戦後に活躍した人々の交代期が来た。この10年ほど、毎年のように大切な友人知己を失い、そのつど雑誌に追悼文を書いたり、弔辞を述べたりした。いま原稿を読み返してみると、この時代に生きた人々を知るうえで極めて興味深いので「忘れ得ぬ人びと」と題して一項目を設けた。

井深 大氏(ソニー株式会社創業者)
 日本の電子産業の偉大な功労者であり、教育、文化など、あらゆる分野に大きな足跡を残された巨大な人物の姿を、私ごときが書くのはおこがましいが、オーディオの側面に限って、氏の在りし日の姿を偲んでみたい。
 現在は電車の中でも歩きながらでもステレオを楽しむのは常識になっているが、これを発案したのは当時70歳の井深 大氏だった。井深氏は、ご自身が海外出張のときに飛行機のなかで音楽を楽しむために、再生オンリーの小型カセットを試作させ、この発売を計画した。録音できないテレコなど売れるはずはないと反対者が多かったのを押し切って、ウォークマンと名付けて売り出し、オーディオ界のライフスタイルを変えるほど普及したのはご存じのとおりである。古稀になり老いた、などと思っている人には耳の痛い話である。1979年のことであった。
 ちょうどこの年、井深氏は、中島健蔵氏の後をうけて日本オーディオ協会の会長に就任している。日本オーディオ協会は、1952年(昭和27年)に設立され、初代会長は著名な文芸評論家中島健蔵氏だったが、実は設立の動機づけは井深 大氏だった。井深氏は盛田昭夫氏らと終戦の翌年、ソニーの前身、東京通信工業を設立し、1950年に日本で初めてテープレコーダーを完成したのは有名な話である。重量35キロ、17万円(当時大学出の給与は一万円以下)という録音機は民生用としては殆ど売れず、四苦八苦した末、裁判所や学校に販路を見つけ出したという。
 井深氏は海外のレコーダー市場の実態を視察するために1952年に初めて渡米し、各方面を見て廻ったが、このときニューヨークのハイファイショウで聞いたステレオ音楽に強いショックを受け、帰国後ただちにオーディオ好きの仲間を集め、日本にもオーディオ研究の会を作ることを提案し、誕生したのが日本オーディオ学会(のちの日本オーディオ協会)である。このときの発起人は中島健蔵、井深 大、田口卯三郎、西巻正郎など日本のオーディオの黎明期に大きな貢献をされた人々だった。設立趣意書には、『日本は可聴音高忠実度再生の普及が不充分であり、専門的に研究しながら、普及喚起につとめる必要がある。このためにオーディオフェアを開催し、講演会、演奏会を行い、研究者相互の連絡をはかる』と記されている。これがオーディオフェアの起源であり、日本のオーディオ市場が立ち上がる基盤になったのだった。
 1979年、井深氏がオーディオ協会の会長になられてから、理事会で、ときどきお話しをされた。話題はオーディオの話ではなく、いま興味をもって勉強されていることが多く、実に面白かった。左脳は分解、組み立て、計算のような、言葉で表せるコンピューターのような働きをし、右脳は音楽、芸術、宗教、創造力など、言葉では表せない感性の働きをする。これからは右脳人間が求められてくる。左脳だけを発達させる知識教育だけではだめだという話。右脳を発達させるには幼児から、という幼児教育の話。西洋医学は対症療法だが、東洋医学は人体の本質を改善する医学であり見直されるべきだ。漢方では脈を三本の指で計るが、三個のセンサーでパルスを計り、韓国の漢方医に電送して診断していることなど、実に面白かった。わたしの妻が糖尿病で苦しんでいる話をしたところ、すぐに連れてきなさい、と言ってくれたが、そのままになってしまった。お話は多岐にわたり、科学的でありながら、人間的、根源的、神秘的で、温かさに満ちていた。キリスト者であるが宗教的な言動はなく、実生活の中で体現していた。
 ソニーは世界で初めて民生用ディジタルテープレコーダーPCM−1を開発し、それがやがてDATになり、CDへ、そしてMDへと進み、世界のオーディオ界を一変させる結果になった。ディジタルオーディオを進めたのは中島平太郎氏だが、これをバックアップしたのは井深氏だったのは言うまでもない。ところが、オーディオ協会の会合で、大勢の前で、「中島君がオーディオにディジタルを使う研究をしたいというので、僕は頭から反対した。たくさんのトランジスターを使い、難しい技術を駆使しなければならないのは納得できなかったが、ディジタルは波形をいくらいじっても悪くならないし、矯正してくれる、という説明を聞き、夢のような気がした」と正直に話されたのには驚いた。これは中島平太郎氏の業績を顕彰するためであろう。トリニトロンという名称も、三名の開発者を称えるために井深氏みずからが名付けたものだそうである。ソニーに有能な人材が集まり、広い分野にわたって次々とユニークな技術革新が行われるのは、井深氏が、かもし出す独自の『右脳的精神風土』がもたらしたのだと思う。井深氏は、すべてを高いところから広い視野で俯瞰して直感的に判断しており、個人的な欲望や自己顕示や、権力のようなものは、みじんも感じられなかった。
 この偉大な人物は、1997年12月19日、天に召された。89歳であった。心から畏敬し、ご冥福を祈ります。
 1998

松本 望氏(パイオニア株式会社創業者)
 現代の大オーディオメーカーのほとんどは、大戦前後に、数人で部品を作る小さな町工場の規模から始まった。パイオニアはスピーカー・メーカーから、山水はトランス・メーカーから、トリオ(現ケンウッド)はコイル・メーカーから、ティアックはテープ・レコーダーから、というようにそれぞれが独自の技術を生かして大きく発展してきたのである。そして今でも創業者が元気で指揮棒を振っておられる会社もあるが、時の流れは容赦もなく、創業者の時代は大きな節目を迎えつつある。経営にとって最も重要なことは、創業者がいかに後継者に自分の打ち立てた理念を伝え、企業を発展させつづけてゆくか、ということだと思うが、松本さんは長い時間をかけて水の流れるようにこれを行い、大安心の中で天に戻られたのは、ただ偉大というほかに言葉がない。そして、その深い源をたどれば、松本さんの経営手腕は勿論のことだが、松本さん自身が常々語っておられた、キリスト教伝道師であった厳父松本勇治氏の強い精神的遺産によるものだと思うのである。松本勇治氏は明治26年、貿易商を志してアメリカのポートランドに渡り、教会の寄宿舎に宿をとったことが動機となり、6年間の滞米中にキリスト教の伝道師となって帰国し、神戸で伝道をはじめた。神戸のスラムの伝道者として有名な賀川豊彦氏の活動より7年も前のことである。日本の精神史に偉大な足跡を残した無教会派の内村鑑三氏の流れをくむ黒田幸吉氏や矢内原忠雄氏に洗礼を施した人は、何と松本さんのお父さんだったと聞いて驚く。
 松本さんは子供のころ、この、神一筋の父と、信仰の厚い母と共に伝道のため各地を転々と渡り歩いており、生まれながらに、絶対者に対する恐れと、敬虔、愛、奉仕などを身につけておられた人だったのである。望というお名前は、『忍耐をもって望めばいつかは達せられる』いう聖書の言葉からつけられたものだという。
 パイオニアの歩みを見ると、松本さんはいつも、何事も客観し、私利私欲に走らず、苦難にあってもかえってそれを生かして次の飛躍のステップにしてこられた。中小企業から大企業への成長過程で必ず通らなければならない関門の苦難時代も、石塚庸三氏という経営の達人を得て大きな脱皮をはかり、ご子息の誠也さんへとバトンが渡されている。誠也さんは幼少のころから福音電機創業時代のご父君の苦闘ぶりを目の当たりにしているし、信仰深い家庭環境に育っており、ご父君の偉業を立派に受け継いでおられるのをみると、企業は人の精神から生まれ、人の精神によって受け継がれて行くものだと思わざるを得ない。いま思えば、私達をふくめて、時代の勢いに押されて成長し、ある時期につまづいた多くの企業にはこうした精神的なバックボーンが希薄だったと思うのである。
 松本さんの偉大さは、決して信仰者ぶることなく、自然体でこうしたものを身につけておられた。伝道師であった厳父を通して「神、人をつくれり」と思うのである。人は生まれたときから、いつかは死ぬ運命を背負っている。いかに立派に死ぬかということは、いかに立派に生きるかということと同じだ。偉大な足跡を残してパイオニア株式会社の創業者、松本望氏は1994年7月15日、83歳の天寿を全うして昇天された。松本家の墓標に刻まれている『されど、われわれの国籍は、天にあり』という言葉通り、松本さんはいま天の国籍を得てオーディオ界の行く末を見守っておられることだろう。
 オーディオ協会は昭和27年、ソニーの井深 大氏がニューヨークで見たオーディオ・フェアのショックが動機で、中島健蔵氏を中心にして誕生し、その後32年、日本のオーディオ界の発展に大きく貢献してきた。松本さんはそれより5年後の昭和32年に、やはりシカゴでパーツ・ショーをみて驚嘆し、帰国してアルプスの片岡勝太郎さんらと部品展示を主体としたエレクトロニクス・ショウを創設された。時代の発展とともにパーツ主体のエレショウも広範囲な展示会となり、一方オーディオ協会の主催するオーディオ・フェアも映像が入って展示品は似通う部分が出てきた。しかし、オーディオ協会はユーザーとメーカーの中間にあって、ソフトや学術を含めたオーディオ文化の高揚という立場で、37年の歴史を踏まえて、独自性と存在意義の確立に努力しており、名誉顧問であった松本さんも、これを了承されて後援して下さったが、この偉大な人物の亡くなった後も、オーディオ協会の永世名誉顧問として、永くその偉業をたたえ、協会の事業を天から見守っていただきたいと思うのである。
 1994

谷 勝馬氏(TEAC株式会社創業者)
 谷さんのお宅は武蔵野市西久保の静かな環境にあり、玄関わきには谷さんお好みの大きな槙(まき)が亭々とそびえており、屋内に入ると、部屋や廊下の壁には様々な馬の絵が掛けてある。これは馬一筋の画家だった尊父が描いたもので、父、洗馬氏は三人の子供に、勝馬、靹馬、幸馬と、すべて馬の字をつけるほどの徹底ぶりだった。
 子供のころ、落馬した勝馬氏を洗馬氏はムチで打ち、「落ちたのはお前の手綱さばきが悪かったためだ」と叱ったという。このことが勝馬氏の人生観に大きな影響を与えたと谷さん自身から聞いたことがある。勝馬氏も馬が好きで、東京乗馬倶楽部の会長をされるなど、ひとつ事に集中徹底する親譲りの魂が「レコーダーのTEAC」を創りあげる原点になっていたのであろう。
 ご自宅のリスニングルームは三十畳ほどの大きさで、自動演奏できるヤマハのグランドピアノが置いてある。壁のボタンを押すとスルスルとカーテンが開き、タンノイのウェストミンスター・ロイヤルの品位の高い姿が顔を出す。その音は広いリスニングルームいっぱいに朗々と鳴りひびく。ご趣味はクラシックが主体である。アンプはアキュフェーズのものを使っていただいたが、CDプレーヤーは当然ながらTEAC製である。ご自慢のシステムをご一緒に楽しんだ日も今は思い出になってしまった。
 谷さんは第43回オーディオフェアの開催中、武士が戦場で散るように、心不全で75歳の人生を閉じてしまわれた。1994年10月14日のことである。
 戦後、ソニー、パイオニア、トリオ(ケンウッド)、TEAC、サンスイ、オンキョウ、アルプス、ミツミなど数々の電機メーカーが誕生したが、創業者が今日まで現役で活動していたのは谷さんだけであり、氏のご逝去は、時代の大きな節目を思わせる出来事である。
 谷さんは戦時中、日本電機音響株式会社勤務時代に国産第一号の円盤録音機を開発し、この機械が終戦の日の玉音放送に使われたことをご本人から聞いた。あの昭和天皇のお声のかげに谷さんの技術があったのである。
 1953年にTEACの前身の東京テレビ音響を創業し、主として磁気テープレコーダーの開発に力を注ぎ、業務用から民生用まで、国内外の市場に高いイメージを確立したのである。特に業務用録音機開発の功績は1993年、NHK放送文化賞として実を結んだ。このほかに科学技術庁長官賞、電気科学技術奨励会のオーム技術賞などを受賞しているがすべてレコーダー関連のものである。
 情報機器関連でも得意の精密回転機器の技術を生かして早くから手掛けており、フロッピーディスク・ドライヴでは世界最大のシェアを持つなど、蓄積された技術は、他社が追随できないほど磨き上げられている。
 谷さんはお会いすると、にっこりして手を差し出す。あの柔らかい、温かい手を握り返すことはもうできない。
 1994

橋三郎氏(日本オーディオ協会元専務理事)
 1992年4月、日本オーディオ協会は、任意団体から社団法人に昇格した。
 高橋三郎氏は前の年の秋ごろから自分の肺の病気が何であるかを自覚し始めていたようだが、協会の法人化業務を1年かけて冷静に成し遂げ、6月22日、天に還られた。

 高橋三郎氏とのお付き合いは、私がまだ信州伊那の寒村でラジオコイルの製造をしていたころから始まり、40数年に及ぶ。当時、東京に十日会というオーディオやラジオの研究団体があり、毎月十日に集まりがあった。このグループが長野県の松本市で例会を行った帰路、伊那の山村の私の家を訪ねてくださったことを思い出す。遠い遠い昔のことだが、昨日のことのように思い出す。
 驚いたことに、昨晩、本棚の隅から全く偶然に、「1952年(昭27)12月号のラジオ技術」が出て来た。この一冊は、当時のオーディオ界にエポックを画するような珍しい記事がギッシリ詰まっており、天国の高橋氏が、私を促して取り出させたようにさえ思われるものである。

(1)日本オーディオ学会(後の日本オーディオ協会)が12月4日、平凡社の3階で評論家の中島健蔵氏やソニーの井深 大氏を中心に設立された記事。日本には[可聴音高忠実度再生]の普及が不充分であり、専門的に研究しながら普及の喚起に努める必要がある。このためオーディオ・フェアを開催したり、講演会、演奏会を行い、研究者相互の連絡をはかるのが趣旨、と記されている。設立総会の写真に高橋氏を含む17人の顔が見える。幹事は西巻正郎、中島健蔵、田口卯三郎、林満寿夫、富田嘉和、下中国彦、高橋三郎と記されている。高橋氏の書かれた文面から、日本のオーディオ界の曙を創った人々の意気込みが沸々と伝わって来る。

(2)12月4日〜7日まで東京都電気研究所、相互ホール、朝日新聞ホールの3カ所で第1回オーディオ・フェアが開催される記事が載っている。これには、内外のスピーカー、ピックアップ、マイク、トランス、モーターなどの展示と、『立体録音再生』の実験を行う、と特記されている。

(3)AES(オーディオ技術者協会)日本支部が行った『立体録音再生』の実験に対する意見が載っている。今から見れば不思議なほど大まじめに批評をしているが、立体音響は大きなショックだったのである。L・E・ガイスラー氏は、「ラジオ技術誌上で私の考えを述べることに対して、高橋三郎氏に感謝する」と書いてある。当時はまだステレオという言葉はなく、立体音響といった。

(4)北野進氏(NF回路ブロック会長)が富木 寛(負帰還)というペンネームで電蓄回路設計講座を連載されており、この号ではNFについて詳述されている。当時はアンプのNF技術の夜明けだった。

(5)東京工大の川上正光先生とスターコイルの*富田潤二氏とトリオコイルの春日二郎の
 「スーパー部品を正しく使うために」
 という鼎談が掲載されている。司会は高橋三郎氏である。当時はオーディオ、ラジオ、アマチュアー無線などがゴッチャになって誌面をにぎわしており、特に、中間周波トランスの選択度と忠実度の関係などが論議されており、ラジオも重要なプログラムソースだった。TVはようやく試験放送が始まった段階であった。
 このほかにも高橋氏がオーディオ協会の経営に生涯を賭けられた源泉ともいうべき記事が、偶然手にしたこのラジオ技術誌にギッシリ盤り込まれており、その蕾みは後年見事に咲き開いたのである。

 高橋三郎氏は、これと思い込むとトコトンまで執着する性格だった。愛用のスピーカーは日立のフラットコーン型で、コーンが黄色に変色しても、ほかのスピーカーに代えようとはしなかった。このスピーカーこそ物理的に最高な特性を持ったもの、という強い思い込みがあったようだ。
 私事だが、高橋氏の創設されたコンポ・グランプリに、1973年、アキュフェーズの初めて発表したアンプが金賞を受賞し、業界に飛翔するきっかけになったことは決して忘れることはできない。
 オーディオに人生のすべてをかけ、多くの偉業を遺した高橋三郎氏は、わたしの心に深く刻まれた人物の一人である。
 1993

岡 俊雄氏(オーディオ評論家)
 オーディオ協会の新年会で「岡さんはお幾つですか」とお尋ねしたところ「言いたくはないが1916年生まれですよ」と悲しそうに答えられた。
 77歳は喜寿などと言って日出度がる人が多いが、当人にとっては、気ばかり若くても、年々歳々体力が衰えて限界を実感し、真剣に仕事をしている者ほど、年をとるのは悲しいのである。岡さんは最期の最期までオーディオの評論活動や執筆活動をつづけられ、ご自分でも体力の限界を自覚しておられたようで、ラジオ技術のグランプリ審査会の後、編集の人に、「来年は僕はだめだと思うよ」と語っていたという。審査は10時間ほどで済むが、その前工程の、各社の製品を試聴する作業は大変な重労働である。膨大な種類の内外のコンポーネントを毎日毎日何時間も試聴し、ランク付けをしなければならない。岡さんはコンポグランプリの審査員だけでなく、ステレオサウンド社のコンポーネント・オブ・ザ・イヤーやHIVIグランプリの審査委員長でもあったから、試聴や原稿の執筆など、その重荷はどれほどであったろう。しかし、それを引き受けられたのは、生きている間、動ける間にやれるだけはやろうという気持ちだったに相違ない。審査が終わったころ風邪をひいて肺炎を併発し、ついに入院に至った。
 ステレオサウンドの授章式場には審査委員長である岡さんの姿は見られなかった。そして間もなくこの世を去ったのである。生命を燃焼し尽くした最も荘厳で、最も幸福な最後だったと思う。
 岡さんが初めてオーディオ界に顔を出したのは昭和40年6月号のラジオ技術『私のリスニングルーム』欄だった。それまでは昭和11年ころから主に映画雑誌の編集をしていたようだ。古くからの友人朝倉 昭氏の話では、戦争が終わって間もない昭和25年ころ、当時入手困難なLPを輸入していたレコード店に出入りしている間に岡さんと知り合い、『プレイバック』という同人雑誌の仲間になってお互いに何やかやと書いていたというから、まさにオーディオ界の草分けである。そして1965年、『ラジオ技術』誌上に顔を出したのである。映画雑誌の編集をしていたためか内外多方面の情報を驚くばかり集めておられ、映画、絵画、レコード、オーディオ技術など万般にわたって生き字引のような人だった。情報の整理は、ノートブックに重要記事の出典、見出し、年月を記入しておき、必要が生じたときノートをしらべ文献を取り出すのだと教えてくれた。重要記事の載った内外の文献はリスニングルームの隣室にぎっしりと積み上げられていた。映画史でもレコード史でも正確極まりない知識をもっており、[優秀録音30年史(マイクログルーブからディジタルへ)]や[レコード世界史]、[世界の色彩映画]、[フィルムミュージック]などの著作は後世に残る貴重なものである。
 私は秋になると新製品を試聴していただくために、鵠沼の岡さんのお宅をお訪ねするのが楽しみだった。二人とも大正一桁生まれで価値観が共通しており、私自身もフランスの名監督ジュリアン・デュビュビエの活躍した1935年ころから大の映画好きだったので、映画の話になると肝腎な試聴はそっちのけにして夢中になって話し込み、つい長居をしてしまうのだった。
 岡さんのリスニング・ルームは12畳くらいの洋室で、正面の中央には映画鑑賞用の50型のリア・プロジェクターTV、その両脇に3ウェイ・マルチアンプ方式のスピーカーが置かれていた。音はかなり硬質で私の好みではなかったが、定位や分解能は驚くばかりで、試聴機器の性格を明確に暴き出した。右側の壁面には古今の名映画のテープがぎっしりと並び、左側の壁面にはCD、LP、LDなどが壁一杯に並んでいる。
 試聴用のCDは珍品が多く用いられ、そのレコードのヒストリーや聴きどころを説明してくれる。古いものもあれば最新のもあり、実によく聴かれていた。
 後ろの窓からは庭が見える。庭の梅の木には小鳥の餌台がとりつけられ、メジロ、シジュウカラ、ヒヨドリなどが交替で遊びに来ていた。
 今日も庭に小鳥たちは集まっているだろうが、あるじは天に帰って姿は見えない。
 1993

高島 誠氏(オーディオ評論家・米英文学教授)
 1993年6月中旬のある朝、奥様から突然電話があり、あなたの入院を知りました。すぐにでもお会いしたいと思いましたが、面会謝絶と聞き、愕然としました。
 昔、死地をさ迷ったことのある私は
 「心を安らかにして、すべてを大自然のふところにゆだねてください」と書き送った手紙に、折り返し、力をふりしぼって書かれた貴方の返信が届き、胸つぶれる思いで読みました。今日ご臨席のみなさんにも聞いていただきたいので、一部を読ませていただきます。
 「5月ムスタン王国へ行ってきました。電気音の全くない、再生系のひずみのない世界、ぼくらの先祖の世界、8000メートル級の峰の切り立つ世界です。まさか、この肉体に膠原病が進行し、肺炎に犯されているとは知らず、6548メートルまでの登山でした。帰国後、呼吸不能になり救急車で入院、以後肺炎との闘い。苦渋にもがきながらフトフト春日さんの病気時代の歌集「冬の花」を思い出しました。小生が長年チャレンジしてきたのは、人生に向かって挑みかけ、生きること、闘うことの問いに、スピーカーの彼方から芸術家たちが応える対決のオーディオでした。今度行ったムスタンは、聖地で、ラマ教、ボン教、ヒンズー教の人達が、死期を迎えると巡礼になって訪ね、その清例な光景によって浄化される地でした。そこに響く鈴の音のビブラートこそ、魂の極致です。タカシマオーディオの行く道は『救済のひびき』です。ここしばらくは、病気の彼方にある生命の雫の音のS/Nに耳かたむける毎日となります。タカシマオーディオの未来を楽しみにしてください」。

 このお手紙を受け取ったとき、オーディオの究極の境地に到達した高島さんの心を思い、日夜、快方への転機がくる日を祈ったのですが、ついに帰らぬ人となってしまいました。高島さんはラジオ技術社のコンポ・グランプリの審査委員として1970年ころオーディオ界に登場したと記憶しています。当時ラジオ技術の編集長だった高橋三郎さんは、「オーディオ界には業界外の文化人が必要と考えて参加していただいた」と言っていましたが、あなたは、英文学専攻のプロフェッサーという、業界としては珍しい偉才でした。
 あなたはお手紙にも書かれていたように、エネルギーに充ちた、実物大のオーディオを目指しており、ウーファーは地面に埋め込んだコンクリート製のエンクロージャに大口径のコーン型ユニットを取り付け、中高域はゴトーのホーン、高域はリボントゥイーターのマルチアンプ・システムで、そのほかに多数の音場用スピーカーを周囲にめぐらせた巨大なもの、長い年月の改善で、その音は初めて聴く人の、どぎもを抜くような鮮烈で豪快なものでした。最近はその音が次第に深い陰影を持つようになり、大編成のオーケストラは眼前に彷彿として見えるようになり、小さな鈴の音は心にしみとおるように響いたのは、無意識のうちに生命の限界を知覚していたのではないかと思われます。お手紙には、「このごろは一層深みが出てきたので、元気になったらぜひ聴きにくるように」と書かれていましたが、もはや、それも適わなくなりました。
 オーディオは、音による心の投影であります。これを実践し、苦しみ、楽しんだ貴方は、生命の雫の音を耳の奥に聴きながら、遠い遠い天国へ行ってしまいました。病が進み、昏睡して行く高島さんの脳裏には、かすかに聴こえるムスタンの巡礼の鈴の音が鳴っていたに違いありません。   アーメン
 1993