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Date: 7月 25th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十八・原音→げんおん→減音)

オーディオの理想が現実となるとき、
いまわれわれが接しているオーディオというシステムとは、まったく異るシステムになっている可能性もある。

スピーカーは、そういう変化の中で、もっとも大きく変化をとげる、というよりも、
発音原理そのものから変ってしまうのかもしれない。

そういえばステレオサウンド 50号には、
長島先生が小説仕立てで「2016年オーディオの旅」という記事を書かれている。
50号が出たのは1979年3月。そのころは2016年はずっとずっと先のことだと思って読んでいた。

まだCDは登場していなかったけれど、各社からデジタルディスクの試作機は登場していて、
50号にも岡先生が記事を書かれている。
「2016年オーディオの旅」でもプログラムソースは、
すでにテープもディスクも存在せずに固体メモリーになっている、という予測をされている。

長島先生のスピーカーの予測は、個人的には面白く興味深いものだった。
空気を磁化する方法が発見され、スピーカーから振動板がなくなっている。
音響変換効率90%で、50mWの入力で100dB以上の音圧が得られる、というもの。

あのころ、夢物語として読んでいた、この記事の2016年まで、あと4年にまで近づいている。
おそらく4年後も、スピーカーから振動板がなくなっていることは、まずない、と予測できる。
スピーカーの能率も低いままだろう。

でも、いつの日か(私が生きているうちなのかどうかはなんともいえないけれど)、
きっと、長島先生が夢見られ予測された日がきっと訪れることだろう。

そこまで到達できれば、「索漠とした味気ない世界」なのかもしれない、オーディオの理想へと、
そうとうに近づくことだろう。
そして、さらに進歩することで、ほんとうに完璧なオーディオが登場することだろう。

この長島先生の記事を読んでいたからこそ、
ステレオサウンド 52号の瀬川先生の特集の巻頭言を読んだ際に、よけいに考えてしまったわけである。

Date: 7月 24th, 2012
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(続×五・低音再生とは)

20Hzの低音は1秒間に20回の振幅をくりかえす、
20kHzの高音は1秒間に20000回の振幅をくりかえす。

つまり20Hzに対して20kHzは1000倍の振幅回数であり、その1波長に必要な時間は1/20000秒であり、
20Hzの1波長に必要な時間は1/20秒である、ということだ。

つまり波長が長いということは、
その1波長がスピーカーから出てくるまでにそれだけの時間がかかるということでもある。
20Hzの低音の1波長がスピーカーから放射される時間(1/20秒)あれば、
20kHzの音は、じつに1000波長放射できる。

つまり低音は高音に比べて、遅い。
もちろん音速は、どんな周波数においても同じであるのはいうまでもない。
だからこそ、低音は高音よりも遅い、ということになるわけだ。

20Hzと20kHzの比較は、それほどプログラムソースに含まれているわけでもないし、
20kHzの音といえば、楽器の基音ではなく、倍音、それも高次倍音やノイズてあったりする。
20Hzの基音も、実際にはそう多くはないだろう。

だから下は40Hz、上は基音の最高音域として、4kHzぐらいまでとしても、
40Hzは1/40秒、4kHzでは1/4000秒、それぞれ1波長が放射されるまでに必要とする時間である。
20Hzと20kHzの比較の1/10になったとはいえ、
低音が成り立つ時間がどのくらい必要か、ということでいえば、低音が遅いことには変りはない。

ただこれはあくまでもサインウェーヴの話であって、
実際の音楽の信号がスピーカーに加わり振動板が動き空気の振動へと変換されるときは、
実際にどうなのかは、正直、いまところうまく説明できない。

それでもオーケストラにおいて低音楽器の扱いは、
ほんのわずか、このタイムラグをうまく合わせるために早めに演奏するように指示できるのが一流の指揮者であり、
一流のオーケストラである、ということは昔からいわれている。

またマイルス・デイヴィスも、同じことを語っている、とジャズ好きの知人からきいたことがある。

あとピアノがある。
フェルトハンマーがミュージックワイヤーと呼ばれる鋼線(弦)を叩くことで音を発するわけだが、
低音域と高音域とでは弦の長さは異る。低音域は長い。しかも質量を増すために銅線を巻きつけてある。
この長くて重い低音域の弦と、短くて軽い高音域の弦が同時にハンマーで叩かれたとして、
それぞれの弦の振動の振幅が最大になる(つまり最大音量になる)のにかかる時間は、
低音域の弦のほうが、それはわずかであっても長い。

やはり、低音は遅い、といえよう。
そして、低音が音楽のベースになる。

Date: 7月 23rd, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十七・原音→げんおん→減音)

減音なんていう言葉をつくって、そのことについてまだ書いている。
この減音ということばを思いついたのは今年になってからだが、
この減音ということを考えるきっかけとなったことはなんだろう、とふりかえってみると、
それはひとつではなくいくつかのことが思い出されてくる。

そのひとつは、瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭言の最後のほうに書かれていることに関係している。
     *
しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがないなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
     *
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だから、アンプの理想像(それも極端な)について書かれているわけだが、
これがオーディオの再生系そのものだとしたら、どうなるだろうか、
と読み終ってしばらくしてのちに考えたことがある。

アンプだけではない、カートリッジもターンテーブルも、それにスピーカーも、さらにはケーブルにいたるまで、
完璧なものが世に登場したとする。
もちろん、再生系がそうなる前に、完璧な録音がなされて、その完璧なまま家庭に届けられる、という前提だ。

つまり録音の現場で鳴っていたものすべてを、家庭でそのままに再現できるようになった、とする。
部屋による再生音への影響もすべて取り除ける技術が開発されて、
同じプログラムソースであれば、どんな部屋でもまったく同じに再生される時代が来た──。

そうなってしまったら、それはオーディオの、果して理想が実現した、ということなのか、と考えたわけだ。

それは、瀬川先生がすでにステレオサウンド 52号に書かれているように、
「索漠とした味気ない世界」でもあるように思えてしまう。

オーディオの録音系も再生系も、いまとはまったく違う形態に行き着き、
音楽の聴き手は何の苦労もすることなく、いまの時代では想像できないほどのクォリティで音楽が鳴ってくる。

オーディオそのものに関心のない人にとって、それは素晴らしい、まさに理想のオーディオということになる。
けれど、いま、われわれが取り組んでいる趣味(ときにはその領域からも逸脱している)オーディオにとって、
そういう時代の到来は、やはり「索漠とした味気ない世界」でしかないのではなかろうか。

もし私が生きているあいだ、そういう時代になってしまったら、
オーディオマニアをやめるのか、それともオーディオマニアとして何をするのだろうか……、
いまから30年以上前に、そう考えたことが、いまここで長々と書き続けている「減音」につながっている。

Date: 7月 22nd, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(TVA1のこと)

マイケルソン&オースチンのTVA1という管球式のパワーアンプがある。
1979年に登場したイギリス生れの、KT88のプッシュプルで、70Wの出力をもつ。
シャーシーはクロームメッキが施されていることからも、
マッキントッシュのMC275の再来的なとらえ方もされていたアンプである。

TVA1の評価は、ステレオサウンドでも高かった。
MC275はすでに製造中止になってひさしかったから、
KT88のプッシュプルアンプとなると、
しかもステレオ仕様で70W程度の出力の得られるアンプとなると、TVA1しかなかった。

コントロールアンプは1年ほどおくれて登場したこともあって、
TVA1には他社製のコントロールアンプが組み合わされる。

瀬川先生はステレオサウンド 52号にも書かれているように、
アキュフェーズのC240を、TVA1にもっともよく合うコントロールアンプとして、その後も組合せで使われている。
マークレビンソンやその他のコントロールアンプとの組合せをいくつか試みても、
偶然にも最初にTVA1と組み合わせたC240が、
「水分をたっぷり含んで十分に熟した果実のような、香り高い」音を鳴らしてくれたわけだ。

菅野先生もTVA1への評価は高かった。
菅野先生はマッキントッシュのC29との組合せで、高く評価されている。

おそらく瀬川先生もC29との組合せを試みられたのではないか、と思っている。
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号で、
その中にはマッキントッシュのC29とMC2205が登場しているし、
瀬川先生も特集の巻頭言「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」で、
C29、MC2205の組合せについてふれられている。

そこには「認識を新たにした」と書かれている。
すこし引用しておく。
     *
C28の時代のあのいくぶん反応の鈍さとひきかえに持っていた豊かさ、あるいはC32で鳴りはじめた絢爛豪華で享楽的なこってりした味わい。そうした明らかな個性の強さ、というよりアクの強さが、ほどほどに抑制されて、しかもおとに 繊細な味わいと、ひずみの十分に取り除かれた滑らかさが生かされはじめて、適度に鮮度の高くそして円満な美しさ、暖かさが感じられるようになってきた。
     *
C32はあまり高く評価されていなかったけれど、C29への評価はなかなかいい。
だからTVA1とC29の組合せも、おそらく試されたはず、と思ったわけだ。

試されていたと仮定しよう。
それでも瀬川先生は、好みからしてC240を選択されたわけで、
コントロールアンプの選択に菅野先生と瀬川先生の音の好みの違いがはっきりとあらわれていて興味深いのだが、
ここで私が思ったのは、それではマッキントッシュのC27は、どうなのだろうか、ということ。

C29、C27が登場する以前、つまりC28、C26時代、
瀬川先生はC28よりもC26を好ましい、とされていた。
ならばC29よりもC27を、より好ましい、と思われても不思議ではない。

井上先生はステレオサウンド 47号で、C27について、
「現代アンプの純度とは異なった、井戸水の自然さを感じさせる音だ」と書かれている。

こういう音こそTVA1の音の魅力を増してくれそうな気がする。
マッキントッシュC27とマイケルソン&オースチンTVA1の組合せ、
いますごく聴いてみたい組合せとなってしまった。

Date: 7月 21st, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×九・作業しながら思っていること)

測定データを、なによりも重視する人たちは、昔からいた。
試聴記よりも測定データを載せろ、という人たちである。

ずっと昔には、メーカーがカタログに載せている測定データにはいいかげんなものもあった、ときいている。
だから、その時代においてはオーディオ雑誌が測定データを載せる意味合いは大きかった。
それが基本的な項目、周波数特性、歪率、それに出力であっても、だ。

だがメーカーもいつまでもそんなことをやっていたわけではない。
ずいぶん以前から名のあるメーカーが発表するデータにいつわりはない、といえる。
そして各メーカーのデータにおける差も小さくなってきている。
測定データにおかしなところのあるオーディオ機器は(まったくない、とはいわないけれど)、ほとんどない。

そういう意味では、オーディオ雑誌がいま測定を行うには、
以前とは違う意味合いが求められるし、そこに難しさがあるわけだが、
それでも、ごく一部の人たちは測定データにまさるものはなし、とでもいいたげであって、
中には測定データに大きな差がないから、音の差はありえない、という不思議なことを言い出す。

すくなくとも1970年代には測定データにはあらわれない音の違いを、
耳は聴き取っていたことは当り前のことになっていた。
アンプを例にとれば、使用パーツの品種による音の違いケーブルによる音の違いなど、
そういったことがらによる、測定データにはあらわれないにも関わらず音は違ってくる。

トリオのKA7500とKA7300の測定データを比較しても、そう大きな差はないはず。
KA7300は電源トランスから左右チャンネルで独立させている分、
セパレーション特性ではKA7500よりも優れているだろうが、
あとの測定項目においては、KA7500とKA7300の音の違い──、
つまりKA7500の開発・設計担当者は恋に悩み、KA7300の開発・設計担当者は新婚ほやほやであったこと、
こういう違いは、これから先、どんなに測定技術が進歩したとしても測定データにあらわれることはない。

なのに、人の耳は、その違いを聴き分けることができる。
測定データ、測定データ、とあきることなくいい続けている人たちは、
KA7500とKA7300に関するエピソードを、どう受け止めるのだろうか。

オーディオの楽しみは広い。
だから測定データだけに捕らわれてしまうのも、オーディオのひとつの楽しみといえばそうなる。
それでも、ご本人たちが楽しければそれでいいのかもしれないし、
まわりがそういう楽しみ方に口をはさむべきではないにしても、
やはりオーディオは音楽を聴くために存在していることを忘れてはならない。

測定データをどんなに眺めても、音楽は鳴ってこない。

Date: 7月 21st, 2012
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(続々続々・低音再生とは)

低音再生の難しさは、どこにあるのだろうか。

よくいわれることに低音は波長が長いから、ということがある。
音速を340mとした場合、20Hzの波長は340÷20だから17mにもなる。
40Hzでも8.5mという長さである。

これが周波数が高くなっていくと、100Hzでは3.4m、1kHzでは34cm、10kHzでは3.4cm、20kHzでは1.7cm。
20Hzと20kHzとでは、こんなにも違ってくる。

波長の長さは部屋の広さとは関係している、ともいわれている。
つまり20Hzの低音を完全に再生するには部屋の一辺が最低でも、半波長分(8.5m)は必要で、
できれば1波長分(17m)欲しい、ということになっている。

一辺が17mとれる部屋はそうとうに広い部屋で、
これだけの空間をオーディオのために用意できる人は、多くはない。

ただ、ほんとうに20Hzを再生するには最低でも半波長の一辺がとれる部屋が必要なのか、については、
たしかに20Hzのサインウェーヴを再現するには部屋の広さが深く関係してくるとは思っているが、
実際にわれわれがスピーカーから聴いているのは音楽であって、
音楽を構成している要素のひとつとしての低音再生となると、
必ずしも再生したい最低域の半波長(できれば1波長)の長さが要求されるわけではない、と思っている。

もちろん広い、十分な空間があればそれにこしたことはない。
けれど、それだけの広さがとれないからといって、低音再生をあきらめることはない、と思うのは、
そこまでの広さの部屋でなくとも、見事な低音を実現されている音を聴いてきた体験があるからだ。

低音は波長が長い。
このことが再生において重要になってくるのは、もうすこし違うところにある。
つまり低音が低音として鳴るためには、それだけの時間が必要だということである。

Date: 7月 20th, 2012
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その22)

グレン・グールドのピアノしか聴かない人がいる、という話は、
黒田先生の著書「音楽への礼状」のグールドの章のところに出てくる。

この、グールドについて書かれた章で、黒田先生は”A Glenn Gould Fantasy”について、ふれられている。
     *
戯れということになると、ぼくは、どうしても、『ザ・グレン・グールド・シルバー・ジュビリー・アルバム』の二枚目におさめられていた、あの「グレン・グールド・ファンタジー」のことを考えてしまいます。あの奇妙奇天烈(失礼!)なひとり芝居を録音しているときのあなたは、きっと、バッハの大作「ゴルドベルク変奏曲」をレコーディングしたときと同じように、真剣であったし、同時に、楽しんでおいでだったのではなかったでしょうか。もしかすると、あなたは、さまざまな人物を声で演じわけようと、声色をつかうことによって、子供っぽく、むきになっていたのかもしれません。
「グレン・グールド・ファンタジー」は、悪戯っ子グレンならではの作品です。ほんものの悪戯っ子は、「グレン・グールド・ファンタジー」のために変装して写真をとったときのあなたのように、真剣に戯れることができ、おまけに、自分で自分を茶化すことさえやってのけます。あなたには、遊ぶときの真剣さでピアノをひき、ピアノをひくときの戯れ心でひとり芝居を録音する余裕があった、と思います。そこがグレン・グールドならではのところといえるでしょうし、グールドさん、ぼくがあなたを好きなのも、あなたにそうそうところがあるからです。
     *
グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy”は聴かない。
そうだとしたら、グールドしか聴かないグールドの聴き手には、真剣に戯れる余裕がないのかもしれない。

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そう口にした人は、なぜわざわざ、こんなことをいってしまうのか。

グレン・グールドのピアノしか聴かない、ということで、
なにかをアピールしたいのだろうが、そのアピールしたいことは、
別の、グレン・グールドのピアノしか聴かない人にとって、
アピールしたいことはそのまま伝わり同意を得られるだろうが、
“A Glenn Gould Fantasy”を聴いて楽しみ、グルダのピアノも聴き、もちろんそれだけではない、
他のピアニストの演奏も聴いてきている人にとっては、
「グレン・グールドのピアノしか聴かない」によって、このことばを発した本人がアピールしたいことには、
同意はできないし、窮屈なものを感じてしまうのではないだろうか。

グレン・グールドのピアノしか聴かないことの窮屈さから、
「感情の自由」は追い出してしまうし、押し殺してしまうことにもなるのではないか。
そうやって、本人だけが気づかぬうちに、音楽の聴き手としての「感情の自由」をなくしてしまう。

Date: 7月 19th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その3)

「いまさらねぇ……」
これを口にするは、別に難しいことでもなんでもない。
誰でも、いおうと思えばいえる。

「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」、
そんなことは懐古趣味だとばかりに短絡的判断を下す人がいる。
そう思いたければ、ずっとそう思っていればいい。

私だって、「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」と誰かにいったりはしなかったものの、
私は私自身に対して、そんなことをつぶやいていた時期がある。

「いまさらねぇ……」を口にする人の中には、
LNP2や4343を実際に使ってきた人、憧れをもっていた人もいる。
そういう人の「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」には、
自分はとっくに、それらのオーディオ機器から卒業した、
もしくはいまの自分にとっては、自分の要求するところからは、
力不足のオーディオ機器、さらにいえば役立たずのオーディオ機器、と暗にいいたいのかもしれない。

「いまさらねぇ……」の裏からは、
いまの自分は、もうそんなところにはいないよ、といった自負が臭ってくることがないわけではない。

「いまさらねぇ」のあとにオーディオ機器の型番を続ける人と話したことが、数回ある。
話してみれば、わかる。
自分にもそういう時期があったからこそ、わかるものがある。

ほんとうに、この人は「いまさらねぇ」の後に続けるオーディオ機器を、理解しているのだろうか。

私は、人でもオーディオ機器でも再会するということは、
再会する自分が、実は試されているところがあると、いまは感じている。

「いまさらねぇ……」は、その試されることから逃げるには、最適の言い草であるからだ。

Date: 7月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その2)

1970年代後半のころのマークレビンソン・ブランドのアンプは、私にとっては憧れだった。
LNP2にしてもML2にしても、ML6も含めて、いつかは手に入れる、と思っていた。

LNP2、ML2は、そう思っていたためか、聴く機会はわりとはやく訪れたし、その後も何度となく聴く機会があった。
LNP2はステレオサウンドのリファレンスコントロールアンプとして使われていたこともあって、
聴こうと思えば、ステレオサウンドの試聴室で聴くことができた。

こういう環境は恵まれている、と思うと同時に、憧れを大切にしたいのであれば、どうかな、とも思う。
憧れのLNP2は、その後続々と登場するコントロールアンプによって、少しずつ旧型のアンプへと変りつつあった。

憧れはいつしか失せていた。
LNP2を「いつかは手に入れる」という気持はなくなっていたのか、忘れてしまっていたのか……、
どちらなのかは自分でもわからないものの、LNP2に関心をもつことはながいあいだなかった。

これは、なにもLNP2に対してだけのことではない。
ML2に関しても、ML6に関しても、いつしかそうなっていたし、
マークレビンソンのアンプに関してだけのことでもない。

実を言えばJBLの4343に対しても、4345に対しても……。
こうやってひとつひとつ挙げていくときりがないほど、10代のころに強く憧れ、
いつか必ず手に入れる、と思い込めていたオーディオ機器への関心がなくなっていた。

LNP2もML2も4343も、その時代の先端を走っていたオーディオ機器であっただけに、
時が経てば、色褪せて、どうしても旧さを感じてしまうようになるのは、しかたないことかもしれない。

そんなふうに感じていた20代の私は、もうLNP2や4343を欲しい、と思うことはない、と思っていた……。
なのに、いまは「再会」をつよく意識している自分に気がつく。

Date: 7月 15th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×八・作業しながら思っていること)

KA7500の開発・設計担当者が、誰のブラームスのレコードを聴いていたのか、
その手掛かりとなるものはほとんどないわけだが、
ひとつあげるとすれば、やはりKA7500とKA7300のコンストラクションの違いがある。

KA7500もKA7300も聴いたことがないから断言することはできないものの、
KA7300はKA7500と比較の上でも、さらに他社製の同時期のプリメインアンプと比較しても、
いわゆる音場感の再生能力は、10万円以下の製品としては、かなり高いものであったと判断できる。
そのKA7300と比較すると、KA7500はというと、
左右への音の拡がりにしても奥行き方向の再現性に関しても、旧型のアンプ的音場の展開であるはずだ。

だから音楽の見通しはKA7300の方が優れていよう。
前のめりにならなくとも、音楽の細部はKA7500よりも聴き取りやすいはず。

反面、KA7500の音場はその分、左右のスピーカーの中央附近に厚みが感じられよう。
この厚みが、ときとして、そして音楽の性格によって、
のめり込むような聴き方を聴き手に要求していくのかもしれない。
流麗なブラームスではなかったはず、これだけはいいきれる。

だとすれば、KA7500の担当者がのめり込むように聴いていたブラームスは、
意外にもモノーラルのレコードが多かったのかもしれない、と、そんな気がしてくる。
たとえばフルトヴェングラーのレコードがある。
ヨッフムがベルリン・フィルハーモニーを振っていれたグラモフォン盤もある。
トスカニーニはNBC交響楽団によるものとフィルハーモニアによるものの2種がある。

ステレオ録音になってからのもので、1974年ごろまでのものとなると、
ベーム/ベルリン・フィルハーモニー、カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー(デッカ録音)、
セル/クリーヴランド管弦楽団などは、1番から4番まで揃っている。

1番だけ、2番だけ……、となっていくと、ここで挙げていくときりがなくなる。

誰かのブラームスだけにのめり込まれていたわけでもないだろうから、
ここで誰の演奏だったのかをあれこれ想像したところで、意味がないといえばそうだろう。

でもKA7500の担当者が、
この時聴いていたのはヨッフム/ベルリン・フィルハーモニーによる演奏だったのではなかろうか、
そんな気がしている。
それからヴァイオリン・ソナタは、シェリング/ルービンシュタインか、
デ・ヴィート/フィッシャー(1番と3番)、アプレア(2番)のレコードが、頭から消えない。

これは、私の勝手な想像でしかない。
意外にも若きバーンスタインとニューヨークフィルとのレコードだったのかもしれない。

Date: 7月 14th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×七・作業しながら思っていること)

KA7500とKA7300の内部写真を見ていると、
このふたつのアンプが、同時期に同じ会社から出た、
価格的にも大きな差のないプリメインアンプとは思えぬほど多く異っている。

KA7300は、デュアルモノーラルコンストラクションのパワーアンプかと思える造りである。
シャーシーのほぼ中央に左右独立した電源トランスをふたつ配してその両端にパワーアンプ部、ヒートシンクがある。
KA7500はというと電源トランスは1つで、
いかにもこの時代のプリメインアンプといえるコンストラクションである。

KA7500とKA7300の音は聴いたことがない。
KA7300Dの音は聴いているけれど、その前身のKA7300は聴く機会がなかった。
KA7300Dは型番末尾のDからわかるように、KA7300をDCアンプ化したものである。

KA7300を開発・設計担当者と同じ人がKA7300Dを手がけたのかは知らない。
仮に同じ人だとしても、KA7300のときには新婚ほやほやだった人も、
KA7300Dの時には、そうではなくなっている。
そう考えると、KA7300DよりもKA7300の音が好き、という人がいることも、
なんとなくではあるけれど理解できる。
アンプとしての完成度はKA7500よりもKA7300のほうが、
さらにKA7300よりもKA7300Dのほうが上、といえる。

それでも、音の魅力ということに関しては、
アンプの完成度が増しているからといって、音の魅力度も増している、とはいえないから、
中野英男氏の「音楽 オーディオ 人びと」にもあるように、
KA7300の音を酷評しKA7500の鳴らすブラームスやブルックナーの音楽に精神性の深味を感じとっている人が、
少数とはいえ、いるということ。

この人たちはKA7300Dの音は、さらに酷評されただろうか、
それとも新婚ほやほやの幸せ気分が抜けているであろうから、KA7300よりも高く評価されたかもしれない。

こんなことを考えつつ、
KA7500の開発・設計担当者がのめり込むように聴いていたブラームスのレコードは何だったか、をおもうわけだ。

Date: 7月 14th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その1)

オーディオ機器の買替えが頻繁な人は、それこそ1年ごとにスピーカーを買い替えない人もいる。
頻繁でない人でも、いままでずっと1つのスピーカーシステムだけを使ってきている人は、ほとんどいないと思う。
少なくとも、自分にとって理想と思えるスピーカーシステム、
永くつきあえるスピーカーシステムと出合うまでには、何度かの買替えを体験している、はず。

買替えが頻繁な人が経済的に必ずしも裕福とは限らないし、
ほとんど買い替えない人が経済的にめぐまれていないわけでもない。
これは、もうその人の性格的なものでもあろうし、
たまたま理想的なスピーカーシステムと早くにめぐり合える幸運に恵まれていただけかもしれない。

スピーカーはほとんど替えない人でも、アンプやプレーヤー、
それにケーブルなどのアクセサリーは割と買い替えている人もいよう。

買替えの頻度は、いろんな事柄が関係してのことだから、
まわりがとやかくいうことではない、と思っている。
買替えが頻繁な人を浮気性ということもできるし、積極的な人ということできる。
買い替えない人を、じっくりと物事に取り組む人ともいえれば、消極的な人という見方もできなくはない。

だから買替えの頻度は、ある時期からぴたっと止る人もいる。
かと思えば、いきなり買替えの頻度が増す人もいて不思議ではない。

ただ、どちらにしても買替えは、基本的に新しい出合いを求めての行為である。
よりよい音を求めての選択であり、新鮮な感覚を求めての選択でもある。

だから、われわれは新製品の登場に、多かれ少なかれ、なんらかの期待をし、わくわくするわけだ。
新製品でなくてもいい、その人にとって未知のオーディオ機器であれば、新製品となんら変らない。

そういうオーディオ機器との出合いを求める気持とともに、
私の裡で「再会」という選択が日々大きくなってきている。

Date: 7月 13th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十六・原音→げんおん→減音)

ネルソン・パス主宰のパス・ラボラトリーズのパワーアンプの新作はXs300。
300Wの出力をもつAクラス動作モノーラル仕様、しかも電源部は別シャーシー。
つまり2チャンネル分で、W48.3×H29.7×D71.2cmという、そうとうに大型の筐体が4つ必要となる、
いかにもアメリカ的な規模を誇る。
重量はアンプ部が59kg、電源部が76.2kgと発表されている。

Xs300の規模はシャーシーの大きさと重量からも推測できるように、
内部に使われているパーツの数も、ファースト・ワットのSIT1とは、もう比較にならないほど大がかり、ともいえる。

輸入元のエレクトリの資料によると、出力段にはMOS-FETを18並列使用。
この出力段に対して、定電圧ソースを用意しており、ここにもMOS-FETが使われ、
アンプ内で使われているMOS-FETの数は72個と、STASIS1と思い出されるほどの多さである。
しかも電源部には定電流ソースのために40個のMOS-FETを使っているため、
アンプ部とトータルで112ものMOS-FETを使っていることになる。
これだけではXs300の回路は成り立たないから、電圧増幅段の半導体の数を含めると、
これまで市場に登場したアンプの中でも、もっともトランジスター、FETの使用数の多いアンプの筆頭格のはずだ。

ファースト・ワットのSIT1は、何度も書いているように、型番にもなっているSITをわずか1石のみ、である。

こんな両極端なパワーアンプを、ネルソン・パスはほぼ同時期に開発している。
ネルソン・パスが、どういうオーディオ観をもっているのかは知らない。
けれど、このふたつのアンプの存在からいえることは、
ネルソン・パスというひとりの男の中に、SIT1を生み出した、いわば諦観といえる考え、
Xs300を、現在のところ頂とする、いわば諦観なんていうものとまったく無縁の考え、
このふたつが二重螺旋のように存在している──、ということである。

この二重螺旋はネルソン・パスの中だけに存在するものではないはずだ。
私の中にも、はっきりとある。
おそらく、ほとんどすべてのオーディオマニアの中に、この二重螺旋はある、と私は信じている。

そして、この二重螺旋こそが、「減音」へとつながっていっている、と確信している。

Date: 7月 12th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×六・作業しながら思っていること)

トリオのKA7500はいつ登場したのか、ステレオサウンドのバックナンバーを手にとってみた。
35号のトリオの広告に出ている。だから1975年6月には市場に登場していたことになる。
ステレオサウンドの記事に出たのは36号の井上先生による新製品紹介のページにおいて、である。

KA7300は、というと、広告ではステレオサウンド 36号で登場し、
記事では37号の、やはりこちらも井上先生による新製品紹介のページに出ている。

ステレオサウンドの広告からだけでは、正確な発売日まではわからないものの、
KA7500登場の2、3ヵ月後にはKA7300が登場している。

35号、36号、37号は1975年発売のステレオサウンドである。

発売時期が近いためであろう、
KA7500とKA7300のパワーアンプ部はどちらもモジュール化されている。
KA7500に搭載されているモジュールの型番がTA100W、KA7300に搭載されているのがTA80Wで、
内部の回路構成と同等と思われ、型番の数字が表すようにパワーの違いだけとも思える。

つまりKA7500もKA7300もパワーアンプ部に関しては、まったくとはいわないものの、ほぼ同じである、といえる。
にも関わらず、このふたつのプリメインアンプの音楽表現は、異るわけだ。

こうなってくると、KA7500の開発・設計担当者が、
開発・音決めのときに、彼がのめり込んで聴いていたブラームスの交響曲とヴァイオリン・ソナタは、
誰の演奏によるものだったのか、と、やはり想像してしまう。

1975年に登場しているわけだから、
KA7500の担当者が恋に悩んでいたのは1974年、1973年ごろということになる。
このころ日本で手に入れることのできたブラームスの交響曲、ヴァイオリン・ソナタのレコードは、何があったか。

カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーは1977年、78年だからまだ登場していない。
バーンスタイン/ウィーン・フィルハーモニーのレコードも、もちろんまだである。

ヴァイオリン・ソナタはどうだろう。
グリュミオー/シェベックのレコードも間に合っていない。
ズッカーマン/バレンボイムが1974年で、ぎりぎり間に合っているかどうかだ。

Date: 7月 11th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×五・作業しながら思っていること)

何度か取り上げている「音楽 オーディオ人びと」(トリオの創業者・中野英男氏の著書)のなかに、
次のようなことが書かれている。
     *
 自社のことでまことに申し訳ないが、一時代を劃したアンプKA−7300が発売され、その響きの透明感と定位感の見事さが評判になったとき、
「トリオはどうしてあんなアンプを作ったのか。ブラームスやブルックナーのような音楽を、7300で聴けというのか。私はKA−7500の鳴らす後期ロマン派の音楽を最高と考える。トリオは堕落して精神性の深味を失ったのではないのか」
 と酷評を加えた有力ディーラーが少なくとも二軒はあった。私が云々するまでもなく、その後の経過と世評はこのディーラー氏の意見の逆になった。しかし、私はこの人々の意見を全て間違ったもの、と言い切ることはできない。確かにアンプの特性という見地から見る限り、値段の安さにも拘わらず、KA−7300の性能は兄貴分のKA−7500をかなり上廻っていた。7500のユーザーには申し訳ないが、音も良かったと言わざるをえないだろう。だが、ブラームスの交響曲を鳴らしたとき、KA−7500の音がKA−7300にまさるという感想は、或いは正しかったのかもしれないのである。
 KA−7500の設計に携わり、その音質を追求していた男は、当時恋に悩んでいた。ことは個人の問題にかかわるので、いかに私は創業者・会長であるといっても、その全てを語るわけには参らず、またその表裏のすべてを知っているわけでもない。確かなのは、その男が粘り強さをもって自他共に許す青年であり、しかもその恋愛がその辺にザラに見られるような甘酸っぱいものではなくて、「暗鬱」ないし「凄絶」とも称しうべき重苦しさを湛えたものであったこと、更には、その頃この青年が、かねて好きだったピンク・フロイドに加えてブラームスの四つの交響曲と三つのヴァイオリン奏鳴曲にのめり込んでいたことである。KA−7300を批判したディーラーのひとりは、東北の方であった。私はその方がこのアンプの音を聴いて、製作者の心の深淵を探りあてた能力に櫟然とした。もとよりKA−7500は彼ひとりによって作られたものではない。しかし、彼はこのアンプの「音質」の担当責任者であった。
 そのあと、確かKA−9300を出した時だったと記憶するが、評論家の長岡鉄男氏が『電波科学』に「トリオのアンプは、300番シリーズと500番シリーズとでは明らかに音が違う。設計者のチームが違うのではないか」という趣旨のことを書かれたことがあった。私は言葉が出なかった。7500と5500は同じ彼が担当責任者であり、7300、9300の責任者とは別人であった。電源の供給方式が異なり、開発時点が異なり、更には設計・開発の人間が異なる以上、差が出るのは当然でもあろうが、かくも鮮やかに本質を指摘されてはメーカーとしては脱帽せざるをえない。それにしても、〇・〇何%というオーダーの歪率を問題にするアンプで、これだけの差が出るということ、しかも、製作に携わる男の性格から心理状態まで反映することの恐ろしさは如何なものであろうか。ちなみに、300番台のアンプの音質を担当し、大当りをとったエンジニアは新婚ホヤホヤの青年であった。
     *
このころのトリオのプリメインアンプには、KA7300D、KA9300の300番シリーズ、
KA7100D、KA8100の100番シリーズ、KA7500、KA5500の500番シリーズがあった。

私が聴く機会があったのはKA7300DとKA9300の300番シリーズだけである。
「音楽 オーディオ 人びと」を読めば、
300番シリーズだけでなく、100番シリーズ、500番シリーズとまとめて聴いてみたい、と思う。
なかでもKA7300DとKA7500だけでもいいから、
このふたつを、もちろんコンディションのいいものを比較してみたい、と思う。

恋に悩み、ブラームスの交響曲にのめり込んでいた開発・設計担当者による500番シリーズ、
新婚ほやほやの開発・設計担当者による300シリーズ、
「音楽 オーディオ 人びと」には出てこないが100番シリーズの開発・設計担当者は、
クラシックよりもポップスを愛する人だったかもしれない。

ステレオサウンド 43号(ベストバイの特集号)のなかで、瀬川先生はKA7100Dについて書かれている。
     *
型番のうしろ三桁に300のつくシリーズが最もオーソドックスなのに対して、100番のつくのは若いポップス愛好家向きで、メーターつきはメカマニア向きというような作り分けをしているのではないか、というのは私の勝手なかんぐりだが、ともかく7100Dは、調味料をかなり利かせたメリハリの強い、5万円台の製品の中で独特の個性を聴かせる。
     *
こういう話を読んでいると、オーディオはほんとうにおもしろい、と感じてしまう。
開発・設計担当者の精神状態(音楽の嗜好・のめり込み・聴き方)が音に現れてきている。

トリオが、いわゆるガレージメーカーならば、そういったことが音にはっきりと出るのは容易に想像できるが、
トリオくらいの規模の会社がつくり出す製品であっても、
こういうことが音に出てくるところが、オーディオなんだ、と思ってしまう。

こういうおもしろさ(興味深い)ことが、トリオのセパレートアンプには、ないように私は感じている。
だから、私にとってトリオといえば、プリメインアンプがまず頭に浮ぶわけだし、
プリメインアンプに積極的であったメーカーであったわけだ。