黒田恭一
別冊FMfan臨時増刊 ’84カートリッジとレコードプレイヤーの本(1983年10月発行)
「CDの本当の実力を垣間見た」より
世代という言葉はゼネレーションという英語に対応すると考えていいであろう。「広辞苑」では世代をこう定義している、「生物が母体を離れてから成熟して生殖機能を終わるまでをいう。ほぼ三十年間をひとくぎりとした年齢層。親・子・孫と続いてゆくおのおのの代」。
ところが、昨今では、あちこちで、CDプレイヤーの第二世代といったような活字を目にする。なに? 第二世代? といったところである。もし、「広辞苑」の定義にしたがうとすれば、昨年の秋から今年の前半にかけて発表されたCDプレイヤーが親の世代で、それ以後のものが子の世代ということになる。
なにごとによらず変化の激しい時代ではあるが、一年もたたないうちに親の世代から子の世代にかわってしまうというのでは、いかになんでもドラマチックにすぎるように思うが、どんなものか。しかし、現実には、その第二世代のCDプレイヤーがつぎつぎに登場しつつある。まだそれらのうちのごく一部のプレイヤーにふれただけなので、断定的なことはいいにくいが、おおむね親のいたらなさを子がおぎなっているようである。とりわけ使い勝手の点で、そのことがいえそうである。
親の世代の製品を買った人間としては、どうしたって心おだやかではいられない。しかし、あわててどうなるものでもない。一年未満で第一世代が第二世代に変わったのであるから、来年の今ごろには第三世代の製品が世にでていても不思議はないわけで、そのたびにあたふたしていては身がもたない。ぼくにも人並みに自己防衛本能があるから、親が子に変わり、子が孫に変わっても、すでに冷静でいられるようになった。
おそらく、今のぼくがしなければならないのは、CDプレイヤーに関しての最新情報とやらに動揺する前に、現在使用中のCDプレイヤーを十全につかいきることであろう。はじめのうちは、CDプレイヤーはどんなつかい方をしてもいいという、あちこちからきこえてきた言葉を信じて、ひどく無頓着につかっていたが、そんなつかい方をしていたのではCDプレイヤーのよさが引き出せないとわかった。
そのことがわかってから、あれこれ試行錯誤がはじまった。むろんそれなりに面倒なことではあるが、その面倒なことがまたたのしいと思う気持ちは、オーディオに関心を抱いでおいでの方なら、ご理解いただけるのではないか。夜が更けてから、つまり俗にいわれるアフター・アワーズに、いろいろ試しているうちに、思いもかけぬ発見をしたりして、ひとり悦に入ったりした。
今はNECのCD-803というCDプレイヤーをつかっている。恥をさらすようであるが、そのCD-803をいかなるセッティングでつかっているかを、なにかのご参考になればと思い、書いておこう。ぼくの部屋に訪ねてきた友人たちは、そのCDプレイヤーのセッティングのし方をみて誰もが、いわくいいがたい表情をして笑う。もう笑われをのにはなれたが、それでもやはり恥ずかしいことにかわりない。
では、どうなっているか。ちょっとぐらい押した程度ではぴくともしない頑丈な台の上にブックシェルフ型スピーカー用のインシュレーターであるラスクをおき、その上にダイヤトーンのアクースティックキューブをおき、その上にCDプレイヤーをのせている。しかも、である。ああ、恥ずかしい。まだ、先が。
CDプレイヤーの上の放熱のさまたげにならないような場所に、ラスクのさらに小型のものを縦におき、さらにその上に鉛の板をのせている。このようなことをしていればどうしたって、今はやりの「ほとんど病気」という言葉を思い出す。しかし、念のために書いておきたいと思うが、見た目は、いくぷんユーモラスではあっても、美観(!)をそこねるようなものではない。
そして、CDプレイヤーからプリアンプにつながっているコードは、ブチルゴムを六重に(!)まいたものである。普段はその状態で聴いている。しかし、今日は徹底的にコンパクトディスクを聴こうと思うときには、NECのCD-803ではアウトプットのレベルが可変なので、CDプレイヤーからでているコードをダイレクトにパワーアンプにつなぐことにしている。この方法はかなり効果的である。
相手の可能性を信じられたときに、人間は挑戦的になれる。尻をたたいてもしれている駄馬と思ったら、鞭を手にしたりしない。駿馬と思えばこそ、ジョッキーは狂ったように鞭をふるう。
なぜこのような恥さらしをも辞さずにありのままを書いてきたかといえば、それは、NECのCD-803が、すくなくともぼくにとっては駿馬だからである。ごく無造作につかっているときにも、その音質的な面での卓越性には気づいていた。しかし、つかっているうちに徐々に使い手であるこっちが追いこまれた、というのが正直なところである。あのようにしてみたらどうであろうとか、次はこうしてみようとかいったことを次々考えた。
相手に魅力があればこそ夢中になれた。NECのCD-803にはそれだけの潜在能力があったということである。ラスクをつかえば、あきらかにそれまでとは違う音を聴かせた。調教しがいがあった、とでもいうべきかもしれない。
今、ラスクでサンドイッチにしたようなかっこうでCD-803をつかっていで、そこできける音には十分に満足しているし、デジタルであるがゆえの不満はなにひとつない。コンパクトディスクはどうもデジタル臭くてなどという人にかぎって、CDプレイヤーをプリアンプの上とかカセットデッキの上においていたりする。こっちが愛情と誠意々もって接しなくては、相手だってほどはどの力を示してとどまる。道具でも人間でも、そのことでは同じである。
NECのCD-803は、ばくの聴いたかぎりのことでいえは、第一世代のCDプレイヤーのなかでは、音そのものの実在感とでもいったものを示すことにかけてひときわ抜きん出た能力をそなえている。よくいわれるようにともすると響きが薄くなりがちなところがコンパクトディスクにはあると思うが、そこから巧みに逃れているのがCD-803だ。
もともとそのような能力をそなえているCD-803を、一応ほくなりに追いこんだかたちでつかっているわけであるが、そこで聴ける音はコンパクトディスクはやはりミュータントであるという思いをあらたにさせる、と自分では思っている。したがって、今のところは、第二世代の機器が登場しようと、さほどあたふたとはしないでいられる。なぜかといえば、いまなおCD-803に夢中であって、とても子の世代の機器に浮気をする気持ちになれないからである。
たしかにCD-803には使い勝手のうえでもう一歩と思うところがなくもないが、慣れとは恐ろしいもので、しばらくつかっているうちにその点でのいたらなさも気にならなくなった。アバタモエタボとでもいうべきかもしれない。
今ぼくは、CD-803でコンパクトディスクをきいて、CD万歳! といいたい気持ちである。
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