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Date: 8月 8th, 2012
Cate: 「空間」

この空間から……(その3)

楽器が電気を使わずに、あれだけ豊かな音を発することができる理由は、いくつか考えられる。
ヴァイオリンにしろ、ヴィオラにしろ、チェロにしろ、それにコントラバスやギターなどは、
すべて内部が空洞になっている。この空洞(空間)が共鳴するからこそ、である。

もしヴァイオリンが、ヴィオラやチェロが、
この素晴らしく美しい空間をまったく持たないソリッドなボディになっていたら……、
と考えると、この項の(その2)でふれた川崎先生のコメントに実感として納得できる。

ヴァイオリンの空間、
ヴィオラの空間、チェロの空間……、
これらの空間は何と共鳴するのか、といえば、
それは人ということになる。

つまりは音楽を聴く、
その音楽に共鳴するには聴き手であるわれわれのなかにも空間を持たなければならないのではないだろうか。
しかも、それは単なる空洞ではなく、空間でなければならず、
しかもその空間は、川崎先生が表現された「空間」でなければならない、そういえる。

川崎先生のコメントを読むにはfacebookのアカウントが必要で、
audio sharingというfacebookグループにアクセスしてください。

Date: 8月 7th, 2012
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その63)

クレルのKSA100を聴いたとき、SUMOのThe Goldは一度しか聴いていなかった。
それは瀬川先生が、熊本のオーディオ店で定期的に行われていた催しでの、
それも結果的に最後の回になってしまったときのテーマ、
「トーレンスのリファレンスを聴く」のときに使われていたのがThe Goldだった。

このときは音は、とくに最後にかけられたコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「凄さ」は、
その「凄さ」に打ちのめされたという強烈な記憶だけがいまも残っている。

あとからおもえば、あのときの音は、リファレンスの凄さも大きかったわけだが、
おそらく同じくらいにThe Goldの凄さがあってこその「凄さ」であったことに気がつくわけだが、
あのときは、リファレンスにだけ心を奪われていた。

プレーヤーやアンプがどんなに素晴らしくても、
その素晴らしさをスピーカーが鳴らしきれなくては、あまり意味がない。
このときのスピーカーシステムはJBLの4343だった。
つまり、4343もそれだけ凄いスピーカーだった証明にもなる。

そして、それだけではなく、あとになってからおもったのは、
瀬川先生という人の「凄さ」であり、
それに応えたリファレンス、The Gold、4343(コントロールアンプは確かLNP2だったはず)といえるわけだ。

とにかくThe Goldを聴いた体験は、KSA100以前、このときかぎりだった。
だから先にKSA100に惚れてしまったのかもしれない。

惚れてしまったアンプのこと(別にアンプに限らないのだけど)は、
どうしてもすべてを知りたくなる。
どういう回路なのか、どういう特性なのか、どういうパーツを使っているのか、
コンストラクションはどうなのか、とにかく調べられることは調べて、
他の誰より、対象となるオーディオ機器に関しては詳しい者でいたい。

すこし時間はかかったものの、KSA100の回路図も手に入った。
それから、やはりしばらくしてAmpzillaの回路図も手に入れた。
クレルのアンプが、ほんとうにAmpzillaのマネなのか、自分の目で確かめたかったから、である。

Date: 8月 7th, 2012
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その3)

スピーカーはどうするかといえば、
アンプに関係する問題よりも、こちらはずっと、この妄想を思いついた時から実現は可能といえる範囲におさまる。

理想をいえば、あるひとつのユニット、
たとえば20cm口径のフルレンジで20Hzから20kHzまで完全にカバーできるユニットが存在するのであれば、
そのユニットを11発、縦方向にスタックして3列ならべればいい。
かなり背の高いシステムになるけれど、一般家屋に収まらないほどの大きさではない。

でも現実にはそういうユニットは存在していない。
そうなるとウーファー、スコーカー、トゥイーター用に開発されたユニットをうまく組み合わせてつくることになる。
33個のユニットを使う、いわば33ウェイだが、なにもすべての帯域に異るユニットを使う必要はない。
同じユニットを複数個使っていけば、それで充分である。

たとえば46cm口径ウーファーを5本用意して、16Hz、20Hz、31.5Hz、40Hz、50Hzの5バンドを受け持たせる。
その上に30cm口径のウーファーなりフルレンジユニットを8本持ってきて、
63Hz、80Hz、100Hz、125Hz、160Hz、200Hz、250Hz、315Hzの8バンドを受け持たせる。
38cmユニットも30cmユニットも縦に並べる程度であれば、
エンクロージュアの高さも部屋に収まらないほどの高さにはならない。

さらにその上に20cm口径のフルレンジ、もしくは16cmのフルレンジを持ってくる。
400Hz、500Hz、630Hz、800Hz、1kHz、1.25kHz、1.6kHz、2kHzまでか、
その上の2.5kHz、3.15kHzにも使う。

4kHz以上の帯域となるとドーム型でもいいと思うし、
ここまですべてコーン型ユニットを使っているのだから、すべて同じ形式のユニットで揃えるという手もある。
コーン型トゥイーターを使うとする。
これで33個のユニットを搭載したスピーカーシステムの構想(妄想)となるわけだ。

かなり大型のシステムとなるし、ユニットの数も多いからユニットを揃えるだけでもけっこうな金額となる。
けれど、決して実現が非常に困難というわけではない。
それに世の中には、すでに33個以上のユニットを搭載したスピーカーシステムは、いくつか存在している。

こんなスピーカーに33台のDクラスのパワーアンプを組み合わせることで、
1/3オクターヴのグラフィックイコライザーの33個のスライドボリュウムが、
それぞれのユニットにいわば直結しているかたちになるわけだ。

Date: 8月 6th, 2012
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その62)

朦朧体ということで、浮んでくるアンプに、クレルのKSA100がある。
クレルのデビュー作のステレオ仕様のAクラスの100W+100Wの出力をもつパワーアンプ、
これとコントロールアンプのPAM2を組み合わせたときの音は、いまも想い出せる。

はじめてクレルの、このペアを聴いた時に、ハッとした。
おそらくこのペアが奏でる音を、あの当時聴いたことがある人ならば、
私と同じようにハッとされたことだとおもう。

トランジスターアンプから、こういう質感の音がやっと出てくるようになった、とも感じていた。
マークレビンソンとはあきらかに違う質感、肌ざわりのよい音がそこにはあった。
聴き惚れる音とは、こういうものかと思わせる音だった。

ただ、この素晴らしい質感の音は、
以前も書いているようにフロントパネルの処理が変化していくにつれて、変っていった。
その変り方は小改良の積重ねによるもの、と捉えれば、それなりに評価できるものではあるけれど、
あまりにも最初のころのPAM2とKSA100の音が見事すぎたために、
そして魅力にあふれた音だったために、それらはすべて薄まっていくように感じてしまった。

それ以降、クレルのアンプは、確かにクレルのアンプであり続けたけれど、
ごく初期のクレルのアンプだけが聴かせてくれた良さは、もう二度と戻ってこなかった。

もっともクレルの創始者であり、
現在はクレルを離れ、自らの名前を冠したブランドを新たに興したダゴスティーノの新作は、
そういうごく初期のクレルの魅力が甦っている、らしい。

私は、あのとき、クレルのKSA100に惚れていた。
そんなとき、ある人から聞かされた話がある。
アメリカでは、クレルのパワーアンプはGASのAmpzillaをマネしたアンプだ、といわれていますよ──、
あまり聞きたくないことを、その人は言っていた。
「回路もそっくりなんですよ」と続けて言っていたこと憶えている。

そのときは、それほど気にしなかった。
仮にAmpzillaと同じ回路だとしても、回路定数や使用部品には違いがあるし、
コンストラクションだって、違うはずなのだから、
似ているところはいくつかある……、その程度のものだろう、とろくに調べもせずに勝手にそういうことにしていた。

Date: 8月 5th, 2012
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その61)

とにかくフォノイコライザーの基板を取去ったThaedraを接いだThe Goldの音は、
最初にすべての基板を搭載したままで聴いた音を、意外性ということでもさらに上をいっていた。

Thaedraで聴く前のThe Goldの音も素晴らしかった。
変幻自在とでもいいたくなるほど、The Goldによって鳴らされるスピーカーの音は、表現力が拡がっていく。

その自在さがThaedraによってさらに拡がり、
フォノイコライザーなしのThaedraにて、まだ先があるのか、とも思ってしまった。

見方をかえれば、ここまでThe Goldは、
その入力につながるモノの性格をそうとうにストレートに反応し出してくるともいえるし、
それだけの駆動力をもっているからこそスピーカーをあれだけ鳴らせるのだ、ともいえる。

The Goldの、こういう凄さは、それまでも、充分にわかっているつもりでいた。
なのにThaedraの初期モデルという、この時点で旧型ともいえそうなアンプによって、
The Goldが真価を発揮したことも、私には意外な変化であったわけだ。

このときは、Thaedraにした時の音の変化の大きさ、凄さに驚いてしまっていた。
だから気がついていなかったことがある。
だから、いま振り返ってみて気がつくことがある。

The Goldの音をひと言で表現すると、朦朧体だと思う。
音の輪郭線に頼らずに、音を立体的に、自然に、それでいて克明に表現してくれる。
だから輪郭線が細い、とか、太い、といった表現はThe Goldにはあてはまらない。
もともと音の輪郭線に頼る輪郭の表現ではないからだ。

私が聴いたThaedraも、基本的にはThe Goldと同じ表現方法によるアンプである。
けれど、そういう表現のもつ深さに、このときの私はまだ気がついていなかった。

音における朦朧体をきっきりと意識するようになったのは、
もう少し先のことである。
ジャーマン・フィジックスのスピーカーを聴くまで、かかった。

Date: 8月 4th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(リムドライヴのこと)

アナログディスクプレーヤーのターンテーブルプラッターをどう駆動するのか、
これまで市場に登場した製品では、リムドライヴ、ベルトドライヴ、ダイレクトドライヴがある。

どの方式が理論的に優れているのか、といえば、ダイレクトドライヴなのかもしれない。
にも関わらず実際にこれまで聴く機会のあったプレーヤーで私が惚れ込んだものはリムドライヴのモノが多い。
次いでベルトドライヴ、なぜか最後にダイレクトドライヴになってしまう。

だからといって、リムドライヴが理想の方式とは思っていない。
けれど、なぜリムドライヴの優れたモノに、私の耳は魅かれてしまうのだろうか。

あくまで感覚的な例えなのだが、
私にとってアナログディスクはネルギー伝送であり、CDは信号伝送──、
そんなふうにとらえているところがある。
だからこそアナログディスク再生においては、そのエネルギーをあますところなく発揮してほしい。
この点が、優れたリムドライヴで聴いたレコードをベルトドライヴやダイレクトドライヴでかけると、
その差はごくわずかなのだが、音の伸びが少し抑制されているというか、
うまく伸び切らないというか──、
それもベルトドライヴ、ダイレクトドライヴのみで聴いていると、そんなふうには思わないレベルであって、
例えばEMTの927Dstのあとでは、どうしてもそう感じてしまう。

もちろん、このことをもってして駆動方式の優劣は判断できないものの、
それでもリムドライヴだけがもつ(といっていいだろう)力強さは、どこから来るのだろうか。

ダイレクトドライヴ方式の音の悪さが問題視された時、
モーターのトルクが弱いから、と一部では騒がれていた。
たしかにそういう製品はあった。
けれどテクニクスのSP10MK3は10kgのターンテーブルプラッターを0.25秒で定速回転にまでもっていける。
パイオニアのExclusive P3もテクニクスのモーターにはわずかながら及ばないものの、
同程度のトルクを実現している。

ということはモーターのトルクは、どの程度音に関係しているのか、と思う。
リムドライヴだけの特色はなにかあるのか。
もしかすると、それはモーターの回転とターンテーブルプラッター回転の方向の違いにあるような気がしている。

ダイレクトドライヴではその名のとおり、モーターが直接ターンテーブルプラッターを駆動するわけだから、
モーターの回転方向とターンテーブルプラッターの回転方向は一致する。
ベルトドライヴ方式でも同じだ。

リムドライヴだけが、この点が異る。
リムドライヴではモーターの回転は反時計廻りで、
キャプスタンの回転をターンテーブルプラッターに伝えるアイドラーは時計廻り、
ターンテーブルプラッターも当然だが、時計廻りである。

リムドライヴだけがモーターの回転方向は逆である。
どうも、このことがリムドライヴの音の基本でもあり、支えている大事な要素のような気がしてならない。

Date: 8月 3rd, 2012
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その2)

グラフィックイコライザーは櫛形フィルターの集合体である。
1/3オクターヴ33素子のグラフィックイコライザーは、
33の中心周波数をもつバンドパスフィルターの集合体といえる。

バンドパスフィルターを搭載したオーディオ機器には、
グラフィックイコライザーの他にデヴァイディングネットワーク(チャンネルデヴァイダー)がある。
正確に記せば、2ウェイのデヴァイディングネットワークはハイパスとローパス、
ふたつのフィルターの組合せであってバンドパスフィルターはないのだが、
3ウェイ以上となるとバンドパスフィルターが加わる。

そんなふうにグラフィックイコライザーをみれば、
デヴァイディングネットワークの帯域を分割を、2〜4といった数ではなくて、
極端に増やした33にしたものと捉えることもできなくはない。
強引にそうだと考えて、
それぞれのバンドから出力端子があれば、
1/3オクターヴ(33素子)のグラフィックイコライザーは、
33ウェイのデヴァイディングネットワークへとなっていく。

こんなモノに実用性は、はっきりいってない。
でも、こんな妄想を考えたのは、
グラフィックイコライザーのそれぞれの帯域のスライドボリュウムを動かした時の音の変化を、
どう聴き取るのか、からの発想である。

つまり33素子のグラフィックイコライザーならば、
33ものスピーカーユニットを搭載したスピーカーシステムを用意する。
そしてひとつひとつのユニットに専用パワーアンプも用意して、
33台のパワーアンプは、それぞれグラフィックイコライザーのそれぞれのバンドの出力端子に接続する。
グラフィックイコライザーが、ここではデヴァイディングネットワークを兼ねることになるので、
スピーカー側にLCネットワークは必要としない。

ただ33台のパワーアンプが必要となり、
30年前に、こんなばかげた妄想をしていたときには、
これがネックとなり実現困難な実験となっていた。

けれど現在はなかなか優秀なDクラスのパワーアンプが登場してきた。
Dクラス・アンプであれば、33台のパワーアンプを用意することも、
30年前と比較すれば、ずっとそれは容易なことといえる。

Date: 8月 2nd, 2012
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その1)

テクニクスが1983年ごろに1/3オクターヴのグラフィックイコライザーSH8065と、
その上級機のSH8075を、それぞれ79800円、100000円で発表した時には、
オーディオ界のちょっとしたニュースになるくらいの、衝撃的な価格設定だった。

それまで1/3オクターヴのグラフィックイコライザーといえばプロ用機器の世界のものであり、
価格も試してみたいから、ちょっと手を出すには充分高価なものだった。

その1/3オクターヴのグラフィックイコライザーを、100000円で出してくれた、と言いたくなる。
もっともいまではもっと安い1/3オクターヴのグラフィックイコライザーがいくつか存在している状況であるから、
10万円のグラフィックイコライザーの登場の衝撃は、
この時を知らない世代にとっては実感として理解しにくいことかもしれない。

SH8075が登場してしばらくたったころに、ばかげたことを考えていた。
あまりにも馬鹿げていたので、当時だれにも話したことはない。
本人もすっかり忘れていた。
それを、別のことを考えていた時に思い出した。

どんなばかげたことかというと、
グラフィックイコライザーの出力を1/3オクターヴで出力するというものだ。
SH8065は16Hzから25kHzまでを33分割している。
だからSH8065のフロントパネルには片チャンネルあたり33個のスライドボリュウムが並ぶ。
この33分割の中心周波数は16Hz、20Hz、25Hz、31.5Hz、40Hz、50Hz、63Hz、80Hz、100Hz、125Hz、
160Hz、200Hz、250Hz、315Hz、400Hz、500Hz、630Hz、800Hz、1kHz、1.25kHz、1.6kHz、2kHz、
2.5kHz、3.15kHz、4kHz、5kHz、6.3kHz、8kHz、10kHz、12.5kHz、16kHz、20kHz、25kHzとなっている。

これらの周波数を中心周波数とする1/3オクターヴの信号を出力する。
つまり片チャンネルあたり33個のライン出力がリアパネルに並ぶことになる。
パワーアンプもその数分用意する。
ということは、もちろんスピーカーユニットも片チャンネルあたり33個並べる、
という妄想をしていたのが、いまから約30年前の私だった。

Date: 8月 2nd, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×十一・作業しながら思っていること)

L07C、L07Mは型番にL07がついているにもかかわらず、
発売時期がやや早かったためなのか、アナログプレーヤーのL07Dがケンウッド・ブランドであるのに、
トリオ・ブランドだった。
セパレートアンプのケンウッド・ブランドになるのはL08C、L08Mから、
というより正確にいえば、その後ケンウッド・ブランドのセパレートアンプは登場していないと記憶している。

プリメインアンプに関してはL01A、L02Aときて、
L02Aでやりたいことを実現したためなのか、次に登場したL03Aの印象は、前の2機種と比較すると薄い。
しばらくケンウッド・ブランドにふさわしい内容をもつアンプは、
セパレートアンプにしてもプリメインアンプにしても登場していなかった(はず)。
L03Aから約10年後L-A1を発表している。

ケンウッド・ブランドにおいても、トリオはセパレートアンプよりもプリメインアンプに積極的であった。

他の国内メーカーをみても、トリオのようにプリメインアンプのほうに積極的なメーカーは、そうはない。
テクニクスにしてもパイオニアにしても、プリメインアンプにもセパレートアンプにも積極的だったし、
ヤマハもラックスも、やはりどちらにも積極的であった。

国内メーカーでトリオと同じくらいプリメインアンプに積極的であったのは、サンスイぐらいではなかろうか。
サンスイもセパレートアンプはいくつか出している。
トリオと比較するとその数は多い。
多いけれども、他の国内メーカーと比較した時には、プリメインアンプの方に積極的であったように、
私にとってそう見えるのは、
私がオーディオをやりはじた時期にAU607、AU707、AU-D907が登場したことが重なっているせいもあろうが、
607クラスの普及機から、
AU-X1からはじまったX11、X111、X1111とつづくプリメインアンプの限界に挑むかのようなところまで、
サンスイのラインナップはきっちりとうまっていたことのほうが、やはり大きい。

だからサンスイの全製品の中から、いまでも手に入れたと、ふと思ってしまうのも、
プリメインアンプとなってしまう。
トリオではKA7300Dを選んだように、ここではAU-D607である。
そのあとのD607Fでもないし、D607F Extra、D607X、α607でもなく、
二番目に古いAU-D607が、いい。

Date: 8月 1st, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×三十・原音→げんおん→減音)

ハイ・フィデリティ(High-Fidelity)は高忠実度ということで、
ハイ・フィデリティ再生とは、原音に高忠実度再生ということになり、
その原音の定義こそ難しく、あれこれ考えさせられるのだが、
ここでは録音されたものに対しての高忠実度ということにしてみよう。

そうなるとアナログディスクにしろCDにしろ、
なんらかのパッケージメディアを購入してわれわれは家庭で音楽を聴いている。
ここ数年、インターネットでの配信も盛んになってきている。
これから先もっと普及してくるのは間違いないだろう。

これらを介して音楽を再生するということは、
録音されたそのものを再生しているわけではない。
マスターテープに収録された音がそのまま聴き手のところに届くようには、
まだなっていないし、はたしてそれが理想的なことなのかについては、また考えなくてはならないことでもある。

だからこそ、よりよい音を求めてLPならば初期盤、オリジナル盤と呼ばれるものをものを、
CDではリマスター盤が、いくつも登場してそれらを,求める行為にもなっていく。

そうやって、その時点で最上と認められるモノを手に入れたとしても、
マスターテープの音がそこから再生可能なわけではない。
だから、ここでの高忠実度再生は、話を整理するためにも、話を進めていくためにも、
家庭で聴けるフォーマットしてのプログラムソース、
つまりLP、CD、配信ソースとして届けられる録音モノへの高忠実度再生が、
現状のハイ・フィデリティ再生ということになっている、と私は認識している。

とした場合の高忠実度再生とは、もう少し具体的にいうとどういうことなのか。
おそらく、一般的にはLP、CD、配信ソースに含まれている「情報量」(あえて、こう表現する)を、
あますところなく正確に音とすることになろう。

LP、CD、配信ソースに含まれている音は、ひとつとして欠けることなく、
すべて音としてなっていなくてはならない。
しかもそれらの音が録音側が意図したところで意図したように鳴る。
だから、基本的には再生側では色づけや情報量の欠損は認められない、と。
それがより高いレベルにあるのが、文字通りのハイ・フィデリティ再生──、なのだろうか。

そうだとしたら、減音などという考えは、
ハイ・フィデリティ再生とは対極の音楽の聴き方ということに思われるだろうが、
「忠実」という意味を、そして「忠」という漢字の意味を考えれば、
決してそうではないといえるし、さらにどちらが「忠実」なのか、ということになっていく。

Date: 7月 28th, 2012
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、でいること)

オーディオマニアとしてわがままでいることを
つまりやりたいことを思い切りやること、やれることだとすれば、
そのためにはやりたくないことも思い切りやらなければならない必要も生じてくる。

オーディオはさまざまなことが要求される。
もっとも現実的な問題としてお金が、かなりの額、必要となってくる。
そのためには、それだけ稼がなければならない。
仕事が、必ずしも、やりたくないことではないにしても、無一文では始まらない。

仕事は、オーディオとは直接関わりのないことだけれども、
オーディオと直接関係のあることでも、やりたくないことを思い切りやることが求められることがある。

オーディオを教えてくれる学校なんてものはない。
だからオーディオマニアは、原則として独学である。
仲間からアイディアやノウハウをもらうことはときにはあっても、独学であることにはかわりはない。

しかもオーディオが要求するものは深く広い。
人には得手と不得手がある。
オーディオマニアにも、オーディオにおける得手と不得手があるはず。

独学では、つい楽なほうに流れてしまいがちになる。
不得手なことは、勉強したくない。
オーディオを仕事としているわけでもないし、趣味として楽しんでいるのだから、
なにも好き好んで不得手を克服することもなかろう──、そういおうと思えばいってしまえる。

それを、オーディオにおけるわがまま、とは私は考えていない。
わがままは、オーディオにおいてやりたいことを思い切りやること、だと考えている。
だから、得手なことだけではなく不得手なことについても独学で克服する必要がある。

わがままの純度を高めていくということは、そういうことでもあると思う。

Date: 7月 27th, 2012
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、ということ)

結局オーディオマニアはわがまま、なんだと思う。
そのわがままを、どれだけ貫き通せるか、だと思う。

オーディオをながくやっている人は、わがままを貫き通している人でもあるし、
家族の方の理解・温情が得られているからでもある。

わがままは、オーディオマニアとしての純度なのかもしれない。
だから、音は人なり、ということになっていくのだろう。

だから、これからも(くたばるまで)、わがままを貫き通す、といいたいのではない。

ステレオサウンド 55号が頭に浮ぶ。
55号はベストバイの特集号であったけれど、
それよりもなによりも、55号の「ザ・スーパーマニア」は五味先生だった。
故・五味康祐氏を偲ぶ、とあった。

55号では、巻末の編集後記、
原田勲氏の編集後記に、こうある。
     *
オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。その何日かまえに、病室でレコードを聴きたいのだが、なにか小型の装置がないだろうか? という先生のご注文でテクニクスのSL10とSA−C01(レシーバー)をお届けした。
先生は、それをAKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。一一一番のほかには二組のレコードが自宅から届けられていた。バッハの《マタイ受難曲》だ。本誌31号に〝自分のお通夜に掛けてほしい〟と先生ご自身が書かれた、ヨッフム盤とクレンペラー盤だった。
     *
五味先生が、どれだけわがままだったのかは、五味先生が書かれたものを読んでいればわかる。
五味由玞子さんによる「父とオーディオ」
(同じタイトルでステレオサウンド 58号と新潮文庫「オーディオ遍歴」に書かれている)、
「父と音楽」(読売新聞社「いい音いい音楽」)からも伝わってくる。

だからこそ、とおもう。
そうおもいながら、ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記を読むと、おもうことがある。

原田勲氏の「五味先生を偲んで」(藝術新潮1980年5月号)によると、
テクニクスのプレーヤーとレシーバーを届けられた日の2、3日後には、
「先生はふたたびヘッドホーンをつけられることもなく、病状は悪いほうに無かっていった」とある。

病室での、わずか数枚のレコード──、
ベートーヴェンの作品111とバッハのマタイ受難曲を、
テクニクスの、小型のプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンで聴かれていたとき、
オーディオマニアとしてのわがままは、どこにもなかったのでは、とおもう。

わがままはどこかへ消えてしまうのか、わがままから離れることができるのか、
それとも解脱といっていいのか……、まだ私にはわからない。

純度を高めていったわがままは、もうわがままではないのか。
そのとき聴こえてくる音楽から、なにを聴きとるのだろうか。

そのときの音を、音楽を、私は聴くことができるだろうか。

Date: 7月 26th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×十・作業しながら思っていること)

KA7300とKA7500だけでなく、この時代のトリオのプリメインアンプは、
それぞれに個性がはっきりしていた、と思う。
だからこそKA7500を強く支持する人が少なくとはいえ、いた。

それにくらべるとトリオのセパレートアンプの印象は、正直薄い(あくまでも私にとって、ではあるが)。
私にとってのトリオのセパレートアンプといえば、
瀬川先生が、そのパネルデザインを酷評されたコントロールアンプL07C以降から、である。
パワーアンプはL07M、L05Mからだ。

L07シリーズはセパレート型という形態のメリットを活かして、
コントロールアンプの出力インピーダンスを当時としてはかなり低い値を実現して、
パワーアンプはモノーラル型にすることで、
コントロールアンプ・パワーアンプ間の接続ケーブルを従来よりも延ばし、
パワーアンプをスピーカーシステムの近くに設置することでスピーカーケーブルを極力短くする。
このことを推奨していた。

おそらくトリオの考えとしては、
ラインケーブルよりもスピーカーケーブルによる音への影響が大きいと判断していたように思える。
とくにケーブルの長さが音に与える影響についてのトリオの技術陣の考えた答なのだろう。
だからこそ形態的にスピーカーのすぐ近くに設置できないプリメインアンプのためにも、
そして、できるだけ短くしても残るスピーカーケーブルの影響をさらに少なくするための答が、Σドライブがある。

L07Cが登場した時期は、各社から比較的ローコストのセパレートアンプが登場しはじめた時期でもある。
セパレートアンプがブームになっていた。

だから国内メーカー各社から登場したセパレートアンプの中には、
そのブームに乗るためにプリメインアンプを形態的に分離しただけの、
セパレートアンプとしての存在意義を感じさせない製品が少なからずあらわれていた。

そんななか、L07Cは10万円とけっして高価なアンプではないものの、
セパレートアンプという形態をとることのメリットを感じさせてくれるアンプであることは間違いなかったし、
L07Cはデザインについてつねに否定的であった瀬川先生だが、音に関しては高い評価をされていた。

Date: 7月 25th, 2012
Cate: audio wednesday

第19回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、8月1日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 25th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十九・原音→げんおん→減音)

完璧な録音・再生の系が実現してしまったとき、どうするのか、
オーディオマニアとして、その完璧な系をどう向い合うのかについての答は、すでにあった。

だから答は、すぐに浮んできた。
ただし、これは私にとっての答であり、
必ずしも、すべてのオーディオマニアにとっての答になりうるものではないのかもしれない。

だいたい生きているうちに、そんな時代はやってこない可能性のほうが圧倒的に高いのだから、
そんなことに頭を使って答を出すことそのものが無駄なこと、と思われる人がいても不思議ではない。

けれど、こういう極端な例を考えて、そこにひとつの答を出していくことは、
オーディオとは何か? について考えてゆく、ひとつの手法だと私は考えている。

だから、答を出していく。

もっとも、このことに関しては、答を出した、というのは必ずしも正確ではない。
思い出した、というのが、より正確な言い回しである。

ようするに、私が出した答は、すでにオーディオをやり始めたときに読んでいたものだった。
何度もくり返し読んできた、五味先生の「五味オーディオ教室」に書かれてあったことが、
答として私の裡にすぐさま浮んできた。

この項でもすでに引用しているし、別項でも何度か引用している、
マッキントッシュのパワーアンプMC275とMC3500についてふれられている文章で、
しつこいと思われようが、ここにはまた引用しておく。
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 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
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こういうことだと私は思った。
結局のところ家庭で音楽を聴くという行為は、
完璧なものが目の前に登場してきたとき、オーディオマニアとして私がやることは、
MC3500的花の描き方(つまり音の描写)ではなくMC275的花の描き方(音の描写)だということであり、
ここにこそ”fidelity”のオーディオにおける意味が問われることになる。