な充実感や重量感を望むのは無理であるだけに、メーカーがどういう音に仕上げるかが成否の分れみちだが、501の音にはフレッシュな印象があって、スピーカーの音をキリッと引締めながら音楽の表情を生き生きと楽しませる。ただ、デザインはやや装飾過剰のように思える。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
300W×2というパワー自体はいまやそう珍しくないが、製品を前にしてその偉容に打たれ、鳴らしてみると、その底力のある充実したサウンドは、並の300W級が色あせるほどの凄みを感じさせる。歪感が皆無とはいえないが、なにしろ物凄いアンプだという実感に、こまかいことはどうでもよくなってくる。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
単体で使うよりも、C26(またはC28)と組み合わせて使うべき製品だ。むろん特性的には他のどんなプリと組み合わせてもよいが、この美しいパネルデザインは、同じマッキントッシュでまとめないと、せっかくの良さが生きない。音質はやや重量級の鈍さがあって少々古いが、製品としての魅力はいまなお健在。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
M60000の弟分という存在だが、6000のあの物凄いといいたい大がかりさにくらべると、大きさやスペックなどバランスがよく、ふつうにはこの方が扱いやすい。6000がややおっとりした音を聴かせるのに対し、こちらは細部のキメのこまかい、解像力のよい、そして目鼻立ちのはっきりした音質。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
CIとともに、考えられるかぎりのぜいたくをしたパワーアンプで、しかも自社開発の新型FETをここまでこなした努力を高く評価したい。初期のものから少しずつ手が加えられ、音質も変ってきている。単体で使うより、メーターパネルをつけた方が見た目に落ち着きがよくいかにも高級感溢れた外観になる。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
一個だけでいろいろな種類の音楽(楽器または編成のちがい、音楽ジャンルのちがい)を鳴らし分けるなら455Eの方が一般性が強いが、555Eはより繊細でデリケートな音質で、対象をやや選ぶにしてもこの独特の色彩感は、他に類のないおもしろさだ。ただ、針圧の変化にかなり敏感で、アームが難しい。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より
これも本来は4ch用とうたっているが、ふつうのステレオ再生に使ってもかえって良い結果の得られるカートリッジ。概して4ch用というのは、高域の特性を延ばす必要もあるかわりにその特性をよくコントロールしなくてはならないために、高域の音に繊細なキメの細かさが加わって、好ましいケースが多い。
瀬川冬樹
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・アルテック」
「私のアルテック観」より
アルテックについての忘れられない想い出から書こう。ただそれが昭和三十年代早々ではあったが、いつのことかその辺の正確な記憶はひどくあやしい。
私はまだ嘴の黄色い若造で、オーディオ界の諸先輩に教えを乞う毎日だった。そんなある日、最も私淑していた池田圭先生に連れられて、当時ユニークな設計で優秀なクリスタル・ピックアップなどを作っていた日本電気文化工業株式会社(DBという商標を使っていた)の味生(みのお)勝氏に紹介して頂くため、雪谷ヶ大塚かそれとも洗足池の近くだったか、とにかく池上線沿線の中原街道ぎわにあった、DBの会社を訪問した。
まだ工業デザインの本格的な勉強をはじめる以前のことで、しかし若さからくる無鉄砲と世間知らずとで、それまで勤めていたある雑誌社をとび出して、フリーの工業デザイナーを気どってはみたものの、その実仕事をくれる人などありはせず、結局のところ雑誌のカット書きや版下作りなどしながら、素寒貧の暮しをしていた。
そんな私を見ていられなかったのか、池田先生が味生氏に、この男に何かデザインさせてやってくれないかと、紹介してくださったのだ。
味生勝氏はアメリカで勉強し向こうで生活しておられたという技術者で、眼光鋭い洗練された紳士だったが、当時の私の、やせて顔色の青ざめた、おどおどした態度の青二才に、まともなデザインのできる筈などないことは誰の目にも明らかで、結局デザインの話などはほとんど出なかったのだが、その晩、池田先生と私を自宅に招いてくださった。そこにあったのが802Cドライバーと811Bホーンだった。
味生氏の重厚な応接室(といっても実際は味生氏のいたずら部屋であることは一見してわかった)には、そアルテックと、ウーファーがグッドマンのAXIOM150の2ウェイシステムが置かれてあった。ステレオ以前の話である。
スピーカーは、当時まだ珍しかった高・低2系統のデュアルチャンネル・アンプでドライヴされていた。アンプのことはよく憶えていないが、味生氏製作の6V6PPか何かだったろう。
ピックアップも、当時としては珍しい(そのときはじめて実物を目にした)シュアの〝スタディオダイネティック〟というモデルで、先細りのスマートな黒い角パイプの先端に、のちに松下電器がWM28というピックアップで国産化したものの原型ともモノーラルのMM型カートリッジがついていて、たしか2~3グラムくらいの針圧(8グラム近辺でも軽針圧と呼んだ当時としては驚異的な軽針圧だ)で動作したと思う。ちに、ステレオ化されて〝スタディオ・ダイネティック〟が〝ステレオ・ダイネティック〟と変わったが、そのカートリッジが単体で市販され、M3Dの名でステレオ用のMMカートリッジのいわば元祖となり、シュアの名をこんにちのように有名にするきっかけを作った(この話は、いずれ出るであろう本誌シュア号のためにとっておくべきであったかもしれない)。
そこで再びアルテックだが、味生氏の音を聴くまでは、アルテックでまともな音を聴いたことがなかった。アルテックばかりではない。当時愛読していた「ラジオ技術」(オーディオ専門誌というのはまだなくて、技術専門誌かレコード誌にオーディオ記事が載っていた時代。その中で「ラ技」は最もオーディオに力を入れていた)が、海外製品ことにアメリカ製のスピーカーに、概して否定的な態度をとっていたことが私自身にも伝染して、アメリカのスピーカーは、高価なばかりで繊細な美しい音は鳴らせないものだという誤った先入観を抱いていた。
味生氏の操作でシュアのダイネティックが盤面をトレースして鳴り出した音は、そういう先入観を一瞬に吹き払った。実に味わいの深い滑らかな音だった。それまで聴いてきたさまざまな音の大半が、いかに素人細工の脆弱な、あるいは音楽のバランスを無視した電気技術者の、あるいは一人よがりのクセの強い音であったかを、思い知らされた。それくらい、味生邸のスピーカーシステムは、とびきり質の良い本ものの音がした。
いまにして思えば、あの音は味生氏の教養と感覚に裏づけられた氏自身の音にほかならなかったわけだが、しかしグッドマンとアルテックの混合編成で、マルチアンプで、そこまでよくこなれた音に仕上げられた氏の技術の確かさにも、私は舌を巻いた。その少し前、会社から氏の運転される車に乗せて頂いたときも、お宅の前の狭い路地を、バックのままものすごいスピードで、ハンドルの切りかえもせずにグァーッとカーブを切って門の中にすべりこませたそれまで見たことのなかった見事な運転に、しばし唖然としたのだが、音を聴いてその驚きをもうひとつ重ねた形になった。
使い手も素晴らしかったが、アルテックもそれに勝とも劣らず、見事に応えていた。以前聴いたクレデンザのあの響きが、より高忠実度で蘇っていた。最上の御馳走を堪能した気持で帰途についた。
*
ステレオ時代に入り、初期のデモンストレーションばかりの実験期も過ぎて、名演奏がレコードで聴けるようになったころ、当時は三日にあげず行き来していた山中敬三氏が、アルテックの802Dドライバーと511Bホーンをひと組入手された。彼も同じ「ラジオ技術」の愛読者として、海外製品に悪い先入観を植えつけられて、それまでは国産のホーンスピーカーを鳴らしていたが、私が話した味生邸での体験談も彼をアルテックに踏み切らせるきっかけのひとつであったようだ。そして確かに山中邸のステレオスピーカーは、それまでの国産とは別ものの本格的な音を鳴らしはじめた。国産の大型中音ホーンのためにぶち抜いた壁の穴が、その後長いこと、左右のスピーカーの中央に名残りを刻んでいた。
*
そうしてアルテックの良さを体験しながら、私自身はアルテックを買わなかった。欲しい、と思ったことはいく度かあったが、当時の私には手の出せる金額ではなかったし、そうこうするうち山中氏に先を越されてしまって、後塵を拝するのも何となく癪だったということもある。ししそれよりも、当時のアルテックのあのメタリック・グリーンの塗装の色や、ホーンの接ぎ目の溶接の跡もそのままのラフな仕上げが、どうしても自分の感覚にもうひとつしっくりこなかったということもある。昭和41年から約5年間ほど、604Eをオリジナルの612Aエンクロージュアごと(あの銀色のメタリックハンマートーン塗装は素敵だ)入手して聴いていたこともあるが、私にはアルテックの決して広いとはいえない周波数レンジや、独特の力と張りのある音質などが、とうも体質に合わなかったと思う。私の昔からのワイドレンジ指向と、どちらかといえばスリムでクールな音が好きな体質が、アルテックのファットでウォームなナロウレンジを次第に嫌うようになってしまった。
しかし最近、モデル19を相当長時間聴く機会があって、周波数レンジが私としてもどうやら許容できる範囲まで広がってきたことを感じたが、それよりも、久々に聴く音の中に、暖かさに充ちた聴き手にやすらぎをおぼえさせるやさしさを聴きとって、あ、俺の音にはいつのまにかこの暖かさが薄れていたのだな、と気がついた。確信に満ちた暖かさというのか、角を矯めるのでない厳しさの中の優しさ。そういう音から、私はほんの少し遠のいていて、しかしそこが私のいまとても欲しい音でもある。おもしろいことにJBLが4343になってから、そういう感じを少しずつ鳴らしはじめた。私が、4341よりも4343の方を好ましく思いはじめたのも、たぶんそのためだろう。もっと齢をとったらもしかして私もアルテックの懐に飛び込めるのだろうか。それともやはり、私はいつまでも新しい音を追ってゆくのだろうか。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
音を聴くかぎり、これはいままでのラックスのアンプという気がしない。しいていえば、最近のアメリカ製の良くできたアンプを聴いているときのような、いわゆる入力に対するレスポンス(応答)のよい、新鮮で、細部まで解像力のよい澄み渡った冬の冴えた青空のような、カチンと引緊って冴えた音がする。つまり、どちらかといえばクールで、音の肌ざわりのやや冷たい、しかしそのことで音楽を凍らせてしまうようなことのない反応のよさで聴き手に一種の快感を与える。いかにも現代のトランジスターの音だ。ただ、これをSQ38FD/IIの直後に聴いたせいばかりでなく、弦の音やヴォーカルの音色を、いくらか硬目に鳴らす傾向があり、ピアノの打鍵やパーカッションも、切れ込みは素晴らしい反面、あとほんのわずかとはいえ、音の響きの自然さと豊かさが出てくれると素晴らしいのにという気がした。しかしこの質の高い澄んだ音は相当の水準だ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
前回のプリメイン総合テスト(33〜34号)のとき参加できなかったので、私にとっては27号以来約四年ぶりの集中テストであった。27号のテストで個人的に印象の強く残った製品は、デンオンPMA700、500、300Z、トリオKA8004、ヤマハCA1000、ラックスSQ38FD、などだった。あれから四年のあいだに、生き残っている製品はひとつもなくなってしまった。が、それならいまあげたアンプを、現在、という時点で聴き直してみたら、はたしてどう聴こえるだろうか。新製品あるいは改良型というものが、ほんとうに必然性を持って生まれてくるものなのだろうか。
たとえば音楽的なバランスの良さ、とか、音の魅力、といった面では、右にあげた製品はいまでも立派に通用すると思う。しかし最近の良くできた製品からみれば、音の充実感あるいは緻密さ、音の鮮度の高さ、などの点で少しずつ劣る部分はある。製品によってはパワーが少々不足するものもある。ただ、そうした面が、それぞれのメーカーの改良型や新製品ですべて良くなっているか、となると、必ずしもそうではない。改良または新型になって弱点を改良した反面、以前の製品の持っていた音の独特の魅力の方を薄れさせ或いは失ってしまった製品もある。
細かくいえば、いまの時点でも十分に魅力を聴かせるのはデンオンのPMA500と300Z、それにトリオのKA8002だ。言いかえれば、それらの改良型または新型が、軌道修正をはかった結果、プロトタイプの持っていた音の魅力を失ってしまったと私は思う。
デンオンのPMA700はZになって、またヤマハCA1000とラックス38FDはともにマークIIになって、プロトタイプの良さを失わずに改良に成功し、た方の例だと思う。ところがヤマハはさらにマークIIIを出したが、これは必ずしも改良とは言いきれない。というよりその直後に出たCA2000の方が出来栄えが良いために、この方がむしろCA1000のマークIII的な性格を素直に受け次いでいて、かえってオリジナルのマークIIIのかげが薄くなってしまったように思える。製品の練り上げとは、ほんとうに微妙で難しいものだと思う。
どんなに良い製品でも、完璧ということはありえないし、時の流れとともに変化する周囲の情勢の変化に応じて、少しずつであっても改良を加えなくては生き残ってゆくことはできない。しかしアンプに限っても、改良のサイクル(周期)が、少し短すぎるのではないか。新製品あるいはモデルチェンジが、頻繁におこなわれすぎるのではないか。アンプテストをふりかえってみると、いつもそう思う。研究し比較し、貯金して、買おうと思うアンプに焦点を絞ったところで、また新型が出る。やっと念願かなって一台のアンプを購入したと思った途端に新型が出て裏切られたような口惜しい思いをする。
改良は必要なことだ。製品がより良くなるのは嬉しいことだ。けれど、いまのように、一年やそこいらで全面モデルチェンジなどという必然性があるとは、私にはとても思えない。たしかに素材や技術の進歩・改良のテンポは早い。だが、それをとり入れて十分に消化し熟成させて製品化するのに、半年や一年でできるわけがない。少なくとも、春と秋に各メーカーが一せいに歩調を合わせてニューモデルの発表をするというような現状は、少々狂っているとしか言いようがない。
たしかにここ数年来、レコードプレーヤーやカートリッジや、テープデッキや、チューナー等、プログラムソース側の機材の進歩はいちじるしい。スピーカーもまた、急速に改良されはじめている。そうした周辺機器ばかりでなく、レコードの録音の技術的あるいは芸術的な変遷や、音画の作品や演奏や聴き手を含めての時代感覚の変容を、本質のところで深く鋭く掴え性格に敏速に反応してゆくことが、ンアプには要求されている。そうした本質を正しく掴えた改良であるか、それとも単にマーケットの表面的な動勢に振り回されての主体性を失ったモデル珍事であるか、が、新製品の存在理由を明らかにする、と私は思う。
*
今回のテストは、たまたま、昨年発売された本誌別冊「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」でのセパレートアンプ・テストから一年を経ていなかったため、セパレート型の上級機での素晴らしい音質が、どうしても頭の隅にこびりついていて困った。けれど、そのことは逆に、プリメインタイプのアンプのありかたについて、改めて考えさせてくれた。
ほんらいセパレートにしてまで追求しなくては得られない音質を、プリメインの中級以下の機種に求めることがはじめから無理な相談であることは言うまでもないが、どうやらこの自明の理を、メーカーの中には少々誤解している向きもあるのではないか。その点、はじめにあげた、PMA500やKA8004やSQ38FDなどは、プリメインという枠の中で、ひとつの定着した世界を築き上げた名作だと私は思う。
アンプの大きさや重さや、操作上必要なコントロールファンクションなどのあらゆる面から、もう少し機能に徹して、必要かつ十分のファンクションというものを洗い直して、そこにプリメインならではの音の魅力をあわせ持った、ピリッと小味の利いた名作を、どこかで作ってくれないものだろうか。そういう意味で、現代のプリメインのありかたというものを、製作者もユーザーもジャーナリズムも流通経路にたずさわる方々も、皆で改めて考え直してみる時期にさしかかっているではないだろうか。
*
テスト中にとくに操作面で気になったいくつかの事項を書き加えておきたい。
国産のアンプのほとんどが、VOLUMEのつまみを大型にして他の機能と区別し扱いやすくしていることはよいが、半数以上の製品は、つまみを廻すにともなってシャーシ内部でコチコチとクリック音がする。これは、高級機で採用されたアッテネータータイプとその簡易型の変種であるディテント型(dB目盛りで音量を絞るタイプ)が、目盛りをはっきりさせるためにつけているクリックだが、このクリックストップは、そろそろやめにしてもらいたい。つまみが階段状に廻るのでこまかな音量調整がしにくいし、レコードの終ったところで手早く絞ろうとすると、コリコリコリ……と余分な機械音が、音楽を聴き終って良い気持になっている聴き手の気分のじゃまをする。この点、テクニクス80Aのボリュウムのつまみのしっとりした感触はとてもよかった。
もうひとつ気になることは、これはずいぶん前から本誌のテストでたびたび指摘されていることだが、トーンコントロールのONによって音質の劣化するアンプがまだかなり多いこと。トーンディフィートの状態ではとても新鮮な良い音がするのに、ちょっと低音を補整したいと思ってトーンをONにすると、とたんに音が曇る、というのが多い。どうも製作者側が、トーンコントロールの活用を軽んじて、回路設計に手を抜く傾向があるようだ。フィルターのON−OFFでも音質の劣化する傾向のあるアンプがいくつかあった。
レバースイッチ類の操作にともなうシャーシ内での機械音・共鳴音の大きいアンプも気分を害する。ボリュウムのクリックと同様にいえることだが、アンプとして必要なのは良い音を聴かせてくれることで、音楽の音以外の機械的な共鳴音は、できるかぎりおさえるべきだと思う。機械音ばかりでない。スイッチの操作にともなってスピーカーから出るノイズは、皆無にするべきだが、この点案外ルーズな製品がまだ意外にあった。残留雑音もしかり。スピーカーが一時よりも能率を高める傾向があるのだから、静かな住宅地で、深夜、ボリュウムを絞りきったときに聴取位置でノイズの聴こえるようなアンプは困る。
もうひとつ、出力表示のためのメーターをつけたアンプの場合、ピーク指示またはVU指示のどちらでもなく、単に飾りとしか思えないような針のふれ方を示すものがあった。聴感と対応しないようなメーターはやめにしてもらいたい。この面では、ヤマハCA2000等のピーク指示計が非常に正確な反応を示したが、ラックス5L15のメーターのふれかたは、どうもよく理解できなかった。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
大づかみな音色でいえば♯1150のところで書いたことと同じ傾向だが、基本的な音のクォリティに格段の差があるとみえて、♯1150のような目鼻立ちのくっきりしすぎという感じがなく、この明るい輝かしい音色をマランツの性格として受け入れさえすれば、この音はさすがにゴージャスな気持にひたしてくれるようなぜいたく感があって、聴いていて楽しくなってくる。陰気さとかウェットという印象が全然ない。本質的に楽天的な音といえる。したがって、フィッシャー=ディスカウの声が若がえったようにきこえたり、ウィーン・フィルの音など少し明るく輝きすぎるようなところもある。が、ローコストのその手の音にありがちの上すべりするような欠点とはならず、それがこのアンプの明らかな個性といえるところまで仕上っている。グレイドの高い製品でなくては、こうは聴かせないだろう。聴き終って満足感の残る音だ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
音のバランスの過不足なさ、というパイオニアのアンプの性格は9900も同様で、それはなにも低・中・高各音域のバランスという意味にとどまらず、音の質感、密度、力感、解像力……といったあらゆる評価項目を並べてみても、すべて中庸精神が破綻なく平衡を保っている。しかもこのクラスになれば音の質感もローコスト機とは明らかに違って、滑らかさや豊かさが自然に出てくるし、中低域での力も充実していることが、音量を上げるにつれてよくわかる。しかしふつうに聴くかぎりは、その力はあからさまにそれと感じられない程度に、十分に抑制も利いていて、どこかおっとりとかまえた音がする。そこが好感の持てるところでもある反面、このアンプでなくては聴けないというほどの魅力にもなりにくい点だ。パネルに ADVANCED MODEL というシールが貼ってあったが、初期のモデルよりも安定感のある音に仕上っていると思った。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
音の輪郭にことさらコントラストをつけて鳴らす感じ。つまりクッキリ型なのだが、その輪郭がいささか筆太で、タッチが大づかみだ。音のバランスの点では問題なくいい。ハイコントラスト型の音で音楽のディテールをはっきりくまどるのだが、黒田恭一氏流にいうと、音をあきからにするというよりもあからさまにする、という感じに近い。鳴っている音が、我もわれもと互いにかき分けて出しゃばってくるような感じで、一例をあげれば、F=ディスカウのベルベットのような声を、どちらかといえばむき出しの、やや品位の欠けた声にする傾向で聴きとれるいうように、抑えて聴きたい音もすべてさらけ出してしまうようなところが、永い時間聴いてゆくと次第にやり切れなくさせてしまう。TA5650や3650にもそういう性格はなかったわけではないが、それと目立たないくらいまでコントロールされていたので好ましかったのだろう。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
F=ディスカウのびろうどのようなバリトンが、いかにも血の通った暖かい声帯の湿りけを感じさせる。イタリア弦楽四重奏団のヴァイオリンやチェロが、軽やかに、そして木の胴の柔らかな共鳴音を豊かに響かせる。ハインリヒ・シュッツ合唱団のバッハの、声の溶け合いの美しさ。ラックスがこのプリメインでほとんど唯一といえる管球アンプを残している理由がはっきりしてくる。むろん、最新のTRアンプの、あの隅々まで見渡すような音のひろがりや解像力は望むべくもない。低音域では音像を甘くぼかしてしまう。旋律の動きと重なりを、一つひとつ明らかにするのではなくマッスとして、そしてどこか古めかしい、あるいは懐かしいといいたいような音で聴かせる。ただし、ポップスやジャズになると、どうひいきめにみても、平面的でつまらない音で鳴らしてしまう。クラシックを、ほどほどの音量で楽しもうというとき、いまだに貴重な存在といえそうだ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
ローテル・ブランドのアンプも、もう何年も前から本誌でたびたびテストしているが、これまではいつも水準すれすれの出来であっても、とりたてて傑出しているということはなかった。そういう印象が頭にあったせいか、このアンプから出てきた音を、一曲一曲聴き進むにつれてただびっくりして聴いてしまった。これは出来のいいアンプだ。
まず第一に音のバランスのコントロールが絶妙だ。難しいベートーヴェン「18−4」のクヮルテット第三楽章の、トリオのハイポジションで馬脚をあらわすアンプが多いのに、ローテルはほどよく潤いを持ってしかも弦のみずみずしさを十分に保ってしっとりと響かせる。シンフォニーのトゥッティでもバランスや分解能に破綻をみせないし、菅野録音のベーゼンドルファーの打鍵音が、ほかの高級機も顔負けの美しい響きと艶を持って鳴る。ダイレクトカッティングのパーカッションも、力も密度もありよく弾む。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
1000IIIと公称出力で2割しか差がないから、理くつの上からはそんなに違いがない筈だが、たとえばダイレクトカッティングのパーカッションで最大出力まで上げてみると、1000IIIの出力計が瞬間のピークでも百二〜三十ワットで頭打ちになってしまうのに、2000の方は優に200W以上まで振り切る。聴感上からも音の伸びは格段に良い。音量を絞ったときでも、1000IIIにくらべるとひとつひとつの音がよく弾み、表情にしなやかさ、繊細さあるいは優しさがあって、総体に1000IIIよりも音楽をはるかに楽しく聴かせる。1000IIIよりも音に軽やかさがあって品位が高い。Aクラスに切替えたときの差は1000IIIよりもはっきりと出る。音の艶、ことに個人的には女声の色気がもう少し欲しい気がするものの、良い音を聴いた、という満足感に満たされるということは、たいへんなものだ。1000IIIの兄弟には違いないが、こちらの方がだいぶ出来がいいと思う。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
前の三菱DA−U850と同じく、15万円の線を越すとさすがに音のクォリティがぐんと上がる。ただし鳴ってくる音の傾向は対照的といえるほど違う。たとえば「悲愴」のフォルティシモの部分で、左右のスピーカーのあいだに最も音のよく広がるタイプのアンプであった。楽器のパートごとに空間的な距離や広がりや奥行が感じとれる。そして音の消えてゆくときの余韻が美しい。DA−U850のあとにこれを聴くと、そうか、850の鳴り方はいわば音そのものという感じで、この響きの部分が不足していたんだな、と思えてくる。9300の方は、弦の高域のしなやかな表情や、女声の艶々しさを、かなりいい感じで聴ける。ただ、弦楽器の木質の響きにもう少し自然な感じが欲しい、というように、中音域の質感にもう少し自然さと密度が加われば一層いいと思える。それにしても、音楽を聴く楽しさを味わうことのできる良いアンプのひとつだと思った。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
充実感のある音だ。しかも音の質が非常に高い。変な言い方だが、金のかかったぜいたくな音、つまりローコストのアンプでは絶対に鳴らしえない立派な音のすることが、聴いていてはっきりとわかる。たっぷりと密度のある豊かで安定な音が一貫している。低音域から高音域まで、音に力と重量感を感じさせる。つまり軽々しさがない。その意味では、プリメイン型としては望みうる最高の水準の音だと思う。しかしそこで多少の好みを言わせてもらえれば、音の密度あるいは力が、すべての音をやや線を太くする傾向が、そして、音と音とのあいだに空間的なさわやかなひろがりの感じられにくい点が、私には少し重荷に感じられる。楽器の音が鳴ってホールの隅々までひろがって消えてゆく、その空間のひろがりと消えてゆく余韻の部分が、私の聴き方では少し不足しすぎるように思える。ふわっと漂う感じの音、細やかに繊細にしなやかにゆらめく音、が出にくいタイプだ。
瀬川冬樹
ステレオサウンド 42号(1977年3月発行)
特集・「プリメインアンプは何を選ぶか最新35機種の総テスト」より
外観はひと世代まえのシリーズの系統だが、内容は607や707の新シリーズのグレイドアップモデルだそうで、そのことは音の上にもはっきりとあらわれている。607が中高域に独特の艶と張りをもたせて表情をくっきりさせ、707はそこに密度が加わって安定感のある音を聴かせる。607ではやや目立った中高域が、ここでは逆に中低域の厚みにすっぽりくるみこまれた感じで、音に浮わついたところの全くない、坐りのよい音で聴き手をくつろがせる。プログラムソースの中でも、アン・バートンのしっとりした色気や、八城/ベーゼンドルファーの打鍵の音の芯のしっかりした、しかもえもいわれない艶を、かなりのところまで聴かせてくれた。ただ、クラシック系で、ことにスペンドール系のソフトなスピーカーを鳴らしてみると、中低域の厚みがやや鈍重すれすれという感じに近くなる。トーン及びフィルターのONでの音質の曇り方が相当に目立つのはうれしくない。
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