岩崎千明氏は、私にとって終生、忘れ得ぬ人物である。おそらく、氏と交友のあった方なら、みな、そう感じていられるにちがいないが……。氏の天衣無縫な人柄は私の人生に、きわめて鮮やかな色彩りの数頁を残してくださった。私は、岩崎氏と、そんなに古いおつきあいではない。いわゆる竹馬の友といった間柄ではなく、お互いに社会で仕事をするようになってからの知己である。それも、三十歳をこえてからの友人である。にもかかわらず、私と岩崎氏は、互いにかなり深く理解し合える資質をもった同士のようであった。私事で恐縮だが、今から約10年前、私は長年の宮仕えの身分に見切りをつけて、海のものとも山のものともわからぬままに、フリーランサーとして独立した。生来、のん気で楽天家の私だが、分別豊かな先輩や同輩、そして家族のものから、ずい分その無謀について忠告を受けたものだった。だから、当初は、正直いって時として不安を感じたし、心細い思いもしたことがあった。かといって、私には、今日から独立したんだぞ、というような改まった意気込みがあったわけでもなく、特別の感慨があったわけでもなかったのである。そんなある日、ある雑誌社で岩崎氏に出会ったのである。よもやま話をして、私が帰りかけると、岩崎氏が「つまらないものですが、車の中に勝手に入れさせてもらいました」と耳打ちされたのである。私は、とっさに何のことだかわからなかった。そんな私に、「いや、今度独立されたそうで……」と、照れたような笑顔でつけ加えられたのである。私は、独立したなどという挨拶をどこへもしていなかったので、岩崎氏から、こんな心遣いを受けたことに大きなショックと感激を味わったのであった。当時、岩崎氏はすでにフリーランサーとして独立されておりオーディオ評論に健筆をふるっておられた。私の書いたものと、岩崎氏の記事が、隣り合せに数年間、同じ雑誌にのっていたことがあるが、この頃のお互いに全く未知の間柄であった。しかし、お互いに、不思議とこの記事を欠かさず互いに読み合っていたらしい。二人が、初めて挨拶をかわした時、「これがあの岩崎千明という人か」、「これがあの菅野沖彦という奴か」という感慨が無言のうちに行き交ったことを思い出す。後に親しくなってから、どちらからともなく、この話が出て、「矢張り互いにそうだったのか」と笑い合ったものだ。そんな間柄だったとはいえ、まだ、そう深くつき合っていたわけではない。その証拠に、あの何ともいえない暖かくやさしい岩崎氏の私への行為として、私の車のシートにそっと置かれたものは、一本のスコッチのボトルであったのだが、岩崎氏は私が全く酒を飲まないことを知らなかったのだ。そして、私もまた、岩崎氏が一滴も酒を飲まないことを知らなかった。そのスコッチを私は今も大切に持っている。おそらく永遠に、このボトルは蓋を開けられることはないであろう。もし、私が飲んべえならば、もうとっくに消えてしまったボトルであったろうに。
 永遠の青年、岩崎千明氏は、きわめて自己に忠実な人であった。飾り気のない、その人柄の魅力、美しく変貌し続けたその人生は、私にとってひとつの憧れであった。その、たぎるような情熱、大胆さと細心さの調和や不調和、まことに人間的な人聞であった。何よりも、その端々しく豊かな感性は、年と共に、いささかも鈍ることはなかった。精一杯行動し続けた岩崎氏を支えたものは、精神の若さであった。肉体はそのギャップに耐えることが出来なかったのであろう。その天逝は、まことに残念至極である。ここに、遺稿集として本書が刊行されたことは、友人の一人として喜びにたえない。岩崎氏が、常に専門のオーディオのテクノロジーの基盤の上に確固たる信念を置きながら、いささかも、そのテクノロジーに振り廻されることなく、無限に氏の心象の拡大と飛翔の手段としてこれを把握した卓見は、オーディオロジーのあるべき姿として、改めて広く深く銘じるべきであろう。本書の中から、賢明なる読者諸兄が、これを汲み取られることを期待して、不肖、後書きに代えさせていただく。
 昭和五十三年十月
 菅野沖彦