Posts Tagged 動的平衡

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その4)

グレン・グールドの、この言葉も、長いスパンでの動的平衡を語っている、と私は感じている。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その3)

ベートーヴェンの音楽を聴いて、そこになにを感じとるかは、誰が聴いても共通しているところがありながらも、
聴く人によって、さまざまに異って受けとめられることもある。
別に、これはベートーヴェンの音楽についていえることではなく、他の音楽についても同じなのだが、
それでもベートーヴェンは、私にとっては特別な作曲家であって、
ベートーヴェンの、それもオーケストラによる音楽(交響曲、協奏曲など)を聴いて、
そのことにまったく無反応、なにも感じられない人とは、ベートーヴェンについて語ろうとは思わない。

これがほかの作曲家だったら、話をしてみようと思うことはあっても、
ことベートーヴェンに関しては、譲れない領域がある。
そのひとつが、ベートーヴェンの音楽は、音による構築物、ということだ。

この構築物は、聴き手の目の前に現れる、そしてそれを離れたところから眺めている、というものではなく、
その中に聴き手がはいりこむことが可能な音の構築物であり、
しかも音楽の進行とともにその構築物も大きさを変え形も変っていく。

これをいい変えれば、福岡伸一氏が「動的平衡」について語られた
「絶え間なく流れ、少しずつ変化しながらも、それでいて一定のバランス、つまり恒常性を保っているもの」となる。

ベートーヴェンの音楽がつくり出す音による構築物は、まさにこの「動的平衡」がある。
静的平衡の構築物ではないからこそ、音による構築物なのだ。

ベートーヴェンの音楽は、いま鳴っている音が、次に鳴る音を生むようなところがある。
世の中には、残念ながら、ベートーヴェンの音楽が鳴らないオーディオが存在する。
そういう音は、意外にもどこかに破綻したところがあるわけではない。
注意深くバランスをとった音でも、それが静的平衡の領域にとどまったバランスであるかぎり、
そのオーディオでは、私はベートーヴェンを聴きたくない。

Date: 10月 12th, 2010
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その2)

イコライザーだけでなく、マルチアンプドライブで、エレクトロニック・クロスオーバー・ネットワークに、
デジタル信号処理のものを使っていたら、そこでのパラメーターをも、
やろうと思えば、音源ごとにこまかい設定の補整もできる。
最初こそめんどうだろうが、そこさえ厭わなければ、いちど設定してしまえば、パソコンに記憶させて、
あとは再生のたびに、自動的に呼び出すだけですむのだから。

ディスクごと(音源ごと)にイコライジングカーヴだけでなく、各スピーカユニットのカットオフ周波数、
スロープ特性、レベルなど、いじろうという意欲があれば、どこまでどこまでもキメこまかくできる。

デジタルプロセッサーが、1台のパソコンに接続され、それを一括してコントロールできるソフトウェアがあれば、
夢物語でもなんでもない。すぐに実現できる環境はほぼ整っている。

アナログだけの時代では、やろうという意欲はあってもできなかったことが、
リスニングポイントから動かずにできるのだから、
この種のことが好きな人にとっては、どこまでもどこまでも、キリがなくはまってゆくことだろう。
はまればはまるほど、「動的平衡」からどんどん遠ざかっていく。
「静的平衡」の徹底的な追求になってしまう。

機械の助け(デジタルゆえの助け)のおかげで、静的平衡をきわめることができる日がくるだろう。
そこで思うのは、果して音楽が鳴るのだろうか、
もっといえばベートーヴェンの音楽が鳴り響くのだろうか、という疑問である。

ここでもういちど冒頭に書いた福岡氏のことばをくりかえす。
「絶え間なく流れ、少しずつ変化しながらも、それでいて一定のバランス、つまり恒常性を保っているもの。」

Date: 10月 12th, 2010
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その1)

「絶え間なく流れ、少しずつ変化しながらも、それでいて一定のバランス、つまり恒常性を保っているもの。」

オーディオにおけるすぐれたバランスのよさを、いいあらわしたかのように思えるこれは、
福岡伸一氏の「動的平衡」について語られたもの(「週刊文春」2月25日号より)。

けれど、これこそオーディオのバランスの、もっとも理想のかたち、と私は思う。
音のバランスは大切だ、とずっとずっと以前から、多くの人がいってきている。

だが、その音のバランスには、「動的平衡」と「静的平衡」があるのではなかろうか。

いまデジタル信号処理の発達とハードウェアの進歩により、
いくつものイコライジングカーヴをメモリーを記憶させておけば、
ボタンひとつ(いまやボタンなどなくてタッチひとつ、か)で、すぐに記憶させておいたカーヴを呼び出せる。

この手の機能は、これから先、もっと便利になっていくはず。
CDをリッピングしたり、配信からのタウンロードによって入手した音源を再生するとき、
いちどその音源向きにイコライジングカーヴをつくり出して設定しておけば、あとは再生時に自動的に読み込んで、
聴き手はなにもいじることなく、ひとつひとつの音源に、最適のカーヴで再生される。

これは、ほんとうに素晴らしいことなのだろうか。
じつは、それぞれのイコライジングカーヴは、「静的平衡」でしかない、そんな気がする。
「動的平衡」でなく「静的平衡」だから、ディスク(音源)が変れば、そのたびにいじらなければならない。

ときには再生している途中に、カーヴをいじる人もいる。

そんな行為をどう捉えるかは、人さまざまだろう。
これこそ音楽に対して誠実に、そしてアクティヴに聴いている(接している)という人がいてもいいけれど、
いつまでも、そんなことをやっていては、いつまでたっても「静的平衡」から抜け出すことはできない。

「静的平衡」を、あらゆる音源に対して実現するには、それこそこまめにいじる必要がある、
という皮肉さがここにあり、その皮肉さが使い手にここちよい嘘をついている。